とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『日本を決定した100年』吉田茂

2008年01月18日 02時45分53秒 | 時事問題(日本)
(2001年10月19日に記す)

国会でわけのわからない自衛隊派遣を決めましたが、小泉首相の目的が具体的に
分かりません。要は、敗戦後の占領下で決まった「平和憲法」を打ち破ろうとしているのか、あるいはアメリカのご機嫌をとるつもりなのか?
どちらにしても具体的な意図がよくわかりません。

先の大戦も、軍部の独走を政治家がおさえられず、戦争突入になったのではなかったでしょうか?

『日本を決定した百年』吉田茂(日本経済新聞)を読んでみました。
敗戦当時の日本の状況が、分かりやすく書かれ、しかも吉田流楽天主義に貫かれ
明るく描かれているのには、ちょっと感動しました。
誠実、率直、明快な文章も感動しました。
 
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1945年8月15日、日本は完全に疲れきって戦闘行為を終えた。その歴史における
最大の誤算が日本の国土とその国民にもたらした損害はまことに大きなものだっ
た。日本がその日までにつくりあげてきた多くのものが、この誤算によって失わ
れたのである。日本は68万平方キロメートルの領土、すなわち戦争前の領土の半
分近くを失った。戦争で死んだ人は200万以上に達した。155万5308人が戦死し、
66万8000人が空襲で死んだのである。京都と奈良を除いて、ほとんどすべての主
要都市が空襲によって損害を受けたが、その結果、完全に破壊されたものだけで、
建物250万に達し、そのうち家屋は200万戸であった。

 日本の首都であり最大の都会である東京は、戦時中の疎開と死傷で、1940年の
人口670万から1945年8月には280万人に減っていた。
しかも東京に残った人々のかなりの数が満足な家に住むことができず、一時しの
ぎの掘立小屋に住んでいたのである。爆撃によって高い建物がなくなったので、
首相官邸がある小高い丘からは、はるか向こうの東京湾を見渡すことができた。
経済はほとんど完全な崩壊状態にあった。


しかし、なによりも大きな問題は生きるために必要な食料が不足していたことで
あった。

食糧不足に悩まされ、インフレーションが進行する悪い条件のなかで、悪賢く生
きる国民は少なく、不平を言いながらもほとんどがまじめに働いた。
 そして日本人は基本的に楽観的な国民であった。敗戦はたしかに大きな打撃を
与えたが、国民は「文化国家」の建設とか、経済復興とか、あるいは自分たちの
生活の復興とか、さまざまなことに自分たちの生きがいを見出し、将来を信じた。
いくら努力をしてもだめだという悲観主義は日本人にとりつくことはできなかった。

 まず、日本人は敗戦を素直に認めた。日本本土にあって最後まで戦う気持ちを
持っていた軍隊や、アジアの各地に広く散らばっていた100万をこえる軍隊がな
んの事故もなしに解散したのは、そのなによりの証拠であった。

また、アメリカが敵地に乗り込むようなつもりで、厳重、酷烈な占領計画を立て
て日本に進駐したところが、懸念されたような不穏な状態がまったくおこらなか
ったのも、同じような日本人の態度のためであった。もちろん、そこには権威者
には従うという日本人の伝統的性格も作用していたであろう。また、日本に進駐
してきたアメリカ軍の将兵が、規律正しい、友好的な軍隊であったことも日本人
に強い印象を与えた。たとえば日本の狭い道でアメリカ軍の兵士と日本人が鉢合
わせしそうになったとき、「エクスキューズ・ミー」という言葉をアメリカ軍兵
士の口から聞いて驚いた日本人はまれではなかった。
 しかし、敗北を認めるいさぎよさがなければ、事情はまったく変わっていただ
ろう。私は戦争が終わって1ヶ月後、外務大臣に任命されたとき、戦争が終わっ
たとき総理大臣であった鈴木貫太郎氏に会った。そのとき鈴木氏は、「戦争は勝
ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりもよくないといけない。鯉はま
な板の上に載せられてからは、包丁をあてられてもびくともしない。あの調子で
負けっぷりをよくやってもらいたい」と言われた。この鈴木氏の言葉は、その後
私が占領軍と交渉するにあたって私を導く原則となったが、考えてみるとそれは
日本人が一般にもっていた考え方であったかもしれない。占領軍の政策について
、それが思いちがいであったり、日本の実情に合わないときは、はっきりと意見
を言うが、しかしそれでもなお占領軍の言い分どおりにことが決定してしまった
以上は、これに順応し、時あって、その誤りや行き過ぎを是正することができる
ようになるのを待つ、というのが私の考え方であった。すなわち、言うべきこと
は言うが、あとはいさぎよくこれに従うという態度だったのである。
 おそらく、同じような考え方に立った日本人が日本の各地で、同じような態度
で占領軍との交渉にのぞんたことであろう。もちろん、いつの世にも権力者に媚
びるいやな人たちは存在する。たとえば総司令部の人々にすがって、なにか利益
を得ようとした日本人もあった。あるいは占領軍を崇拝し、その言うことは全て
正しいとする人たちもいた。また、追放などのことで占領軍を利用して自分の対
抗者を追放処分にし、自分の勢力を伸ばそうとした人もあった。しかし、全体と
してみれば、日本人は占領軍に対してりっぱな態度を示したと思う。
 また、同じようないさぎよさをもって、日本人は敗戦の厳しい現実を認め、不
平を言うかわりに一心に働いた。きわめて悪い経済条件にもかかわらず社会秩序
は保たれ、犯罪は少なく、腐敗と混乱が一部に限られたことは、そのためであっ
た。
 さらに、敗戦の混乱がきわめて限定されたものとなったことについて、天皇の
果たされた役割を無視することはできない。天皇は戦争の最後の段階において、
徹底抗戦を主張する軍部をおさえ、和をこうという苦しい決意を下された。

それに、日本人は敗北によって深刻な精神的打撃をこうむっていた。かなりの日
本人が日本は不敗であるという神話を信じ、日本の戦争目的の正しさを確信して
、多大の犠牲を払って戦争に協力した。ところが日本は敗北したし、しかも、そ
の戦争目的はまったく正当性を欠くものであったといわれたのである。当然多く
の日本人は激しく動揺した。それは、およそあらゆる権威のいちじるしい失墜を
意味した。それに加えて、ヤミ市場とインフレーションに代表される戦後の混乱
は、日本人の道徳を切りくずすことになった。

先々のことを考えて対策を建てるなどという生やさしい事態ではなかった。極端
に言えば、その日暮らしの窮境にあった。そして政府と同じように国民もまた、
その日の生活に追われて、生きるために奮闘しなくてはならなかったのである。

 しかし、幸か不幸か、われわれはその日の生活のことだけでなく、日本の将来
に関することも考えなくてはならなかった。占領軍が徹底的な改革を指令したか
らである。実際、第二次世界大戦後に日本を訪れた占領軍は、歴史にその例をみ
ないものであった。すなわち、アメリカ軍はただ単に勝者としてではなく、改革
者として、日本を「非軍事化」するために日本に進駐してきたのであった。戦争
の原因を日本やドイツの軍国主義にみた彼らは、日本の軍国主義を生み出した社
会構造を変革し、日本を軍事的に無能力化することこそ、平和な世界を建設する
ために最も基本的なことであると考えていた。彼らはそのための計画を日本に進
駐する前からつくっており、そして日本に進駐してくるやいなや、その計画どお
りに日本の非軍事化と民主化をおしすすめていった。
 8月末に日本に進駐してきた占領軍は、9月11日に東条元首相などの戦争犯罪
人を逮捕したのをはじめとして、日本軍隊の完全な武装解除と軍事機構の廃止、
国家主義団体の解散などの非軍事化のための措置(1946年1月)、好ましからざ
る人物の公職追放、思想警察、政治警察の廃止(1945年10月)、婦人参政権の賦
与(1945年12月)、労働組合の結成(1945年12月)などの民主化のための措置を
やつぎばやにとった。そして教育改革、土地改革。財閥解体、新憲法制定などの
措置も、だいたい1,2年のうちに行われたのである。それは文句なしに「無血
革命」と呼べるような大変化であった。
 とくに、このためにアメリカ本国で組織され、準備をすすめてきた日本にきた
人々は日本を改革するという情熱に燃えていた。彼らは典型的なアメリカ人とし
て、精力にあふれ、楽天主義に満ちた人々であり、その本質的な善意のために日
本人の尊敬と協力を得るのに成功した。しかしまた、彼らはいささか尊大であり、
かつ苛酷でもあった。彼らは日本の経済復興の必要を認めていなかった。

また、彼らは、古い政治構造を破壊し、徹底的な社会改革を行うことが日本人の
生活にどんな影響をあたえるかについても単純に楽観的であった。

 こうした大きな改革は、だいたいのところ、多くの国民の支持を得た。たとえ
ば新しく発布された憲法は国民によって支持された。しかし、その場合、憲法改
正のイニシャティブが占領軍によってとられたことも否定しえない事実である。
したがって、それは日本人の発意によってつくられた憲法と同じように容易には
日本の社会に根づかなかった。
 また、憲法改正のような変革を人々はその好むようにうけとった。戦争を放棄
した憲法第九条はその最もよい例で、それが自衛のための武装をも禁止している
のかどうかについて、初めから人々の意見は定まらなかった。一般の国民は詳し
く考えず、ただ戦前の軍国主義への反動から憲法第九条を支持したように思われ
る。要するに、法律を変え、政治体制を修正することはやさしいが、それを根づ
かすのはむずかしいのである。そして、結局戦後の改革で日本に根づいたものは、
日本側になんらかの基礎があったものであり、それがなく、かつ、日本の実情に
そわなかったものは独立回復後に変更されたように思われる。

どうもアメリカ人は理想に走り、相手方の感情を軽視しがちである。机上で理想
的なプランをたて、それがよいと決まると、しゃにむにこれを相手に押しつける。
相手がそれをこばんだり、よろこばなかったりすると怒る。善意ではあるが、同
時に相手の気持ちとか歴史、伝統などというものをとかく無視してしまう。この
熱心な改革者との交渉は、日本人にとってユニークな交渉であった。もっとも、
すべてのアメリカ人がこのような人々だけではなかったのであり、マッカーサー
元帥といっしょに戦ってきた軍人たちは、ともかく占領を成功させることを考え
ていたようであって、一部の改革者たちの行き過ぎを多少制約する働きをした。
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