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二千円札が普及しない真の理由~日本人にとっての「数」の概念~

2012-07-16 10:04:00 | 弐千円札/論説
私が二千円札に関連した文章を書かなくなって一年が過ぎた.以前はニュースなどで取り上げられているのを見聞きすると一言書かずにはいられなかったが,それらに興味をひかれることもなくなった.ときたま「二千円札はどこに行った?」という見出しを見かけるが,「日銀の倉庫の中だよ!くだらねえ」といった感じである.

理由は以下の通りである.
- 仕事で忙殺されている
- 言いたいことは今までの記事で概ね言い尽くした
- いたたまれない
- あきらめた
この中で一番大きな理由は,もちろん「あきらめた」である.人間とは,忙しかろうと何だろうと,情熱さえあれば文章くらい書く生き物である.かつてはその情熱とやらで「二千円札にインスパイアされよう」といった手合のことを繰り返し書いてきたわけであるが,そんな気にもならなくなってきた.今に始まったことではないが,官も民も,中央も地方も,内も外も,もはや二千円札どころではない.そもそも日本人には二千円札という代物を受け入れる適応力はなかったのだと考えるのが自然であろう.たかが二千円札,されど二千円札だったのである.

しかしながら,何故に日本人は「二千円札ごとき」を使いこなせないのかと考えることは,必ずしも無益な試みではないと考える.「日本人は暗算が得意だから」という内容の記事を見たこともあるが,それがどのように二千円札の普及を妨げるのか?「日本人は数字に強い」と言う人もいるようだが,本当にそうなのだろうか?私はしばし考え,ある意味ありきたりな結論に達した.それは,
「 日本人は数字には強いが数には弱い」
というものである.

数字は「記号」であり,数は量を表す「実体」である.一応,前者と後者の間には対応関係があるが,本質的には別なものである.当然のことながら,一言で計算といっても数字を処理することと数を処理することとは異なる.

数字を計算することとは,規則にしたがって記号を処理することである.たとえば「2+5=7」や「3*6=18」といった処理をするとき,指折り数えて答えを出す人はいないだろう.多くの人々にとってこれらは単なる規則であり,それらを使った処理は論理演算の範疇に属する.その一方で,数(あるいは量)そのものに対する算術演算は少し異なる.こちらは,指折り数えたり,正の字を書いたり,目盛りのついた容器の水を出し入れしたりして,いくつになったか数えるのは最後の最後である.

一般に,まっとうな人間がとるべき方法は前者であり,後者は子供がやることだと思われている.実際,多くの場合において,数字で計算した方が便利である.掛け算九九などはその典型例であろう.数字をいう記号を介しての計算は万能であるかに思われる.

しかしながら,ここで,「そもそも我々は何のために計算をするのか?」と考えてみてほしい.答えは色々あると思うが,最終的には「複数ある数の大小を判別するため」であるはずだ.我々は数字を使って速く正確に計算できるが,最終的な数の大小,ひいては「事の軽重」を適切に見極めることができているだろうか.はなはだ疑問だと思う人が多いはずである.そう,数字は諸刃の剣なのである.

たとえば,多くの人は,水が入った容器を見て「2002 mlと2000 mlと1998 mlは大違いだ」とは思わないであろう.しかしながら,別な場面では「2002円と2000円」の間には大差なく,「2000円と1998円」の間には大差あるように見えてしまう.実際それに幻惑される人は多い.これは一例ではあるが,我々には「数字を見て数を見ず」という傾向があるように思われる.お金の計算をする際も,やはり数字という「記号」に注意を払う一方で,数の「実体」そのものには無頓着であるように感じられるのである.

多くの日本人は「規則にしたがって記号を処理する」形でお金を数える.支払いを済ませる際には,金額を表す数字を左から見ていって,「一万の位は2だから一万円札を2枚出そう」とか「千の位は3でそれより下に何かあるから千円札は4枚にするか」と判断した後で財布に手を突っ込む.ここで2や5のついた貨幣を使おうとすると,終わったはずの「計算」を再度しなければならなくなるので混乱するのだ.実際,二千円札ほどではないにしても,五千円札の流通枚数は極端に少ない.

これに対し海外では,20ドル,40ドル,60ドル・・・といちいち数えていく人が多い.こうしたやりかたは泥臭くて頭が悪いように見える.しかしながら,紙幣や硬貨の額面が変わっても思考回路に混乱をきたしにくく,柔軟な対応が可能になる.まさしく一長一短である.

結局,過去に書いたようなことの繰り返しになってしまった.二千円札が普及しなかった真の原因は,日本人の性質として
- 「数字という記号を規則にしたがって処理する」形で計算を行う
- 「2000円」という額面を取り扱う「新しい規則」を獲得するだけの柔軟性は持ち合わせていなかった
の二点であろう.これらは悪いことばかりではないが,せっかくの計算結果を「数という実体」として捉えきれないのはもったいない話であろうと思う.

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3 Comments

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初めまして (cyber1investor)
2012-09-27 00:05:55
初めまして。私も最近二千円札を普及させるべく活動を始めました。貴君の熱意に比べれば足元にも及びません。
正直最近自分のしていることに意味があるのか、空しさを感じ始めていたのですが、2009-02-28の「私が二千円札を使うのは,人々に二千円札の存在を思い出してもらい,その中から新たな同志が現れることを期待しているからである.」という言葉で元気をもらいました。まだ見ぬ未来の同志のために使い続けようと思います。
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Unknown (SS)
2012-09-27 22:27:28
ありがとうございました.私の方こそ,元気をいただきました.

本稿を書いた時点では,私は二千円札から足を洗ったつもりでおりました.しかしながら,「数」そして「実体」などと偉そうなことを言っているうちに,私の気持ちに少し変化が表れました.そして,cyber1investorさまから頂いたコメントにより,それは一層確かなものとなりました.

そして現在,私の財布の中には約20枚の二千円札が入っています.再び二千円札の道に身を投じることにいたしました.
返信する
コツコツと (cyber1investor)
2012-09-29 00:18:01
こちらこそ早速返信いただき恐縮です。

小生は、とある会社の経理をしており、現金を扱っています。今日は一名の社員に旅費精算で現金を渡しましたが、一枚弐千円札を忍ばせて渡しました。

もちろん、弐千円札に寛容な人だと分かっているからです。会社の金庫にはあと72枚あります。月に二度、銀行に行った際に五十枚づつ両替しますので、月百枚使用がノルマです。

コツコツと、時には激しく、末永く継続していきます。
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