吾郎の道行き
松山愼介
今日は秋晴れの日曜日である。森沢吾郎は、いつものように、自転車で近くのスーパーに昼ご飯の惣菜を買いに行く。丁度、一年前の今頃、妻が交通事故で亡くなったのである。青信号を自転車で交差点に進入した時に、左折してきた大型トラックの後輪に巻き込まれたのだ。年金も受給でき、悠々自適の生活を妻とすごそうと思っていた矢先の出来事であった。妻は普段は注意深いのだが、たまに何かに気を取られることがあった。この時も左折するトラックを注意せず、何か気にかかることがあったのだろう。ほぼ即死だったそうだが、警察から連絡があって、対面した妻は事故のわりにきれいな顔だった。
台所に立ったこともなかった吾郎は、炊飯器のスイッチを入れた後、昼前にその日の惣菜を買いに行くのが日課となっている。朝はパンで、昼食と夕食の二食分の惣菜を買う。同じスーパーの惣菜だと飽きがくるので、三、四カ所のスーパーを順繰りにまわる。彼はグルメではないので、栄養のバランスを考えて、魚、肉、野菜を求めるが、出来合いのものは味が濃いので、そろそろ自炊も考えているところである。
スーパーに行く途中、地元の高校の前を通ると、大きなスポーツバックを肩にかけた高校生が、三々五々学内に吸い込まれていっている。直感的にラグビー部員で、きっとこの高校のグランドで地区予選が始まっているのだと直感する。彼も自転車で高校の中に入って、駐輪場に自転車を置いてからグランドを見に行く。グランドに出て驚く。なんと試合をしているのは我が母校であった。ライトブルーの地に黄色の太い横線、彼が五十年前に着たジャージーそのものである。彼はそのジャージーを着ている一人一人と握手をしたくなった。同じカラーのジャージーが五十年間も受け継がれていることに感謝を込めて。そのうちに、彼は自分の高校時代を思いだす。
森沢吾郎はなんとなく、地元の進学校に通いはじめた。中学校の成績はそれほど勉強しなくても上位だったので、普通に学区の上位の進学校を受験して合格した。同じ中学校からは三十人受験して二十人が合格した。吾郎は中学では何のクラブにも属さなかった。無意識のうちに高校受験を意識していたのだろう。そのため、中学卒業の頃は特に親しい友達もできず、中学生活にむなしさを感じていた。それで高校に入れば、大学受験まで、三年はあるのだから、思いきって何かクラブ活動をやってみようと考えていた。そんな時、同じクラスの藤木が声をかけてきた。
「森沢君、何かクラブ活動やるのかい?」
「まだ、特に考えていないけど、何かやってみたいとは思ってる」
「俺は、ラグビー部に入ったよ」
「えっ、君、身体小さいのに大丈夫かい」
「大丈夫! 大丈夫! これが結構面白いんだ」
吾郎は藤木とは入学以来、なんとなく気が合い、クラスでは仲の良い方だった。その藤木が身体は小さくひ弱そうなのに、激しいラグビー部に入っているのに少し驚いた。しかし吾郎はクラブ活動をやるのなら、ちまちました文化部ではなく、運動部をやろうと考えていた。そしてまた、やるなら徹底的に激しいクラブに入ろうかなとも考えていた。吾郎の性格はやや極端なところがあり、何か機会があれば、その流れにのってしまうことがよくあった。例えば、悪いとわかっていても、授業中に先生をいじめたり、立ち入り禁止の場所を探検したりしたことがあった。ラグビーについても、あまり知識がなかったが、ただ過激なスポーツだという印象はもっていた。それでこの藤木がやっているなら、自分にもできると思って、ラグビー部に入ることにした。
ラグビーは十五人でやるスポーツなのだが、この進学校では大学受験のために大半の部員は二年生の地区予選が終わった段階で退部する。野球部は地区予選が七月に終わるので、三年生がその時期までやっていても、ギリギリ大学受験に間に合う。ところが、ラグビーの全国大会は冬休みにあるので、地区予選は十月頃までかかるので、そこまでクラブ活動をやっていては、とうてい大学受験に間に合わないのだ。そのために残っている三年生の部員は、キャプテンやリーダー格の二、三人だけとなる。それでラグビー部は十五人集めるのに苦労しているのである。入部したとき、三年生はキャプテンとフォワードリーダーの二人で、二年生は七人だった。それで最低限新入生が六人以上必要とされていた。吾郎が入った時は、新入生は八人いて、全部で十七人となって、なんとかチームを構成できる人数を確保していた。
練習は同じ高校に定時制があるので、五時までとなっていた。三時半ごろから始まるので一時間半くらいの練習だが、取りあえず走ることが主であった。約一時間の試合時間中、走れる体力をつけなければならなかった。準備体操をした後はランニングパスといって、グランドの短い方の端から端まで約五十メートルを三十分くらいかけて、ボールを繋ぎながら何度も往復して走るのだ。最初はゆっくり走り、続いてハーフといって、真ん中ごろからスピードをあげ、最後は最初から全力で走るのだ。吾郎は頭の方が先走っていたから、単純に走ることは好きだった。走っている間は、むかつく教師のことも忘れることができた。
この約三十分のランニングパスが終わると、フォワードとバックスに分かれて練習することになる。新入生はまずフォワードの練習をして、走力が認められれば攻撃をするバックスに入ることになる。フォワードの練習はスクラムが中心となるが、新入生はまだ体力がないので、壁に向って手をついて、膝を九十度に曲げるスクラムの姿勢を保つ練習をする。キックされたボールを受ける練習もするが、後は主にタックルの練習で、身体を軽めにぶつけ合う。
一週間ほど、この一時間半のメニューをこなすと、太腿が張って痛くなるが、それでも走り続けると不思議に痛まなくなってくる。ただ困ったのは、家に帰って夕食をすますと、疲れているのですぐ眠くなってしまうことだ。英語、数学の予習は最低三時間はやらねばならなかった。しかも、大学受験は三年後とゆっくり構えていたのに、数学は一年の一学期から大学入試問題をやらされた。他の新入部員もそんな状態だったのだろう、なんとか入部した新入生も一学期の終わる頃には三人が勉強を理由に退部していた。それでも吾郎は退部することなく頑張った。それには藤木の存在が大きかった。いつもひょうひょうとしている藤木は、勉強もクラブもこなしていた。
「おまえ、勉強は大丈夫か?」と吾郎が話しかけると、
「まあまあだな。高校生活をガリ勉でおくって、いい大学へ入ってもつまらんからな」と、いつものようにひょうひょうと答える。
「それもそうだな。何とかなるか。田沢のやつは、あれだけ体力があって、走るのも速いのにあっさりやめやがったな」
「親がうるさかったらしいよ」
田沢は百八十センチ、七十五キロくらいで、運動神経もよく、走るのも速かった。二人ひと組で競争する時は、彼は吾郎を馬鹿にして「おまえとなら楽勝だな」と言って、余裕を持って走る。吾郎が全力で走っても、途中でついた二、三メートルの差はつまらなかった。ある日、気がついたら彼は練習に出てこなかった。田沢を含めて三人が退部したので、メンバーは十四人になってしまった。
上級生は「クラスに走るのが好きなヤツがいるだろう。どんどん入部させろ」というけれど、吾郎はこの進学校にそんな単純なヤツがいるものかと思いながらも「ハイ!」と返事だけはした。運動部というのは、とにかく大きな声で返事をしておくのに限るのだ。
気がついたら、成績はどんどん下がり、もう後がないくらいの順位になっていた。それでもクラブ全員で十四人なので、吾郎はもはや、やめるタイミングを逃していた。そういう意味では彼は要領が悪いのだ。夏休みになると、一週間の合宿がある。長野県の木崎湖というところで、練習づけになるのだ。夏休みは練習時間が二時間くらいに伸び、しかもカンカン照りの中での練習なのだが、上級生が「そんなチンタラ練習していたら、合宿でバテるぞ!」と一年生に気合を入れ続ける。その頃になると、一年生もいっぱしのラガーマン気取りで、体力もついてきたこともあって、上級生にはいい返事だけして、なんとか力を抜く機会をみつけようとする。そのせめぎ合いだ。最初は、夢中になって走っていた吾郎も雑念がわいてくる。「主将の馬鹿め!」とか、心の中で罵りながら走る。
とうとう合宿が始まった。朝六時半に起きて、体操、そのままグランドへ行く。七時から一時間の練習、これはほとんど走るだけ。ボールを回しながら走るランニングパスが延々と続く。宿舎へ帰ってきて朝食を済ますと、しばらく休憩して十時から十二時まで練習。昼食を済まして、三時から六時まで練習。午後の練習は他の高校もたくさん来ているので合同練習となる。スクラムも普段は人数が少ないので、三人と三人の第一列だけの練習しかできないが、ここでは試合と同じ八人と八人で組むことができる。スクラムは第一列三人、次に四人、しんがりが一人である。吾郎はとりあえず、五番のロックというポジションで、二列目の右から二番目である。第一列の右側二人の腰の間に頭を突っ込んで、肩で第一列の尻を押すという役割である。両手でしっかりと、前二人の腰をサポートするのも大事な役目である。スクラムを組むときは、前列は二、三十センチの距離に近づいて、レフリーの掛け声で、一気にぶつかるようにして組み合う。この時に、如何に有利に組むかが問題で、その組み方で相手にプレッシャーをかけることができる。そのためには首を鍛えるのも重要になる。相手の首が強くてふところまで入られると押すどころではなくなってしまう。
フォワードはボールを獲得して、バックスに回す、バックスはそれで攻撃ができる。もちろん敵ボールのときは、バックスもフォワードも防御になる。走っている敵をタックルで倒してボールの争奪戦になる。
合宿の終わりごろになると、試合形式の練習となる。吾郎の高校は十四人だったので、相手の高校から一人借りての練習となる。始めての試合であった。最初のキックオフでいきなり吾郎のところへ、ボールが蹴り込まれた。がっちりキャッチしたが、タックルをまともにくらった。五メートルくらい吹っ飛ばされるが、練習通りきちんと半身の姿勢を取っていたので、痛みは感じない。味方のフォワードが集まって、バックスにボールを回す。相手チームはタックルがあまりにも見事に吾郎にヒットしたので、ボールを獲得できると思ったのか守備が手薄になっていた。ところが吾郎がタックルされながらも、ボールをきちんと確保して意外に早くバックスに回したので、こちらのバックスの展開力がまさり相手のスキをついたので、意外と簡単にトライが取れた。結果的に試合は総合力にまさる相手チームの勝ちになったが、吾郎は一応、試合というものを経験できたのだった。
合宿の最終日は練習は午前だけで、昼から帰りの汽車までの一時間程の間、コーチの教師から、木崎湖で遊んでいいということになった。合宿が終わったという解放感で一年生はボートを借りて、一気に力まかせにこぎ出した。ところが、この木崎湖は意外に広く、気がつくと船着き場からあまりにも遠くまで行ってしまった。帰ろうと全力で船着き場に向かったが集合時間に三十分ほど遅れてしまった。予定していた汽車に間に合わなくなって、上級生とコーチの教師はおかんむりだったが、そんなエピソードもはさみながらも吾郎達、一年生も合宿を乗りきったことでラグビーをやっていく自信のようなものを持つことができた。
ラグビーは激しいスポーツであって、それはそれでいいのだが困るのは怪我である。例えばスクラムが崩れることがよくある。ところが両手は、前列の腰をつかんでいるのだから、顔から地面に落ちることになる。そのために顔にすり傷がたえなかった。また吾郎は試合中に手をスパイクで踏まれたことがあった。ラグビーはスクラムで押し合うのだから、滑らないように靴にスパイクが打ってあるのだ。このスパイクシューズで、手の爪を踏まれ、爪が剥がれたこともあった。
秋になって全国大会の地区予選が始まった。我が校の目標はまず一勝、できれば二つ勝つことであった。藤木はフォワードで第一列の真ん中だった。スクラムにはハーフがボールを入れるのだが、藤木はフッカーといって、ボールを右足でかいて、味方の後方へ送ってバックスへボールを回す起点となる役割であった。十四人で部員が一人足りなかったので、サッカー部に応援を頼んだ。足の速いサッカー部の一人がバックスに入ってくれた。この試合で藤木がトライを決めた。藤木は器用なところがあって、ポジショニングがよかった。偶然かも知れなかったが、こぼれたボールがスッポリ藤木の胸に入った。前に敵は誰もいなかった。藤木は三十メートルほど走りきって、新入生、初のトライを決めた。応援のサッカー部員も頑張ってくれて、予選第一試合は五点の差で勝つことができた。
予選第二試合は翌週の日曜日で、同じサッカー部員に応援を頼んだ。確か前半の終わり頃だったと思う。スクラムになって、組み合ったときに、吾郎の前で、グキッという鈍い音が聞こえた。スクラムを解消してみると、藤木が泡をふいて倒れていた。スクラムの組み合うタイミンがずれて、首を痛めたようだった。早速、救急車が呼ばれ、藤木は運ばれていった。十四人で試合を続行することも可能だったが、部員の動揺が激しかったのでコーチの教師はその時点で、試合を放棄し敗北となった。
藤木は頚椎を骨折しており、下半身不随となった。この地区予選の終了で吾郎は退部した。半年間のラグビー部生活だった。事故にあったのは藤木だったが、吾郎が第二列にはいったのも、藤木が第一列にはったのも偶然であった。吾郎が頚椎を骨折する可能性もあったのだし、ラグビー部に入ったのも藤木に誘われたからだった。藤木のこの事故は、新聞の地方版にものり親の知るところとなった。母親から「あんたも下半身不随になったり、頭を打って馬鹿になったりしたらどうするんだよ」と泣きつかれて、吾郎は退部せざるを得なかった。
高校生活の間、吾郎は何回も藤木の家へ行った。藤木は首を固定してベッドで本を読んでいることが多かった。藤木の家では、庭の真ん中にプレハブを建て藤木の部屋にしていた。藤木のひょうひょうとした語り口は相変わらずだった。
「なーに、ちょっとしたミスさ。スクラムを組むタイミングが一瞬遅れたんだ。まあやってしまったことは仕方ないさ。ただ、このベッドでの生活が一生続くとなると、嫌になるがな……」
吾郎は、藤木の眼に一瞬涙が浮かんだのに気がついた。
「そうだな。まあベッドでも勉強はできるよ」と、慰めたが、慰めの言葉になったかどうかは、わからなかった。吾郎は卒業が近づくにつれ、受験勉強に追われて、自然と、藤木の家へ行く回数は減っていった。吾郎はラグビー部をやめてから、とりあえず受験勉強もしたので、下から数えた方が早かった成績も、真ん中くらいになった。その成績と、いちいち構ってくる母親がうっとうしくて地方国立大学をめざした。地方に行けば藤木と顔を合わす回数が少なくてもよくなるという考えもあったかも知れない。大学を四年で卒業し、就職して東京に住むようになると、それを機会に藤木の家を訪問することはやめた。相変わらず、ベッドでの生活になっている藤木を見るのがただつらくなってしまったのである。
吾郎はラグビーの試合をしている若者たちをみて、自分の高校時代を思い出していた。しかしあのクラブ活動と受験勉強というのは何だったのだろう。藤木はラグビーで寝たきりになり、吾郎は会社員として普通に働いた。丁度、いわゆる経済の高度成長の時代と重なったため、残業はあったが、それほど頑張らなくても業績は右肩上がりだった。給料も毎年少しずつであったが上がっていった。家も買うことができたし、内心、馬鹿にしていた年金もきちんと払い続けたので、定年後は年金だけで生活ができるようだ。丈夫だった妻が自分より先に死んだという計算外の出来事はあったが、生活は安定していた。
今、青春を謳歌している若者たち、一人一人に吾郎は声をかけたくなってくる。クラブ活動も、受験勉強もいいだろう。だがそれは人生の一部でしかない。それは経過するものであって、目的ではない。その時、我が校の対戦相手、優勝候補の一角のチームから声が聞こえてきた。
「試合を楽しもうぜ」
「俺らは花園へ行くんだ」(注 全国大会が開かれる花園ラグビー場のこと)
「そのために、練習してきたんだぞ」
キャプテンらしき人物が声をかけると、他のチームメイトが「オッー」と、一斉に声をあげた。
吾郎は少し驚いた。楽しむのか。試合は楽しむためのものだったのか。吾郎の時代は、何か一つの試合でも悲愴であった。禁欲的に、自己節制して、試合というものは、何か聖なるもののように捉えられていた。とても楽しむようなものでなかったし、その余裕もなかった。五十年を経て完全にラグビーをやる高校生の意識が変わっていると思った。そうか、それでいいのだ。試合を楽しむために、激しい練習をやるのか。吾郎の時代は正反対だった。激しい練習自体が自己目的になっていたような気がした。とくに吾郎のチームの主将は悲愴な決意で、チームの責任を自分一人で背負っていた感じがした。それで、他のチームメイトが少しでもダラけた様子に見えたら、容赦なく叱責した。練習も、試合のためでもなく、自己鍛錬のためでもなく、悲愴な修行のように考えていたように、今の吾郎には思えるのだった。
試合は、実力に勝る対戦相手が、我が校に圧勝した。しかし我が校のプレイヤーもはねかえされても、タックルにいき、攻撃を試みていた。吾郎はこれが本来のクラブ活動だと思った。何も悲愴な決意で試合にのぞむことはない。試合を楽しめばいいのだ。受験勉強も同じだ。勉強を楽しみ、自分の実力に合った大学に進学すればいいのだ。そう高校生に内心で吾郎は声をかけ、昼の惣菜を求めてスーパーに向かった。 2013年9月30日
松山愼介
今日は秋晴れの日曜日である。森沢吾郎は、いつものように、自転車で近くのスーパーに昼ご飯の惣菜を買いに行く。丁度、一年前の今頃、妻が交通事故で亡くなったのである。青信号を自転車で交差点に進入した時に、左折してきた大型トラックの後輪に巻き込まれたのだ。年金も受給でき、悠々自適の生活を妻とすごそうと思っていた矢先の出来事であった。妻は普段は注意深いのだが、たまに何かに気を取られることがあった。この時も左折するトラックを注意せず、何か気にかかることがあったのだろう。ほぼ即死だったそうだが、警察から連絡があって、対面した妻は事故のわりにきれいな顔だった。
台所に立ったこともなかった吾郎は、炊飯器のスイッチを入れた後、昼前にその日の惣菜を買いに行くのが日課となっている。朝はパンで、昼食と夕食の二食分の惣菜を買う。同じスーパーの惣菜だと飽きがくるので、三、四カ所のスーパーを順繰りにまわる。彼はグルメではないので、栄養のバランスを考えて、魚、肉、野菜を求めるが、出来合いのものは味が濃いので、そろそろ自炊も考えているところである。
スーパーに行く途中、地元の高校の前を通ると、大きなスポーツバックを肩にかけた高校生が、三々五々学内に吸い込まれていっている。直感的にラグビー部員で、きっとこの高校のグランドで地区予選が始まっているのだと直感する。彼も自転車で高校の中に入って、駐輪場に自転車を置いてからグランドを見に行く。グランドに出て驚く。なんと試合をしているのは我が母校であった。ライトブルーの地に黄色の太い横線、彼が五十年前に着たジャージーそのものである。彼はそのジャージーを着ている一人一人と握手をしたくなった。同じカラーのジャージーが五十年間も受け継がれていることに感謝を込めて。そのうちに、彼は自分の高校時代を思いだす。
森沢吾郎はなんとなく、地元の進学校に通いはじめた。中学校の成績はそれほど勉強しなくても上位だったので、普通に学区の上位の進学校を受験して合格した。同じ中学校からは三十人受験して二十人が合格した。吾郎は中学では何のクラブにも属さなかった。無意識のうちに高校受験を意識していたのだろう。そのため、中学卒業の頃は特に親しい友達もできず、中学生活にむなしさを感じていた。それで高校に入れば、大学受験まで、三年はあるのだから、思いきって何かクラブ活動をやってみようと考えていた。そんな時、同じクラスの藤木が声をかけてきた。
「森沢君、何かクラブ活動やるのかい?」
「まだ、特に考えていないけど、何かやってみたいとは思ってる」
「俺は、ラグビー部に入ったよ」
「えっ、君、身体小さいのに大丈夫かい」
「大丈夫! 大丈夫! これが結構面白いんだ」
吾郎は藤木とは入学以来、なんとなく気が合い、クラスでは仲の良い方だった。その藤木が身体は小さくひ弱そうなのに、激しいラグビー部に入っているのに少し驚いた。しかし吾郎はクラブ活動をやるのなら、ちまちました文化部ではなく、運動部をやろうと考えていた。そしてまた、やるなら徹底的に激しいクラブに入ろうかなとも考えていた。吾郎の性格はやや極端なところがあり、何か機会があれば、その流れにのってしまうことがよくあった。例えば、悪いとわかっていても、授業中に先生をいじめたり、立ち入り禁止の場所を探検したりしたことがあった。ラグビーについても、あまり知識がなかったが、ただ過激なスポーツだという印象はもっていた。それでこの藤木がやっているなら、自分にもできると思って、ラグビー部に入ることにした。
ラグビーは十五人でやるスポーツなのだが、この進学校では大学受験のために大半の部員は二年生の地区予選が終わった段階で退部する。野球部は地区予選が七月に終わるので、三年生がその時期までやっていても、ギリギリ大学受験に間に合う。ところが、ラグビーの全国大会は冬休みにあるので、地区予選は十月頃までかかるので、そこまでクラブ活動をやっていては、とうてい大学受験に間に合わないのだ。そのために残っている三年生の部員は、キャプテンやリーダー格の二、三人だけとなる。それでラグビー部は十五人集めるのに苦労しているのである。入部したとき、三年生はキャプテンとフォワードリーダーの二人で、二年生は七人だった。それで最低限新入生が六人以上必要とされていた。吾郎が入った時は、新入生は八人いて、全部で十七人となって、なんとかチームを構成できる人数を確保していた。
練習は同じ高校に定時制があるので、五時までとなっていた。三時半ごろから始まるので一時間半くらいの練習だが、取りあえず走ることが主であった。約一時間の試合時間中、走れる体力をつけなければならなかった。準備体操をした後はランニングパスといって、グランドの短い方の端から端まで約五十メートルを三十分くらいかけて、ボールを繋ぎながら何度も往復して走るのだ。最初はゆっくり走り、続いてハーフといって、真ん中ごろからスピードをあげ、最後は最初から全力で走るのだ。吾郎は頭の方が先走っていたから、単純に走ることは好きだった。走っている間は、むかつく教師のことも忘れることができた。
この約三十分のランニングパスが終わると、フォワードとバックスに分かれて練習することになる。新入生はまずフォワードの練習をして、走力が認められれば攻撃をするバックスに入ることになる。フォワードの練習はスクラムが中心となるが、新入生はまだ体力がないので、壁に向って手をついて、膝を九十度に曲げるスクラムの姿勢を保つ練習をする。キックされたボールを受ける練習もするが、後は主にタックルの練習で、身体を軽めにぶつけ合う。
一週間ほど、この一時間半のメニューをこなすと、太腿が張って痛くなるが、それでも走り続けると不思議に痛まなくなってくる。ただ困ったのは、家に帰って夕食をすますと、疲れているのですぐ眠くなってしまうことだ。英語、数学の予習は最低三時間はやらねばならなかった。しかも、大学受験は三年後とゆっくり構えていたのに、数学は一年の一学期から大学入試問題をやらされた。他の新入部員もそんな状態だったのだろう、なんとか入部した新入生も一学期の終わる頃には三人が勉強を理由に退部していた。それでも吾郎は退部することなく頑張った。それには藤木の存在が大きかった。いつもひょうひょうとしている藤木は、勉強もクラブもこなしていた。
「おまえ、勉強は大丈夫か?」と吾郎が話しかけると、
「まあまあだな。高校生活をガリ勉でおくって、いい大学へ入ってもつまらんからな」と、いつものようにひょうひょうと答える。
「それもそうだな。何とかなるか。田沢のやつは、あれだけ体力があって、走るのも速いのにあっさりやめやがったな」
「親がうるさかったらしいよ」
田沢は百八十センチ、七十五キロくらいで、運動神経もよく、走るのも速かった。二人ひと組で競争する時は、彼は吾郎を馬鹿にして「おまえとなら楽勝だな」と言って、余裕を持って走る。吾郎が全力で走っても、途中でついた二、三メートルの差はつまらなかった。ある日、気がついたら彼は練習に出てこなかった。田沢を含めて三人が退部したので、メンバーは十四人になってしまった。
上級生は「クラスに走るのが好きなヤツがいるだろう。どんどん入部させろ」というけれど、吾郎はこの進学校にそんな単純なヤツがいるものかと思いながらも「ハイ!」と返事だけはした。運動部というのは、とにかく大きな声で返事をしておくのに限るのだ。
気がついたら、成績はどんどん下がり、もう後がないくらいの順位になっていた。それでもクラブ全員で十四人なので、吾郎はもはや、やめるタイミングを逃していた。そういう意味では彼は要領が悪いのだ。夏休みになると、一週間の合宿がある。長野県の木崎湖というところで、練習づけになるのだ。夏休みは練習時間が二時間くらいに伸び、しかもカンカン照りの中での練習なのだが、上級生が「そんなチンタラ練習していたら、合宿でバテるぞ!」と一年生に気合を入れ続ける。その頃になると、一年生もいっぱしのラガーマン気取りで、体力もついてきたこともあって、上級生にはいい返事だけして、なんとか力を抜く機会をみつけようとする。そのせめぎ合いだ。最初は、夢中になって走っていた吾郎も雑念がわいてくる。「主将の馬鹿め!」とか、心の中で罵りながら走る。
とうとう合宿が始まった。朝六時半に起きて、体操、そのままグランドへ行く。七時から一時間の練習、これはほとんど走るだけ。ボールを回しながら走るランニングパスが延々と続く。宿舎へ帰ってきて朝食を済ますと、しばらく休憩して十時から十二時まで練習。昼食を済まして、三時から六時まで練習。午後の練習は他の高校もたくさん来ているので合同練習となる。スクラムも普段は人数が少ないので、三人と三人の第一列だけの練習しかできないが、ここでは試合と同じ八人と八人で組むことができる。スクラムは第一列三人、次に四人、しんがりが一人である。吾郎はとりあえず、五番のロックというポジションで、二列目の右から二番目である。第一列の右側二人の腰の間に頭を突っ込んで、肩で第一列の尻を押すという役割である。両手でしっかりと、前二人の腰をサポートするのも大事な役目である。スクラムを組むときは、前列は二、三十センチの距離に近づいて、レフリーの掛け声で、一気にぶつかるようにして組み合う。この時に、如何に有利に組むかが問題で、その組み方で相手にプレッシャーをかけることができる。そのためには首を鍛えるのも重要になる。相手の首が強くてふところまで入られると押すどころではなくなってしまう。
フォワードはボールを獲得して、バックスに回す、バックスはそれで攻撃ができる。もちろん敵ボールのときは、バックスもフォワードも防御になる。走っている敵をタックルで倒してボールの争奪戦になる。
合宿の終わりごろになると、試合形式の練習となる。吾郎の高校は十四人だったので、相手の高校から一人借りての練習となる。始めての試合であった。最初のキックオフでいきなり吾郎のところへ、ボールが蹴り込まれた。がっちりキャッチしたが、タックルをまともにくらった。五メートルくらい吹っ飛ばされるが、練習通りきちんと半身の姿勢を取っていたので、痛みは感じない。味方のフォワードが集まって、バックスにボールを回す。相手チームはタックルがあまりにも見事に吾郎にヒットしたので、ボールを獲得できると思ったのか守備が手薄になっていた。ところが吾郎がタックルされながらも、ボールをきちんと確保して意外に早くバックスに回したので、こちらのバックスの展開力がまさり相手のスキをついたので、意外と簡単にトライが取れた。結果的に試合は総合力にまさる相手チームの勝ちになったが、吾郎は一応、試合というものを経験できたのだった。
合宿の最終日は練習は午前だけで、昼から帰りの汽車までの一時間程の間、コーチの教師から、木崎湖で遊んでいいということになった。合宿が終わったという解放感で一年生はボートを借りて、一気に力まかせにこぎ出した。ところが、この木崎湖は意外に広く、気がつくと船着き場からあまりにも遠くまで行ってしまった。帰ろうと全力で船着き場に向かったが集合時間に三十分ほど遅れてしまった。予定していた汽車に間に合わなくなって、上級生とコーチの教師はおかんむりだったが、そんなエピソードもはさみながらも吾郎達、一年生も合宿を乗りきったことでラグビーをやっていく自信のようなものを持つことができた。
ラグビーは激しいスポーツであって、それはそれでいいのだが困るのは怪我である。例えばスクラムが崩れることがよくある。ところが両手は、前列の腰をつかんでいるのだから、顔から地面に落ちることになる。そのために顔にすり傷がたえなかった。また吾郎は試合中に手をスパイクで踏まれたことがあった。ラグビーはスクラムで押し合うのだから、滑らないように靴にスパイクが打ってあるのだ。このスパイクシューズで、手の爪を踏まれ、爪が剥がれたこともあった。
秋になって全国大会の地区予選が始まった。我が校の目標はまず一勝、できれば二つ勝つことであった。藤木はフォワードで第一列の真ん中だった。スクラムにはハーフがボールを入れるのだが、藤木はフッカーといって、ボールを右足でかいて、味方の後方へ送ってバックスへボールを回す起点となる役割であった。十四人で部員が一人足りなかったので、サッカー部に応援を頼んだ。足の速いサッカー部の一人がバックスに入ってくれた。この試合で藤木がトライを決めた。藤木は器用なところがあって、ポジショニングがよかった。偶然かも知れなかったが、こぼれたボールがスッポリ藤木の胸に入った。前に敵は誰もいなかった。藤木は三十メートルほど走りきって、新入生、初のトライを決めた。応援のサッカー部員も頑張ってくれて、予選第一試合は五点の差で勝つことができた。
予選第二試合は翌週の日曜日で、同じサッカー部員に応援を頼んだ。確か前半の終わり頃だったと思う。スクラムになって、組み合ったときに、吾郎の前で、グキッという鈍い音が聞こえた。スクラムを解消してみると、藤木が泡をふいて倒れていた。スクラムの組み合うタイミンがずれて、首を痛めたようだった。早速、救急車が呼ばれ、藤木は運ばれていった。十四人で試合を続行することも可能だったが、部員の動揺が激しかったのでコーチの教師はその時点で、試合を放棄し敗北となった。
藤木は頚椎を骨折しており、下半身不随となった。この地区予選の終了で吾郎は退部した。半年間のラグビー部生活だった。事故にあったのは藤木だったが、吾郎が第二列にはいったのも、藤木が第一列にはったのも偶然であった。吾郎が頚椎を骨折する可能性もあったのだし、ラグビー部に入ったのも藤木に誘われたからだった。藤木のこの事故は、新聞の地方版にものり親の知るところとなった。母親から「あんたも下半身不随になったり、頭を打って馬鹿になったりしたらどうするんだよ」と泣きつかれて、吾郎は退部せざるを得なかった。
高校生活の間、吾郎は何回も藤木の家へ行った。藤木は首を固定してベッドで本を読んでいることが多かった。藤木の家では、庭の真ん中にプレハブを建て藤木の部屋にしていた。藤木のひょうひょうとした語り口は相変わらずだった。
「なーに、ちょっとしたミスさ。スクラムを組むタイミングが一瞬遅れたんだ。まあやってしまったことは仕方ないさ。ただ、このベッドでの生活が一生続くとなると、嫌になるがな……」
吾郎は、藤木の眼に一瞬涙が浮かんだのに気がついた。
「そうだな。まあベッドでも勉強はできるよ」と、慰めたが、慰めの言葉になったかどうかは、わからなかった。吾郎は卒業が近づくにつれ、受験勉強に追われて、自然と、藤木の家へ行く回数は減っていった。吾郎はラグビー部をやめてから、とりあえず受験勉強もしたので、下から数えた方が早かった成績も、真ん中くらいになった。その成績と、いちいち構ってくる母親がうっとうしくて地方国立大学をめざした。地方に行けば藤木と顔を合わす回数が少なくてもよくなるという考えもあったかも知れない。大学を四年で卒業し、就職して東京に住むようになると、それを機会に藤木の家を訪問することはやめた。相変わらず、ベッドでの生活になっている藤木を見るのがただつらくなってしまったのである。
吾郎はラグビーの試合をしている若者たちをみて、自分の高校時代を思い出していた。しかしあのクラブ活動と受験勉強というのは何だったのだろう。藤木はラグビーで寝たきりになり、吾郎は会社員として普通に働いた。丁度、いわゆる経済の高度成長の時代と重なったため、残業はあったが、それほど頑張らなくても業績は右肩上がりだった。給料も毎年少しずつであったが上がっていった。家も買うことができたし、内心、馬鹿にしていた年金もきちんと払い続けたので、定年後は年金だけで生活ができるようだ。丈夫だった妻が自分より先に死んだという計算外の出来事はあったが、生活は安定していた。
今、青春を謳歌している若者たち、一人一人に吾郎は声をかけたくなってくる。クラブ活動も、受験勉強もいいだろう。だがそれは人生の一部でしかない。それは経過するものであって、目的ではない。その時、我が校の対戦相手、優勝候補の一角のチームから声が聞こえてきた。
「試合を楽しもうぜ」
「俺らは花園へ行くんだ」(注 全国大会が開かれる花園ラグビー場のこと)
「そのために、練習してきたんだぞ」
キャプテンらしき人物が声をかけると、他のチームメイトが「オッー」と、一斉に声をあげた。
吾郎は少し驚いた。楽しむのか。試合は楽しむためのものだったのか。吾郎の時代は、何か一つの試合でも悲愴であった。禁欲的に、自己節制して、試合というものは、何か聖なるもののように捉えられていた。とても楽しむようなものでなかったし、その余裕もなかった。五十年を経て完全にラグビーをやる高校生の意識が変わっていると思った。そうか、それでいいのだ。試合を楽しむために、激しい練習をやるのか。吾郎の時代は正反対だった。激しい練習自体が自己目的になっていたような気がした。とくに吾郎のチームの主将は悲愴な決意で、チームの責任を自分一人で背負っていた感じがした。それで、他のチームメイトが少しでもダラけた様子に見えたら、容赦なく叱責した。練習も、試合のためでもなく、自己鍛錬のためでもなく、悲愴な修行のように考えていたように、今の吾郎には思えるのだった。
試合は、実力に勝る対戦相手が、我が校に圧勝した。しかし我が校のプレイヤーもはねかえされても、タックルにいき、攻撃を試みていた。吾郎はこれが本来のクラブ活動だと思った。何も悲愴な決意で試合にのぞむことはない。試合を楽しめばいいのだ。受験勉強も同じだ。勉強を楽しみ、自分の実力に合った大学に進学すればいいのだ。そう高校生に内心で吾郎は声をかけ、昼の惣菜を求めてスーパーに向かった。 2013年9月30日
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