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気ままに生活してるシニアの残日録

産経「話の肖像画(藤崎一郎)」を読む(1/2)、追記あり

2024年12月16日 | その他いろいろ

(2024/12/16 追記)

本日、「安倍明恵さん、トランプ氏と面会」というニュースが報道された、政府ルートによる面談ではないという

元駐米大使の藤崎一郎氏は産経新聞の「話の肖像画」の連載で、「安倍晋三首相はトランプさんとうまくやった、ほかの人では難しいとか訳知りで言う人がいるがなんの根拠もない」と述べ、安倍元首相の手腕を過少評価していたが、今回のニュースに接すると藤崎氏の発言に疑問符が付いたと言わざるを得ない


(メラニア夫人のXより拝借)

トランプ夫妻は安倍元首相が凶弾に倒れた後、明恵夫人を慰め励まし続けてたそうであり、今日の3人一緒の写真はトランプ夫妻の人柄を示す温かい笑顔であふれている

安倍元首相と同様、失意の退陣から満を持して再登板をするトランプ氏には胸には秘するものがあるだろう、思う存分頑張ってほしいと願う人は多いのではないか

(2024/10/11 当初投稿)

9月の産経新聞に連載された元駐米大使の藤崎一郎氏へのインタビュー記事を読んでみた、藤崎氏は昭和22年生れ、外務省北米局長、外務審議官、駐米大使などを歴任、退官後も重要な役職を歴任されており、日本のエリートの一人であろう

この連載は記者による日本外交や藤崎氏の来し方に関するいろんな質問に藤崎氏が答える体裁をとっている、全部で29回の連載なのでそれなりの内容になっていて、非常に参考になったが、違和感を覚えたところも少なくない、その点について藤崎氏の発言を引用し、自分のコメントを書いてみた

藤崎氏

日本は安全保障を米国に委ねてはいるが、米国に遠慮しすぎて当然視されてはいけない(第2回)

コメント

日本が安全保障を米国に委ねているという考えがおかしいのではないか、自国は自国で防衛するというのがまず第1で、アメリカ軍は応援するということではないのか、ドイツ首相は「ドイツの安全保障はNATOに委ねている」などとは発言しないでしょう

藤崎氏

私は正直、中国の習近平主席の優先順位は台湾ではないだろうと思っている(第3回)

コメント

独裁者というものを分かっていない、ロシア軍がウクライナに迫っているとき、プーチンもバカじゃないのでウクライナを侵略するはずないと言っていた識者が大多数だった、独裁者は西側の理屈では動かない

藤崎氏

最も重要な貿易相手国である中国との関係は大事だ、決して無用な摩擦はすべきではない(第3回)

コメント

無用な摩擦はすべきではないが、時に必要な摩擦は避けてはいけないのではないか

そもそも摩擦を繰り返し起こしているのは中国であり、戦前と同じだ、尖閣列島に対する挑発行為、日本人の不当拘束、駐日大使の「火の海」発言、ブイの設置、領空侵犯、靖国神社への落書、NHKラジオにおける不適切発言、日本人の子供の殺害・・・これらの横暴に対して「摩擦を起こしてはいけない」という理由で対抗措置が取れていないのが日本だ、中国はそこに付け込んできており、どんどんエスカレートしてる、このような日本の外交は問題の解決どころがさらなる悪化を招いている

藤崎氏

「言うべきことを言え」とか言われるが、そんなことは当然やっている、それ公にするかだ(第5回)

コメント

やっている部分も当然あるでしょうが、もし本当に常にそうしてるならば、相手国の行動に何らかの変化が出るでしょう、また、国際世論に訴えることももっとすべきだ、そして言うだけではダメだ、状況が改善しなければ対抗措置をとるべきでしょう、どうしたら二国間の緊張を増大させず国際世論が納得する対抗措置がとれるかを考えるのが官僚や政治家の仕事でしょう、そういう姿勢が感じられない

藤崎氏

国家にとって大事な国益は、安全保障、経済的繁栄と国の尊厳だろう(第5回)

コメント

戦後外交は国の尊厳を軽視してきた、具体的な事例はきりがない、例えば、教科書問題、慰安婦問題や徴用工問題で事実を内外に向かって説明せず、相手国が騒ぐとその場しのぎの譲歩をし、日本の名誉を貶めた、海外にいくつも慰安婦像が建つのを防げていない、隣国との外交戦で国益を確保できていない

藤崎氏

溜飲の下がる外交は中長期的に危ない、考えてみると、背伸びしない外交をやった典型的な事例がポーツマス条約を締結した小村寿太郎と、国際協調路線を打ち出した幣原喜重郎だ、彼らは当時、「軟弱外交」のそしりを受けた(第5回)

コメント

  • 溜飲の下がる外交をしろとは誰も言っていない、国益の確保より「相手を刺激しない」ということが最優先になっている現状に疑問を呈しているだけだ、相手国との友好が国民の安全や領土、国家の尊厳より大事であると考えているのではないかと懸念しているだけだ。やるべきことを粛々と実施すればいいだけで、例えば韓国に対する半導体関連材料3品目の輸出規制強化措置などは溜飲の下がる外交ではないだろう
  • 幣原外交を評価しているようだが、幣原は英米との協調重視を主張していた点で評価できるが、中国軍による居留外国人民に対する殺害事件(昭和2年の南京事件など)に対し日中友好を重視して日本だけが軍事的対応を取らず、現地日本人を犠牲にした、しかし、事態はさらに悪化し関東軍が勝手な行動を起こすきっかけを作った点で評価できない

続く


ドナルド・キーン「正岡子規」を読む(1/2)

2024年12月16日 | 読書

どういうきっかけか忘れたがドナルド・キーン氏の書いた「正岡子規」(新潮文庫)を読んでみた

読後の記憶を整理する意味で、赤線を引きた部分から抜粋して子規の人生の概略をまとめてみた

第1章 士族の子

子規は伊予松山の武士階級の生まれ、外遊びが苦手な子供で、よくいじめられた、家にいて貸本屋から借りた本を読むのが好きで、14才頃から書画会や詩会などをやるようになった

第2章 哲学、詩歌、ベースボール

中学校長の影響で政治集会に参加、叔父の影響で哲学に興味を抱き、西洋に目を向け英語で小説などを読む、その後松山の俳人らの影響もあり詩歌に魅了され、身体の弱さを克服するためにベースボールに熱中する

第3章 畏友漱石との交わり

突然喀血する、大学予備門で偶然に漱石と出会い友達になった、漱石は子規の作品を賞賛したが欠点も指摘した、アイディアを得るためにもっと本を読めと言った、子規は漱石の苦悩を理解しなかった、俳句を生涯の仕事とする自覚をもつ

第4章 小説「銀世界」と「月の都」を物す

小説を読むのが好きだった、馬琴・西鶴・近松・露伴・逍遥・四迷など、詩人より小説家が金になると思い、言文一致の小説に反対し文語体で書いた小説を露伴に送ったが賛辞はなく、詩人で生きていく決意をする

第5章 従軍記者として清に渡る

叔父の紹介で新聞社主の陸羯南(丸山眞男氏がこの人の小論を読めと言っていた人だ→こちら:最後の方のあとがき)が用意した根岸の住宅に引っ越し、新聞「日本」の社員となって詩や紀行文などを投稿し人気を呼ぶ、日清戦争により文化記事を主体にした新聞「小日本」の編集責任者になる、愛国主義者となり従軍するが処遇に落胆し持病を悪化させた

第6章 「写生」の発見

松山に帰り漱石と同居した、「小日本」の挿絵を描く中村不折と知り合い西洋画の写生の重要性を知り自分の俳句の原理にし、無名の俳人蕪村の写生に秀でた句を評価した、脊椎カリエスを発症、弟子の虚子との断絶が起こる、雑誌「ほととぎす」出版を決意

第7章 俳句の革新

「ほととぎす」の発行で俳句芸術の宗匠としての名声を確立し、自分の一派を作ることに熱心になる、子規は感情表現や曖昧さを教えず、自然を忠実に描くことを教えた、子規の健康は悪化し続けた、2度の手術は失敗した

第8章 新体詩と漢詩

17文字では詩人は自分自身を表現できないため、子規は自分の新体詩に詩的魅力を与えないではいられなかった、武士階級に属していた子規は武士の血筋の証として漢詩を作ったが日清戦争の勝利により漢詩は教育の中心的地位を失った

第9章 短歌の改革者となる

晩年になってから短歌に対する関心に目覚め、「歌詠みに与ふる書」で短歌の改革を世に問う、子規は紀貫之の流れを汲むものではなく、宮廷歌人に倣うものでもなく、自分の病気を歌に詠んだ

第10章 途方もない意志力で書き続けた奇跡

子規は随筆により経験と回想を語り詩人や歌人に絶大な影響力を持った、日本画の擁護者となり写生を重視し、伝統的な日本画の教え方を批判する一方、中村不折を称賛した

第11章 随筆「病床六尺」と日記「仰臥漫録」

病状は悪化し、看病をする母や妹の律に癇癪を起すなどつらく当たった、一方看病疲れの律が病気にならないか心配とも書いてある、やがて精神に変調をきたし自殺も考えるようになった

第12章 辞世の句

子規は死の三日前まで新聞「日本」に「病床六尺」を書き続けた、しかし、ついに明治35年9月19日に亡くなる、享年34才

(続く)