或る夜の事。
狐は先輩と一緒に或るパブリック・ハウスのカウンター席に腰をかけて、絶えずホットミルクを舐めてゐた。
狐は余り口をきかなかつた。が、先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。
「君は何時も敬語を使うのですね」
先輩は頬杖をした儘、極めて無造作に私に述べた。
「君が敬語を使ふものだから私も敬語になつてしまいますよ」
先輩は割賦を掲げて中の御酒を見詰めた。
「敬語で話していると時々寂しい気がします。もつとフランクに話したい」
おやおや? そふなのですか?
「君は誰にでも敬語なのですか?」
私は基本的には誰にでも敬語です。
「敬語だと心を開いて話している感がないのです。寂しいのです」
でも先輩は先輩なので敬語を使わせていただきます。
「そんなことを言わないで。さぁ。心を開いて。普通に話してみてください」
そんなことを言われても……。
「心を開いて。私に全てを曝け出すのです。すっぽんぽんになるのです」
すっぽんぽんは厭です。
「さぁ。身も心も裸になって全てを見せて」
厭です。
「怖いの? 大丈夫。怖くない怖くない。気持ち良くしてあげるから。気持ち良いから。優しくするから]
厭です。敬語は止めません。それと隙あらばエロの方向に話を持っていくのは止めてください。
「むぅ」
先輩はお喋りを止めて考え込んだ。
私の言葉は先輩の心を知らない世界へ神々に近い世界へと解放したのかもしれない。
私は氷とカルーアを注文し、割賦の中でホットミルクと混ぜ合わせてカルーア・ミルクを作り、舐めた。
先輩は言つた。「何か寂しい」
狐は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。
人の望みとは、様々なものであるな。面白ひものだ。
そのパブリック・ハウスは極小さかつた。
しかしパンの神の額の下には赫い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。
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