※
山のふもとまでは、馬が通れるくらいには道はひらけていた。
人里から人がやってくるらしく、湿った土のうえに、無数の足跡がある。
たまに、その足跡のうえをけものが横切った痕跡があり、山の豊かさを物語っていた。
趙雲のいうまま、馬を山からほど近い農家に頼んで、徒歩で山に入っていく。
なんでこんなことになったと思いつつ、山登りをはじめる孔明だったが、趙雲の口数も、おなじく、ぐっと減った。
合わせて孔明も黙っていると、気づまりを感じたのか、趙雲がさまざまな話題を振ってくるようになった。
「新野にきて不自由はないか」
「隆中ではどんなふうに暮らしていたのか」
「友人たちとはどのように過ごしていたのか」
「旅をしたことあはるか」
「どこへ行ったことがあるのか」
等々。
孔明は、人の話を聞くのが好きだが、喋るのも好きである。
問われることには、すべて答えた。
趙雲は孔明の語る言葉を、ひとことも漏らさず、丁寧に聞いていた。
うなずいたり、相槌をうったり、みじかい感想なども返したりしてくる。
途中、有名な甘露の水があるというので足を止めて、沢から染み出ている水を汲みに行くこととなった。
苔むした岩の隙間から水が流れているのを、だれがそうしたものか、竹の樋で水を誘導し、だれでもすぐに飲めるように工夫してある。
竹筒でそれを汲み、また、自らも手ですくって水を口にふくむ。
甘露の名のとおり、甘い、清らかな味がした。
咽喉に冷たい水がとおったそのあとに、ようやく孔明も頭が冴えてきた。
それまで新野のちいさないざこざのなかで揉まれ、知らず知らず傷つけられて自分の心が、ここにきて、癒されて、落ち着いてきたように感じられた。
そして、とつぜん理解した。
趙雲は、孔明の隣で、おそらく里の者かが置いたのであろう座椅子代わりの平たい石に腰かけて、木漏れ日をまぶしそうに見あげている。
この男は、単純に、自分が疲れているからという理由で外に連れ出してくれたのだ。
素直に考えればよかった。
肩の力がすとんと落ちた。
こんな温かい気遣いをしてくれる男だと思っていなかっただけに、うれしさがある。
しかし、つぎに浮かんだ疑問は『なんでまた、ここまでしてくれるのか』ということであった。
「なんでまた、って?」
素直に疑問をぶつけると、趙雲のほうが、ふしぎそうな顔をして孔明に尋ねかえしてきた。
「わからないのか?」
疑問に疑問で答えるとは、話が進まないではないかと苦りつつ、これまた素直にわからない、と答えた。
「わが君や麋子仲どのが、おまえを心配していたからさ。雲長どのも同様だ。あんな働きぶりでは、曹操が来る前に倒れる、とな」
「倒れることはないよ。わたしは普通に仕事をしているつもりだ」
「そう思っているかもしれないが、俺から見ても、おまえはすこし意地になって働きすぎている。早く張飛や劉封たちを心服させねばと思っていないか」
「それは」
事実であった。
「図星だろう。しかし、焦っていいことはないぞ。俺も雲長どのも、ある程度は麋子仲どのを手伝ってきたから、おまえがどれほど仕事ができるやつかわかった。
だが、益徳らはちがう。あいつらは、軍務しかしたことのないやつらだ。おまえができるやつだということが、まだまだぴんと来ていないのさ」
「どうしたらいいと思う」
また素直にたずねると、趙雲も、あっさり答えた。
「戦になるまでは、むずかしいのではないか。徐元直どのも、戦が始まるまでは、みなに認められていなかった。力の強さを人物の強さだと思っているやつらには、戦場で力を見せるのが一番だ。そう焦ることはない」
ここで言葉を切って、趙雲は真顔でつづけた。
「曹操がそろそろ来ることはわかっている。このあいだの、曹操が小隊を派遣してきた戦いは、単なる小競り合いだ。今度は、やつは大軍を率いて自ら南下してくるだろう。そのときに、おまえは力を発揮するがいい。だが、その前に雑務で倒れてしまっては、いざというときに力を出せぬぞ」
曹操の小隊がやってきた戦とは、徐庶が軍師になってすぐに起こった戦のことである。
徐庶のみごとな采配で、戦は大勝利したと孔明は聞いている。
だが、曹操が小隊を派遣してきた理由は、劉備を脅かすためではないだろう。
その実力のほどを確かめる、小手調べと、劉備の背後にいる劉表がどう動くかを見るための戦だったのだ。
劉表が動く前に戦が終わったので、曹操としては目的が半分しか達成できなかったわけだが、代わりにかれは軍師としての徐庶に目を付け、卑怯な手で徐庶を引き抜いてしまった。
「おどろいた、子龍、ずいぶんはっきりと言うものだな」
「俺はいつもこうだ」
「ところで尋ねるが、あなたの夢はなんだ」
唐突にされた孔明の問いに、趙雲は面食らったように孔明を見返した。
「なんだ、いきなり」
「思いついたことを口にしたのだが、答えづらいようだったらいい。本当に思いつきだから」
「ずいぶんと奇妙な問いかけをしてくるものだな」
「でも、あるだろう。夢。わが君にお仕えして、いずれかは一国一城のあるじとなり、名領主として歴史に名を残してみたいとか、あるいは敵将の首をたくさん取って、天下の名将と呼ばれるようになりたいとか、そうでなければ、天下に平和を取り戻したいとかな」
「天下に平和を取り戻したい、か」
「お、そう思うのか」
孔明は身を乗り出すが、しかし趙雲は腕を組み、首をひねっている。
「いや、あまりそういうことは考えたことがなかった。世の中が荒れているのは、いまにはじまったことではなく、そういうものだと思って過ごしてきたからな。軍師はちがうのか」
問い返されて、孔明のほうがうろたえた。
「そういうものじゃないからこそ、世の中が乱れているのだ」
「そうなのか?」
「そうなのか、って、いや、そうなのだよ」
あたりまえではないか。
呆れる孔明を前にして、趙雲は考え込んでしまったようである。
「そうだな、俺の夢は、おまえの言うとおり、わが君に天下を取っていただくことかな」
「天下を取って、その先は?」
「俺に聞く前に、おまえが答えろ」
「では正直に語ろう。山にこもって自由にのびのびと暮らす。神仙を目指すのも面白そうだ」
「張子房と同じか。おまえにはぴったりな夢だな。俺だったら、そうだな、常山真定に帰って、兄や母の墓を守って、のんびり暮らす」
「あるではないか、夢」
「そうだな、考えたことがなかった。俺は故郷に帰りたかったのか。自分でも意外だ」
趙雲は言葉の通り意外らしく、自分に首をひねっていた。
つづく
(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)
山のふもとまでは、馬が通れるくらいには道はひらけていた。
人里から人がやってくるらしく、湿った土のうえに、無数の足跡がある。
たまに、その足跡のうえをけものが横切った痕跡があり、山の豊かさを物語っていた。
趙雲のいうまま、馬を山からほど近い農家に頼んで、徒歩で山に入っていく。
なんでこんなことになったと思いつつ、山登りをはじめる孔明だったが、趙雲の口数も、おなじく、ぐっと減った。
合わせて孔明も黙っていると、気づまりを感じたのか、趙雲がさまざまな話題を振ってくるようになった。
「新野にきて不自由はないか」
「隆中ではどんなふうに暮らしていたのか」
「友人たちとはどのように過ごしていたのか」
「旅をしたことあはるか」
「どこへ行ったことがあるのか」
等々。
孔明は、人の話を聞くのが好きだが、喋るのも好きである。
問われることには、すべて答えた。
趙雲は孔明の語る言葉を、ひとことも漏らさず、丁寧に聞いていた。
うなずいたり、相槌をうったり、みじかい感想なども返したりしてくる。
途中、有名な甘露の水があるというので足を止めて、沢から染み出ている水を汲みに行くこととなった。
苔むした岩の隙間から水が流れているのを、だれがそうしたものか、竹の樋で水を誘導し、だれでもすぐに飲めるように工夫してある。
竹筒でそれを汲み、また、自らも手ですくって水を口にふくむ。
甘露の名のとおり、甘い、清らかな味がした。
咽喉に冷たい水がとおったそのあとに、ようやく孔明も頭が冴えてきた。
それまで新野のちいさないざこざのなかで揉まれ、知らず知らず傷つけられて自分の心が、ここにきて、癒されて、落ち着いてきたように感じられた。
そして、とつぜん理解した。
趙雲は、孔明の隣で、おそらく里の者かが置いたのであろう座椅子代わりの平たい石に腰かけて、木漏れ日をまぶしそうに見あげている。
この男は、単純に、自分が疲れているからという理由で外に連れ出してくれたのだ。
素直に考えればよかった。
肩の力がすとんと落ちた。
こんな温かい気遣いをしてくれる男だと思っていなかっただけに、うれしさがある。
しかし、つぎに浮かんだ疑問は『なんでまた、ここまでしてくれるのか』ということであった。
「なんでまた、って?」
素直に疑問をぶつけると、趙雲のほうが、ふしぎそうな顔をして孔明に尋ねかえしてきた。
「わからないのか?」
疑問に疑問で答えるとは、話が進まないではないかと苦りつつ、これまた素直にわからない、と答えた。
「わが君や麋子仲どのが、おまえを心配していたからさ。雲長どのも同様だ。あんな働きぶりでは、曹操が来る前に倒れる、とな」
「倒れることはないよ。わたしは普通に仕事をしているつもりだ」
「そう思っているかもしれないが、俺から見ても、おまえはすこし意地になって働きすぎている。早く張飛や劉封たちを心服させねばと思っていないか」
「それは」
事実であった。
「図星だろう。しかし、焦っていいことはないぞ。俺も雲長どのも、ある程度は麋子仲どのを手伝ってきたから、おまえがどれほど仕事ができるやつかわかった。
だが、益徳らはちがう。あいつらは、軍務しかしたことのないやつらだ。おまえができるやつだということが、まだまだぴんと来ていないのさ」
「どうしたらいいと思う」
また素直にたずねると、趙雲も、あっさり答えた。
「戦になるまでは、むずかしいのではないか。徐元直どのも、戦が始まるまでは、みなに認められていなかった。力の強さを人物の強さだと思っているやつらには、戦場で力を見せるのが一番だ。そう焦ることはない」
ここで言葉を切って、趙雲は真顔でつづけた。
「曹操がそろそろ来ることはわかっている。このあいだの、曹操が小隊を派遣してきた戦いは、単なる小競り合いだ。今度は、やつは大軍を率いて自ら南下してくるだろう。そのときに、おまえは力を発揮するがいい。だが、その前に雑務で倒れてしまっては、いざというときに力を出せぬぞ」
曹操の小隊がやってきた戦とは、徐庶が軍師になってすぐに起こった戦のことである。
徐庶のみごとな采配で、戦は大勝利したと孔明は聞いている。
だが、曹操が小隊を派遣してきた理由は、劉備を脅かすためではないだろう。
その実力のほどを確かめる、小手調べと、劉備の背後にいる劉表がどう動くかを見るための戦だったのだ。
劉表が動く前に戦が終わったので、曹操としては目的が半分しか達成できなかったわけだが、代わりにかれは軍師としての徐庶に目を付け、卑怯な手で徐庶を引き抜いてしまった。
「おどろいた、子龍、ずいぶんはっきりと言うものだな」
「俺はいつもこうだ」
「ところで尋ねるが、あなたの夢はなんだ」
唐突にされた孔明の問いに、趙雲は面食らったように孔明を見返した。
「なんだ、いきなり」
「思いついたことを口にしたのだが、答えづらいようだったらいい。本当に思いつきだから」
「ずいぶんと奇妙な問いかけをしてくるものだな」
「でも、あるだろう。夢。わが君にお仕えして、いずれかは一国一城のあるじとなり、名領主として歴史に名を残してみたいとか、あるいは敵将の首をたくさん取って、天下の名将と呼ばれるようになりたいとか、そうでなければ、天下に平和を取り戻したいとかな」
「天下に平和を取り戻したい、か」
「お、そう思うのか」
孔明は身を乗り出すが、しかし趙雲は腕を組み、首をひねっている。
「いや、あまりそういうことは考えたことがなかった。世の中が荒れているのは、いまにはじまったことではなく、そういうものだと思って過ごしてきたからな。軍師はちがうのか」
問い返されて、孔明のほうがうろたえた。
「そういうものじゃないからこそ、世の中が乱れているのだ」
「そうなのか?」
「そうなのか、って、いや、そうなのだよ」
あたりまえではないか。
呆れる孔明を前にして、趙雲は考え込んでしまったようである。
「そうだな、俺の夢は、おまえの言うとおり、わが君に天下を取っていただくことかな」
「天下を取って、その先は?」
「俺に聞く前に、おまえが答えろ」
「では正直に語ろう。山にこもって自由にのびのびと暮らす。神仙を目指すのも面白そうだ」
「張子房と同じか。おまえにはぴったりな夢だな。俺だったら、そうだな、常山真定に帰って、兄や母の墓を守って、のんびり暮らす」
「あるではないか、夢」
「そうだな、考えたことがなかった。俺は故郷に帰りたかったのか。自分でも意外だ」
趙雲は言葉の通り意外らしく、自分に首をひねっていた。
つづく
(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)