昨日の夜は、アニメーション映画『火垂るの墓』のDVDを観ていました。
1945年9月21日。
主人公の14歳の少年・清太は三ノ宮駅構内で、衰弱死した。
清太の所持品は錆びたドロップ缶。
その中には4歳で衰弱死した妹・節子の小さな骨片が入っていた……。
太平洋戦争末期。
兵庫県武庫郡御影町に住んでいた清太とその妹・節子は6月5日の神戸大空襲で母も家も失う。
清太と節子は親戚の家に身を寄せたることになった。
しかし、お説教ばかりする親戚の叔母に清太は居心地が悪いと感じ、節子を連れて家を出ることにした。
二人は、近くの満池谷町の貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始める……。
監督は、高畑勲。
原作は、野坂昭如の同名の小説です。
少年が自分が犯した罪を告白するお話。
死んだ後も自分が犯した罪に囚われて成仏できないでいるというお話です。
清太という14歳の少年は助かる可能性は無数に存在していました。
彼は自ら愚かな選択を繰り返すことで死ぬことになります。
しかし彼の罪は愚かな選択をして死んでしまったことではありません。
彼の愚かな選択に妹を巻き込んでしまいその結果として妹を死なせたことです。
彼の妹を助ける方法は無数に存在していました。
しかし彼はその方法を選ばなかった。
清太という少年は自分が妹を助ける方法を選ばなかったことを自覚しています。
彼は妹の死後、そのことを悔いているのです。
だからこそ無気力になってしまった。
無気力になって死んだ。
清太という少年は妹と二人だけの世界を作ろうとしました。
彼は劇中で妹と母親の2人以外は心を開いていません。
何かをしてもらっても心から「ありがとう」という言葉を一度も発していません。
劇中で彼に親切にしている人は多く登場しているのです。
しかし彼は感謝の言葉を一度も発していません。
彼は妹しか見ていません。
だから火事場泥棒ができるし盗みもできるのです。
他者を人として認識していません。無視しています。
その妹も本当に妹が大事ならば、自分の自尊心を捨てて誰かに助けを求めているはずです。
本当に妹が大事ならば、親戚の叔母さんに頭を下げて再び庇護してもらっていたはずです。
しかし彼はそれをしなかった。
清太は親戚の叔母の家にいる間、何もしていない。
家事の手伝いをするわけでもなく周囲の手伝いをするわけでもなく地域の手伝いもしない。
清太は周囲の人々に一切気を使わない。
これでは叔母に嫌味を言われるのは当然のこと。
叔母の嫌味に反発して叔母の家を出る。しかし妹を巻き込む必要はなかった。
叔母の家にいたならば妹は(つらい思いをしたかもしれないが)死ぬことはなかったはず。
清太に忠告をしたおじさんの言葉を清太は無視している。
駐在所のお巡りさんに助けを求めることもできた。駐在所のお巡りさんは盗みをして駐在所に突き出された清太に好意的だった。
母親が運び込まれた小学校にいた清太の家の近所の女性は清太に「困ったことがあったら何でも言ってね」と言っている。
駅の構内に座り込み、死の直前だった清太におむすびを差し出した女性がいる。
しかし清太はこの人達の好意に応えることはない。
彼は誰にも助けを求めなかったのです。
誰にも感謝の言葉を述べなかったのです。
そして誰も助けなかったのです。誰かの為になる行動を一切していないのです。
清太という少年は健気ではありません。
自分の欲望のままに動いたのです。
妹の為に叔母に頭を下げて妹だけでも叔母に保護してもらうという方法を取らなかった。
妹を自分の都合で自分の傍に置いてそして妹を死なせてしまったのです。
誰かに助けを求めていれば清太の妹・節子は死ななかったし清太も死ななかった。
清太はそのことを自覚しているのです。
自分の自尊心の為に妹が死んだことを自覚しているのです。
だから成仏できない。
現代まで延々と迷い続けている。
観ていて恐ろしくなる映画です。
この映画のキャラクターのどの人でも自分に当てはまるような気がしてきて怖くなります。
淡々と人の心を描いていく。
傑作でありますよ。
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