林京子『上海』 松山愼介
一九七二年九月、田中角栄首相と周恩来首相との間で、日中共同声明が発表され、七八年八月には日中平和友好条約が結ばれた。これらの交渉は難航したようである。その三年後の八一年八月九日、林京子は上海、蘇州を訪問する。十人程度のツアーであった。
林京子は長崎での被爆を書いた『祭りの場』などの作家だと思っていたが、彼女は長崎で生まれ、三井物産石炭部に勤める父の異動に伴って上海へ行き約十四年を過ごしていたのだ。だから、 『祭りの場』で芥川賞を受賞しているが、彼女の原点は、長崎の被爆ではなく、中国を侵略した日本人として過ごした上海だったのである。原爆の被害者となる前に、幼かったので自覚はしていず、責任があるわけではないが、中国への加害者であったのだ。
私も約三十年前に上海、蘇州へ行ったことがある。記憶では、子供を連れての家族旅行で、近場ということでまず香港、マカオへ行き、次の年に上海、蘇州へ行ったと思う。上海駅の周りには大量の群衆がいた。後でわかったことだが、内陸部から職を探して、とりあえず上海へ来た人たちだった。蘇州では寒山寺へ行って、「寒山寺夜半の鐘 客船に至る」という有名な漢詩の軸を千円で買った。寒山寺の僧侶の読経を録音している人もいた。土産物は、刺繍が有名だった。手作りだからか、結構、いい値段をしていたような記憶がある。
後に、この中国旅行の話を友人にしたら、戦争のことを覚えている年寄りは「非難の眼」で日本人を見ているぞと言われた。日中戦争のことなど、何も考えず近いからという理由で上海へ行ったのだが、友人にこう指摘されて、中国、韓国は私の旅行の選択肢から消えた。
林京子も同じようなことを語っている。日中平和友好条約が結ばれた時に、すぐにでも飛んで行きたかったのだが、《「侵略者の国の子供」として住んでいた私が行っていいのか》、慎まなければならないのではないかという、中国人に対する罪悪感があって、自問自答の時期が続いたという。結果、上海に住んでいたことを明かさずにツアーに申し込んだという。
中国に住んでいて日本のことは何も知らず、上海から大連まで船で、そこからは陸路、釜山へ、関釜連絡船で帰国している。門司で船員が作ってくれた弁当を食べようとしたとき、中国の物乞いのような戦災孤児に取り囲まれてショックを受けている。母に「お母さん避難民がいる」と言って母から「日本人よ」と叱られる。このとき「日本人も避難民になるんだ」ということに初めて気がついて、自分が上海で「戦勝国」の子として暮らしていたことを自覚させられることになる。三十六年後に行った上海で、最も違った光景はバンド(外灘)にクーリーがいなかったことであるという。貧しい彼らは冬でも破れた服を着ていたが、今は真っ白の開襟シャツを着ていたという。
友誼商店から黄浦江を見に、走って抜け出すのだが「群衆にまぎれ込むこと、抗日テロの戦法だ」と考えている。ガーデンブリッジに向かって歩いているときも、自分が日本人であることを知らせたくないようにと考えている。「過去の歴史が、これほど人の心にわだかまりを残すものなのか」と身構えてている、自分に驚いているようである。
この『上海』の三年前に『ミッシェルの口紅』という上海時代のことを当時の目線で語っている作品がある。私としてはこちらの方が面白かった。中国人の抵抗運動、爆弾テロ、銃による狙撃があったという。まるでアメリカ軍に対するイラク人の攻撃のようだ。郊外への遠足では、軍人が警備について行ったり、頭蓋骨が転がっていたりする。上海事変の戦場となった場所の様子も書かれている。火野葦平の小説よりも、この作品のほうが、上海事変の具体的なイメージがわいてくるほどだ。
林(宮崎)京子が結婚した林俊夫は朝日新聞社の上海特派員で、ゾルゲ事件の尾崎秀実とも親しかったという。ポツダム宣言の受諾のニュースは八月五日頃、ソ連経由で中国の新聞社に入り、中国人記者が号外を出そうというのを林俊夫は止めたが、七日には国民党の機関紙が号外を出した。俊夫は十一月に帰国しようとしたが、港で止められ、昭和二十三年十一月に松井石根らと同じ船で帰国し、叔母を迎えに来ていた林(宮崎)京子と出会うことになる。長崎の原爆体験を書いただけの作家と思っていた林京子が、このような上海体験を持っていたことを知ったのは大きな収穫だった。
2018年11月10日
一九七二年九月、田中角栄首相と周恩来首相との間で、日中共同声明が発表され、七八年八月には日中平和友好条約が結ばれた。これらの交渉は難航したようである。その三年後の八一年八月九日、林京子は上海、蘇州を訪問する。十人程度のツアーであった。
林京子は長崎での被爆を書いた『祭りの場』などの作家だと思っていたが、彼女は長崎で生まれ、三井物産石炭部に勤める父の異動に伴って上海へ行き約十四年を過ごしていたのだ。だから、 『祭りの場』で芥川賞を受賞しているが、彼女の原点は、長崎の被爆ではなく、中国を侵略した日本人として過ごした上海だったのである。原爆の被害者となる前に、幼かったので自覚はしていず、責任があるわけではないが、中国への加害者であったのだ。
私も約三十年前に上海、蘇州へ行ったことがある。記憶では、子供を連れての家族旅行で、近場ということでまず香港、マカオへ行き、次の年に上海、蘇州へ行ったと思う。上海駅の周りには大量の群衆がいた。後でわかったことだが、内陸部から職を探して、とりあえず上海へ来た人たちだった。蘇州では寒山寺へ行って、「寒山寺夜半の鐘 客船に至る」という有名な漢詩の軸を千円で買った。寒山寺の僧侶の読経を録音している人もいた。土産物は、刺繍が有名だった。手作りだからか、結構、いい値段をしていたような記憶がある。
後に、この中国旅行の話を友人にしたら、戦争のことを覚えている年寄りは「非難の眼」で日本人を見ているぞと言われた。日中戦争のことなど、何も考えず近いからという理由で上海へ行ったのだが、友人にこう指摘されて、中国、韓国は私の旅行の選択肢から消えた。
林京子も同じようなことを語っている。日中平和友好条約が結ばれた時に、すぐにでも飛んで行きたかったのだが、《「侵略者の国の子供」として住んでいた私が行っていいのか》、慎まなければならないのではないかという、中国人に対する罪悪感があって、自問自答の時期が続いたという。結果、上海に住んでいたことを明かさずにツアーに申し込んだという。
中国に住んでいて日本のことは何も知らず、上海から大連まで船で、そこからは陸路、釜山へ、関釜連絡船で帰国している。門司で船員が作ってくれた弁当を食べようとしたとき、中国の物乞いのような戦災孤児に取り囲まれてショックを受けている。母に「お母さん避難民がいる」と言って母から「日本人よ」と叱られる。このとき「日本人も避難民になるんだ」ということに初めて気がついて、自分が上海で「戦勝国」の子として暮らしていたことを自覚させられることになる。三十六年後に行った上海で、最も違った光景はバンド(外灘)にクーリーがいなかったことであるという。貧しい彼らは冬でも破れた服を着ていたが、今は真っ白の開襟シャツを着ていたという。
友誼商店から黄浦江を見に、走って抜け出すのだが「群衆にまぎれ込むこと、抗日テロの戦法だ」と考えている。ガーデンブリッジに向かって歩いているときも、自分が日本人であることを知らせたくないようにと考えている。「過去の歴史が、これほど人の心にわだかまりを残すものなのか」と身構えてている、自分に驚いているようである。
この『上海』の三年前に『ミッシェルの口紅』という上海時代のことを当時の目線で語っている作品がある。私としてはこちらの方が面白かった。中国人の抵抗運動、爆弾テロ、銃による狙撃があったという。まるでアメリカ軍に対するイラク人の攻撃のようだ。郊外への遠足では、軍人が警備について行ったり、頭蓋骨が転がっていたりする。上海事変の戦場となった場所の様子も書かれている。火野葦平の小説よりも、この作品のほうが、上海事変の具体的なイメージがわいてくるほどだ。
林(宮崎)京子が結婚した林俊夫は朝日新聞社の上海特派員で、ゾルゲ事件の尾崎秀実とも親しかったという。ポツダム宣言の受諾のニュースは八月五日頃、ソ連経由で中国の新聞社に入り、中国人記者が号外を出そうというのを林俊夫は止めたが、七日には国民党の機関紙が号外を出した。俊夫は十一月に帰国しようとしたが、港で止められ、昭和二十三年十一月に松井石根らと同じ船で帰国し、叔母を迎えに来ていた林(宮崎)京子と出会うことになる。長崎の原爆体験を書いただけの作家と思っていた林京子が、このような上海体験を持っていたことを知ったのは大きな収穫だった。
2018年11月10日
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