![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/95/e7a027a55a3910a9469e8ee377982e00.jpg)
またこの日がやってきました。
11年前、わたしは広島県に住んでいました。
家族で3人でまだぐっすり眠っていて突然の激しい揺れで目が覚めました。
そのとき、次男を妊娠中で、この年生まれた次男の年がそのまま震災からの年月になっていきます。
テレビや新聞でも、今日のことは年々取り上げ方が小さくなっていきます。
今日のNHKの7時のニュースでも3番目でした。
看護学校の寮で、、半年間同室だった先輩が今でも、神戸に住んでいます。
長い間、年賀状くらいの付き合いになっていました。卒業後二度ほど会ったのですが、先輩に会うと、高校を卒業して初めて親元はなれて始めた寮生活。毎日毎日
寂しくてないていました。先輩に会うと、一気にその頃のなんともいえない気持ちになってしまい涙が止まらなくなります。
きっと今でもそうだろうな~![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyob_uru.gif)
震災が起きてから半年間先輩の安否がわかりませんでした。毎日、新聞の死亡欄や安否情報の掲示板を見て名前が載っていないか見ていました。
偶然古いアドレス帳に先輩の実家の連絡先を見つけて電話をしてみました。
優しそうなお父さんから、震災ですんでいたマンションは倒壊してしばらく、小学校の体育館で避難生活をしていたこと、今は新しいマンションに移って元気にしていることをききました。
すぐに先輩に電話すると、昔から変わらない優しい声。二人ともないて何もしゃべれなくなりました。先輩から話し始めてくれました。
「きょうちゃん、あの日は誰も救助に来てくれなくてね。次の日一番に体育館に来てくれたのは「岡山日赤病院」の車だったんよ。大阪や兵庫でもなく、私が看護学校でお世話になった岡山の文字を見たときすごくうれしかったんよ。と話してくれました。」岡山からは船を使って海から救援に行った病院もあるそうです。
あれから、あちこちで、震災や、台風などの大きな被害が続きました。
去年、神戸の防災センターを訪れました。
「震災は怖いだけじゃない。たくさんのことを教えてくれた。」
とテレビのインタビューに答えている方がいました。
「風に吹かれて」のチャリテーにも「神戸の震災のときにたくさんの人に助けてもらったから」とチャリティーに協力してくれた友達もいました。
震災を経験された方はすごいです。
去年旅行した神戸は10年前ここで大地震があったなんて信じられないくらい復興していました。
震災の年に生まれた子にも、この日が来るたびこの日を忘れないように話をしていきたいと思っています。
写真は、庭に植えたスイセンの花です。
自分で植えてこの時期に咲くということを初めて知りました。
震災後まもなく慰問に訪れられた天皇皇后両陛下。美智子様がご自分で摘んでこられたというスイセンの花束は復興のシンボルとして特殊な加工をして、大切に保管されているそうですね。マンホールや看板など復興と希望のシンボルとしてこのスイセンの絵が神戸の町に描かれているということをテレビできいたことがあります。
防災のことも含め、命の大切さ、普通の暮らしができる事など改めて考え直す日にしたいと思いました。
11年前、わたしは広島県に住んでいました。
家族で3人でまだぐっすり眠っていて突然の激しい揺れで目が覚めました。
そのとき、次男を妊娠中で、この年生まれた次男の年がそのまま震災からの年月になっていきます。
テレビや新聞でも、今日のことは年々取り上げ方が小さくなっていきます。
今日のNHKの7時のニュースでも3番目でした。
看護学校の寮で、、半年間同室だった先輩が今でも、神戸に住んでいます。
長い間、年賀状くらいの付き合いになっていました。卒業後二度ほど会ったのですが、先輩に会うと、高校を卒業して初めて親元はなれて始めた寮生活。毎日毎日
寂しくてないていました。先輩に会うと、一気にその頃のなんともいえない気持ちになってしまい涙が止まらなくなります。
きっと今でもそうだろうな~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyob_uru.gif)
震災が起きてから半年間先輩の安否がわかりませんでした。毎日、新聞の死亡欄や安否情報の掲示板を見て名前が載っていないか見ていました。
偶然古いアドレス帳に先輩の実家の連絡先を見つけて電話をしてみました。
優しそうなお父さんから、震災ですんでいたマンションは倒壊してしばらく、小学校の体育館で避難生活をしていたこと、今は新しいマンションに移って元気にしていることをききました。
すぐに先輩に電話すると、昔から変わらない優しい声。二人ともないて何もしゃべれなくなりました。先輩から話し始めてくれました。
「きょうちゃん、あの日は誰も救助に来てくれなくてね。次の日一番に体育館に来てくれたのは「岡山日赤病院」の車だったんよ。大阪や兵庫でもなく、私が看護学校でお世話になった岡山の文字を見たときすごくうれしかったんよ。と話してくれました。」岡山からは船を使って海から救援に行った病院もあるそうです。
あれから、あちこちで、震災や、台風などの大きな被害が続きました。
去年、神戸の防災センターを訪れました。
「震災は怖いだけじゃない。たくさんのことを教えてくれた。」
とテレビのインタビューに答えている方がいました。
「風に吹かれて」のチャリテーにも「神戸の震災のときにたくさんの人に助けてもらったから」とチャリティーに協力してくれた友達もいました。
震災を経験された方はすごいです。
去年旅行した神戸は10年前ここで大地震があったなんて信じられないくらい復興していました。
震災の年に生まれた子にも、この日が来るたびこの日を忘れないように話をしていきたいと思っています。
写真は、庭に植えたスイセンの花です。
自分で植えてこの時期に咲くということを初めて知りました。
震災後まもなく慰問に訪れられた天皇皇后両陛下。美智子様がご自分で摘んでこられたというスイセンの花束は復興のシンボルとして特殊な加工をして、大切に保管されているそうですね。マンホールや看板など復興と希望のシンボルとしてこのスイセンの絵が神戸の町に描かれているということをテレビできいたことがあります。
防災のことも含め、命の大切さ、普通の暮らしができる事など改めて考え直す日にしたいと思いました。
「ドン!!」と音がしたと思ったら、私と息子はタンスの下敷きになっていました。
幸い観音開きの扉がつっかえ棒になって、つぶされることもなく主人が「火事場のバカ力」で助けてくれました。
でも、部屋中が食器や倒れた冷蔵庫、テレビで歩く場所すら無かったです。
リビングにあった電子レンジが、寝室までとんできたんですよ
主人の枕の横には裁ちばさみが畳に突き刺さっていました
取るものもとりあえず、体育館で過ごした日々・・・
寒かったな~・・
明日のことは誰にもわかりません。
今を精一杯、悔いなく楽しく生きよう!これが私が阪神大震災から学んだことです。
今お元気でこちらでお会いしてるのが奇跡でもあるんだな~って思いました。
私は北海道なのであの日は神戸とかこれからどうなるんだろうって、壊れた住宅や非難されてる中継を見ながらこちら以上に寒いだろうな~って思ったのを覚えています。
今関東にもいつ地震が起きても不思議でない様子で息子がいるのでとっても心配しています。
今家族っていろんな地方に単身赴任や就職や転勤や進学や結婚などで散らばってる家族って多いとおもいます。
地球が戦争や研究であまりいじられないでほしいです。
チケットとれるといいですね。どこかのレスで拝見したので・・応援しています。
ポチさん、ポチさんは被災されていたんですね。電子レンジがそんなに遠くに飛んでいったんですか。怖かったですね。二度と起こってほしくないです。
るっぺさん、息子さんが遠くにおられると心配ですね。
本当にそんな実験はしてほしくないですね。