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古井由吉『仮往生伝試文』を読んで

2022-05-13 23:58:44 | 読んだ本
      古井由吉『仮往生伝試文』         松山愼介
 古井由吉が『仮往生伝試文』を書いたのは、一九八六(昭和六十一)年からであり、四十九歳の時である。「仮往生」とは、生きている間に往生することを意識することであろうが、五十歳前後に死を意識するのは少し早すぎる気がする。確か、以前、テレビに古井由吉が出ていて、ドイツをキリストの磔刑像を見ながら縦断するという話をしていたのを見たことがある。日本でも随分、仏像に関心があったようである。
 古井由吉の『半自叙伝』を読んでいると、子供の頃に戦災にあい、その頃から、死を意識せざるを得なかったようである。三月十日未明の本所深川の大空襲は、敵機の爆音と赤く焼けた空を不気味に眺めただけだったが、下町の惨状が伝わってくるにつれ、空襲というものに対する観念が一変したという。この時、古井由吉は八歳前だったが、空襲で死ぬということは、なぶり殺しに近いものと実感することになる。
 実際に古井由吉の東京郊外の自宅が焼かれたのは、五月二十四日未明で恐怖、屈辱、羞恥を感じながら「敗走」したという。その後、大垣の父の実家を頼るが、そこも七月末に焼かれ、それを見ながら慄え地獄図を見たような気持ちになる。それから母の実家の美濃町に落ち着き敗戦をむかえ、十月に迎えに来た父親と東京に戻っている。この戦災の中での生死をさまよった体験が古井由吉の文学の根底にあるのだろう。 
『仮往生伝試文』は、平安末期から鎌倉初期に書かれた、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『明月記』などを読みながら、その当時の死生観と現実の自分を交差させながら書かれている。仏教では一〇五二年から末法の世になると伝えられていた。比叡山横川の恵心院に隠遁していた源信が、九百八十五年に、浄土教の観点から『往生要集』をあらわしている。
『宇治拾遺物語』の多武峰の増賀上人の往生の話から始まる。上人は往生の間際に、囲碁を十目ほど置き、泥障を頸にかけさせ苦しいのをこらえて、ヨタヨタ踊ったという。これを、古井由吉は単に死の間際にやり残したことをやりたくてやったとまで考えなくも、今まで忘れていたことを、ふと思い出してやっただけのことであって他意はないと考える。
 他にも面白い逸話が紹介され、古井由吉はそれに自分の考えを重ねていく。ある僧は、阿弥陀仏からの手紙を自分で書いて大晦日の後夜に小僧に届けさせたという。それを毎年、繰り返すうちに小僧のほうが、位があがってしまったりする。この僧はいつしか戸を叩く音に這い出てそこで死んでしまう。それこそ往生ではないか。
 上町台地には藤原家隆の夕陽庵跡がある。織田作之助の関連で口縄坂に行ったときに、その史跡を見たのだが、昔の人の死生観が偲ばれた。極楽往生を願った、ある貴族は死の間際に、菩薩像と手を細い布で繋いで死んでいったという。
 末法の世とされた時代には、人々はとにかく極楽往生したかったに違いない。現代の我々はそもそも極楽そのものを信じてないのであるが。
 古井由吉の結論は、「何事かを境に、物が喉を通らなくなり、日に日に痩せおとろえて、寝ついてほどなく臨終に至る。これが人にとって、もっともなだらかな、どうにか折り合える、仕舞いの運びではないか」というものである。
 このような往生に関する物語に終止符を打ったのは親鸞だろうか? 親鸞は周知の通り絶対他力で、一言「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できるとするものである。吉本隆明は『最後の親鸞』で、「正定聚」について述べている。「至心に信楽して、念仏を称えるという状態にはいったとき、弥陀の摂取不捨の願力の圏内にはいる」。この考えをすすめれば、生きている間に極楽往生できる地位へ横超できることになる。つまり生きている間に極楽往生が保証されることになる。王が浄土であるとすれば、「正定聚」は皇太子に比肩されるとした。
 古井由吉の『仮往生伝試文』は読みにくいが、一度、作品世界に入ることができれば、取り上げられた極楽往生に関する物語を味わうことができるだろう。
                              2022年3月12日

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