【キリスト教と世界】
これまで〈われわれはどのようにしてキリスト教と出会うのか〉という問いを軸にしながら,この世界から出発してキリスト教の本質への接近を試みたのであるが,ここで方向を逆転させて〈キリスト教は現実の世界にどのようにかかわるのか〉と問うことにしよう。それによって,よりダイナミックなキリスト教理解が得られるであろう。イエスは〈わたしの国はこの世のものではない〉 (《ヨハネによる福音書》18 : 36) と宣言したが,それは単なる世界の否定,あるいは世界からの逃避の姿勢ではない。同じイエスが〈わたしはすでにこの世にうち勝った〉 (《ヨハネによる福音書》16 : 33) とも告げているからである。むしろ,神がイエス・キリストにおいて世界を受けいれたことを肯定する受肉の教義が示しているように,キリスト教は本来,世界がその固有の価値を有することを認めるのである。キリスト信者が待望する〈神の国〉は世界を離れたどこかに建設されるのではなく,まさしくこの世界の変容・完成にほかならないのであるから,キリスト信者は世界から逃避することを許されるどころか,この世界をその終末へ向かって変革していくべき責務を負わされている。現代キリスト教神学においては〈神の死の神学〉〈世界の神学〉運動をふくめて,世界の〈世俗化〉が問題にされ,この世界の固有の意味と価値を肯定する傾向が強まっているが,これはキリスト教的伝統の発展であって,それからの離反ではない。
[キリスト教と政治]
キリスト教と世界との間の緊張をはらんだ関係が,最も鋭い形でわれわれに迫るのは政治の領域においてである。この問題の複雑さは,一見互いに明白に矛盾するような聖書の言葉が示すとおりである。すなわち,一方でパウロは〈人は皆,上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく,今ある権威はすべて神によって立てられたものです〉 (《ローマ人への手紙》13 : 1) と説き,他方ペテロは自分と使徒たちの名において〈人間に従うよりも神に従うべきです〉 (《使徒行伝》5 : 29) と宣言する。市民的義務と神への忠実との衝突は,政治権力があからさまに宗教の領域へ介入する場合はいうまでもないとして,市民の人格的権利がおかされる場合にはいつでもなんらかのしかたで起こる。たとえば,こんにち核軍備の増強は人格の生存権に対する重大な脅威であり,神の掟に背くものだと確信するキリスト信者は,そのような政策を推進する政治権力に対していかに対処すべきなのか。 〈カイザルのものはカイザルに,神のものは神に〉 (《マタイによる福音書》22 : 21) というイエスの言葉は問題の解決を容易にするのではなく,かえって厳しく困難なものにする。何が神のもので何がカイザルのものであるかを判断することが困難であるのに,この判断を回避してはならないとイエスは命じているからである。
キリスト信者は同時に二つの王国 (神とカイザル) の市民であり,キリスト教と政治とを分離することはできない。しかし他方,この 2 者は直接に結びつくのでもない。宗教的現実と政治的現実は,互いに分離できないが,同一視することもできないのである。たとえば〈殺してはならない〉〈あなたの敵を愛せよ〉などの聖書の教えを,そのまま政治の領域に移して,平和・反戦運動の実践的原理とするのは思想の短絡である。むしろ,キリスト信者は政治の領域がそれに固有の世俗的原理によって導かれることを認め,そうした政治の原理を実践的英知を働かせて探求しながら,当の政治の原理に対して福音の精神を浸透させようと努めなければならない。これこそ真の意味での預言者的ないし終末論的な政治姿勢であるといえよう。
現代におけるキリスト教と政治との重要で緊急な接点は,キリスト教が約束する人類の救いと,政治が掲げる理想の一つである人間の解放との関係である。こんにち,この問題は政治神学,〈革命の神学〉あるいは〈解放の神学〉のテーマとして,とくにマルクス主義を対話の相手としながら論じられているが,そこで確認しておかなければならない原則は,環境世界および社会的条件の技術的改善ないし根元的な制度的変革だけでは,真の意味での人間の解放は実現されない,ということである。根元的に変革されなければならないのは人間存在そのものであり,キリスト教が罪のゆるし,神との和解,永遠の生命への希望について語るのはその点にかかわっている。しかし,キリスト信者がみずからの霊魂の救いを追求する道はこの地上において,肉体を通じてのほかはないのと同じく, 〈神の国〉を追求する道も希望をもって現実の社会を変革し,未来社会の計画や建設にたずさわることを通じてのほかはありえない。その意味で,政治はキリスト信者にとって永久の課題なのである。
[キリスト教と科学]
キリスト教と現代世界との間の緊張関係が鋭く意識されている第 2 の領域は科学 (とくに自然科学) ないし科学技術の領域である。科学の急速な発達,および科学技術による環境世界や生活様式の大規模な変革は現代人に対して圧倒的な印象を与え〈神か科学か〉という二者択一が意識されるにいたっている。この二者択一はそのままキリスト教と科学の対立という形におきかえられるが,いわゆる〈宗教と科学の闘争史〉は,この対立を立証する材料にこと欠かない。ガリレイ断罪,進化論をめぐる論争,まやかしであることが判明したさまざまの〈奇跡〉など。しかし,キリスト教と科学をめぐる現代的危機は,それらの対立ではなく,むしろ信仰と理性との分離という現代の文明史的状況を背景に,キリスト教と科学が分離されたままにとどまり,それらの総合が実現されていないことに存するのである。
この分離にはキリスト教思想家も力をかしてきた。すなわち,彼らは科学の〈攻撃〉からキリスト教を守るために, (1) 科学は現象にかかわるだけで,人間や事物の本質にふれることはできないが,宗教はまさしくこの後者にかかわる, (2) 科学が世界の認識にかかわるのに対して,宗教は個人の内部の感情に根ざす,などの議論によってキリスト教と科学とを分離しようと試みたのである。このような分離の試みがキリスト教と科学の両者にとって不幸な結果を生じたことはあらためていうまでもない。実在との接触を失ったキリスト教は無力化の傾向を強め,方向づけを失った科学はその創り主である人間をおびやかす破壊手段という様相を呈しているのである。
キリスト教と科学との総合はけっして安易に試みられてはならない。この 2 者が提示する宗教的な世界像と物理学的世界像との間には大きな隔りがあり,その橋渡しは一見絶望的に思われるほどである。この総合は科学者であるキリスト信者がその生涯にわたって信仰の純粋化と科学的探求の深化を遂行することによってはじめて成就されるものである。このことは科学史のうちの多くの敬虔なキリスト信者 (たとえばアルベルトゥス・マグヌス,コペルニクス,メンデル,テイヤール・ド・シャルダンなど) の証言に照らして確かめることができる。
キリスト教と科学との新しい総合を企てるにあたって,過去においてキリスト教が科学的探求に対して積極的な影響をおよぼしたことを想起するのは無意味ではないであろう。第 1 に,キリスト教は神の超越性を徹底的に強調することによって,自然世界を非神格化もしくは世俗化して,人間による探求と支配にゆだねた。第 2 に,キリスト教は世界が最高の英知たる神によって創造されたと教えることによって,自然世界のうちには意味のある秩序が見いだされるはずだとの確信を生みだし,これが自然研究にとっての力強い霊感および刺激として作用した。キリスト教の影響力が及ばなかった地域においては科学が未発達にとどまった,あるいは西欧型の近代科学への道をたどらなかったという事実はきわめて暗示的であるといわなければならない。
こんにち〈神か科学か〉という二者択一が鋭く意識されているのは,いわゆる生命の産出が問題になる生化学,および人間の心の深層までコントロールしようとする精神医学の領域である。しかしじっさいには,これらの領域において科学が神の手にとって代わりうるかのように想像するのは誤解と,根拠のない思い上がりにすぎない。むしろキリスト教的観点からいえば,神はこれらの領域における科学的探求の発展を通じて,人間がより豊かに神的創造の業 (わざ) に参与することを望んでいるのである。人間が理性と自由の行使を通じて創造の業に協力することは彼の尊厳にふさわしいことである。そして,キリスト教と科学との新しい総合はまさしく神的創造への参与という観点から企てられるべきであろう。
キリスト教と世界とのかかわりは,さらに道徳,芸術,文学,哲学,教育など,人間文化のさまざまの領域について問題にしていかなければならないが,それらはキリスト教文学,キリスト教美術などの関連項目にゆずることにする。結局のところ,キリスト教と世界との間の緊張をはらむ関係――超越と内在――を解く鍵の一つは受肉の神秘のうちに見いだされる。世界がそのまま神であるのではなく,また世界は神に見捨てられたのでもない。むしろ世界は神に受容されることを待ち望んでいる,とキリスト教は教える。そして,この教えそのものがキリスト教の本質的特徴を示しているといえよう。
【再びキリスト教とは何か】
キリスト教の本質に迫ろうとするこのささやかな試みの結びとして,あらためて〈キリスト教とは何か〉と問うてみたい。ところで,われわれとキリスト教との出会いが深まるにつれて,この問いは問う主体であるわれわれ自身を包みこむ主体的な問いの性格を強めてくる。そうした主体的な問いの一つがキリスト教と日本文化との出会いにかかわるものである。というのも,われわれは現実に日本の文化的風土のなかでこの問いを発しているのであるから。それは〈日本のキリスト信者は日本人キリスト信者としてのアイデンティティをどのように理解しているのか〉という問いでもある。事実,内村鑑三以来,多くのキリスト教思想家,神学者,作家たちがこの問いをめぐって盛んに論じてきた。そこから〈日本的基督 (キリスト) 教〉を唱える者も現れたが,キリスト教が日本文化に根を張ることの困難さも指摘された。そこで起こっていることは,キリスト教の歴史の最初の数世紀間に,ギリシアおよびラテン教父たちによって成就されたキリスト教と古典古代文化との出会いになぞらえられるであろう。
この場合に忘れてはならないのは,キリスト教と日本文化との出会いは,それ自体目標として追求すべきものではなく,われわれひとりひとりが,神の一度かぎりの完全な自己啓示であるイエス・キリストとの根源的な出会いを追求することを通じて,その結果として実現される,ということである。この根源的な出会いにおいては日本,東洋,西洋の区別は意味を失うが,それが文化のレベルで受肉するときに新しいキリスト教的道徳,芸術,文学,哲学などが創造されるのである。
主体的な問いの第 2 はキリスト教の絶対性にかかわるものである。それはわれわれが〈なぜわたしはキリスト信者であるのか〉と自問し,また他の人々の前で証言するときに最後に直面する問いである。とくに人口の大部分が仏教徒であり,神道の慣習に従っている日本において,この問いは緊急なものとならざるをえない。キリスト教の絶対性に関する根本原則は,信仰の対象でもあり根拠でもある真理に対して徹底した無私の態度を貫くことである。そのことによってはじめて,キリスト教の絶対性の主張は,排他的,独善的なものではなく,真に普遍的なものとなりうるであろう。すなわち,イエス・キリストが真の救いへの唯一の道であることを肯定しつつ,この救いはイエス・キリストを知らないすべての人々に及ぶものであると主張できる。キリスト教と日本文化との出会いの深まりを通じて,キリスト教の絶対性を弁証し,証言することが日本のキリスト信者にとっての歴史的課題であるといえよう。
稲垣 良典
これまで〈われわれはどのようにしてキリスト教と出会うのか〉という問いを軸にしながら,この世界から出発してキリスト教の本質への接近を試みたのであるが,ここで方向を逆転させて〈キリスト教は現実の世界にどのようにかかわるのか〉と問うことにしよう。それによって,よりダイナミックなキリスト教理解が得られるであろう。イエスは〈わたしの国はこの世のものではない〉 (《ヨハネによる福音書》18 : 36) と宣言したが,それは単なる世界の否定,あるいは世界からの逃避の姿勢ではない。同じイエスが〈わたしはすでにこの世にうち勝った〉 (《ヨハネによる福音書》16 : 33) とも告げているからである。むしろ,神がイエス・キリストにおいて世界を受けいれたことを肯定する受肉の教義が示しているように,キリスト教は本来,世界がその固有の価値を有することを認めるのである。キリスト信者が待望する〈神の国〉は世界を離れたどこかに建設されるのではなく,まさしくこの世界の変容・完成にほかならないのであるから,キリスト信者は世界から逃避することを許されるどころか,この世界をその終末へ向かって変革していくべき責務を負わされている。現代キリスト教神学においては〈神の死の神学〉〈世界の神学〉運動をふくめて,世界の〈世俗化〉が問題にされ,この世界の固有の意味と価値を肯定する傾向が強まっているが,これはキリスト教的伝統の発展であって,それからの離反ではない。
[キリスト教と政治]
キリスト教と世界との間の緊張をはらんだ関係が,最も鋭い形でわれわれに迫るのは政治の領域においてである。この問題の複雑さは,一見互いに明白に矛盾するような聖書の言葉が示すとおりである。すなわち,一方でパウロは〈人は皆,上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく,今ある権威はすべて神によって立てられたものです〉 (《ローマ人への手紙》13 : 1) と説き,他方ペテロは自分と使徒たちの名において〈人間に従うよりも神に従うべきです〉 (《使徒行伝》5 : 29) と宣言する。市民的義務と神への忠実との衝突は,政治権力があからさまに宗教の領域へ介入する場合はいうまでもないとして,市民の人格的権利がおかされる場合にはいつでもなんらかのしかたで起こる。たとえば,こんにち核軍備の増強は人格の生存権に対する重大な脅威であり,神の掟に背くものだと確信するキリスト信者は,そのような政策を推進する政治権力に対していかに対処すべきなのか。 〈カイザルのものはカイザルに,神のものは神に〉 (《マタイによる福音書》22 : 21) というイエスの言葉は問題の解決を容易にするのではなく,かえって厳しく困難なものにする。何が神のもので何がカイザルのものであるかを判断することが困難であるのに,この判断を回避してはならないとイエスは命じているからである。
キリスト信者は同時に二つの王国 (神とカイザル) の市民であり,キリスト教と政治とを分離することはできない。しかし他方,この 2 者は直接に結びつくのでもない。宗教的現実と政治的現実は,互いに分離できないが,同一視することもできないのである。たとえば〈殺してはならない〉〈あなたの敵を愛せよ〉などの聖書の教えを,そのまま政治の領域に移して,平和・反戦運動の実践的原理とするのは思想の短絡である。むしろ,キリスト信者は政治の領域がそれに固有の世俗的原理によって導かれることを認め,そうした政治の原理を実践的英知を働かせて探求しながら,当の政治の原理に対して福音の精神を浸透させようと努めなければならない。これこそ真の意味での預言者的ないし終末論的な政治姿勢であるといえよう。
現代におけるキリスト教と政治との重要で緊急な接点は,キリスト教が約束する人類の救いと,政治が掲げる理想の一つである人間の解放との関係である。こんにち,この問題は政治神学,〈革命の神学〉あるいは〈解放の神学〉のテーマとして,とくにマルクス主義を対話の相手としながら論じられているが,そこで確認しておかなければならない原則は,環境世界および社会的条件の技術的改善ないし根元的な制度的変革だけでは,真の意味での人間の解放は実現されない,ということである。根元的に変革されなければならないのは人間存在そのものであり,キリスト教が罪のゆるし,神との和解,永遠の生命への希望について語るのはその点にかかわっている。しかし,キリスト信者がみずからの霊魂の救いを追求する道はこの地上において,肉体を通じてのほかはないのと同じく, 〈神の国〉を追求する道も希望をもって現実の社会を変革し,未来社会の計画や建設にたずさわることを通じてのほかはありえない。その意味で,政治はキリスト信者にとって永久の課題なのである。
[キリスト教と科学]
キリスト教と現代世界との間の緊張関係が鋭く意識されている第 2 の領域は科学 (とくに自然科学) ないし科学技術の領域である。科学の急速な発達,および科学技術による環境世界や生活様式の大規模な変革は現代人に対して圧倒的な印象を与え〈神か科学か〉という二者択一が意識されるにいたっている。この二者択一はそのままキリスト教と科学の対立という形におきかえられるが,いわゆる〈宗教と科学の闘争史〉は,この対立を立証する材料にこと欠かない。ガリレイ断罪,進化論をめぐる論争,まやかしであることが判明したさまざまの〈奇跡〉など。しかし,キリスト教と科学をめぐる現代的危機は,それらの対立ではなく,むしろ信仰と理性との分離という現代の文明史的状況を背景に,キリスト教と科学が分離されたままにとどまり,それらの総合が実現されていないことに存するのである。
この分離にはキリスト教思想家も力をかしてきた。すなわち,彼らは科学の〈攻撃〉からキリスト教を守るために, (1) 科学は現象にかかわるだけで,人間や事物の本質にふれることはできないが,宗教はまさしくこの後者にかかわる, (2) 科学が世界の認識にかかわるのに対して,宗教は個人の内部の感情に根ざす,などの議論によってキリスト教と科学とを分離しようと試みたのである。このような分離の試みがキリスト教と科学の両者にとって不幸な結果を生じたことはあらためていうまでもない。実在との接触を失ったキリスト教は無力化の傾向を強め,方向づけを失った科学はその創り主である人間をおびやかす破壊手段という様相を呈しているのである。
キリスト教と科学との総合はけっして安易に試みられてはならない。この 2 者が提示する宗教的な世界像と物理学的世界像との間には大きな隔りがあり,その橋渡しは一見絶望的に思われるほどである。この総合は科学者であるキリスト信者がその生涯にわたって信仰の純粋化と科学的探求の深化を遂行することによってはじめて成就されるものである。このことは科学史のうちの多くの敬虔なキリスト信者 (たとえばアルベルトゥス・マグヌス,コペルニクス,メンデル,テイヤール・ド・シャルダンなど) の証言に照らして確かめることができる。
キリスト教と科学との新しい総合を企てるにあたって,過去においてキリスト教が科学的探求に対して積極的な影響をおよぼしたことを想起するのは無意味ではないであろう。第 1 に,キリスト教は神の超越性を徹底的に強調することによって,自然世界を非神格化もしくは世俗化して,人間による探求と支配にゆだねた。第 2 に,キリスト教は世界が最高の英知たる神によって創造されたと教えることによって,自然世界のうちには意味のある秩序が見いだされるはずだとの確信を生みだし,これが自然研究にとっての力強い霊感および刺激として作用した。キリスト教の影響力が及ばなかった地域においては科学が未発達にとどまった,あるいは西欧型の近代科学への道をたどらなかったという事実はきわめて暗示的であるといわなければならない。
こんにち〈神か科学か〉という二者択一が鋭く意識されているのは,いわゆる生命の産出が問題になる生化学,および人間の心の深層までコントロールしようとする精神医学の領域である。しかしじっさいには,これらの領域において科学が神の手にとって代わりうるかのように想像するのは誤解と,根拠のない思い上がりにすぎない。むしろキリスト教的観点からいえば,神はこれらの領域における科学的探求の発展を通じて,人間がより豊かに神的創造の業 (わざ) に参与することを望んでいるのである。人間が理性と自由の行使を通じて創造の業に協力することは彼の尊厳にふさわしいことである。そして,キリスト教と科学との新しい総合はまさしく神的創造への参与という観点から企てられるべきであろう。
キリスト教と世界とのかかわりは,さらに道徳,芸術,文学,哲学,教育など,人間文化のさまざまの領域について問題にしていかなければならないが,それらはキリスト教文学,キリスト教美術などの関連項目にゆずることにする。結局のところ,キリスト教と世界との間の緊張をはらむ関係――超越と内在――を解く鍵の一つは受肉の神秘のうちに見いだされる。世界がそのまま神であるのではなく,また世界は神に見捨てられたのでもない。むしろ世界は神に受容されることを待ち望んでいる,とキリスト教は教える。そして,この教えそのものがキリスト教の本質的特徴を示しているといえよう。
【再びキリスト教とは何か】
キリスト教の本質に迫ろうとするこのささやかな試みの結びとして,あらためて〈キリスト教とは何か〉と問うてみたい。ところで,われわれとキリスト教との出会いが深まるにつれて,この問いは問う主体であるわれわれ自身を包みこむ主体的な問いの性格を強めてくる。そうした主体的な問いの一つがキリスト教と日本文化との出会いにかかわるものである。というのも,われわれは現実に日本の文化的風土のなかでこの問いを発しているのであるから。それは〈日本のキリスト信者は日本人キリスト信者としてのアイデンティティをどのように理解しているのか〉という問いでもある。事実,内村鑑三以来,多くのキリスト教思想家,神学者,作家たちがこの問いをめぐって盛んに論じてきた。そこから〈日本的基督 (キリスト) 教〉を唱える者も現れたが,キリスト教が日本文化に根を張ることの困難さも指摘された。そこで起こっていることは,キリスト教の歴史の最初の数世紀間に,ギリシアおよびラテン教父たちによって成就されたキリスト教と古典古代文化との出会いになぞらえられるであろう。
この場合に忘れてはならないのは,キリスト教と日本文化との出会いは,それ自体目標として追求すべきものではなく,われわれひとりひとりが,神の一度かぎりの完全な自己啓示であるイエス・キリストとの根源的な出会いを追求することを通じて,その結果として実現される,ということである。この根源的な出会いにおいては日本,東洋,西洋の区別は意味を失うが,それが文化のレベルで受肉するときに新しいキリスト教的道徳,芸術,文学,哲学などが創造されるのである。
主体的な問いの第 2 はキリスト教の絶対性にかかわるものである。それはわれわれが〈なぜわたしはキリスト信者であるのか〉と自問し,また他の人々の前で証言するときに最後に直面する問いである。とくに人口の大部分が仏教徒であり,神道の慣習に従っている日本において,この問いは緊急なものとならざるをえない。キリスト教の絶対性に関する根本原則は,信仰の対象でもあり根拠でもある真理に対して徹底した無私の態度を貫くことである。そのことによってはじめて,キリスト教の絶対性の主張は,排他的,独善的なものではなく,真に普遍的なものとなりうるであろう。すなわち,イエス・キリストが真の救いへの唯一の道であることを肯定しつつ,この救いはイエス・キリストを知らないすべての人々に及ぶものであると主張できる。キリスト教と日本文化との出会いの深まりを通じて,キリスト教の絶対性を弁証し,証言することが日本のキリスト信者にとっての歴史的課題であるといえよう。
稲垣 良典