もう24年くらい前になります。
看護学校の三年の時に一つしたの後輩が19歳でなくなりました。
今日はY子ちゃんのことを書かせてください。
Y子ちゃんはとってもかわいい、元気な子でした。
その前の年に行った閑谷(しずたに)学校での宿泊研修。
写真係を何人かの人でやりました。
行きのバスは一緒でY子ちゃんはマイクが回って来ると楽しそうに『巡恋歌』をうたいました。
写真係の仕分けの時、なかなかみんながやってくれなくて。。。『私一人でやるから』と怒って部屋に帰ると、夜中に『先輩、さっきはすみませんでした。』って悪くもないのに一人で謝りに来てくれた。
彼女が二年生になった5月、事故で二年生の子が二人も亡くなりました。
そんな5月。Y子ちゃんは最近胃が痛むということで先輩に勧められ、内科を受診しました。
即入院。
ちょっとふっくらしていたのにみるみるやせて。
髪の毛は成人式には着物を着るからと長く伸ばしていました。
夏休み前、病院の外の廊下を散歩する妊婦さんがみえました。
とおもったらY子ちゃんでした。
『肝機能が落ちて腹水がたまっちゃって、こんなマタニティーウエアしか着れないんです。』
その頃、看護学校の先生から私を含め数人呼ばれ『実はY子ちゃんは胃癌なのよ。』と報告を受けました。
夜中に病名を知っている子で集まって話すところがないから廊下の角で『これからどうなるんだろう』と話をしたものです。
夏休み前看護学校の先生が全員病院とけんかして辞めてしまいました。
次の日から看護学校には昨日まで実習で厳しくされた看護婦さんたちが先生でやってきました。
もうむちゃくちゃです。私たちは新しい先生をなかなか受け入れることができませんでした。
夏休みが明け、9月1日。Y子ちゃんは朝から石鹸で手を丁寧に洗い、「新学期で戻って来たみんなと握手するんだ。」と張り切っていたそうです。
しかし、実際数人の同級生と面会したあと『婦長さん、もう疲れてみんなに会えんから、面会謝絶にしてください。』と言ったそうです。
一学期中には早く元気になりたいと入院中の先輩ナースさんの清拭(せいしき)や注射のやり方を、見舞いにいくと目を輝かせて、教えてくれていました。
9月18日の夕方、私は内科病棟で実習を終えて帰りかけていました。
『内科の○○先生、大至急○病棟までおいでください。』と館内放送がかかりました。
当時はポケベルさえなかったですから、「大至急」の呼び出しは受け持ち患者さんの急変を意味します。
『きっとY子ちゃんだ。』猛ダッシュすると彼女の病名を知っている全員が駆け付けていました。
意識はなく血圧が下がっていました。
心電図がたびたびフラットになってきました。
延命措置は行わず、みんなで手足をさすりました。
同じ病棟に入院中の彼女のお父様(大腸がんで入院)が車椅子に乗せられて病室に入ってこられガーゼに水を含ませ、[末期の水]を飲ませられました。
『○○時○○分ご臨終です』
主治医から告げられました。一人っ子でした。
仲のよかった同級生の子が二人残り、体をきれいに拭いてあげました。
病室の外には主治医の声が聞こえてきました。『ようがんばったな。お腹のお水がたくさんたまっているから抜いてあげような』
先生は泣きながら腹水を抜いてくれました。
何リットルも腹水がたまっていたそうです。
肝臓にも転移していたのでしょう。
夜、副院長兼副校長が寮の食堂にカルテをもってY子ちゃんの経過が説明されました。
看護学校らしく、詳しく絵を書いて説明されました。
『スキルス性胃癌』と黒板に書かれました。
若さが手伝って癌の進行は非常に早かったこと。彼女は看護学生らしく、『何の検査ですか。それは何のくすりですか?』
と度々質問していたそうです。
勉強のできる子だったから、きっと自分の病名は分かっていたのではないか、ということでした。
最近は痛みが激しくなりモルヒネも使っていたことも。
説明が終わり、彼女は霊安室に運ばれました。
新しく教務長になった元O看護部長さんは、わざわざストレッチャーを遠回りさせ、霊安室とは一番遠い、看護学校、寮を見せながら『かえりたかったよなあ』と声を掛けながら連れて来てくれました。
その時、私たちはまだ新しい先生方を受け入れることができていませんでした。
反抗ばかりしていました。
彼女を乗せて、空いたストレッチャーを一人そっとO教務長先生が病院に戻してくれました。「本当はありがとう」といいたかったのにすみませんでした。数年前その先生も胃がんで亡くなったそうです。
みんな一人一人お別れをしました。
棺には成人式で着物が着られなかったので、同級生のこが画用紙に振り袖を着たY子ちゃんを書いて納められました。私はその絵を描いた子と同室だったので夜中がんばって書いている横にいました。
Yちゃんは痛みから少しでも救われるようにと、前教務長の勧めで病室で洗礼を受けていました。
だからもう一度教会でのお別れの会があり、みんなで賛美歌を歌いました。
あれから20数年、毎年9月18日が来ると彼女のことを思い出します。
読んでくれた方の心のどこかにこんなY子ちゃんという子がいたことを知っていただければ。と思って書かせてもらいました。
お母さんが後に寮の玄関に飾って実習に行く前に身なりをきちんとするのに使ってくださいと壁掛けの鏡をプレゼントしてくれました。今でもあるのかなあ・・・。
彼女がなくなって数か月後仕事でカルテが保管してある病歴室でY子ちゃんのカルテに出会いました。
わずか4か月の入院だったのにカルテは分厚くなっていました。
最後の方は下痢と痛みのため、痛み止めの処置の看護記録が凄まじい頻繁さで綴られていました。
「Y子ちゃん。今、私はあなたの倍以上生き、結婚して、子供に恵まれ、コブクロに出会い、幸せな日を送っています。
最近は世の中嫌なことばかり起こるけど、あなたがみれなかったことや経験できなかったことを、やらせてもらおうと思います。
天国であったら『だれですか?』と言われないよう、頑張るね。ダイエットもしないとね。」
秋の夕方はつるべ落としのようにくれるのが早いといいますが、やっぱりあの日もあっという間に日が暮れたのをふと思い出します。
読んでくださっってありがとうございました。
写真はコンクリートと煉瓦の狭い間から芽を出したくましく咲いている我が家のど根性朝顔です。
看護学校の三年の時に一つしたの後輩が19歳でなくなりました。
今日はY子ちゃんのことを書かせてください。
Y子ちゃんはとってもかわいい、元気な子でした。
その前の年に行った閑谷(しずたに)学校での宿泊研修。
写真係を何人かの人でやりました。
行きのバスは一緒でY子ちゃんはマイクが回って来ると楽しそうに『巡恋歌』をうたいました。
写真係の仕分けの時、なかなかみんながやってくれなくて。。。『私一人でやるから』と怒って部屋に帰ると、夜中に『先輩、さっきはすみませんでした。』って悪くもないのに一人で謝りに来てくれた。
彼女が二年生になった5月、事故で二年生の子が二人も亡くなりました。
そんな5月。Y子ちゃんは最近胃が痛むということで先輩に勧められ、内科を受診しました。
即入院。
ちょっとふっくらしていたのにみるみるやせて。
髪の毛は成人式には着物を着るからと長く伸ばしていました。
夏休み前、病院の外の廊下を散歩する妊婦さんがみえました。
とおもったらY子ちゃんでした。
『肝機能が落ちて腹水がたまっちゃって、こんなマタニティーウエアしか着れないんです。』
その頃、看護学校の先生から私を含め数人呼ばれ『実はY子ちゃんは胃癌なのよ。』と報告を受けました。
夜中に病名を知っている子で集まって話すところがないから廊下の角で『これからどうなるんだろう』と話をしたものです。
夏休み前看護学校の先生が全員病院とけんかして辞めてしまいました。
次の日から看護学校には昨日まで実習で厳しくされた看護婦さんたちが先生でやってきました。
もうむちゃくちゃです。私たちは新しい先生をなかなか受け入れることができませんでした。
夏休みが明け、9月1日。Y子ちゃんは朝から石鹸で手を丁寧に洗い、「新学期で戻って来たみんなと握手するんだ。」と張り切っていたそうです。
しかし、実際数人の同級生と面会したあと『婦長さん、もう疲れてみんなに会えんから、面会謝絶にしてください。』と言ったそうです。
一学期中には早く元気になりたいと入院中の先輩ナースさんの清拭(せいしき)や注射のやり方を、見舞いにいくと目を輝かせて、教えてくれていました。
9月18日の夕方、私は内科病棟で実習を終えて帰りかけていました。
『内科の○○先生、大至急○病棟までおいでください。』と館内放送がかかりました。
当時はポケベルさえなかったですから、「大至急」の呼び出しは受け持ち患者さんの急変を意味します。
『きっとY子ちゃんだ。』猛ダッシュすると彼女の病名を知っている全員が駆け付けていました。
意識はなく血圧が下がっていました。
心電図がたびたびフラットになってきました。
延命措置は行わず、みんなで手足をさすりました。
同じ病棟に入院中の彼女のお父様(大腸がんで入院)が車椅子に乗せられて病室に入ってこられガーゼに水を含ませ、[末期の水]を飲ませられました。
『○○時○○分ご臨終です』
主治医から告げられました。一人っ子でした。
仲のよかった同級生の子が二人残り、体をきれいに拭いてあげました。
病室の外には主治医の声が聞こえてきました。『ようがんばったな。お腹のお水がたくさんたまっているから抜いてあげような』
先生は泣きながら腹水を抜いてくれました。
何リットルも腹水がたまっていたそうです。
肝臓にも転移していたのでしょう。
夜、副院長兼副校長が寮の食堂にカルテをもってY子ちゃんの経過が説明されました。
看護学校らしく、詳しく絵を書いて説明されました。
『スキルス性胃癌』と黒板に書かれました。
若さが手伝って癌の進行は非常に早かったこと。彼女は看護学生らしく、『何の検査ですか。それは何のくすりですか?』
と度々質問していたそうです。
勉強のできる子だったから、きっと自分の病名は分かっていたのではないか、ということでした。
最近は痛みが激しくなりモルヒネも使っていたことも。
説明が終わり、彼女は霊安室に運ばれました。
新しく教務長になった元O看護部長さんは、わざわざストレッチャーを遠回りさせ、霊安室とは一番遠い、看護学校、寮を見せながら『かえりたかったよなあ』と声を掛けながら連れて来てくれました。
その時、私たちはまだ新しい先生方を受け入れることができていませんでした。
反抗ばかりしていました。
彼女を乗せて、空いたストレッチャーを一人そっとO教務長先生が病院に戻してくれました。「本当はありがとう」といいたかったのにすみませんでした。数年前その先生も胃がんで亡くなったそうです。
みんな一人一人お別れをしました。
棺には成人式で着物が着られなかったので、同級生のこが画用紙に振り袖を着たY子ちゃんを書いて納められました。私はその絵を描いた子と同室だったので夜中がんばって書いている横にいました。
Yちゃんは痛みから少しでも救われるようにと、前教務長の勧めで病室で洗礼を受けていました。
だからもう一度教会でのお別れの会があり、みんなで賛美歌を歌いました。
あれから20数年、毎年9月18日が来ると彼女のことを思い出します。
読んでくれた方の心のどこかにこんなY子ちゃんという子がいたことを知っていただければ。と思って書かせてもらいました。
お母さんが後に寮の玄関に飾って実習に行く前に身なりをきちんとするのに使ってくださいと壁掛けの鏡をプレゼントしてくれました。今でもあるのかなあ・・・。
彼女がなくなって数か月後仕事でカルテが保管してある病歴室でY子ちゃんのカルテに出会いました。
わずか4か月の入院だったのにカルテは分厚くなっていました。
最後の方は下痢と痛みのため、痛み止めの処置の看護記録が凄まじい頻繁さで綴られていました。
「Y子ちゃん。今、私はあなたの倍以上生き、結婚して、子供に恵まれ、コブクロに出会い、幸せな日を送っています。
最近は世の中嫌なことばかり起こるけど、あなたがみれなかったことや経験できなかったことを、やらせてもらおうと思います。
天国であったら『だれですか?』と言われないよう、頑張るね。ダイエットもしないとね。」
秋の夕方はつるべ落としのようにくれるのが早いといいますが、やっぱりあの日もあっという間に日が暮れたのをふと思い出します。
読んでくださっってありがとうございました。
写真はコンクリートと煉瓦の狭い間から芽を出したくましく咲いている我が家のど根性朝顔です。
何だか小説を読んでるように私の中で看護学校での様子を巡らしています。
同じ病棟にお父さんが入院されていて娘の最期を看取るなんてどれだけ淋しく悲しかった事でしょう。
19歳のY子ちゃんには「親より先に」って事を感じる余裕があったかは分りませんが、親となった私達にとって「自分より先に子供が」なんて思っただけで涙が出ますね。
最大の悲しみですね。
きょうちゃんはY子ちゃんの分も充分頑張って生きてると思います。
あたしも7年前癌で亡くなった親友のことときどきおもいだしとん。
目の優しい子でした。
こうやって優子ちゃんの事を覚えていることを書かせていただいて、また思い出す風景もあり、書かせてもらってよかったと思いました。
るっぺさん、ありがとうございます。
看護学校の思い出一緒に見てくれてありがとうございました。
あさんてさん、今年、義理の妹さんが、なくなられたんでしたよね。
こうして、コメントもらって本当にうれしいです。ありがとうございました。
.comできょうちゃんが書く文章に惹かれ、きょうちゃんに近づきたいと思いながらもう4年・・
全然近づけてはいませんが・・・
19歳で亡くなったY子さんのお話は涙が溢れました。
でも、24年経ってもきょうちゃんがそこまで鮮明に覚えていてくれるのって・・
きっとY子さんも喜んでおられると思いますよ
私にも10代で亡くなった友人が何人かいますが
最近はすっかり忘れていました
きょうちゃんのおかげで昔の思い出も思い出してるところです
るいるいさんにも若い時になくなったお友達がいらっしゃるんですね。
優子ちゃんの思い出をかかせてもらい、なんかよかったです。