とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

GHQ がやったこと 2

2008年01月17日 12時33分31秒 | 時事問題(日本)
 慰安所の設置
終戦直後の8月18日に、内務省は全国の警察に対して慰安所の設置を指令し、8月20日には近衛文麿国務相が特殊慰安施設協会(RAA)の設置を決めた。このような日本政府による「良家の子女を守るため」という大義名分を基に日本各地に慰安所が設置された。多数の米兵が利用したが、米兵による性犯罪も多発し、犯罪防止の効果は不明である。

一方で、当時、東京都民生局長だった磯村英一は著書の中で「GHQのほぼ最初の命令はレクレーションセンター(米兵専用の慰安所)の設置だった。日本人慰安婦(通称パンパン)を集めて直に作れと命令された」と述べている。

当時の警察の記録によれば、横浜や横須賀だけでも被害届が出されたものでも1日平均30~40件の米兵による強姦事件があったとされている。当時の新聞には「恵比須顔にご用心」といった記事が掲載され、道を歩いていて米兵とすれ違う時に下手に愛想笑いをすると、路地裏に連れ込まれて強姦されると注意を促していた。更に「処女狩り」と称して白昼堂々市街地の一区画を武装した米兵が封鎖し、その中で未婚の女性(当時はほぼ100%処女だった)を集団強姦したり、ジープに分乗して病院に乗り付け、看護婦や入院患者を次々と強姦するといった悪質なケースもあった。強姦されている最中にショック死したり、強姦された後に自殺する女性が数多くいた。更に磯村は慰安所の事実がアメリカで報道され、アメリカの女性団体の抗議を受けた後は慰安所の運営を秘密裏に行うよう命令されたと証言している。

対日講和
日本政府は終戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。吉田らは健全な戦後復興のために、高額賠償金の支払いや領土分割を回避する「寛大な講和」を勝ち取ることを考え、日本政府が「よき敗者」として振舞うことに注力し、非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。また、イタリアなどの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されたことから、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、進駐期間を引き延ばしながら、連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。

一方、冷戦の激化により、日本との講和も米国とソ連の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では、国防省は日本への軍の継続駐留を企図して、国務省主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の信託統治(後の分離独立を企図)下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。

1951年(昭和26年)の講和会議には英仏蘭の要求によって、各国の旧植民地も参加した一方、内戦で立場が微妙な「中国」(中華民国或いは中華人民共和国)と「朝鮮」(大韓民国或いは朝鮮民主主義人民共和国)は招かれず、ソ連は米国主導・中国不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の東南アジア数カ国は、独立後の財源を確保するべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて、賠償権放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって賠償に応じ、国際社会に謙虚さをアピールした。

これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し、対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立を承認、台湾・澎湖諸島の放棄、樺太・千島列島の放棄、沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島の米国による信託統治の承認、東京裁判の結果の承認を行った。同時に日米安全保障条約に調印して米軍の国内駐留を承認し、台湾の国民政府を承認する日華条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。

主権回復した日本は、国際連合に加盟する為、ソ連との国交回復を1956年(昭和31年)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国連へ加盟、国際社会へ復帰した。その後は軍事的な対米従属の下で経済的繁栄を目指し、1970年代には先進主要国の一つとなった。同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、また講和会議は行われていない。

年表
1945年(昭和20年)
8月15日 国民に向けての玉音放送。鈴木貫太郎内閣総辞職。
8月28日 テンチ米陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、連合国軍本部を設置。
9月2日 日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。
9月8日 連合国軍、東京に進駐する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
9月10日 「出版、言論、新聞の自由に関する覚書」発令。政府に代わり連合国軍が検閲を始める。
9月15日 東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、DNタワー21、第一・農中ビル)を接収。
9月16日 連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。
9月17日 マッカーサー、東京の本部に入る。
9月19日 プレスコードが出される。
9月27日 昭和天皇、マッカーサーを訪問。
10月2日 連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置。一般命令第四号「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を発するが、日本側には知らせず(命令の存否について議論あり)。
10月4日 自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。
10月11日 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
10月15日 治安維持法の廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。
11月18日 皇族資産凍結の指令。
12月6日 近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令。
12月7日 いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)。
12月9日 農地改革を指示。
12月15日 神道指令を指示(国教分離)。外部リンク国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件
1946年(昭和21年)
1月4日 軍人・戦犯・軍国主義者及び同傾向政治家などの公職追放を指示。
2月3日 マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。
2月13日 ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる。
3月6日 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。 
5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
11月3日 日本国憲法公布。
12月18日 ワシントンの極東委員会、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)。
1947年(昭和22年)
1月31日 マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。
5月 総司令部内に賠償局を設置。
5月 GHQ、日本政府に対し「帝国」の語の使用を禁じる。
5月3日 日本国憲法施行。
7月11日 マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。
7月22日 ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。
1948年(昭和23年)
11月12日 東京裁判が25人に有罪判決。うち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、広田弘毅、武藤章、松井石根が死刑。
11月30日 政令201を受け国家公務員法改正。公務員の団体行動権を否定(労働基本権#日本の公務員の労働基本権)。
12月8日 民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)。
12月18日 GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換する)。
12月23日 東条英機ら旧指導者7人に死刑執行。
1949年(昭和24年)
3月1日 GHQ/SCAP経済顧問ジョゼフ・ドッジ、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示(ドッジ・ライン)。
9月15日 シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表。(詳細はシャウプ勧告を参照)
10月4日 プレスコード撤廃。
11月1日 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
1950年(昭和25年)
6月6日 マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放。
6月25日 朝鮮戦争勃発(- 1953年)。在日占領軍が韓国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
7月8日 マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8000名増員)を求める書簡を送る。
7月24日 GHQ/SCAP、共産党幹部逮捕と新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。
8月10日 警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。
8月27日 第2次アメリカ教育使節団来日。
9月14日 トルーマン大統領、対日講和と安全保障条約交渉の開始を指令。
11月24日 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
1951年(昭和26年)
1月 マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。
4月11日 マッカーサー、朝鮮戦争で旧満州空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭される。
4月16日 マッカーサー、アメリカへ帰国。マシュー・リッジウェイ中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)。
9月8日 サンフランシスコで日本国との平和条約を調印。続いて日米安全保障条約に調印。
1952年(昭和27年)
2月28日 日米行政協定締結。
4月28日 日本国との平和条約が発効、日本主権回復。GHQ/SCAPの進駐が終わる。

脚注
^ 日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件(昭和二十年十月三十日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)等で使用されている。

参考文献
天川晃 監修、荒敬 編集・解説『GHQトップ・シ-クレット文書集成』(柏書房、1993年~1996年)
第I期 ISBN 4-7601-1028-3、第I期インデックス ISBN 4-7601-1125-5、第II期 ISBN 4-7601-1197-2、第II期インデックス ISBN 4-7601-1370-3
荒敬・内海愛子・林博史 編『国立国会図書館所蔵 GHQ/SCAP文書目録』(蒼天社出版、2005年) ISBN 4-901916-12-2
竹前栄治・中村隆英 監修、天川晃ほか 編『GHQ日本占領史』全55巻・別巻1(日本図書センター、1996~2000年)
竹前栄治『戦後労働改革 GHQ労働政策史』(東京大学出版会、1982年) ISBN 4-13-051020-7
櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書 「眞相箱」の呪縛を解く』(小学館文庫、2002年) ISBN 4-09-402886-2
甲斐 弦『GHQ検閲官』(葦書房、1995年) ISBN 4-7512-0604-4
占領史研究会 編著『GHQに没収された本 総目録』(サワズ出版、2005年) ISBN 4-87902-023-0

関連項目
連合国軍占領期の日本
極東国際軍事裁判
占領行政
憲法改正
日本国憲法
労働組合
連合軍専用列車
アメリカ教育使節団報告書
冷戦
白洲次郎
マッカーサー・ライン
天皇制廃止論
SCAP
プレスコード
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
(イラク戦争における)連合国暫定当局
極東委員会

外部リンク
国立国会図書館・テーマ別調べ方案内:連合国最高司令官総司令部
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8" より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の戦後処理 | 大東亜戦争 | 太平洋戦争
(私注:以下略)
最終更新 2007年12月28日 (金) 16:32。
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