コブクロドットコム(公式ホームページ)の掲示板にはコブクロ掲示板と、交流掲示板があります。
ほかにその時期によって、ツアー専用とか、ドラマアニメ専用、バースデー掲示板などが付け加えられます。
私は参加ことはないのですが、このドットコムの掲示板ができた頃はひとつしかなく、とても温かな雰囲気のあるものだったそうです。
偶然過去ログみたいにして見られるサイトを見つけて読ませてもらったことがあります。
そこにはみなさん自分のメルアドなども添付されていて、コブクロの二人、美香さん、社長、セッキーさんなども書き込みをよくされていました。きっとレーベルマンさんや100万人のエールさんも(なつかし~面々)
きょうあるファミさんから「きょうちゃんが昨年の夏の終戦記念日に書いた交流掲示板の記事に最近レスしてくださっている人がいるみたいよ」とお知らせが来ました。
え~7か月も前だよ。と思って見てみたら、もう消えてしまう2つ手前のがけっぷちに残っていました。
何とこんな記事今、読んでレスをつけてくださっている方がいたんだとびっくりと感動。
本当に久々にレスをしてきました。
なんか送信方法が若干変わっていて浦島太郎でした。
改めて記事を読み、レスをしてくださった千葉の方のコメントにあったように、今のこの地震津波の被害と戦争の状況は似ているところがあると思いました。
自分の記事ですが、少し紹介を。(もうすぐ消えますから、コピーしてきました。)
2010年終戦記念日の日のコブクロ公式ホームページ交流掲示板の自分のスレより
ある年の新聞社の方の夏の甲子園の抽選会での挨拶の中に終戦記念日にされる正午の一分間の黙祷について話が心に残りました。
「正午の黙祷はただ戦争による犠牲者の冥福を祈るだけではありません。
多くの高校球児の冥福と、今現在この大会が無事行えるようになった『平和の世の中』がずっと続きますようにと祈るため。もあるのです。」と話をされ毎年終戦記念日の正午の甲子園大会の中継を見守っています。
それから私がドットコムを見始めたころ毎年終戦記念日についてどなたか書き込みをされていたこともあり、数年前から終戦記念日の日に甲子園で行われる一分間の黙とうについて書き込みさせてもらっています。
全国高校野球大会は1915年(大正4年)に始まったので本当は今年は確か第97回であるはずなのです。
どうして4回回数が少ないかは、大正時代に第4回大会が米騒動で、昭和16年の第27回大会
の二回は回数 にはカウントされていますが、開催直後途中で中止。第二次世界大戦中の昭和17年から20年の間の4回がは中断になったからだそうです
終戦一年後の昭和21年から現在まで休むことなく開催されています。
甲子園の名物である大きな屋根銀傘。今はアルミ製だそうですが当時は「鉄傘」と呼ぶ鉄でできていた屋根だったそうです。
その銀傘は武器を作るために政府に提出。
グラウンドは食料確保のための芋畑に。
当時あった室内練習用のプールは潜水艦の実験施設として使われたそうです。
そして多くの高校球児(過去に大会に出場した人も含め)が戦争の犠牲になりました。
これからもこの悲しい4回の大会の回数のずれはずっと消えることなく続いていきます
今年の広島の平和記念式典への国連のパンギムンさんの演説感動しました。
「被爆地から平和を呼び掛けていこう。グラウンド0として、いつかこの平和のともしびをともさなくてもよくなる日が来るように・・・。」と。
今年の甲子園開会式のの入場行進の先導は昨年水害により18人の犠牲者と今もなお2名の行方不明の災害にあわれボランティア活動をされた町兵庫県佐用郡佐用町の佐用高校野球部主将でした。
また開幕戦の始球式をしたのは口蹄疫被害を受けた畜産農家の家庭を多く持ち、移動制限により、応援団も観客のいない中、予選闘われた、宮崎県の高鍋農業高校野球部の主将がされました。
大会か「栄冠は君に輝く」は決して優勝校だけに送られる歌ではなく、こうして惜しくも甲子園の土を踏めなかった球児にも贈られる曲だそうです。
この曲は第30回大会を記念して、朝日新聞社が大会かを作ろうということで一般公募し、5000通を超える応募の中で優秀賞に選ばれた方の歌詞に古関裕而さんが、実際に甲子園のマウンドに立たれ、作曲されたものだそうです。
歌詞を書かれた方も昔、野球球児でしたが練習中のけががもとで骨髄炎になり右足を切断され、甲子園への夢が断たれた方だそうです。
昨年は馬場俊英さん、今年は平原綾香さんが、歌われ、毎試合の5回の裏が終わった後のグラウンド整備の時間に流れています。
コブクロにも平和を祈る「この指とまれ!」という歌や、先日今井今井美樹さんと歌われ発売された「太陽のメロディー」という曲があります。
一年にうち今日一日だけは、平和について考える日にしてはどうかなあと今年も書き込みをさせてもらいました。
毎年似たようなことばかり書かせてもらい申し訳ありません。
テレビがみられる、大好きな歌が聴ける、ご飯が食べられる・・何気ない日常こそが平和であり、感謝しなければいかないことだなあと近年思います。
お昼御飯は今年も作ることができたらすいとんを作りたいと思います。作りました)
私にできる小さなことかなあと思い書き込みさせてもらいました。
長文読んでくださってありがとうございました。
以上。
このたびの地震の被害の大きさは今なお大きくなり広がっています。
岡山のスーパーでもお水が棚から 消えていました。
コブクロのライブの会場に何回もなったことのある「さいたまスーパーアリーナ」ここも今臨時の避難所になっているんですね。
またこの夏のツアーで使う予定になっているある会場は遺体安置所になっているそうです。
私が昨年、交流掲示板に書いた記事の中に「テレビがみられる、大好きな歌が聴ける、ご飯が食べられる・・何気ない日常こそが平和であり、感謝しなければいかないことだなあと近年思います。 」
とありますが、本当にそう思います。
子供が学校に行きにくくなったことも経験して、みんなにとっては本当に普通かもしれないけど、学校にひとりで行く。授業を受ける、給食を食べる・・・。そんなことができるようになり本当にありがたいことだなあと心から感じます。
昨日の春の選抜高校野球の選手宣誓は岡山の創志学園の主将でした。
昨日の朝のニュースで前日のリハーサル風景を見たみのもんたさんが「素晴らしい、歴史に残る宣誓だね」と褒めてくださいました。
16年前の阪神淡路大震災の時もこのセンバツ大会は会場が被害にあったにも関わらず急ピッチで修理をして開催されました。
今回の地震は同じ月でした。
それでも開かれました。様々な会議が開かれたことでしょう。
いきものがかりの「ありがとう」と一緒に行進をしたこの大会。私はきっと被害を受けた方々を元気づけてくれると信じています。
ピートシーガーの名曲『一人の手』の中の日本語訳の歌詞にもあるように「一人の小さな手何もできないけど それでもみんなでみんなで集まれば 何かできる 何かできる」
みんなで手を取り合ってこの危機を乗り越えていきましょう。
ほかにその時期によって、ツアー専用とか、ドラマアニメ専用、バースデー掲示板などが付け加えられます。
私は参加ことはないのですが、このドットコムの掲示板ができた頃はひとつしかなく、とても温かな雰囲気のあるものだったそうです。
偶然過去ログみたいにして見られるサイトを見つけて読ませてもらったことがあります。
そこにはみなさん自分のメルアドなども添付されていて、コブクロの二人、美香さん、社長、セッキーさんなども書き込みをよくされていました。きっとレーベルマンさんや100万人のエールさんも(なつかし~面々)
きょうあるファミさんから「きょうちゃんが昨年の夏の終戦記念日に書いた交流掲示板の記事に最近レスしてくださっている人がいるみたいよ」とお知らせが来ました。
え~7か月も前だよ。と思って見てみたら、もう消えてしまう2つ手前のがけっぷちに残っていました。
何とこんな記事今、読んでレスをつけてくださっている方がいたんだとびっくりと感動。
本当に久々にレスをしてきました。
なんか送信方法が若干変わっていて浦島太郎でした。
改めて記事を読み、レスをしてくださった千葉の方のコメントにあったように、今のこの地震津波の被害と戦争の状況は似ているところがあると思いました。
自分の記事ですが、少し紹介を。(もうすぐ消えますから、コピーしてきました。)
2010年終戦記念日の日のコブクロ公式ホームページ交流掲示板の自分のスレより
ある年の新聞社の方の夏の甲子園の抽選会での挨拶の中に終戦記念日にされる正午の一分間の黙祷について話が心に残りました。
「正午の黙祷はただ戦争による犠牲者の冥福を祈るだけではありません。
多くの高校球児の冥福と、今現在この大会が無事行えるようになった『平和の世の中』がずっと続きますようにと祈るため。もあるのです。」と話をされ毎年終戦記念日の正午の甲子園大会の中継を見守っています。
それから私がドットコムを見始めたころ毎年終戦記念日についてどなたか書き込みをされていたこともあり、数年前から終戦記念日の日に甲子園で行われる一分間の黙とうについて書き込みさせてもらっています。
全国高校野球大会は1915年(大正4年)に始まったので本当は今年は確か第97回であるはずなのです。
どうして4回回数が少ないかは、大正時代に第4回大会が米騒動で、昭和16年の第27回大会
の二回は回数 にはカウントされていますが、開催直後途中で中止。第二次世界大戦中の昭和17年から20年の間の4回がは中断になったからだそうです
終戦一年後の昭和21年から現在まで休むことなく開催されています。
甲子園の名物である大きな屋根銀傘。今はアルミ製だそうですが当時は「鉄傘」と呼ぶ鉄でできていた屋根だったそうです。
その銀傘は武器を作るために政府に提出。
グラウンドは食料確保のための芋畑に。
当時あった室内練習用のプールは潜水艦の実験施設として使われたそうです。
そして多くの高校球児(過去に大会に出場した人も含め)が戦争の犠牲になりました。
これからもこの悲しい4回の大会の回数のずれはずっと消えることなく続いていきます
今年の広島の平和記念式典への国連のパンギムンさんの演説感動しました。
「被爆地から平和を呼び掛けていこう。グラウンド0として、いつかこの平和のともしびをともさなくてもよくなる日が来るように・・・。」と。
今年の甲子園開会式のの入場行進の先導は昨年水害により18人の犠牲者と今もなお2名の行方不明の災害にあわれボランティア活動をされた町兵庫県佐用郡佐用町の佐用高校野球部主将でした。
また開幕戦の始球式をしたのは口蹄疫被害を受けた畜産農家の家庭を多く持ち、移動制限により、応援団も観客のいない中、予選闘われた、宮崎県の高鍋農業高校野球部の主将がされました。
大会か「栄冠は君に輝く」は決して優勝校だけに送られる歌ではなく、こうして惜しくも甲子園の土を踏めなかった球児にも贈られる曲だそうです。
この曲は第30回大会を記念して、朝日新聞社が大会かを作ろうということで一般公募し、5000通を超える応募の中で優秀賞に選ばれた方の歌詞に古関裕而さんが、実際に甲子園のマウンドに立たれ、作曲されたものだそうです。
歌詞を書かれた方も昔、野球球児でしたが練習中のけががもとで骨髄炎になり右足を切断され、甲子園への夢が断たれた方だそうです。
昨年は馬場俊英さん、今年は平原綾香さんが、歌われ、毎試合の5回の裏が終わった後のグラウンド整備の時間に流れています。
コブクロにも平和を祈る「この指とまれ!」という歌や、先日今井今井美樹さんと歌われ発売された「太陽のメロディー」という曲があります。
一年にうち今日一日だけは、平和について考える日にしてはどうかなあと今年も書き込みをさせてもらいました。
毎年似たようなことばかり書かせてもらい申し訳ありません。
テレビがみられる、大好きな歌が聴ける、ご飯が食べられる・・何気ない日常こそが平和であり、感謝しなければいかないことだなあと近年思います。
お昼御飯は今年も作ることができたらすいとんを作りたいと思います。作りました)
私にできる小さなことかなあと思い書き込みさせてもらいました。
長文読んでくださってありがとうございました。
以上。
このたびの地震の被害の大きさは今なお大きくなり広がっています。
岡山のスーパーでもお水が棚から 消えていました。
コブクロのライブの会場に何回もなったことのある「さいたまスーパーアリーナ」ここも今臨時の避難所になっているんですね。
またこの夏のツアーで使う予定になっているある会場は遺体安置所になっているそうです。
私が昨年、交流掲示板に書いた記事の中に「テレビがみられる、大好きな歌が聴ける、ご飯が食べられる・・何気ない日常こそが平和であり、感謝しなければいかないことだなあと近年思います。 」
とありますが、本当にそう思います。
子供が学校に行きにくくなったことも経験して、みんなにとっては本当に普通かもしれないけど、学校にひとりで行く。授業を受ける、給食を食べる・・・。そんなことができるようになり本当にありがたいことだなあと心から感じます。
昨日の春の選抜高校野球の選手宣誓は岡山の創志学園の主将でした。
昨日の朝のニュースで前日のリハーサル風景を見たみのもんたさんが「素晴らしい、歴史に残る宣誓だね」と褒めてくださいました。
16年前の阪神淡路大震災の時もこのセンバツ大会は会場が被害にあったにも関わらず急ピッチで修理をして開催されました。
今回の地震は同じ月でした。
それでも開かれました。様々な会議が開かれたことでしょう。
いきものがかりの「ありがとう」と一緒に行進をしたこの大会。私はきっと被害を受けた方々を元気づけてくれると信じています。
ピートシーガーの名曲『一人の手』の中の日本語訳の歌詞にもあるように「一人の小さな手何もできないけど それでもみんなでみんなで集まれば 何かできる 何かできる」
みんなで手を取り合ってこの危機を乗り越えていきましょう。
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