今日、言語教育系の学会に参加してきた。
場所は慶応義塾大学三田キャンパス。
慶応は初だ。
うん、遠いよ…
覚悟できる遠さだったら、例えば横浜とかだったら踏ん切りがつくんだが、
田町って、中途半端に遠いよ。
覚悟できない遠さのギリギリのところに鎮座してやがるぜ、三田キャンパス。
学会の内容はともかくとして、なぜ俺がその学会に参加したのかというと、
まあ、仕事の一環なんですが。
俺が編集を担当した先生が会長を務める学会だったのです。
その研究発表学会。
俺は本の企画者である上司一緒に完成した書籍をもって
颯爽とのりこんだわけです。
本が完成して、献本するときに先生に連絡したんだけど、
もし俺が来ることがあったら、
先生の名前出せば入れるようにしといてくいれたんです。
せっかくのご好意だし、
何より俺もご挨拶はしたいと思ったし、
更に何よりメールや電話では頻繁に連絡したが実際に会いたくって。
因みに前説にジャーナリストの池上氏が講演をしていました。
教授は学会長なので、常に誰かと話をしていて、
実際に先生と話せた時間はたったの5分。
いや、5分も無かったな。
ご挨拶だけで終わってしまった。
けど、いいんです、実際に俺は学会に行って、実際に会って、実際に話をしたんだから。
その事実は揺るがないわけです。
俺が話した内容なんて本当にどうでもいいんです。
だけど、実際に俺が会って、話したってことに意味があると思うんです。
情報は「速い情報」と「遅い情報」とに分けることができると思う。
今日に限らず、「速い情報」は常に溢れ返っている。
例えば、広告、看板、新聞の見出し、要約、本のタイトル、ネットのページ…
つまりは情報を瞬時に運ぶメディア全ては「速い情報」の提供者と言える。
新聞の見出し、リードなどはその最たるものである。
いかに速く情報を伝えるかに意味がある。
「速い情報」はつまりどれだけ情報を瞬時に相手に伝えるかに主眼が置かれているため、
「選択」という行為が必然的に起こる。
「速い情報」はその情報を伝えようとする主の主観が伴う。これは当然だ。
例えば、看板を見てみると、
駅にあるような看板に、ある店が看板を出していたとしよう。
店の名前、地図、電話番号、キャッチコピーがせいぜいではないだろうか。
看板に創立年月日や、社長の名前なんかを書くか。
これらはいかに客に足を運んでもらえるかという視点で、
凝縮されたものであり、選択されたものである。
戦争報道でも然り。
戦争を本当にリアルに描写しようとしたら、原稿用紙が何枚あっても足りない。
目の前で起こっていることだけでも全て描写したら、とんでもないことになる。
いや、不可能だろうな、実際。
新聞記事はリアルではない。
当然、記者の主観を通したリアルである。
それを情報として誰かに伝えようとするならば、
記事にしなくてはならない段階で絶対に選択をしなければならない。
記者が何かを意図して、何かを強調して伝えようとして選択し、情報になるのである。
「速い情報」は確か俺らの頭の中に入ってくるプロセスはとても速い。
うまく使えば非常に便利である。
だが、その分、凝縮され、何より選択が多く行われているという点がある。
まあ、世の中の情報全てが真実と思っているやつなんていないとは思うけど。
じゃあ、逆に「遅い情報」ってなんだ。
これは「実感」と行ってもいいかもしれない。
小学校2年生の国語の教材・アーノルド=ローベルの「お手紙」という作品をご存知でしょうか。
『ふたりシリーズ』というシリーズで、
「がまくん」と「かえるくん」という二人のかえるが主人公になっている。
「がまくん」は今まで一回も手紙を貰った事ないことを嘆いている。
親友の「かえるくん」はそれを見て、一回家に帰り、
「俺は君の親友です かえる」
といった旨の手紙をトロいかたつむりに配達するように託す。
また「かえるくん」は「がまくん」のところに行き、
「きっと手紙がくるよ」といって二人で待ち続ける。
何日も待ち続けてもまだ手紙が来ない。
ここで「かえる」は「がま」に手紙の内容を話してしまう。
しかし、「がま」は「いいお手紙だ」といって喜び、その後も二人で待ち続ける。
その4日後、かたつむりがやっとこさ到着し、
二人は大いに喜ぶ、って具合だ。
この作品を「速い情報」と「遅い情報」との違いが非常によく現れていると見ることができる。
言葉ってものの特性を見てみる。
言葉とは「速い情報」の代表格である。
実際に「かえる」は「がま」に
俺はお前の「しんゆう」であるという事を言葉で、速い情報できちんと伝えている。
しかし、ここで考えて欲しいのは、
たとえば、「かえる」が手紙だしたからって伝えて、すぐに帰ってしまったらどうだったか。
もしくは、手紙まってたら一瞬で来てしまったらどうだったか。
二人の喜びは半減すると思う。
「速い情報」には何一つ変化は無い。全て同じ条件である。
「しんゆう」という言葉はきちんと伝わっている。
しかし、なぜ、三つの条件で嬉しさが違ってくるのかというと、やはり「遅い情報」が働いている。
「しんゆう」という言葉なんて誰にでも言え、簡単に相手に速く伝わる。
しかし、それが実感を伴うようになるには「遅い情報」が必要。
「俺はお前の親友だ」って言葉は確かにこの場合、「速い情報」として伝わった。
しかしこの場合、
「何日間も一緒に待ち続けたという事実」が「遅い情報」としてはたらしている。
「何日間も一緒に待ち続けたという事実」が「速い情報」である「しんゆう」という言葉を実感が伴うものまで引き上げているのである。
それが情報かって思うかもしれないが、
実際に俺らの思考、認識に何らかの変化を及ぼしていることには全く変わりは無いし、
時間をかけて何か認識に訴えかけたのなら、紛れも無い情報である。
これは失恋にもあてはまる。
「別れましょう」って言葉を言われたとする。
この段階でも当然ショックだろうが、本当に別れたことを実感するのは
毎日話してたり、近くにいた人がいなくなったんだってことをふと気付いた時だろう。
ブランキーの歌詞ではないが
「知らない国のどこかの知らない誰かが死んだって、俺は涙なんかながせない」
けそ自分の知ってる人が亡くなったらやっぱ悲しい。
これは「遅い情報」の差であると思う。
自分の身の回りにいて、多くの時間を共有し、膨大な「遅い情報」を得ている人であればあるほど悲しい。
「あなたのじいちゃんの友達のいとこの娘の愛人のスピードワゴンさんが亡くなりました」
「あなたのじいちゃんが亡くなりました」
「速い情報」としての役割は全然違うことなんか無い。
それが悲しいか悲しくないかを決めるのは、
どれだけその人の「遅い情報」を得ているかだと思う。
先生から教えられたことを自分なりに解釈して書いてみました。
場所は慶応義塾大学三田キャンパス。
慶応は初だ。
うん、遠いよ…
覚悟できる遠さだったら、例えば横浜とかだったら踏ん切りがつくんだが、
田町って、中途半端に遠いよ。
覚悟できない遠さのギリギリのところに鎮座してやがるぜ、三田キャンパス。
学会の内容はともかくとして、なぜ俺がその学会に参加したのかというと、
まあ、仕事の一環なんですが。
俺が編集を担当した先生が会長を務める学会だったのです。
その研究発表学会。
俺は本の企画者である上司一緒に完成した書籍をもって
颯爽とのりこんだわけです。
本が完成して、献本するときに先生に連絡したんだけど、
もし俺が来ることがあったら、
先生の名前出せば入れるようにしといてくいれたんです。
せっかくのご好意だし、
何より俺もご挨拶はしたいと思ったし、
更に何よりメールや電話では頻繁に連絡したが実際に会いたくって。
因みに前説にジャーナリストの池上氏が講演をしていました。
教授は学会長なので、常に誰かと話をしていて、
実際に先生と話せた時間はたったの5分。
いや、5分も無かったな。
ご挨拶だけで終わってしまった。
けど、いいんです、実際に俺は学会に行って、実際に会って、実際に話をしたんだから。
その事実は揺るがないわけです。
俺が話した内容なんて本当にどうでもいいんです。
だけど、実際に俺が会って、話したってことに意味があると思うんです。
情報は「速い情報」と「遅い情報」とに分けることができると思う。
今日に限らず、「速い情報」は常に溢れ返っている。
例えば、広告、看板、新聞の見出し、要約、本のタイトル、ネットのページ…
つまりは情報を瞬時に運ぶメディア全ては「速い情報」の提供者と言える。
新聞の見出し、リードなどはその最たるものである。
いかに速く情報を伝えるかに意味がある。
「速い情報」はつまりどれだけ情報を瞬時に相手に伝えるかに主眼が置かれているため、
「選択」という行為が必然的に起こる。
「速い情報」はその情報を伝えようとする主の主観が伴う。これは当然だ。
例えば、看板を見てみると、
駅にあるような看板に、ある店が看板を出していたとしよう。
店の名前、地図、電話番号、キャッチコピーがせいぜいではないだろうか。
看板に創立年月日や、社長の名前なんかを書くか。
これらはいかに客に足を運んでもらえるかという視点で、
凝縮されたものであり、選択されたものである。
戦争報道でも然り。
戦争を本当にリアルに描写しようとしたら、原稿用紙が何枚あっても足りない。
目の前で起こっていることだけでも全て描写したら、とんでもないことになる。
いや、不可能だろうな、実際。
新聞記事はリアルではない。
当然、記者の主観を通したリアルである。
それを情報として誰かに伝えようとするならば、
記事にしなくてはならない段階で絶対に選択をしなければならない。
記者が何かを意図して、何かを強調して伝えようとして選択し、情報になるのである。
「速い情報」は確か俺らの頭の中に入ってくるプロセスはとても速い。
うまく使えば非常に便利である。
だが、その分、凝縮され、何より選択が多く行われているという点がある。
まあ、世の中の情報全てが真実と思っているやつなんていないとは思うけど。
じゃあ、逆に「遅い情報」ってなんだ。
これは「実感」と行ってもいいかもしれない。
小学校2年生の国語の教材・アーノルド=ローベルの「お手紙」という作品をご存知でしょうか。
『ふたりシリーズ』というシリーズで、
「がまくん」と「かえるくん」という二人のかえるが主人公になっている。
「がまくん」は今まで一回も手紙を貰った事ないことを嘆いている。
親友の「かえるくん」はそれを見て、一回家に帰り、
「俺は君の親友です かえる」
といった旨の手紙をトロいかたつむりに配達するように託す。
また「かえるくん」は「がまくん」のところに行き、
「きっと手紙がくるよ」といって二人で待ち続ける。
何日も待ち続けてもまだ手紙が来ない。
ここで「かえる」は「がま」に手紙の内容を話してしまう。
しかし、「がま」は「いいお手紙だ」といって喜び、その後も二人で待ち続ける。
その4日後、かたつむりがやっとこさ到着し、
二人は大いに喜ぶ、って具合だ。
この作品を「速い情報」と「遅い情報」との違いが非常によく現れていると見ることができる。
言葉ってものの特性を見てみる。
言葉とは「速い情報」の代表格である。
実際に「かえる」は「がま」に
俺はお前の「しんゆう」であるという事を言葉で、速い情報できちんと伝えている。
しかし、ここで考えて欲しいのは、
たとえば、「かえる」が手紙だしたからって伝えて、すぐに帰ってしまったらどうだったか。
もしくは、手紙まってたら一瞬で来てしまったらどうだったか。
二人の喜びは半減すると思う。
「速い情報」には何一つ変化は無い。全て同じ条件である。
「しんゆう」という言葉はきちんと伝わっている。
しかし、なぜ、三つの条件で嬉しさが違ってくるのかというと、やはり「遅い情報」が働いている。
「しんゆう」という言葉なんて誰にでも言え、簡単に相手に速く伝わる。
しかし、それが実感を伴うようになるには「遅い情報」が必要。
「俺はお前の親友だ」って言葉は確かにこの場合、「速い情報」として伝わった。
しかしこの場合、
「何日間も一緒に待ち続けたという事実」が「遅い情報」としてはたらしている。
「何日間も一緒に待ち続けたという事実」が「速い情報」である「しんゆう」という言葉を実感が伴うものまで引き上げているのである。
それが情報かって思うかもしれないが、
実際に俺らの思考、認識に何らかの変化を及ぼしていることには全く変わりは無いし、
時間をかけて何か認識に訴えかけたのなら、紛れも無い情報である。
これは失恋にもあてはまる。
「別れましょう」って言葉を言われたとする。
この段階でも当然ショックだろうが、本当に別れたことを実感するのは
毎日話してたり、近くにいた人がいなくなったんだってことをふと気付いた時だろう。
ブランキーの歌詞ではないが
「知らない国のどこかの知らない誰かが死んだって、俺は涙なんかながせない」
けそ自分の知ってる人が亡くなったらやっぱ悲しい。
これは「遅い情報」の差であると思う。
自分の身の回りにいて、多くの時間を共有し、膨大な「遅い情報」を得ている人であればあるほど悲しい。
「あなたのじいちゃんの友達のいとこの娘の愛人のスピードワゴンさんが亡くなりました」
「あなたのじいちゃんが亡くなりました」
「速い情報」としての役割は全然違うことなんか無い。
それが悲しいか悲しくないかを決めるのは、
どれだけその人の「遅い情報」を得ているかだと思う。
先生から教えられたことを自分なりに解釈して書いてみました。