テレビで「ドラえもん」を見ていて子供がひとこと「新しいドラえもんは残酷になったなぁ」
私は夕食の準備中でしっかりと内容を見てはいなかったのですが、いじめられたのび太くんが、人を消しちゃうボタンをドラえもんからもらって、ジャイアン、スネオ、ママと消してしまい、最後にはうっかり全世界の人を消しちゃう・・・というもの。昔は道具を貸すのになんだかんだと諭していたドラちゃんが、最初に「消しちゃえばイイ」とのび太くんに道具を使うのをお勧めしちゃうところが、子供ながらに驚いたみたい。
結局、道具は独裁者を懲らしめるもので、ひとりぼっちになったのび太くんが反省するとこで、ドラちゃんが出てきて消えた人々も元に戻り、めでたしめでたし。。。というもの。
これまではドラちゃんがいくら諭しても平気で自分の欲望を満たすために道具を使って、失敗して「やれやれのび太くんはしょうもないなー」って感じだったのに、今度のび太くんはボタンを使う前に「人を消しちゃうんなんて、怖くて使えないよ」なんて、なんだか前より小心者(?)というか、前よりまともな思考回路を持っているお子様っていう印象。
前は我ままな子供が思い通りになる道具にばかり頼ってその場しのぎに終わる軽いお笑い漫画って感じでしか見れなかったけど、今度のドラえもんは少し違う感じです。
イソップ童話の「アリとキリギリス」で、最後にアリがキリギリスを助けてめでたしめでたしとなるのを見て、遊んでばかりいたキリギリスが最後になんとかなっちゃうのなら、遊んで暮らした方が得じゃんとすごく違和感があったのですが、実は日本人が最後にキリギリスがアリにすがるものの、追い返されて死んでしまうという原作の結末が「残酷」ってことで内容を変えていたと聞き、すごく納得したのを思い出しました。以前のドラえもんを見ていて、なんだかなーとモヤモヤしていたものが、そのときのモヤモヤに似ているのを今日やっと気がついたって感じでした。
あいまいに過ごすのが好きな日本人だけど、言葉の奥にひそむ本音を汲み取れる感性がなくなっちゃった日本人が多くなった昨今は、酷なこともずばり言うってのも時には必要よ!と夕食の肉を焼きながら、ひとり変に納得していたうららでした。
私は夕食の準備中でしっかりと内容を見てはいなかったのですが、いじめられたのび太くんが、人を消しちゃうボタンをドラえもんからもらって、ジャイアン、スネオ、ママと消してしまい、最後にはうっかり全世界の人を消しちゃう・・・というもの。昔は道具を貸すのになんだかんだと諭していたドラちゃんが、最初に「消しちゃえばイイ」とのび太くんに道具を使うのをお勧めしちゃうところが、子供ながらに驚いたみたい。
結局、道具は独裁者を懲らしめるもので、ひとりぼっちになったのび太くんが反省するとこで、ドラちゃんが出てきて消えた人々も元に戻り、めでたしめでたし。。。というもの。
これまではドラちゃんがいくら諭しても平気で自分の欲望を満たすために道具を使って、失敗して「やれやれのび太くんはしょうもないなー」って感じだったのに、今度のび太くんはボタンを使う前に「人を消しちゃうんなんて、怖くて使えないよ」なんて、なんだか前より小心者(?)というか、前よりまともな思考回路を持っているお子様っていう印象。
前は我ままな子供が思い通りになる道具にばかり頼ってその場しのぎに終わる軽いお笑い漫画って感じでしか見れなかったけど、今度のドラえもんは少し違う感じです。
イソップ童話の「アリとキリギリス」で、最後にアリがキリギリスを助けてめでたしめでたしとなるのを見て、遊んでばかりいたキリギリスが最後になんとかなっちゃうのなら、遊んで暮らした方が得じゃんとすごく違和感があったのですが、実は日本人が最後にキリギリスがアリにすがるものの、追い返されて死んでしまうという原作の結末が「残酷」ってことで内容を変えていたと聞き、すごく納得したのを思い出しました。以前のドラえもんを見ていて、なんだかなーとモヤモヤしていたものが、そのときのモヤモヤに似ているのを今日やっと気がついたって感じでした。
あいまいに過ごすのが好きな日本人だけど、言葉の奥にひそむ本音を汲み取れる感性がなくなっちゃった日本人が多くなった昨今は、酷なこともずばり言うってのも時には必要よ!と夕食の肉を焼きながら、ひとり変に納得していたうららでした。