私が最近ハマっている執行草舟さんは、芸術の愛好家。文字通り万巻の書を読み、神学にも詳しい。
その執行草舟さんの、芸術論が、振るっている。すばらしい。
私が感動した部分3頁くらいを、全文テキストします。
■ 文明の奴隷となるな
現代に通じる芸術は、ルネサンスの精神によって初めて日の目を見るようになった。ルネサンスに なって芸術と信仰が分離することになったからです。
現代に通じる芸術は、ルネサンスの精神によって初めて日の目を見るようになった。ルネサンスに なって芸術と信仰が分離することになったからです。
その理由として、人間が真の孤独を知ったことが挙げられます。オランダの人文主義者エラスムスは「自分は孤独でありたい」(Solus esse volui.)という自我に基づく孤独感をヨーロッパで初めて宣言しました。
現在の芸術はここから始まると言っても過言ではありません。西暦1500年を少し越えたくらいの時代です。
それ以前、孤独というものは自己の問題ではなかった。どちらかと言えば宗教的問題だった。ところが、エラスムスは一人の人間として「孤独でありたい」と言った。これは大変なことです。そして これがルネサンスの価値であり、現在の実存主義に通じるヒューマニズムの萌芽なのです。
どういうことかと言えば、中世を通じて営まれた大伽藍建造とその中での祈りを通して、人間は神を感じ、それと自己が繋がることができるようになった。
それ以前、孤独というものは自己の問題ではなかった。どちらかと言えば宗教的問題だった。ところが、エラスムスは一人の人間として「孤独でありたい」と言った。これは大変なことです。そして これがルネサンスの価値であり、現在の実存主義に通じるヒューマニズムの萌芽なのです。
どういうことかと言えば、中世を通じて営まれた大伽藍建造とその中での祈りを通して、人間は神を感じ、それと自己が繋がることができるようになった。
大伽藍の奥行きと厚み、そして何よりも垂直の柱と塔が、人間に魂の尊厳性を実感せしめたのです。
我々の魂が神と直結できることが実感できるようになって、人間は孤独というものをよい意味で実感したのです。その最初の人間がエラスムスだった。
そして孤独に耐えることができるようになった人間が第三者的な見方で、初めてギリシャ・ ローマの偉大な文化にも気づき始めたのです。それがルネサンスを生んだ。
真の孤独に耐えることのできる人間でないと、ギリシャ・ローマの偉大性にも気づくことができなかったのです。むしろ、「神」を知らぬ文明として軽蔑していた。孤独が、歴史の核心へ目をいかせたのです。
真の孤独に耐えることのできる人間でないと、ギリシャ・ローマの偉大性にも気づくことができなかったのです。むしろ、「神」を知らぬ文明として軽蔑していた。孤独が、歴史の核心へ目をいかせたのです。
つまり、孤独に耐えられる人間でなければ自己責任の判断はできないということです。それまではキリスト教だけにしか価値はなかった。
しかし、孤独に耐えながら自己判断のできる人間が 生まれ、初めて古代を含む種々の価値にも気づくようになったのです。この転換は大変なことです。
あらかじめ、ギリシャ・ローマの作品は芸術的価値があると教え込まれている我々が、この転換の意味に気づくのは難しい。逆に古代人が現代の芸術作品を見たら、「狂人」の作品と感じるかもしれません。
神と分離することによって、人間は孤独を知り、現代に通じる苦悩が生まれた。それが現代の芸術を生むのです。
そして、近代を特徴づけることは、神との分離によって、神に対する認識はかえって深まっていったのです。
19世紀の末に、人類は神を「殺し」ますが、それまでは対立の懊悩が激しかった。それも、現代へ通じる芸術の特徴なのです。
つまり神を殺したのは、20世紀に突入する頃で、現代に通じる芸術が確立した16~19世紀は、かえって神と自己が対峙していたのです。
ヨーロッパでは、大伽藍の出現によって、神を形とし て感ずることができるようになった。そして神と自己が直面した。神が形になった。それによって物を見る基準が与えられたのです。
その基準を、フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは「垂直の存在」(l'être vertical)と 呼びました。
その基準を、フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは「垂直の存在」(l'être vertical)と 呼びました。
だから、神を失ったのではなく、本当は自己との関係において強く実感しだしたのです。垂直を感ずれば、奥行きが見えるようになる。
まず神を垂直と感じられることによって、その奥行きも実感できるようになった。それが徐々に、我々の心を芸術の中に表現する力を与えるようにな ったのだと思います。
これが19世紀までの400年間の姿です。神を殺す前に、それより遡ること数百年は逆に激しく感じたということです。大伽藍は、中世人に「垂直の存在」を感じる力をつけた。
これが19世紀までの400年間の姿です。神を殺す前に、それより遡ること数百年は逆に激しく感じたということです。大伽藍は、中世人に「垂直の存在」を感じる力をつけた。
そして垂直が立てば、人間は見えないものが見えるようになる。混沌とした「生の存在」(l'être brut)の中に奥行きと厚みを見ることができるようになる。
そして、見えないものを見る力が芽生えてくる。強力な自己の確立です。そこに至って、先ほどのクレーの言葉の意味が生活の中に生きてくる。
つまり、深淵な感覚を芸術として認識し表現することができるようになったのです。神の存在を形として感ずること によって、芸術が大きな意味を持ってきたということです。
大伽藍や中世的な信仰の形態が、神を形として感じさせ、それによって人類は新しい精神的な芸術 を生み出すことができるようになりました。だから、現代の芸術は神を内包しているのです。
大伽藍や中世的な信仰の形態が、神を形として感じさせ、それによって人類は新しい精神的な芸術 を生み出すことができるようになりました。だから、現代の芸術は神を内包しているのです。
その結果として、文明という人工の世界に生きる我々にとって芸術は不可欠なものになったのです。神か芸術か、両方でもよいし片方でもよい。
だから、芸術がなくなれば、すでに神を失っている我々現代人は生命と文明との均衡を失い、文明と共に滅んでしまうのです。
法律と科学、つまり文明万能の時代である現在、その兆候はいたるところで感じられます。
一方、イスラム圏ではまだ神が健在です。ですから、イスラム圏では芸術はそれほど必要とされていません。
キリスト教圏では20世紀に至って神を殺してしまったため、生命を燃焼させる対象は芸術しか残っていません。
したがって現代では芸術がわからなければ、文明の奴隷になるだけです。現代では、芸術に関心を持たない人々は、文明の奴隷なのです。我々人間は、いつの世も、自己の生命が持つ「暗さ」そして 「悲しさ」というものを実感し、その認識によってそれを乗り越えていかなければならないのです。
したがって現代では芸術がわからなければ、文明の奴隷になるだけです。現代では、芸術に関心を持たない人々は、文明の奴隷なのです。我々人間は、いつの世も、自己の生命が持つ「暗さ」そして 「悲しさ」というものを実感し、その認識によってそれを乗り越えていかなければならないのです。
それを司ってきたのは神と芸術しかありません。
~~~引用終わり~~~
大伽藍の巨柱の垂直的な屹立が、人間と神との関係における「垂直性」とつながっている。
この「人間と神との垂直的な関係」を執行草舟は「縦」と呼ぶ。 「横」は俗世間とのつながり。
※ 執行草舟の縦と横(過去拙稿)
大伽藍の巨柱から神との垂直的関係につなげるのは、とてもいい見解でした! 実際、大聖堂の巨柱や高い天井などの「垂直」から、我々は神々しさ、神聖さ、崇高さを体感しますよね!
執行草舟『根源へ』 226-229頁