おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

ローカル私鉄の旅。その18。関東鉄道+真岡鉄道。その3。

2023-08-13 13:08:15 | ローカル鉄道

圏央道常総JC。

筑波山が見えます。

                鉄塔に重なるように。空が霞んでいるので、よく見えません。残念!

                右手。

目をこらすと住宅の屋根の向こうにお城が見えてきます。

        

かなり高層なお城ですが。「地域交流センター」。

常総市は、茨城県南西部、都心から55キロメートル圏内に位置しており、東西に10キロメートル・南北に20キロメートルの長方形に近い地形で、東に小貝川、西に飯沼川があり、中央を北から南に流れる鬼怒川によって東西に分かれています。

当市の石下地区は、はじめ「イシケ」と呼ばれ、「イシ」は砂河原、「ケ」は作物・食物の意味があり、農耕に適した土地であったことが考えられます。5世紀頃から「伊師毛」と記され、和銅6年(713)に「石毛」に変わり、江戸時代の寛永7年(1630)の検地により「石下」と改められました。

この地域交流センターは、別称を「豊田城」といいます。平安時代末期から戦国時代までこの地方を支配した桓武平氏一族の豊田氏が、東部に流れる小貝川沿いに城館を築き、豊田城(とよだじょう)と呼ばれていたことから命名されたものです。

当時は、このような石垣や天守閣(高さ48.5メートル)ではなく、カヤ葺きの居館造で、小貝川の水を引き込んだ濠や土塁により要塞化したものであったろうと考えられます。

地域交流センターは、1,100人収容のホール及び図書室(1・2階)と地域の歴史を紹介した展示室からなる施設として平成4年に開館し、平成30年にデジタルコンテンツを取り入れた展示施設としてリニューアルオープンしています。

※高さ48.5メートルの展望室からは関東平野を一望でき,天気が良ければ東京スカイツリーも見られます。

(この項、「常総市」HPより)

ラッピングカー。

鹿島臨海鉄道でも見ました。 

筑波山を右手に見ながら。

    

               

下妻駅。     

  下妻市は、茨城県西部の県西地域に位置する市である。旧常陸国真壁郡・筑波郡と千葉県より移管された旧下総国結城郡で構成される。(「Wikipedia」より) 

乗客がけっこう降りていきます。                                      

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ローカル私鉄の旅。その17。関東鉄道+真岡鉄道。その2。

2023-08-12 13:35:12 | ローカル鉄道

住宅や大きな集配センターがあったり、森が続くなど変化が富んだ地域。

              

守屋駅からは、地元の人と会社員と。

     

振り返る。左手には車両基地。   

「水海道(みつかいどう)」駅。

                         

茨城県南西部にあった旧市名(水海道市)。現在は常総市(じょうそうし)の南部を占める地域。・・・

地名の由来は諸説あるが、16世紀ころの文書には「水かへと」とあり、水とのかかわりが深い。鬼怒(きぬ)川と小貝(こかい)川が近接する沖積低地とローム層の洪積台地よりなる。関東鉄道常総線と国道294号、354号が通じる。隣接するつくばみらい市にある常磐(じょうばん)自動車道谷和原インターチェンジが近い。古くから開かれ、古代には平将門(まさかど)の乱があり、中世には下妻城主多賀谷(たがや)氏の勢力が及び、近世は天領や古河(こが)藩領となり、また小貝川の淵頭河岸(ふちがしらかし)、鬼怒川の水海道河岸、三坂(みさか)河岸など水運で栄えた。米や野菜、ナシ、イチゴなどの農業がおもなほか、坂手工業団地、内守谷工業団地の造成で機械、金属工業や食品、紙製品、家具類などの工業も発達した。近年、東京の近郊住宅地化している。

怪談『累ヶ淵(かさねがふち)』で知られる累の墓のある法蔵寺、国指定重要文化財の坂野家住宅、県指定文化財を多く所蔵する大生郷(おおのごう)天満宮などがある。[櫻井明俊](「日本大百科全書(ニッポニカ」より) 

怪談『累ヶ淵(かさねがふち)』と宝蔵寺   

累の物語が最初に知られるのは、元禄3年(1690年)に出版された仮名草子本『死霊解脱物語聞書』である。『聞書』によれば、慶長17年(1612年)から寛文12年(1672年)までの60年にわたって繰り広げられた実話に基づくとされている。

下総国岡田郡羽生村(現在の茨城県常総市羽生町)に、百姓与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦があった。お杉の連れ子である娘・(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。
両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。正保4年8月11日1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。
その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、尽く死んでしまう。6人目の後妻・きよとの間にようやく(きく)という名の娘が生まれた。寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめた。近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。

法蔵寺には累を弔った墓があり、常総市の指定文化財になっている[1]。また、法蔵寺には祐天上人が解脱に用いたという数珠・累曼陀羅・木像なども保存されている

この物語を題材にとり、四代目鶴屋南北作の『色彩間苅豆』(いろもようちょっとかりまめ)をはじめとした累物(かさねもの)と呼ばれる一群の歌舞伎作品がうまれたほか、三遊亭円朝怪談噺真景累ヶ淵』を作り上げた。

(この項、「Wikipedia」より)

この先、ここまでの複線から単線運転になります。

  

      田園地帯が広がる。

右側には筑波山が見えてきます。

                                

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ローカル私鉄の旅。その16。関東鉄道+真岡鉄道。その1。

2023-08-11 13:40:48 | ローカル鉄道

今回は、関東鉄道。JR取手駅から乗り換え、関東鉄道で終点「下館駅」で乗り換え、「真岡鉄道」で終点の茂木駅まで。

2路線に乗りました。

取手駅。

京成グループの企業であり、京成電鉄連結子会社。車体のデザインなどが京成カラー。

     。

              

 

常総線(じょうそうせん)は、茨城県取手市取手駅から同県筑西市下館駅までを結ぶ関東鉄道鉄道路線である。路線名は、沿線が旧常陸国と旧下総国にまたがることに由来する。

概要

関東平野のほぼ中央、利根川水系の鬼怒川にほぼ並行して南北に走る、東京圏の通勤路線としては珍しい全線非電化の路線。水海道駅を境に複線化されている南側は他社線との乗り換えにより東京方面への通勤を担う路線としての性格を持ち、北側の単線区間は田園地帯を走って鬼怒川沿いの集落を結ぶローカル線の性格が強い。

かつては各市街地を除いて沿線のほとんどが田園地帯であったが、1960年代に東洋観光興業造成の住宅街(新取手)が開発されて以降、1970年代 - 1980年代にかけ、常総ニュータウン戸頭、南守谷、新守谷)やパークシティ守谷(戸頭、南守谷)など大規模開発によりベッドタウン化が進んだ。急増した人口に対応すべく、日本住宅公団などから資金分担を得て、全線単線であった路線のうち取手 - 水海道間を1980年代までに複線化している。その結果、非電化私鉄でありながら、17.5 kmに及ぶ複線区間が存在する全国的に見ても珍しい路線となっている。

常総線が全線非電化である理由は、茨城県石岡市に所在する気象庁地磁気観測所との兼ね合いの結果で、かつては地磁気観測に影響を与えない直直デッドセクション方式による直流電化を目指し実験を行ったものの、変電所が多く必要になり費用負担が大きくなることが判明、当面非電化での営業を続けるとしたためである。1990年代以降は高出力の新型気動車を相次いで新造・投入しスピードアップを図っている。2005年にはつくばエクスプレスが開業し、途中の守谷駅も東京方面への乗換駅になるなど環境が変化している。

サイクルトレイン」を実施しており、水海道駅 - 大田郷駅間で9時30分 - 14時30分に乗車する場合に限って、1人1台まで自転車を無料で列車内に積み込むことができる

ICカードPASMO」「Suica」が利用できる。ただし竜ヶ崎線を含め、交通系ICカード全国相互利用サービスは対象外であり、関東地方以外で発売されている「ICOCA」や「SUGOCA」などは使用不可である

鉄道むすめの「寺原ゆめみ」をキャラクターに起用している。名前の由来は寺原駅ゆめみ野駅から。

(この項、「Wikipedia」より)

車内風景。通勤時間帯ではないので、まばら。

市街地を通っていきます。

            

地元の乗降客が多い。

「守屋駅」。駅前広場。

               

つくばエクスプレスとの乗換駅。けっこう大きな駅になってます。乗降客も多い。

上り線には「ろうきん」。

会社員が乗ってきます。

                     通勤時間帯には、込み合いそうです。

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ローカル私鉄の旅。その15。「ひたちなか海浜鉄道・湊線」。その4。

2023-08-09 18:40:48 | ローカル鉄道

再び気動車に乗って、「那珂湊」駅に向かいます。

左手遠くに海が。

那珂湊駅構内。

               かつては名物ネコがいました。

駅前広場。

歩いて10分ほど、漁港に向かいます。けっこう暑い! 歩いている人は、ほとんどいません。

ひたちなか市マンホール。

     「那珂川」に架かる「海門橋」と「朝日」、そして市の花「ハマギク」がデザインされている。下部に那珂湊市章と「おすい」の文字。

              

ひたちなか市内の案内図。  

モニュメント。

那珂湊漁港の沿革

那珂湊漁港は、戦後、遠洋漁業の発展とともに大きく飛躍し、茨城県唯一の遠洋カツオ・マグロ漁業の基地として、県水産業の中心的役割を果たしてきましたが、地元大型船漁業の衰退により、現在では、カツオ一本釣り及びサンマ棒受網船といった他の漁港から入港する廻船と15トン以下の地元小型船による漁業が中心となっています。

漁港整備については、古くは明治23年に、現在の姥の懐に防波堤の築造等を行ったのが始まりといわれています。その後、昭和26年度以降、那珂川河口を利用し、150トン級の漁船が利用可能な河川港として活用されてきましたが、カツオ・マグロ漁船の大型化に対応するため、昭和38年以降は東防波堤などの外港の建設が進められ、昭和63年度に外港がほぼ完成し、沿岸、沖合、遠洋漁業の基地としての機能が整備されました。

しかし、漁港が那珂川と接していることから、那珂川から流入する土砂の堆積により、たびたび漁港の埋没が発生したため、那珂川と漁港との間に土砂流入を防止するための水門が平成2年度に完成しました。

また、平成4年9月、那珂湊漁港を利用する那珂湊漁業協同組合、那珂湊第一漁業協同組合、及び平磯漁港を利用する平磯漁業協同組合が合併したのを受け、平成6年5月に両漁港が那珂湊漁港として統合されました。

那珂湊漁港 各漁法ごとに水揚される主な魚

地元小型漁船

  • 小型機船底曳き網漁業:ヒラメ・カレイ類、アイナメ・ホウボウ等
  • 船曵き網漁業:シラス・シラウオ・コウナゴ等
  • 固定式刺網漁業:イセエビ等
  • 一本釣り漁業:ヒラメ・イナダ・メジマグロ・カツオ等
  • 流し網漁業:スズキ・イナダ・タイ等
  • 採鮑漁業:アワビ・サザエ

廻船

  • 一本釣漁業:カツオ・ビンナガ・メバチ等
  • 棒受網漁業:サンマ

 

                

「おさかな市場」。

お客さんも多く、場内は、たいへん活気があります。   

    

魚などの種類も多く、安くて量も多い。屋台では焼き蛤や牡蠣なども販売。

皆さん、大量に買って、発泡スチロールに入れて持ち帰る。車で来る人が多い理由がわかります。

これから東京まで戻るにはちょっと大変そう。せめて、2階に上がって食事を、と。

どれも新鮮でボリュームあり。

生ビールを飲みながら、

のんびりしていると、那珂湊駅まで戻る時間が! 炎天下の中、最後は速足で。発車2分前に。焦った焦った! 

スマホで撮った映像の中からいくつか紹介。

          

              

       

              

前回乗った「鹿島臨海鉄道」の鉄橋

          水戸駅から大洗を経て、鹿島神宮駅まで。

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ローカル私鉄の旅。その14。「ひたちなか海浜鉄道・湊線」。その3。

2023-08-07 18:40:51 | ローカル鉄道

磯崎駅。

磯崎駅近辺に広がるさつま芋畑のさつま芋と酒列磯崎神社に祀られている少彦名命(すくなひこなのみこと)が描かれています。

茨城県は、干し芋の生産量が全国1位。中でもひたちなか市は、その中心的な生産地です。冬には近くの民家でたくさんの芋を干している風景が観られます。

終着駅「阿字ヶ浦」に到着。

       世界初、車両そのものがご神体の神社。

         ひたちなか海浜鉄道「阿字ヶ浦駅」に祀られた「ひたちなか開運鉄道神社」。

ご神体は「キハ222」という車両。1962年に製造、北海道の羽幌炭鉱鉄道で運用され、廃線となった1971年に湊線へやってきて、その後2015年まで現役で活躍しました。イベント等でご神体がご開帳(車内見学)される事もあるのだそう。

53年間活躍した長寿、そして無事故を貫いた車両。列車には連結器が不可欠だから、ご縁・恋愛に繋がる。沿線には勝田(勝負運)・金上(金運)・殿山(出世運)と縁起の良い駅名。さらに阿字ヶ浦からひたちなか海浜公園までの延伸が決まり大願成就。まさに、どこをとっても神々しい「鉄道神社」なのです!

近くにある温泉、釣り針と海藻、そして茨城県の代表的な鍋食材である、あんこうが描かれています。

阿字ヶ浦海水浴場は遠浅の美しい海岸を持った海水浴場です。約1.5キロの砂浜で、夏には県内外からの海水浴客で賑わいます。
かつては上野から直通の急行「あじがうら号」が走っていました。

ホームは現在3両分しか使われていませんが、長さ(有効長)そのものは7両分あります。これは、かつて上野駅から臨時急行「あじがうら号」が運行されていた名残です。

国営ひたち海浜公園は、遊園地や季節の花々が植えられているエリアがあるなど、人気のスポットです。ネモフィラやコキアが咲く季節やロックフェスティバル開催中には阿字ヶ浦駅からの臨時バス(約10分)をご利用いただけます。

「とれいんパーク阿字ヶ浦駅(キャンピングカー向け車中泊スペース)」設置。

素敵なネーミングにキャラクター。

             

時刻表を確認し、阿字ヶ浦へ。

阿字ヶ浦駅。

海岸に向かう途中、「ほしいも神社」。

                 御利益は「ホシイモノ(欲しいもの)はすべて手に入る」。

二つともなかなかユニークな神社です。

その先を左折して海岸へ。

ひたちなか市のマンホール。

    オレンジ色の消防徽章の中央に市章、上に「防火水槽」下に「ひたちなか市」 の文字が入った円形防火水槽蓋。

        磯崎漁港。

海水浴場。

            

                 北には、常陸那珂港中央埠頭と東海村の工業団地。

阿字ヶ浦温泉のぞみ。

再び駅に戻ります。その途中のお店に、「ひたちなか産干しいも使用 『干しいも焼酎阿字ヶ浦』」という広告。

                

この先もあるし、炎天下に持って歩くのは・・・、諦めました。

通販などで購入できるのかしら。

阿字ヶ浦駅に戻ってきました。短い歩きでしたが、炎天下、けっこう消耗しました。

    <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/fb/727cda99f79053b1baa8b6b317e644f7.jpg">

      この先、少し北、海岸沿いにある「ひたちなか海浜公園」までの延伸が決まっているようです。

那珂湊駅で途中下車し、魚市場に向かう予定。

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