水上勉『金閣炎上』 松山愼介
水上勉作品は『湖の琴』を高校生の時に読んだことがある。悲しい物語で救いがなかった記憶がある。映画では『五番町夕霧楼』、『雁の寺』、『飢餓海峡』を見ている。『五番町夕霧楼』の最後の方の場面に、林養賢をモデルにした坊主が出ていたのには気がつかなかった。
『金閣炎上』は、どちらかというとノンフィクションである。水上勉は幼いころお寺に小僧として修行に出され、住職の妻や子供の下着の洗濯をやらされたりして逃げ出したことがある。水上には本来禅宗の僧侶は妻帯すべきでないという思いがある。妻帯するのであれば浄土真宗に行くべきだと考えている。『雁の寺』は禅寺の住職の腐敗をえがいている。住職は酒色におぼれていた。映画は監督川島雄三で、住職役の三島雅夫、妻(愛人?)役の若尾文子、小僧役の木村功も好演であった。これはおそらく自身の体験がもとになっていると思われる。この体験から水上は禅寺の内部事情を知っており、それに批判的であった。
『金閣炎上』は、水上の体験を金閣に火をつけた林養賢に投影し、彼が犯行に及んだ事情を知るべく様々な調査をして書き上げた力作である。この作品には戦争が影を落としている。戦争のために、修行僧が応召、戦死したり、還俗したりしている。この時期、「坊主も神主も霊魂の守りをして遊んでいられる時期でなかった」のである。だが、戦争で人手がたりなかったので、林養賢も弟子入りすることができたのであろう。
閑雅に敗戦を迎えた金閣寺が、九月初めに思わない混乱に巻き込まれた。「東山工作」とよばれ、中国南京政府主席陳公博の亡命生活を引き受けたのである。連合軍に極秘で亡命庇護がなされた。食糧事情が悪かったが三好知事の指示で食糧が調達された、また池の鯉を殺して食ったという。この一行は金閣寺でわが物顔に過ごしマージャンばかりしていた。このとき林養賢はいなかったが話を聞いて「長老はんも、恥ずかしいことを受け負うわはったな」とつぶやいたという。東山商店一行が退山した十月一日には本山で「今上天皇の長寿を祝う読経」が行われた。戦争に負けて、天皇の神秘性がなくなり、天皇も神から人間に降下し、やがて新憲法も発布されようとする時節であったが、寺では相変わらず戦時中の行事を行っていた。
林養賢は大谷大学予科に入学したが、三年生の昭和二十四年になって急に成績が悪くなる。戦争中、金閣寺は拝観収入が少なかったが戦後、収入が増え 五百万円になったという。しかし、慈海師は徒弟に百円しか小遣いをわたさず、その他の生活の面でも吝嗇であった。大学の制服も新しいものを与えず、自分の着古した服を与えた。寺の経営は僧ではない執事、福司(ふうす)に任されていた。林養賢はこのころから金閣寺の拝金主義と、慈海師、寺の経営に対する批判意識が芽生えたのであろう。金閣寺に火をつけたのは 七月二日だが、六月十日には金閣寺裏の板戸の釘を抜いているので、約一カ月前から犯行を計画していたのであろう。この間に、父親の服を売ったり、蔵書を処分したりして五番町の遊郭に登楼している。この蔵書の中にスタンダールの『赤と黒』があっていたというのも興味深い。
林養賢の供述には、収入の多い金閣を支配しながらも、禅僧としてのたてまえを言い、酒を注ぎにこさせて説教する和尚への反感があふれている。このような和尚と金閣寺がいやになったのだろう。住職になれる望みもなくなり、雲水にもなれず還俗もできない彼に残された道は金閣寺を焼くことであった、というのが水上勉の結論である。もちろんこれに吃音と結核という肉体的条件もつけ加えねばならない。「金閣が美の極致だから一人占めしたい、あるいは復讐したかった」という動機を否定しているのは、三島由紀夫の『金閣寺』を意識しているのだろう。
三島由紀夫の『金閣寺』は観念的な作品だと思っていたが、今回読み返してみると、詳細にこの事件のことを調べている。林養賢の成績の低下や、金閣寺の最新式の火災自動警報機のことも書かれている。三島由紀夫は林養賢が最後に金閣を眺めた時の情景を描いている。この四ページにわたる描写は圧巻である。
「……そして美はこれら各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた ! それは濃紺地の紙本に一字一字を的確に金泥で書きしるした納経のように、無明の長夜に金泥で築かれた建築であったが、美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。……」
水上勉の『金閣炎上』はノンフィクションとしては力作であるが、やや形式的という謗りを受けるかもしれないが、文学作品としての三島由紀夫の『金閣寺』も捨てがたいものがある。
2016年2月13日
水上勉作品は『湖の琴』を高校生の時に読んだことがある。悲しい物語で救いがなかった記憶がある。映画では『五番町夕霧楼』、『雁の寺』、『飢餓海峡』を見ている。『五番町夕霧楼』の最後の方の場面に、林養賢をモデルにした坊主が出ていたのには気がつかなかった。
『金閣炎上』は、どちらかというとノンフィクションである。水上勉は幼いころお寺に小僧として修行に出され、住職の妻や子供の下着の洗濯をやらされたりして逃げ出したことがある。水上には本来禅宗の僧侶は妻帯すべきでないという思いがある。妻帯するのであれば浄土真宗に行くべきだと考えている。『雁の寺』は禅寺の住職の腐敗をえがいている。住職は酒色におぼれていた。映画は監督川島雄三で、住職役の三島雅夫、妻(愛人?)役の若尾文子、小僧役の木村功も好演であった。これはおそらく自身の体験がもとになっていると思われる。この体験から水上は禅寺の内部事情を知っており、それに批判的であった。
『金閣炎上』は、水上の体験を金閣に火をつけた林養賢に投影し、彼が犯行に及んだ事情を知るべく様々な調査をして書き上げた力作である。この作品には戦争が影を落としている。戦争のために、修行僧が応召、戦死したり、還俗したりしている。この時期、「坊主も神主も霊魂の守りをして遊んでいられる時期でなかった」のである。だが、戦争で人手がたりなかったので、林養賢も弟子入りすることができたのであろう。
閑雅に敗戦を迎えた金閣寺が、九月初めに思わない混乱に巻き込まれた。「東山工作」とよばれ、中国南京政府主席陳公博の亡命生活を引き受けたのである。連合軍に極秘で亡命庇護がなされた。食糧事情が悪かったが三好知事の指示で食糧が調達された、また池の鯉を殺して食ったという。この一行は金閣寺でわが物顔に過ごしマージャンばかりしていた。このとき林養賢はいなかったが話を聞いて「長老はんも、恥ずかしいことを受け負うわはったな」とつぶやいたという。東山商店一行が退山した十月一日には本山で「今上天皇の長寿を祝う読経」が行われた。戦争に負けて、天皇の神秘性がなくなり、天皇も神から人間に降下し、やがて新憲法も発布されようとする時節であったが、寺では相変わらず戦時中の行事を行っていた。
林養賢は大谷大学予科に入学したが、三年生の昭和二十四年になって急に成績が悪くなる。戦争中、金閣寺は拝観収入が少なかったが戦後、収入が増え 五百万円になったという。しかし、慈海師は徒弟に百円しか小遣いをわたさず、その他の生活の面でも吝嗇であった。大学の制服も新しいものを与えず、自分の着古した服を与えた。寺の経営は僧ではない執事、福司(ふうす)に任されていた。林養賢はこのころから金閣寺の拝金主義と、慈海師、寺の経営に対する批判意識が芽生えたのであろう。金閣寺に火をつけたのは 七月二日だが、六月十日には金閣寺裏の板戸の釘を抜いているので、約一カ月前から犯行を計画していたのであろう。この間に、父親の服を売ったり、蔵書を処分したりして五番町の遊郭に登楼している。この蔵書の中にスタンダールの『赤と黒』があっていたというのも興味深い。
林養賢の供述には、収入の多い金閣を支配しながらも、禅僧としてのたてまえを言い、酒を注ぎにこさせて説教する和尚への反感があふれている。このような和尚と金閣寺がいやになったのだろう。住職になれる望みもなくなり、雲水にもなれず還俗もできない彼に残された道は金閣寺を焼くことであった、というのが水上勉の結論である。もちろんこれに吃音と結核という肉体的条件もつけ加えねばならない。「金閣が美の極致だから一人占めしたい、あるいは復讐したかった」という動機を否定しているのは、三島由紀夫の『金閣寺』を意識しているのだろう。
三島由紀夫の『金閣寺』は観念的な作品だと思っていたが、今回読み返してみると、詳細にこの事件のことを調べている。林養賢の成績の低下や、金閣寺の最新式の火災自動警報機のことも書かれている。三島由紀夫は林養賢が最後に金閣を眺めた時の情景を描いている。この四ページにわたる描写は圧巻である。
「……そして美はこれら各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた ! それは濃紺地の紙本に一字一字を的確に金泥で書きしるした納経のように、無明の長夜に金泥で築かれた建築であったが、美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。……」
水上勉の『金閣炎上』はノンフィクションとしては力作であるが、やや形式的という謗りを受けるかもしれないが、文学作品としての三島由紀夫の『金閣寺』も捨てがたいものがある。
2016年2月13日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます