おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

西武線「ひばりヶ丘駅」~武蔵野線「新座駅」。その8。JR武蔵野線。貨物ターミナル。「金太郎」。野火止。(都県境を探ってみる」第7回目。)

2022-12-16 18:35:43 | 都県境を探る

「関越道」の上を越えます。

「UR清瀬旭が丘団地」が続く。

           

住宅地を抜けると、農地が広がります。

遠くにJR武蔵野線。

この道が都県境に。右が新座、左が清瀬。

清瀬市のマンホール。市の木ケヤキがデザインしてある。

農家らしいおうち。

         

                 「十文字学園サッカーグラウンド」。

新座市側には「十文字学園女子大学」キャンパスが広がります。

     

      振り返る。右が清瀬市、左が新座市。

「武蔵野線」に突き当たります。

         

               貨物ターミナルになっています。

              

都県境は、ここを横断し、線路の向こうにつながっていきますが、今回は、ここで終了。

右に曲がり、JR新座駅に向かいます。

大型トラックも行き交い、砂埃が舞う道路。新座市菅沢2丁目になります。

新座市のマンホール。土にまみれながら。

           市の花こぶしで市章を囲み、周りに市の木モミジの葉を配している。

機関車が貨車を牽引して。

機関車「金太郎」。

武蔵野線の電車が「新座駅」を出て、次の「東所沢駅」に向かう。

路線図。

                                       (「ジョルダン」より) 

「野火止歩道橋」。

歩道橋下には「野火止郵便局」。

今回は、「野火止用水」に縁の多い歩きでした。  

「新座駅」。<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/c7/2db28f0e0e9fb84e5aeff0da7d2d157d.jpg">

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武線「ひばりヶ丘駅」~武蔵野線「新座駅」。その7。志木街道。清戸道。UR清瀬旭が丘団地・花夢音!せいぶ。(都県境を探ってみる」第7回目。)

2022-12-15 18:47:17 | 都県境を探る

この道が「海軍用地」標石に通ずる道でした。

「志木街道」。下清戸地区。

「清戸」というと、「清戸道」として東の江戸川橋から練馬区を横断し、保谷、東久留米を経て、西の清瀬市の清戸まで通じる道がありました。

清戸道(きよとみち)は、主に江戸時代に、江戸武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。

神田川に架かる江戸川橋(現・東京都文京区関口付近)を江戸側の起点とし、そこから北西へ約5〜6(約20〜24km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿。現・東京都清瀬市上清戸、中清戸、下清戸、下宿付近)との間を結んでいたとされる。

成立の経緯は明らかではない。江戸時代尾張藩の鷹場が清戸にあり、そこへ鷹狩に向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも、農村であった清戸から、市場である江戸への農産物の輸送路としての役割が大きかった。5〜6里という距離は当時徒歩で1日で往復できる範囲であり、清戸の農民は早暁、野菜等の農産物を背にかついだり荷車に積んだりして出発。江戸に着いたらそれらを市場や町家で売りさばき、また野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、それらを持って夕方には村へ帰ってこれたものと推測される。これに沿道の豊島郡練馬村(現・東京都練馬区)などから練馬大根をはじめとする農産物の輸送も加わり、そうした往来から自然発生的に道が成立したものと考えられている。

・・・明治以降の文献では、1885年(明治18年)7月の『渡辺府知事管内巡回記』に、「北豊島郡高田村(現・東京都豊島区)ヨリ埼玉県小榑村(現・東京都練馬区・当時は埼玉県新座郡)境ニ至ル」と記され、地方税道路として中山道並みの重要な道路として取り扱われている。事実、『北豊島郡誌』によれば、1918年大正7年)度に行われた1時間平均交通量の調査で、清戸道のそれは中山道に次ぎ、川越街道国道254号)よりも多かった。

その『北豊島郡誌』には、清戸道の経路について、「清戸道 府費支弁道 東京市小石川区江戸川(現・東京都文京区)より起り、本郡高田村の南部を東西に貫きて長崎村(現・豊島区)に入り、同村と豊多摩郡落合村(現・新宿区)との境界を劃して、上板橋村の南端(以降、現・練馬区)を縫ひ、進んで下練馬村中新井村との境界に沿うて上練馬村に入り、石神井村に於て富士街道を横ぎり、大泉村の中部を貫走して北多摩郡と埼玉県北足立郡との境界に進む」と記されている。

(この項、「Wikipedia」参照)

※上記に「北多摩郡と埼玉県北足立郡との境界」とあるが、現在の「都県境」に当たる。

 なお、清瀬駅からここまで歩いた付近が「清戸道」の西の外れだったようです。

「せんべ味億本舗」のところから都県境は左に折れて進む。

目の前には「埼玉県 新座市」。

振り返ると、「東京都 清瀬市」。

たどる道は、新座市内。左手奥が清瀬市。

新座市あたご2丁目。

久々に「にいバス」のバス停「あたご第二児童遊園」。

左手には森が広がる。

                       「清瀬市下清戸道東緑地」。※「下清戸道」とある。

    

しばらく進み、「都県境」になっている丁字路を右に進むと、「UR清瀬旭が丘団地」(清瀬市旭が丘2丁目)が正面から左手に大きく広がります。

    

都県境になっている道。

                     右手は新座市あたご3丁目。

   けっこう大きな商店街。

「テラスあたご」とあります。

けっこう大きな団地。

昭和のにおい漂う商店街。

                        「花夢音!せいぶ」。果たして何と読むか?

西武中央商店会 ~花夢音(かむおん)せいぶ~

花と夢と音楽のある商店会を合言葉に地元のお客様と歩んできました。古き良き商店会の姿を残し、地元に寄り添い営業しています。夏の「あたご祭」は町内会と商店会共催で多くのお客様に喜ばれています。
 また、当商店会は黒おび商店街として埼玉県から認定されています。

※「黒おび商店街」

埼玉県では、他の商店街の模範になるような取組を行っている県内の元気な商店街を「黒おび商店街」として認定してます。(現在147商店街)※現在、新規認定は行っていません。

【認定要件】

  • (1)街路灯事業を除き商店街の主催で、3種類以上の異なる共同事業(にぎわい創出事業や地域貢献事業など)を継続的に実施していること。
  • (2)我こそは、「黒おび商店街」(元気な商店街)であると自信をもって宣言すること。

黒おび商店街の皆さんは、地域の活性化のために一生懸命活動しています。是非応援ください!

この項、「彩の国 埼玉県」HPより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武線「ひばりヶ丘駅」~武蔵野線「新座駅」。その6。西堀三丁目憩いの森。米空軍大和田通信所。(都県境を探ってみる」第7回目。)

2022-12-14 20:32:17 | 都県境を探る

住宅地を過ぎると、畑や森が一面に広がる。

「ひまわり通り」からフェンス沿いの細道に入る。

真後ろは、「西堀三丁目憩いの森」 (新座市)。都県境は、その北側の縁沿いに進む。

※西堀三丁目地区にある緑地で、隣接する西堀二丁目憩いの森と合わせると、市内で最も大きな憩いの森。

写真を撮り忘れたので。 (「Googleマップ」より) 

フェンス内は、林が広がる。  

右手奥には、「米空軍大和田通信所」があります。

※都県境は、この敷地内を北に向かう。

米空軍大和田通信所

埼玉県新座市西堀東京都清瀬市にまたがる在日アメリカ空軍基地施設の名称。施設番号はFAC 3056。

大日本帝国海軍大和田通信隊所属「大和田無線通信所」が、無線通信の受信傍受施設として使用。戦後、気象通信所を経て米軍基地として接収。

当時の中央施設は2007年(平成19年)現在、日本の国有地防衛省所管防衛施設庁北関東防衛局が管理し、在日米軍米第5空軍374空輸航空団所属)と共同利用。当施設と送信施設の所沢通信基地は、無線送受信施設として一対を成す。当時の分室は現在、気象庁気象衛星センターが使用。

1936年(昭和11年)に開設された。2016年(平成28年)時点の敷地面積は1,197,700.81m2(私有地等758,857.03m2、国有地438,843.78m2。本隊と中央施設内部に大型無線受信機23台、小型無線受信機200台設置。他に施設運用にあたる隊員用宿舎なども併設。

敷地内部には高さ6mの黒い木製主柱90本を等間隔に建て、水平方向にワイヤーアンテナ線を張り、支えの支線などもあった。主柱にはハワイシンガポールマニラグアム台湾など、受信地域名記載の木製札が掛けられていた。

自軍無線のみならず米英の無線も傍受解読していた。その他、特定地域の周波数変更内容や、日本本土を空襲したB29爆撃機の援護にあたるF6F戦闘機の使用周波数などが、1945年(昭和20年)当時の傍受月報の記載に残されている。

対米諜信活動(暗号解読作業)は軍令部第四部大和田通信隊A班の担当であったが、平文であっても英語を理解できる者が少なかったため、帰国米移民2世(1世に連れられて行った日本生まれの子供らや米国生まれの日系米人2世)が選抜され従事していた。

(この項、「Wikipedia」参照)

以下、「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝‐日本の近代と慰霊の地を巡りしサイト‐(戦跡紀行ネット)」HPより拝借しました。

・・・
昭和9年(1934)に、「海軍東京無線電信所」の附属機関として無線傍受を専門とする「海軍東京無線電信所大和田受信所」の設置が決定。
「大和田受信所」は昭和11年に開設され昭和12年(1937)から本格稼働を開始。
また、昭和9年6月には、海軍通信隊令が施行。海軍無線電信所は海軍通信隊となり、「大和田受信所」は、「東京通信隊大和田分遺隊受信所」となっている。
昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦時に「東京通信隊」から独立した「大和田通信隊」となり、傍受を掌る通信隊として海外無線の傍受を行い、副受信所では、方位測定を掌る大和田通信隊分遺隊が展開された。
アンテナ群は東西1キロ、南北2キロ以上の広範囲に設置。受信機は主に現在の新座市に置かれていた。
この地域に受信設備が置かれた理由は、武蔵野台地の中心に位置しており、周辺には電波障害の要因となる鉄道。幹線道路・民家なども少ない環境であったためという。

「大和田通信隊」での受信実績(傍受実績)として、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」(モールス符号「・・―・・ ・・・」トラ連送)「ワレ奇襲ニ成功セリ」を受信。
米海軍が平文で打った「airraid on pearlharbor x this is not drill」(真珠湾が空襲を受けている。これは演習ではない)の電報も受信。
・・・
また、終戦時の「ポツダム宣言」を受信したのも「大和田通信隊」。
戦争の最初と最後に「大和田通信隊」が絡んでいたのだ。

・・・現在、受信設備が置かれていた新座市には、「在日米軍大和田通信所」が引き続きアンテナ群を展開。
清瀬市にあった副受信所の一部は気象庁気象衛星センターとなっている。東久留米市域は東久留米団地として再開発されている。

・・・

周囲には、畑が広がっています。

       

確かこの付近に「海軍用地」という標石があるはずですが、

「防衛施設庁」標石。道沿いに設置されている。

「海軍用地」の標識は、もう一本、東の道を進まなければならなかったようです。

この奥の道に?

       遠くに「在日米軍大和田通信所」の高いアンテナが見えています。

「旧海軍境界標柱」。

                          (「Wikipedia」より)

にんじんを収穫中。

(「今昔マップ」より)

 

住宅地に入り、広い道路に出ます。

「下清戸」バス停。

                 「志木街道」になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武線「ひばりヶ丘駅」~武蔵野線「新座駅」。その5。ひまわり通り。ころぼっくる。気象衛星ひまわり。(都県境を探ってみる」第7回目。)

2022-12-13 18:36:54 | 都県境を探る

西武線をアンダーパスで越え、この信号を右折します。都県境(清瀬市と新座市)は、

この手前で右手に新座市が広がります。

歩いている道の周囲は、清瀬市。

農地が多い。

           

この先で、新座市との境界があります。

右が新座市新堀。

       「(新座市立)新堀小学校西」交差点。

 都県境は、交差点を少し西に入りこみ、すぐ鋭角で折れて東に向かう。

振り返る。右手は「清瀬市障害者福祉センター」(上清戸)。

この先は、新座市に属する「ひまわり通り」を歩きます。

なぜ「ひまわり通り」と名付けられているか? 沿道にひまわりが植えてある様子もないし、・・・。

      左手奥は、「清瀬市立清瀬第十小学校」。

都県境は、右に見える新座市立新堀小学校の校庭を横切って進みます。体育館は清瀬市?

農産物販売所が左に。

左手の公園入口にパラボラアンテナのモニュメント。

公園の奥には、「児童センターころぽっくる」。

「ころぽっくる」ってなあに?

イラスト:ころぽっくる

 

「ころぽっくる」とはアイヌの伝説に登場する、人々に幸せをもたらしてくれる、いたずら好きな神様のことです。

清瀬市児童センターの愛称として、市民の皆さまからの公募により決定しました。

(「」HPより)

この先に、

               「気象衛星センター」。

「気象衛星センター」は、気象庁本庁に付属する施設等機関の一つで、気象衛星からの観測データ受信及び気象衛星の運用を行う機関。

気象衛星「ひまわり」。

ひまわりは、気象観測を行う日本静止衛星気象衛星。1号から7号までは愛称、8号以降は正式名称である。1号から5号までの正式名称は静止気象衛星GMS (Geostationary Meteorological Satellite) 、6号と7号は運輸多目的衛星MTSAT (Multi-functional Transport Satellite) 。

「ひまわり」は世界気象機関 (WMO) と国際科学会議 (ICSU) が共同で行なった地球大気開発計画 (GARP) の一環として計画されたもので、得られた気象画像を日本だけでなく、東アジア・太平洋地域の他国にも提供している。2015年7月7日より、ひまわり8号が気象観測を行っている。また、ひまわり9号同軌道上に待機しており、2022年12月13日から運用される見通しである

愛称の由来

宇宙開発事業団 (NASDA) の初期の衛星は、初代理事長島秀雄の意向で花の名前をつけており、気象衛星「ひまわり」の愛称も植物のヒマワリから来ている。植物のヒマワリの花は常に太陽に向かって花を咲かせ、時間と共に太陽を追尾し向きが変化するといわれている (実際にそのように動くのは芽生えから開花前のつぼみの時期までである) 。このためいつも地球を同じ方向から見ているという意味と、1日に1回地球を回るという意味で「ひまわり」と名付けられた。これに因んで、東京都清瀬市にある気象庁気象衛星センターの前の市道は、「ひまわり通り」と名付けられている。

また、MTSAT-1は公募により「みらい」という愛称が選ばれていたが、打ち上げに失敗したため使用されずに終わった

(この項「Wikipedia」参照)

その隣ha,

その隣は、「東京管区気象台」。

管轄区域は、

東京都・茨城県栃木県群馬県埼玉県千葉県神奈川県新潟県富山県石川県福井県山梨県長野県岐阜県静岡県愛知県三重県

東京都内の地上気象観測(桜の開花等の生物季節観測を含む)を行っているが、他の管区気象台とは異なり、東京都内及

び関東甲信地方の気象予報の発表は気象庁(本庁)が行っている。(以上、「Wikipedia」より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西武線「ひばりヶ丘駅」~武蔵野線「新座駅」。その4。野火止用水。都県境は、鋭角で北西に向かう。(都県境を探ってみる」第7回目。)

2022-12-08 18:13:34 | 都県境を探る

解説板。

野火止用水

川越城主松平伊豆守信綱は、新田開発に入植した人々の生活水を確保するため、玉川上水から分水することを許され、現在の東京都小平市から野火止台地を経て新河岸川(志木市)にいたる全長約24キロメートルに及ぶ用水路を開削しました。

この付近の新田開発に入植した人々は、屋敷の近くに用水を引水しました。8軒の家が点在していたことから、この用水を八軒回し堀と呼んでいました。また、新堀とは、本流に対して、「新たに掘られた堀」の意味があり、「新堀八軒回し堀」とも呼ばれていました。現在、回し堀の大部分が遊歩道として整備されています。

平成22年3月 新座市 新座市教育委員会

※承応4年(1654)に完成しました。

 

                         大きな鯉の姿も。

新座市に属している。

暗渠になっているところも。

交差点名に「新堀」。

ここからは流れが見える遊歩道を。

すぐ脇は「水道道路」。

「西武池袋線」踏切。

               

この付近から右が新座市、左は、東久留米市になります。

「八軒」バス停。

振り返る。右は東久留米市に。

 コーポレート清瀬駅南。

         新座市新堀3丁目。

遊歩道が続きます。紅葉が見事。

  東久留米市小山5丁目。

東久留米市側の緑地。

詳しい解説板。

武蔵野の中でも、野火止台地は特に高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越藩主・松平伊豆守信綱は、江戸の上水道である玉川上水を完成させた功績により、玉川上水から3割の分水許可を得ました。貞応4年(1655)、私領である野火止の地を開発する人々の生活水を確保するため、野火止用水が開削されます。工事は家臣の安松金右衛門が命じられ、その流れは小平市小川町から志木市の新河岸川までの約25キロメートルに及びます。のちに新河岸川に、いろは48の樋が架けられ、志木市の宗岡の水田地帯にも通水されます。また、寛文3年(1663)、岩槻にあった平林寺が野火止に移転されると、ここにも用水が引水されました。

幹線水路は、本流を含めて4流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は、通称「菅沢・北野堀」・「平林寺堀」・「陣屋堀」と呼ばれています。用水敷は、中央に水路敷が2間、その両側に1間ずつの土あげ敷があり、約4間(7.2㍍)の幅がありました。水路は、地形的に高い場所を選んで掘りつながれ、この地に入植した人々の喉と大地を潤し、野火止新田の開発において。極めて重要な役割を演じました。野火止用水は、信綱の功績を讃え、「伊豆殿堀」とも呼ばれています。

野火止用水の流れは、昭和37・8年頃までは付近の人々の生活用水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子ども達の姿を見ることが出来なくなりました。そこで昭和49年度から東京都と埼玉県・新座市で清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部を復原することで、野火止用水の流れを未来につなげています。

この先で、水道道路・野火止用水に沿って南西に進んでいた都県境は、鋭角で北西に向かいます。

         

2010年代のようす。1880年代のようす。

(「今昔マップ」より)

 

           鋭角に折れる都県境。明治以来変わっていないようです。

       正面が新座市、道路の向こう側は清瀬市。

清瀬市松山1丁目方向。

新座市新堀3丁目方向。

松山一丁目 アパート。

清瀬市のマンホール。

中央のマークはキヨセの「キ」を図案化した清瀬市章。周囲は、市の木ケヤキをデザインしたもの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする