おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

ローカル私鉄の旅。その22。関東鉄道+真岡鉄道。その7。

2023-08-19 13:17:45 | ローカル鉄道

「市塙(いちはな)」。

武者絵。

市貝町の代表駅であり、町営バスの始発駅となっています。
駅舎に描かれているのは、田野辺集落に伝わる県の無形民俗文化財である「武者絵」。

※当初は「市場縄」と呼ばれ、承平7年(937年)益子氏一族の市花十郎直政がこの地に館を築いた際に「市花」と改め、その後「市塙」に変化したという。この館は「市花輪館」または「市花館」と呼ばれていた。

(「Wikipedia」より)

天矢場。

茂木から市貝町にかけてそびえる峠の頂上付近にあり、茂木駅から天矢場駅ににかけては真岡線最大の勾配がある区間です。

次が終点「茂木(もてぎ)」※「もぎ」ではありません。

道の駅 もてぎ。

        

左手に「旧東京芝浦電機(現:「東芝」)茂木工場(軍需工場)」跡・「特殊地下壕」跡・「高射砲地下工場」跡があります。

        

              

空襲が激しくなり、川崎にあった工場の一部がここに移転し、高射砲の砲身を製造するための地下工場ができたようです。

垂直な岩肌を見せているところ。現在は封鎖されています。

時間があれば行って見たかったところですが。

線路を延伸する予定だったところ。

「茂木駅」方向を望む。

茂木町のマンホール。

中央に町の花:キキョウ、鳥:ウグイス、木:ケヤキを組み合わせた町のコミュニケーションマークを配し、那珂川を挟み、町の花キキョウと町を 囲む山々をデザイン。

駅前のようす。 

茂木駅。

茂木は東方にる「モビリティリゾートもてぎ」で世界的に有名なようです。

(「」HPより)

モビリティリゾートもてぎMobility Resort Motegi

栃木県芳賀郡茂木町にあるモビリティテーマパーク1997年8月より「ツインリンクもてぎ(Twin Ring Motegi)」の名称で営業開始。四輪のSUPER GTや、二輪のMotoGP日本グランプリ(もしくはパシフィックグランプリ)が開催されるサーキットを併設している。2022年3月より「モビリティリゾートもてぎ」に名称を変更した

本田技研工業(ホンダ)が鈴鹿サーキットに次いで建設した、2つ目のサーキットオーバルトラックロードコースの2つのコース(周回路)を併設し、両方を同時に運用できる世界初のサーキット施設である1989年に開発を開始し、1997年8月に営業が開始された[1]。1998年には本田技研工業創立50周年記念イベント「ありがとうフェスタinもてぎ」が開催された運営の「株式会社ツインリンクもてぎ」はホンダの100%子会社「株式会社ホンダモビリティワールド」が前身となる。その後、鈴鹿サーキットを運営する「株式会社鈴鹿サーキットランド」と合併した新会社「ホンダモビリティランド株式会社」が運営を行っている現在はレジャー&リゾート施設となっており、サーキットの他に、遊園地ホテルがある。

2022年3月1日より名称を「モビリティリゾートもてぎ」に変更した。(「Wikipedia」より)

※2011年の東日本大地震でオーバル(周回路)の路面の凹凸がひどく、安全面で不向きになり、改修の必要性が出たが、採算の見込みが立たないまま、放置。イベントでの車両走行や自転車の耐久レースやマラソンなどに活用することがあり、スーパーGTではスタンド席を設置している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローカル私鉄の旅。その21。関東鉄道+真岡鉄道。その6。

2023-08-18 18:44:56 | ローカル鉄道

イチゴ栽培のハウス? 

「西田井」。

「益子(ましこ)」。

○益子の歴史
益子には、室町、鎌倉まで遡るような貴重な文化財が町の中心を取り巻くように点在しています。関東甲信越四大古塔のひとつとして知られるのが、西明寺の三重の塔。1537年西明寺城主益子家宗の建立で、和洋唐様の様式をもっています。本堂は1394年益子勝直によって開扇供養が行われ、1701年の大改修で現在のかたちになりました。中備のかえる股には十二支が刻まれています。純唐様式の楼門も威風堂々たるもの。このほか、山の玄関口に位置する大倉神社(807年)と綱神社(1194年)、側柱が角柱内部が円柱で阿弥陀堂式の平面を構成する地蔵院本堂(1504-1520)、大沢文庫を設けて名僧を輩出した円通寺(1402年)、日本で唯一、笑い閻魔大王を安置している閻魔堂(1714年)など、興味深いスポットは書き尽くせません。

○益子の歳時記
はっきりとした四季、ゆるやかな起伏の山、自然環境に恵まれた益子では、その風土を生かした農業や産業が営まれてきました。中心部から少し足を延ばせば豊かで懐かしさを感じさせる里山の景色が広がります。冬から春にはいちご狩り、初夏にはあじさい公園のあじさい、夏はブルーベリー狩り、秋には実った田んぼの眺めやいも堀りやりんご狩り、ぶどう狩りとその時ならではの味覚や景色が楽しめます。

益子焼は江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まると言われます。以来、優れた陶土を産出すること、大市場東京に近いことから、鉢、水がめ、土瓶など日用の道具の産地として発展をとげます。

      (「KOGEI JAPAN」HPより)

現在、窯元は約250、陶器店は50。若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家も多く、その作風は多種多様です。春と秋には陶器市が開かれます。
1924年、濱田庄司がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らと共に 民芸運動を推めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は 「芸術品」としての側面も、もつようになります。
 
※1「用の美」=飾らない美しさと、道具としての機能性を併せ持つ美しさ。 道具 は使われてこそ美しい という考え方。柳宗悦(やなぎ むねよし)による。民藝運動の創始者である柳宗悦は、生活道具として使われていた民藝品に新たな価値を見出し、“用の美”と称えた。
※2「民芸」=「民衆的工芸」の略語。
 
民芸運動を推進した陶芸家。
「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」 と書き残す。
1955年第1回無形文化財保持者に指定される。
1968年文化勲章受賞。
 
 
独自の「縄文象嵌」の世界を築いた陶芸家。
1946年濱田庄司門下に。1962年日本民芸館賞を受賞。
1996年重要無形文化財保持者認定を受ける。
「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」 と書き残す。
1955年第1回無形文化財保持者に指定される。
1968年文化勲章受賞。
 
以下は、「Wikipedia」による。

古くから窯が開かれ江戸時代終盤に大塚啓三郎により窯業が始まり、陶製日用品を作る陶器生産地として栄えた。大正に入り濱田庄司が「民芸」を持ち込み「民芸の町・益子」と謳われるようになり、その後、数多くの陶芸家志望の人々が移住し「陶芸の町・益子」を築き上げ、現在の「益子焼」を作り上げていった。

益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ火鉢などの日用品として製作されていた。その後、1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。1959年には、加守田章二が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた

1979年には通商産業省(現・経済産業省)から伝統的工芸品に指定された。地域団体商標にも登録されている。また、イギリス陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。

益子焼(蕎麦猪口)

砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。

益子焼の最も基本的な釉薬は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆ)である[6]。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りである。こうした昔ながらの施釉(せゆう)は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。

民藝運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い

・・・

陶器市(祭)の時期ではないのか、乗り降り客はほとんどいません。機会があれば、駅周辺を歩きたいところですが。

周囲には田園風景が広がる。

                  

「七井」。部活の高校生たちが下車。

「七井(なない)」とは「たくさんの井戸があった」の意味で、水資源が豊富な農耕に適した土地であったことに由来する地名。

生徒が渡った後、上り線に。

「多田羅」。

            「多田羅(たたら)」とは、日本で近代にかけて発達した「たたら製鉄」が由来。

※たたら製鉄(たたらせいてつ、:Tatara)

日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。砂鉄鉄鉱石粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高いを生産できることを特徴とする[1][2]近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った[3]明治以降急激に衰退し、現在では、日本刀の原材料「玉鋼」の生産を目的として、北海道にあるものなどが稼働している。

たたら」という用語は古くから「鑪」や「踏鞴」、「多々良」などと表記されてきたが[4]、それらは製鉄のさいに火力を強めるために使う鞴(ふいご)を指し、既に「古事記」や「日本書紀」にその使用例がある。また、近世以降に屋内で操業されるようになると、たたら炉のある建物を意味する「高殿」という表記も使われるようになった。

このような経緯から、「たたら」という言葉は製鉄法の他に鞴や製鉄炉、それらを収めた家屋をも指す広い意味で用いられたが、20世紀に入った頃より、特に製鉄法を指して「タタラ製鐵法」、「たゝら吹製鐵法」といった用語が使われ始めた。また、たたらで製鉄をおこなう工程のことを「たたら吹き」と言い、現在では「たたら製鉄」と同じ意味で使われる場合がある

一方で「たたら」という呼称そのものの語源については不明であり、確実なことはわかっていない。一説によれば、サンスクリット語で熱を意味する「タータラ」に由来すると言い、他にもタタール族を介して日本にもたらされたためとする説がある大和言葉に語源を求める説もあり、「叩き有り」からの転化、簡略化であり「踏み轟かす」の意、とする文献が存在する

この地域に「たたら製鉄」所があったのか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盛夏。台風7号。「終戦」記念日。向島百花園。江戸風鈴。カルガモ・オナガ。秋の七草。・・・

2023-08-15 12:47:40 | 向島百花園

台風7号が紀伊半島に上陸。近畿地方を縦断。中国や東海でも大きな被害が出そう。東京地方、雨が降ったものの、晴れてきました。

そして、今日は「終戦記念日」、本当は敗戦の日。「敗戦」を「記念日」というのは、というわけかどうか。

「終戦」記念日。

「敗戦」を認めないという気持ちが国民(指導者)にあったのか、戦争責任はうやむやのまま。「戦後」は、勝者・アメリカにお追従、今日に至る日本「国家」。・・・

と言い出せば、言いたいことはたくさん。「2023年は? 」と問われて、「戦争前夜」と答えたタレントもいるようだが。

岸田の言動を見ると、国民の憂い、不満をそっちのけで、むやみにはしゃぎすぎている。そのうち、きな臭い世の中になりつつあるような、・・・。

天気も政治も荒れ模様寸前の盛夏の中、晴れ間を見計らって久々に「向島百花園」へ。

8月24日(月)。

風鈴の音も軽やかな園内。しばし、外界の喧噪を忘れて。

             

             

        

        

         

                    

四阿のところにカルガモ。他はどこに?

がまの穂。

ユリ。

ザクロ。

池の真ん中に移動したカルガモ。

すると、オナガの一群がやってきました。池を旋回し、松の枝にとまり、

ひとしきり鳴き声を立てたあと、飛び去りました。

(↓)。

その後は元の静寂に。

「向島百花園」では、8月下旬から9月下旬にかけて、

「虫聞きの会」(8/24~8/27)。「月見の会」(9/28~9/30)。「萩まつり」(9/16~10/1)が開かれます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローカル私鉄の旅。その20。関東鉄道+真岡鉄道。その5。

2023-08-14 18:56:35 | ローカル鉄道

出発です。

沿線には、益子焼で有名な「益子」があります。

                     「益子焼上り窯(益子町)」。

「下館~茂木」。

              途中15駅、所要時間1時間13分。11:10発、12:23到着。

下館二高前。

向こうの校舎は下館中学校。

田園風景が広がる。

「折本」。

上り列車と行き違う。

            

       

「久下田(くげた)」。

              

駅舎内には多目的施設「さくらホール」が併設されています。「久下田」の「くげ」とは白鳥(鵠)のことで、白鳥が付近の水田に住み着いたことを由来とする地名です。(「真岡鐵道」HPより)

※「境川」歩きの時、「江の島」近くに「鵠沼(くげぬま)」という地名がありました。同じ謂われがあるようです。

刈り入れを終えた田んぼ。

この付近も、早場米の産地。

トウモロコシ畑。

田んぼとトウモロコシ畑と。

親子連れが前方で行く手を見つめる。

                   どこまで行くのでしょうか?

この付近はトウモロコシの産地。

                  

          遠くには「筑波山」から続く山並み。

前方に機関車をかたどった駅舎が。

          

「真岡駅」に到着です。

                 

親子連れはここで下車しました。お目当ては?

真岡駅はSLを形取った複合施設で、真岡駅子ども広場、真岡駅前交番、真岡鐵道株式会社の本社が併設され、関東の駅100選にも選ばれています。
また、真岡鐵道の車両基地があり、東口には2013年にSLキューロク館がオープンしました。(「真岡鐵道」HPより)

1912年明治45年)4月1日に、下館 - 真岡間の官設鉄道真岡軽便線が開業し、真岡駅が開設された。翌年1913年大正2年)7月11日に、真岡軽便線は真岡駅から七井駅まで延伸された

・・・1987年(昭和62年)4月1日に、日本国有鉄道(国鉄)が分割民営化され、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となった。翌年1988年(昭和63年)4月11日に、JR東日本真岡線第三セクター真岡鐵道になった。同時に真岡駅は呼称を「もうか」から「もおか」に変更した

1997年(平成9年)3月30日に、SLの形の新駅舎が完成し、供用開始された。同年、関東の駅百選に選出された

真岡市では、2012年現在井頭公園で展示されていた9600形49671号機を駅東口に移設展示し、廃車車両も外観整備をした上で移動させ真岡駅全体をSLミュージアムとして新たな観光名所を計画。2012年7月には、展示車両のひとつであるスハフ44 25が駅構内へ搬入2013年(平成25年)4月28日に、SLキューロク館が開館した

               

真岡駅西口を入口とし、駅構内西側の側線群、SL格納庫、転車台、展示車に沿った歩道を開放して真岡まるごとミュージアムとしている。

(この項、「Wikipedia」より)

施設の名称は、館内に展示している9600形蒸気機関車が大正時代の代表的な蒸気機関車の一つであり、太いボイラー、短い化粧煙突、低い二つのドームにかたどられた雄姿で、「キューロク」の愛称で多くの人々に親しまれたことから「SLキューロク館」と名付けました。

(この項、「」HPより)

車窓から。

        

              

               親子連れは、喜々として下車。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローカル私鉄の旅。その19。関東鉄道+真岡鉄道。その4。

2023-08-14 10:54:32 | ローカル鉄道

再び田園風景が広がります。

振り返る。

           どこまでも直線の線路。

車内風景。

上り線との行き違い。

住宅が増えてきます。

               遠くに筑波山の山並みが。    

左手(西側)の風景。

   大谷川。

                

終点下館駅に着きます。

「キハ2400形(2402)」。

1922年9月3日、現在の関東鉄道の前身の一つとなった鹿島参宮鉄道株式会社が開業しました。関東鉄道は、この日を開業日としてカウントしています。
 2022年9月3日に開業100周年を迎える、ということになります。その前年となる今年(2021年)、開業100周年を前にした企画として、常総線の「キハ2400形」の内2両が「レトロ塗色」(昭和40~60年代の、朱色とクリーム色のツートンカラー)に変更されています。(「下館レイル倶楽部」HPより)

JR下館駅ホームから「真岡鐵道」に乗り換えます。

乗り換え時間があるので、駅構内で休憩。

下館駅(筑西市)。

筑西市は、下館市・関城町・明野町・協和町の1市3町が合併し、平成17年3月28日に誕生しました。

東京から北へ約70km、茨城県の西部に位置し、東西は約15km、南北は約20kmで、面積は205.3km2です。
 南は下妻市及び日本を代表する科学技術中枢都市「つくば」を含むつくば市に隣接し、東は桜川市に、西は結城市、八千代町及び栃木県小山市に、そして北は栃木県真岡市に隣接しています。
 地形はおおむね平坦で、鬼怒川・小貝川などが南北に貫流し、肥沃な田園地帯を形成しています。
 標高は、約20mから60mで、北部には、阿武隈山系の一部につながる丘陵地帯があり、その標高は約200mとなっています。
 気候は太平洋型の気候であり、四季を通じて穏やかです。
 道路体系は、市のほぼ中心を東西方向に国道50号、南北方向に国道294号が整備され、この2路線が交差した部分が市の中心部になります。 さらにここから石岡市方面やつくば市方面、古河市方面に、放射状に県道が整備されています。
 鉄道については、東西にJR水戸線が走り、下館駅を起点として、南は取手まで関東鉄道常総線、北には茂木まで真岡鐵道真岡線が運行されています。
 この度合併して誕生した筑西市では、「人と自然、安心して暮らせる共生文化都市」を新市の将来像に置き、県域を越えた北関東連携軸の新たな拠点として、産業や観光・レクリエーション、文化をリードする魅力ある都市圏の形成を目指していきます。

(この項、「」HPより)

駅前。

            

待合室。

             JR水郡線の案内図があります。水戸から郡山まで。今度チャレンジしてみたい路線です。

さて、「真岡(もおか)鐵道に乗り換えて終点の「茂木駅」まで。

         

    

歴史は古く、1912年明治45年)の官設鉄道真岡軽便線(もうかけいべんせん)下館駅 - 真岡駅間の開業に始まる。1920年(大正9年)には茂木駅まで全通した。しかし、地域の流動に合わない線形で、県都宇都宮との連絡鉄道(改正鉄道敷設法別表第37号「栃木県市塙ヨリ宝積寺に至ル鉄道」)も計画されたが実現に至らなかった。なお、最初の着工前には、下館駅でなく、隣の川島駅を起点とし、一部工事も着工がされていたが、災害などで中止され、結局下館起点に変更となった。

国鉄再建法施行により、1984年(昭和59年)に第2次特定地方交通線に指定され、1987年(昭和62年)にJR東日本に承継されたのち、1988年(昭和63年)に真岡鐵道に転換された

(「ジョルダン」より)

                                          (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

※「下館駅」から北上するのが「真岡鐵道」、南下するのが「関東鉄道」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする