「ところで、孫乾たちとうまくやれるようになったらしいな」
「耳が早いな、もう知っているのか」
「俺はおまえの主騎だからな。城内の動静に敏感なすずめたちが話をしているのを耳に挟んだのだ」
すずめというのは、おそらく城に仕える女たちなのだろう。
趙雲らしい表現であった。
「やっと打ち解けられたよ。やはり数か月は要するものなのだな」
「みな、十年近く同じ顔触れでやってきたからな。年若い新入りに慣れるのに時間がかかったのだろう。おまえは早く打ち解けたほうではないか」
「徐兄はもっと早かったのだろう?」
「あの方は特別だ。前にも言ったが、本当に打ち解けていたかどうかは、俺は疑問だと思っているが」
趙雲のことばに、孔明は遠い大地のかなたにいる兄弟子を思った。
徐庶は内気で繊細な男だった。
うまくやれているようではあったらしいが、実際は、心からみなと打ち解けるところまでいけなかったのかもしれない。
証拠に、徐庶をなつかしがっているのは、城内では自分だけのような気が孔明はしていた。
趙雲は水にぬれた髪をほぐし、あらためて結びなおしている。
雑に髪をまとめると、だらしなく見えるものだが、この男の場合、色気があるように見えるから不思議だ。
あらためて、姿が良いというのは得だなと孔明は感心する。
「子龍、ひとつ尋ねたいのであるが」
「なんだ、藪から棒に」
「昔、会ったことがあるか?」
趙雲は目をぱちくりとさせている。
「なんだって?」
「徐州に来たことはあるか?」
「たしかにあるが、おまえの住んでいた琅邪のほうには行ったことがない」
「予章は?」
「揚州のほうは、あまり詳しくない」
「隆中は?」
「あるが、おまえみたいに派手なやつに一度会ったら、忘れないだろう」
「そうか。やはり不思議だ」
「なんなのだ」
ぽかんとしている趙雲に、孔明はあらためて向き直って、手を差し伸べた。
差し出された手を、趙雲は、これまた気味悪そうに見る。
「なんだ」
「あなたも手を出したまえ」
趙雲は、おっかなびっくりと手を差し出してきた。
らしくもない、内気な子供のような仕草を意外に思いつつ、その手を握ってみた。
武器を持つ男の手だ。
ごつごつして、力強い。
だが、恐ろしさは感じない。
「うん、なんともないな」
「は?」
孔明は、手を離し、そして、自分の手を見た。
片手だけが、熱が移ったようにも感じられる。
うまく説明できない、奇妙な感覚があった。
「さっきから、いったいなんなのだ? 子仲どののことを聞いたかと思えば、旅行先を聞き始め、ついで、握手。わけがわからぬ」
うろたえている趙雲に、孔明は、おのれの手のひらをじっと見ながら、首をひねる。
「これは、混乱の新しい形態かもしれぬ。主騎のあなたにだから言うが、わたしは、人に触れられることが怖いのだ。人に不用意に近づかれると、混乱してしまう」
「なに?」
これは、孔明の中にあるひみつのなかでも、もっとも知られたくない部分のことである。
が、自分でもおどろくほど、自然にひみつを打ち明けていた。
語り始めてしまえば、あとは早かった。
孔明は、今日の天気のことを説明するように、淡々とつづけた。
「わたしは早くに父を亡くし、叔父に引き取られた。叔父は好人物であったが、人が好過ぎた。劉表と朝廷の予章をめぐる対立に巻き込まれて、太守の地位を失った。劉表は予章から逃げてきたわれらを樊城に招いてくれたのだが、その樊城で、敵の暗殺者によって叔父は倒れた。
そのとき、わたしもその場に居合わせた。暗殺者は巧みだった。知り合いのふりをして近づいてきて、叔父を至近距離で討った。それを目の当たりにしたせいか、わたしは人に近づかれることや、触れられることが怖いのだ。身が竦んだり、混乱して、思わず相手を突き飛ばしたりしてしまう。
それでいままで、いろんな人間と喧嘩になった。こんなことはおかしなことだから、なかなか人に教えることはできないし、厄介なものなのだよ。触れてくるな、と予想できるものには、こちらもこころの準備ができるので大丈夫なのだが、急に寄られると、頭が真っ白になって思わぬ行動をしてしまう」
驚かれるか、あるいは冗談だろうと笑われるかと思った。
だが、趙雲は、いつになく真剣な顔をして、孔明のつぎの言葉を待っている。
その反応に安堵しつつ、孔明はつづけた。
「姉や弟には、悪癖は顔を出さないのだ。身内同然に長く付き合っている者にも平気だ。だから、じつは昔に会ったことがあるのかと思ったのだ。からかったとか、怒らせようとかしたわけじゃない。
しかし、やはりいままで出会ったことがないというのなら、どうしていま、平気なのかな。叔父上は、袁術と劉表に仕えていたのだが、あなたは袁術とは関わりがないのだったな」
問うと、趙雲は、真面目な顔をして、こくりと頷いた。
「ないな。だいたい、どこかで会っていたとしても、諸葛という、二文字の姓はめずらしい。おまえやおまえの一族のだれかと会っていたら、きっと忘れなかったと思う」
「そうか。では、なぜなのだろう。急に悪癖が直ったとは思えないし」
孔明が不思議そうに首をひねっている一方で、趙雲は、気まずそうに言葉を探している様子である。
悪ふざけをしようとしたことに、反省をしているのだろうか。
いちいち真面目な男だなと呆れていると、趙雲が口を開いた。
「午後からは手が空く。すこし仕事を手伝ってやろうか」
今度は孔明がおどろく番であった。
「ありがたいが、突然にどうして」
「いや、なんとなく」
「ふうん? まあ、ありがたいからその申し出は受けよう。そうと決まれば、わが執務室へ行こうではないか。ついでにあなたのその、崩れまくっている髪も結ってあげよう。これで、けっこう手先は器用なのだ」
「おかしな髪形にするなよ」
「わたしの髪を見るがいい。この素晴らしい感性のほとばしり」
「自分で言うな。だから不安なのだ」
憮然とする趙雲の表情に、けらけらと笑いながら、孔明は執務室へと向かっていった。
新野城の初夏の、とある一日のおはなし。
おしまい
(2006/03/14 初稿)
(2021/12/01 推敲1)
(2021/12/23 推敲2)
(2021/12/26 推敲3)
※あとがき※
〇 当初は「古鏡と銀の櫛」(同人誌・奇想三国志双龍伝の序章)の後日譚として書いたもの。同作を読まなくてもわかるように書き改めた。英華伝は、双龍伝とは別な話なので、馬良の家の建て直しについての話もカット。そしたら、つづくやりとりが成立しなくなってしまい、焦った。なんとか形にはしたが、面白いかどうか、疑問符のつく出来になってしまった。
〇 孔明の悪癖については、もしかしたら書き改めていくうえで無用になるかもしれないが、とりあえず、いまは昔の設定を大事に書いてみた。
〇 わかりづらい箇所、ヘンテコ文章、誤字脱字…あいかわらず。
〇 タイトルは最初「水際」だったが、なにも考えず適当につけたものだったので、「井戸のとなりの百日紅の下」に変更した。
〇 麋竺が強い霊感の持ち主というオリジナルの設定を追加した。
〇 「陳叔至と臥竜先生の手記」~「ねずみの算数」の流れで、孫乾や簡雍らとも打ち解けた孔明。旧シリーズでは、そのあたりを丸ごと端折って、いきなり「孤月的陣 夢の章」に突入していたので、短編にそれぞれの変化をちりばめて書いてみた。これを受けた「臥龍的陣」(孤月的陣のリライト版)がどういう風に変わっているかはおたのしみに。
ご読了ありがとうございました(^^♪
「耳が早いな、もう知っているのか」
「俺はおまえの主騎だからな。城内の動静に敏感なすずめたちが話をしているのを耳に挟んだのだ」
すずめというのは、おそらく城に仕える女たちなのだろう。
趙雲らしい表現であった。
「やっと打ち解けられたよ。やはり数か月は要するものなのだな」
「みな、十年近く同じ顔触れでやってきたからな。年若い新入りに慣れるのに時間がかかったのだろう。おまえは早く打ち解けたほうではないか」
「徐兄はもっと早かったのだろう?」
「あの方は特別だ。前にも言ったが、本当に打ち解けていたかどうかは、俺は疑問だと思っているが」
趙雲のことばに、孔明は遠い大地のかなたにいる兄弟子を思った。
徐庶は内気で繊細な男だった。
うまくやれているようではあったらしいが、実際は、心からみなと打ち解けるところまでいけなかったのかもしれない。
証拠に、徐庶をなつかしがっているのは、城内では自分だけのような気が孔明はしていた。
趙雲は水にぬれた髪をほぐし、あらためて結びなおしている。
雑に髪をまとめると、だらしなく見えるものだが、この男の場合、色気があるように見えるから不思議だ。
あらためて、姿が良いというのは得だなと孔明は感心する。
「子龍、ひとつ尋ねたいのであるが」
「なんだ、藪から棒に」
「昔、会ったことがあるか?」
趙雲は目をぱちくりとさせている。
「なんだって?」
「徐州に来たことはあるか?」
「たしかにあるが、おまえの住んでいた琅邪のほうには行ったことがない」
「予章は?」
「揚州のほうは、あまり詳しくない」
「隆中は?」
「あるが、おまえみたいに派手なやつに一度会ったら、忘れないだろう」
「そうか。やはり不思議だ」
「なんなのだ」
ぽかんとしている趙雲に、孔明はあらためて向き直って、手を差し伸べた。
差し出された手を、趙雲は、これまた気味悪そうに見る。
「なんだ」
「あなたも手を出したまえ」
趙雲は、おっかなびっくりと手を差し出してきた。
らしくもない、内気な子供のような仕草を意外に思いつつ、その手を握ってみた。
武器を持つ男の手だ。
ごつごつして、力強い。
だが、恐ろしさは感じない。
「うん、なんともないな」
「は?」
孔明は、手を離し、そして、自分の手を見た。
片手だけが、熱が移ったようにも感じられる。
うまく説明できない、奇妙な感覚があった。
「さっきから、いったいなんなのだ? 子仲どののことを聞いたかと思えば、旅行先を聞き始め、ついで、握手。わけがわからぬ」
うろたえている趙雲に、孔明は、おのれの手のひらをじっと見ながら、首をひねる。
「これは、混乱の新しい形態かもしれぬ。主騎のあなたにだから言うが、わたしは、人に触れられることが怖いのだ。人に不用意に近づかれると、混乱してしまう」
「なに?」
これは、孔明の中にあるひみつのなかでも、もっとも知られたくない部分のことである。
が、自分でもおどろくほど、自然にひみつを打ち明けていた。
語り始めてしまえば、あとは早かった。
孔明は、今日の天気のことを説明するように、淡々とつづけた。
「わたしは早くに父を亡くし、叔父に引き取られた。叔父は好人物であったが、人が好過ぎた。劉表と朝廷の予章をめぐる対立に巻き込まれて、太守の地位を失った。劉表は予章から逃げてきたわれらを樊城に招いてくれたのだが、その樊城で、敵の暗殺者によって叔父は倒れた。
そのとき、わたしもその場に居合わせた。暗殺者は巧みだった。知り合いのふりをして近づいてきて、叔父を至近距離で討った。それを目の当たりにしたせいか、わたしは人に近づかれることや、触れられることが怖いのだ。身が竦んだり、混乱して、思わず相手を突き飛ばしたりしてしまう。
それでいままで、いろんな人間と喧嘩になった。こんなことはおかしなことだから、なかなか人に教えることはできないし、厄介なものなのだよ。触れてくるな、と予想できるものには、こちらもこころの準備ができるので大丈夫なのだが、急に寄られると、頭が真っ白になって思わぬ行動をしてしまう」
驚かれるか、あるいは冗談だろうと笑われるかと思った。
だが、趙雲は、いつになく真剣な顔をして、孔明のつぎの言葉を待っている。
その反応に安堵しつつ、孔明はつづけた。
「姉や弟には、悪癖は顔を出さないのだ。身内同然に長く付き合っている者にも平気だ。だから、じつは昔に会ったことがあるのかと思ったのだ。からかったとか、怒らせようとかしたわけじゃない。
しかし、やはりいままで出会ったことがないというのなら、どうしていま、平気なのかな。叔父上は、袁術と劉表に仕えていたのだが、あなたは袁術とは関わりがないのだったな」
問うと、趙雲は、真面目な顔をして、こくりと頷いた。
「ないな。だいたい、どこかで会っていたとしても、諸葛という、二文字の姓はめずらしい。おまえやおまえの一族のだれかと会っていたら、きっと忘れなかったと思う」
「そうか。では、なぜなのだろう。急に悪癖が直ったとは思えないし」
孔明が不思議そうに首をひねっている一方で、趙雲は、気まずそうに言葉を探している様子である。
悪ふざけをしようとしたことに、反省をしているのだろうか。
いちいち真面目な男だなと呆れていると、趙雲が口を開いた。
「午後からは手が空く。すこし仕事を手伝ってやろうか」
今度は孔明がおどろく番であった。
「ありがたいが、突然にどうして」
「いや、なんとなく」
「ふうん? まあ、ありがたいからその申し出は受けよう。そうと決まれば、わが執務室へ行こうではないか。ついでにあなたのその、崩れまくっている髪も結ってあげよう。これで、けっこう手先は器用なのだ」
「おかしな髪形にするなよ」
「わたしの髪を見るがいい。この素晴らしい感性のほとばしり」
「自分で言うな。だから不安なのだ」
憮然とする趙雲の表情に、けらけらと笑いながら、孔明は執務室へと向かっていった。
新野城の初夏の、とある一日のおはなし。
おしまい
(2006/03/14 初稿)
(2021/12/01 推敲1)
(2021/12/23 推敲2)
(2021/12/26 推敲3)
※あとがき※
〇 当初は「古鏡と銀の櫛」(同人誌・奇想三国志双龍伝の序章)の後日譚として書いたもの。同作を読まなくてもわかるように書き改めた。英華伝は、双龍伝とは別な話なので、馬良の家の建て直しについての話もカット。そしたら、つづくやりとりが成立しなくなってしまい、焦った。なんとか形にはしたが、面白いかどうか、疑問符のつく出来になってしまった。
〇 孔明の悪癖については、もしかしたら書き改めていくうえで無用になるかもしれないが、とりあえず、いまは昔の設定を大事に書いてみた。
〇 わかりづらい箇所、ヘンテコ文章、誤字脱字…あいかわらず。
〇 タイトルは最初「水際」だったが、なにも考えず適当につけたものだったので、「井戸のとなりの百日紅の下」に変更した。
〇 麋竺が強い霊感の持ち主というオリジナルの設定を追加した。
〇 「陳叔至と臥竜先生の手記」~「ねずみの算数」の流れで、孫乾や簡雍らとも打ち解けた孔明。旧シリーズでは、そのあたりを丸ごと端折って、いきなり「孤月的陣 夢の章」に突入していたので、短編にそれぞれの変化をちりばめて書いてみた。これを受けた「臥龍的陣」(孤月的陣のリライト版)がどういう風に変わっているかはおたのしみに。
ご読了ありがとうございました(^^♪