18日(火)鳥取県八橋町 ・ 琴浦町を、シルバー講座で
ウォーキングに行って来ました。
天気は、我家を出る時はパラパラと雨が落ちていましたが、
あとはずーっと曇天のままで、雨は全く降りませんでした、
9時20分にマイクロバスで安来市役所駐車場を出発
バスは一路 鳥取県
八橋町へ ドンドン ひた走り
とは、うまく行かず 途中名和の道の駅 「大山恵みの里」 で
トイレ休憩をしてから、全員が乗車
確認 ヨシ!!
目的地
八橋へ 向けて
再び 発車 ~ オーライ!!
八橋は、古くから因幡街道と八橋往来(八橋ー倉吉間)が
交わる交通の要衝で、八橋城(築城年不明)を、中心に宿駅として栄え、
近世では小泉八雲(ラフガディ オハーン)が夏休みを過ごしたことで有名です。
特に、八雲は八橋をいたく気に入ったようで妻と海水浴や盆踊りを見学して
のんびり過ごしたようです。
八橋城は当初行松氏が支配し、後に尼子経久の伯耆進行(大永4年)あとは
長く尼子の家臣吉田左京亮が城番を勤めました。尼子が滅亡すると、毛利氏は
(永禄8年)杉原盛重を城番に入れ、織田信長の中国攻めの際、織田方の
(東郷町)羽衣石城主南条氏と対峙させましたが、本能寺の変から
豊臣政権成立により、羽衣石城主南条元続氏の支配下となります。
後に
1600年勃発の関ヶ原の軍功で、伯耆を拝領し米子城に入封した中村一忠の
支配になりますが、中村家断絶後1610年からは、2万3千石で八橋城主と
なった市橋長勝の所領となります。1617年からは因幡・伯耆32万石を
領有した池田家(鳥取藩)の所領となり八橋城は廃城、
配下の津田氏が代官として陣屋を構え幕末を迎えることになります。
早々に 休憩 !! ウォーキング・散策のスタート ・ ゴール地点
「JR 八橋の駅」でバスを降車、今日のウォーキングがスタート!!
(この駅は、
「単 線」で陸橋がないから
年寄り・年配者には楽?やさしい駅ですよ)
ここから、現地ガイドさんが同行、 少々マナー説明の後 八橋城へ ~ 津田家墓所 ~
八橋町並み(酒蔵コンサート会場など)と宿(小泉八雲宿泊) ~ 八橋海岸 ~
~ 八橋駅に戻り バスに乗車 ⇒ 昼食会場へ
城山入口 城山頂上
旧体 文字 新体 文字
三代目からの墓所へ(一 ・ 二代は鳥取にあるそうです)
旧検察庁
今は、地域活動拠点・交流スペース
チャンバラ時代の説明
海岸通りを散策
ルート9 沿い赤崎の 「みなと ガーデン」 で、昼食
昼食 会場
休憩後 13時にバス乗車 午後のウォーキング場所へ移動
光(みつ)集落の駐車場でバスを降車(現地ガイドさんがご案内)
鏝絵の町・光を散策 14:40バス乗車 ~ 神崎神社 境内見学(宮司さんが説明)
光 駐車場 ご案内
光地区(みつ地区)は、48軒ほどの集落ですが、その内24軒に
鏝絵(こて絵)が施されており、現在では鏝絵の町として脚光を集めています。
鏝絵は、江戸末期から昭和の初期に庶民の建築文化として、全国的に
流行しましたが、家紋や火状のまじない的ななものが多く、光地区のように
こった鏝絵が密集している例は、大変珍しいと言えます。
光地区では、吉田氏や野口氏といった優れた左官がおり、家内安全、無病息災と
いった家主の願いを形にしたのが、光地区の鏝絵です。
つぎに行ったのが、神崎 神社 (かんざき 神社)
創建はさだかでないが、現存する最古の棟札は元禄15年(1702年)である。
本殿 嘉永6年(1853年) 鳥取藩お抱え宮大工・小倉園三郎等により竣工。
拝殿 明治12年(1879年) 宮大工・小倉平次郎(小倉園三郎の孫)等により竣工。
ご祭神 素戔嗚命 (スサノウノミコト)
「迫力 満点」 の パンフレット画像を借用
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赤崎 道の駅 買い物 トイレ休憩 ~
安来市役所駐車場に16時半頃無事到着
今日のシルバー講座は、八橋界隈と鏝絵の集落・光地区を地元のガイドさんの
ご説明、神社は宮司さんのご説明つきのウォーキングで
詳しく判って良かったですね
みなさん!!「光集落の鏝絵 と 神崎神社の彫り物」素晴らしいです!!
行って見て下さい!! 必見!! スバラシイです!!
神崎神社の
彫り物、日光東照宮には負けますが!!
すばらしいです!!
※ 今回は、画像 配列が見苦 しいかも? ご勘弁くださいね。
では、この辺で失礼 します