光が私を照らしても必ず影はできる 2022-12-09 07:17:46 | 日記 この世は無常。事物から発せられる無常的哀愁に誘われて、私の心にも無常的哀愁が沸き起こる。事物と人々は無常な存在同士だから、哀愁は共鳴し合うのです。るるにとって強く、明るく、逞しくなどといったもんは、真心ではなく虚飾し、ふりに満ちた心なのかもしれない。しょせん心のコントロールは、本性ではないのだということで、自分を誤魔化している。ただ、無常的哀愁を持っていながらも、何とかやって生きていれば、感謝はわくなあ。。どこまでも辛い境地が心地よい。
快でも不快でもない感覚 2022-12-07 17:26:53 | 日記 ■有為(うい)法人間の意識内容は、一刹那に生成⇔消滅という変化を繰り返しています。これが【有為(うい)】という法則です。人間は物質であり精神です。物質である肉体も、生成消滅変化しています。なぜ変化するかというと、人間は5つの働きが、因縁関係にによって、仮に和合しているだけだからです。5つの働きを五蘊といいます。■五蘊の5つの働き★【色】→肉体(細胞は絶えず変化し、やがて肉体自体は消滅する)★【受】→「快」・「不快」・「快でも不快でもない」この3つの感じだけを感受する(対象、時や場合によって絶えず変化する)★【想】→認識(概念)が固まる(〇〇さんを見たら〇〇さんだと、概念は固まる。私は私だと概念は固まる)★【行】→傾向性へ行く(癖)〇〇さんは神経質だなあ△△さんはおおらかだなあ仕事は大変なものだという思いこみ癖によるレッテル貼り★識→区別、比較して知る〇〇さんは神経質で、側にいると落ち着かないから苦手だ(神経質でない△△さんの側は安心できるなあ、と比較して知る)このように人間は、五蘊が仮に合わさって造られる無常な現象なのです。■まず受視覚→目に縁した対象を受けたら快?不快?快でも不快でもない?聴覚→耳に縁した音を受けたら嗅覚→鼻に縁した香を受けたら味覚→口に縁した味を受けたら触覚→肌に縁した対象を受けたら法→法則に縁した心を受けたら■法は法則心には固まった概念や比較と、自在な仏性があるけれど、心の状態次第で、「快」か「不快」か「快でも不快でもない」かの結果が顕れる仏性は快でも不快でもないという中道である↓■無為(むい)さまざまな因縁によって造られたものではなく、生成⇔消滅という変化を離れた常住絶対世界
心の停止は難しいのか? 2022-12-06 13:37:04 | 日記 人は無意識に「心を相続しながら」生きています。心自体は不動だけど、因縁によって動き相続されます。因縁は「因→直接原因」と「縁→間接原因」が組み合わされ生成したり、消滅します。相続された只今の心=過去から相続された心+(今の生成因縁-今の消滅因縁)-忘却部分【消滅と忘却は違うと思う。忘却された思いは潜在意識に貯蔵され、消滅は貯蔵されず浄化する、、】因縁は心の動力ですが、心は不動である方が苦楽に翻弄されることなくいられそうなものなのに、なぜ心の相続をするのが生きる意味なんでしょうかね?最終目的は相続消滅、因縁消滅なのでしょう。つまり生きる意味にとらわれずに、生死にとらわれずに、因縁にとらわれずに、心にとらわれずに、生きる。それが悟りであり、解脱、解放、なんでしょう。悟りとなると、心の停止は困難に思えますが、本当に困難なんでしょうか?
暗闇の表現者 2022-12-06 12:55:23 | 日記 自己表現自己表現にはいろんな種類がある。自己表現は心根の明るい人だけのものではない。自己表現は芸術、プレゼン能力に限るものではない。自己表現は日常生活、コミュニケーション、立ち居振舞、仕事の取り組みなどの1つ1つに、自己の本心を込めていくこと。華やかで明るくもない、暗闇な思いも、日常生活の中に込めて表現すると、暗闇にいる誰かは安心するでしょう。るるはそうでした。暗闇でもいいんだと、暗闇の表現者から光明を見たものです。
間違っても、私は間違えてしまう「あはれな自分」がいとおしい 2022-12-06 12:41:57 | 日記 ■心とは肉体を維持するための欲求(承認欲求含む)が根底となり、感情を(快・不快)生み、あれこれ思うもの。「心の声に従う」とは、自分の肉体を維持するための欲求に従うこと。■魂心を超越したやつ自我を越えた何か力の源自分の肉体を維持するためだけの欲求ではない。■魂の声に従う」とは「私はもう私という個人として生きる理由がなくなったと感じるのです。自分の幸せへの関心は薄く、自分を幸せにすることに飽き、周りを幸せにすることに関心が向いている。。あなたはまだ正しく生きようとしているの?認めてほしいの?きっとあなたは自信がなくて、正しさにすがっているんだ。私はもう、自分の心の声に従うことには飽きましたので、そろそろ魂の声に従います。たとえ間違っていると批判されたとしても、私はこの間違い方が好きなんだ。批判者側には優越感を感じてもらえるし。絶対的な正しさなんて存在しないんだし。みんなが言うほど、思うほど、私はやさしくも、正しくもないけれど、そんなあはれな自分がいとおしく思えてなりません。」