【執筆原稿より抜粋】
ガンディと聖と俗
マハトマ・ガンディ
渋沢栄一『論語と算盤』の文脈で挙げたい国際人が、インドのガンディです。
本書のテーマである「正しさと美しさ」の文脈では欠かせない人物です。世俗・物質の反対概念である、精神・宗教性を極めた人でした。だからマハトマ(聖者)と渾名されました。
ガンディは弁護士出身ですが、社会を変えるためにはまず自分を変えねばならぬと考え、欲望を極限まで抑えることに挑戦しました。その自分の禁欲的な姿が説得力を持つと信じていました。
具体的には、食欲、性欲、睡眠欲、所有欲を極限まで削りました。
まず、食欲を抑え、あの痩せぎすの姿になりました。
次に、37歳で妻との性交を絶ち、晩年には自分の性欲が失くなったことを試すために若い女性と同衾して寝るという変な実験をしています。そのためガンディをロリコン呼ばわりする人もいます。
また、睡眠時間も極限まで削り、朝2時ころに起きて10キロの散歩をすることを日課にしていました。
さらには、所有欲も削ぎ落とし、死後に残したのはメガネ・杖・時計・食器(木製お椀とスプーン2本)・服(着る綿布2枚とサンダル2足)以外は3冊の聖典のみでした。文字どおり、無所有・無一文で死んだのです。
ちなみに、無一文・無所有で死んだのは足尾鉱毒事件の田中正造と同じで、田中の場合は小石3つとマタイ伝のみでした。
「7つの社会的罪」
このガンディはヒンズー教徒ですが、ヒンズー以外にもいろいろな宗教を学び、7つの社会的罪(Seven Social Sins)を唱えました。
- 理念なき政治
- 労働なき富
- 良心なき快楽
- 人格なき学識
- 道徳なき商業
- 人間性なき科学
- 献身なき信仰
この7つの「罪」はいずれも良くないものとして納得できますが、2つ目の「労働なき富」が渋沢の唱えた商業道徳と似ています。
現代的な価値観からすると、「労働しないで儲ける」ことはむしろラクでコスパも良く素晴らしいことと受け入れられがちです。
不労所得を得て早く仕事を辞めるFIRE(Financial Independent, Retire Early)が勝ち組だよと考えている方も多いでしょう。
しかしガンディはそれを「社会的な罪」だと言うのです。少し掘り下げてみましょう。
「労働なき富」は、「少なく働いて多く稼ぐ」(More with less)ことです。効率的にラクして儲けることです。世俗的・物質的な価値観では「正しい」です。
一方、その反対の「多く働いて少なく稼ぐ」(Less with more)という精神的・宗教的価値観もあります。
ボランティアや修行僧やマザー・テレサがイメージできます。彼女は「貧しいことは美しいこと」「所有すればするほど、捕らわれてしまう。少なく所有すれば、より自由でいられる」と言っています。
イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんも「大きな努力で小さな成果を生みなさい」と説いています。
この対比を表にすると冒頭画像(以下で再掲)のようになります。
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世俗的な「正しさ」は、ラクして儲けること。でもそれは宗教的な価値観からすると「醜い」。
一方、宗教的な「美しさ」は、犠牲になる辛い道。それは世俗的な価値観からすると「誤り」。
「世俗的には誤りであることが美しい」と言うと違和感を感じるでしょうが、例えば、三浦綾子『塩狩峠』の主人公が良い例です。
この主人公は他者の犠牲になって死にます。その犠牲的精神に美しさを感じますが、資本主義社会における世俗的・金銭的価値観からすると「誤り」といえます。
聖と俗
この物資(世俗)と精神(宗教)との対比は、有史以来繰り広げられてきた聖と俗の問題です。かつては政教一致でしたが今は政教分離になりました。
しかし、アメリカ大統領の就任宣誓で聖書に手を置くように、政教は完全に分離されていません。どうバランスを取ればいいのでしょうか。
私の卑近な例で言えば、私も常に聖と俗の間で揺れています。
私は弁護士事務所の代表として、組織維持のために売上を上げる必要があります。そうでなければスタッフとその家族に迷惑がかかります。ですから私はお金が欲しい俗物です。
とはいえ、ガンディや田中正造の心の美しさに惹かれているため、できるだけ安価な法律サービスを提供してクライアントに喜んでもらいたい。
具体的には、本来なら20万円の仕事に25万円の請求書を送るのは、良心が許しません。とはいえ、胸を張って20万円もらえるのに15万円しかもらわないと、経営が圧迫され、スタッフのボーナスに皺寄せが行きます。
このように、私は常に「たくさん儲ける」と「少なく儲ける」の間で揺れています。
人間は私のように常に揺れているものだと思います。
我利我利亡者に見える人でも1%くらいは自分のアコギさに良心の呵責を感じている。
一方、ガンディや修行僧のような聖者でも名利を求める下卑た心は1%くらいはある。品性と修練によってそれを表現していないにすぎません。
このように、人間はみんな聖と俗の中間をふらふら行ったり来たりしているのです。人間みんなちょぼちょぼなのです。完全な聖者も、完全な悪人もいません。
自分の心の中で常に聖と俗が戦っている。そういう自覚をもつバランス感覚が、論語で孔子が言う「中庸」なのだと思います。
本書では、この聖と俗、物質と精神、哲学用語で形而下と形而上と言いますが、この両者を「正しさ」と「美しさ」という言葉・切り口で対比しています。