はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

希望の鐘 最終回

2018年07月10日 09時07分12秒 | 希望の鐘
「文偉、いいかげん、宿直の爺さんの甥とやら、遅すぎやしないか」
偉度が尋ねると、うむ、と文偉も頷いた。
と、そこへ、みしり、みしりと床を軋ませ、何者かが近づいてくる。
「お、ようやく来たようだぞ。文偉、その希望の鐘を、がらごろと鳴らしまくれ」
よしきた、と文偉は派手に鐘をがらん、ごろんと鳴らしまくった。
すると、足音はどんどん此方へ向いてくる。
一人ではなく、複数のようであった。
そうして、がらりと部屋の扉が開かれる。
そこには、なぜだか軍師将軍諸葛孔明そのひとと、董允の父・董和、文偉の伯父の伯仁の三人が、それぞれしかめ面をして立っていたのであった。
その後ろには、かしこまった風の若い夫婦が、そおっと中の様子を覗いている。おそらく宿直の爺さんの甥と、心配してついてきたその女房らしかった。
偉度と文偉と休昭の三人が、ぽかんとしていると、孔明は、大きく息を吐いて、それから偉度に言った。
「おまえ、宿直の爺さんに、留守を預かったとき、鍵束も一緒に預かったであろう」
「はい」
「そのとき、ご丁寧に、門の鍵まですべて閉めなかったか」
「あ」
偉度は思い出した。
自分の辿った道を探られないように、すべて現状を元に戻して先に進む癖が、無意識のうちに出ていたのである。
「宿直の交代を頼まれたものの、中に入りたくても入れない。なのに、なかから、ガラゴロと、不吉な鐘の音がいたします、というので、この者たちが、わたしの屋敷にやってきた。
ところが、わたしは許氏の屋敷に招かれていない。どうしようというので、うちの家令が気を利かせて、董幼宰殿の屋敷に飛んで行った。すると、ちょうど囲碁をして遊んでおられた費伯仁どのも居合わせて、そういえば、うちの甥っ子も帰ってこないとなって、大騒ぎになったのだよ。で、あわてて左将軍府にもどってきたら、まあ」
と、孔明は、顔ばかりが雪のように白い、幽鬼も裸足で逃げ出すか、あるいはその場で笑い死ぬか、というくらいの顔をしている文偉と休昭、そして、らしからぬ過ちに、ぼう然としている偉度をそれぞれ見回した。
「とりあえず、無事でなによりだ。三人とも外に出るように」
「休昭、早くこっちへこい! まったく、なんだ、その情けない顔は! ほら、井戸へゆくぞ。顔を洗え! まったく、いい年をしてあきれたものだ、どれだけ心配をしたと思っているのだ、おおたわけ!」
と、董和は部屋から出てきた休昭を、抱えるようにして連れ出すと、井戸端へと急いだ。
一方の費伯仁はというと、甥っ子の、顔だけ美女、という姿に大笑いをし、しばらくぜいぜいと苦しそうにしていたが、
「おもしろい、傑作だ! お前は笑いに関しては、並々ならぬ感性を持っておる。さすがわが甥。鼻が高いぞ!」
「喜ぶべきか、微妙でございます、伯父上」
「あんまりおもしろいから、うちの家人にも見せてやろう。顔を洗う? だめだめ、これをわれらにしか見せないというのは、罪というものだ。ついでに、町のみなにも見せてやろう。よき芝居の宣伝にもなろうぞ。さあ、帰ろう」
と、これまた器の妙に大きなところを見せて、偉度を連れて、大笑いしながら、そのまま去っていった。

さて、孔明はというと、ほんのわずかに酒の香りをさせて、偉度から受け取った鍵束を、甥夫婦に頼むと、宿直をまかせて、その場を去った。
左将軍府の前には、御者のないちいさな馬車がひとつあるきりで、どうやら許靖から借りてきたものらしい。喬の姿もみえなかった。
「許靖さまのお屋敷に戻られるのでは」
と、偉度が尋ねると、孔明は答えた。
「喬は、今宵はあちらで泊まらせてもらうことにした。われらは帰るぞ。隣に乗れ」
「お酒を呑まれた方に、手綱を預けるわけには参りませぬ」
偉度はみずから御者台に乗ると、孔明もまた、その隣に座った。
「文鎮のせいで、とんだ騒ぎになったな」
「文鎮ならば、ちゃんと持って参ってございます。お屋敷に帰られますか」
「うむ、それもよいが、そういえば、わたしはおまえと酒を飲み交わしたことがないな」
なんです、とつぜんに、と答えつつ、たしかにないな、と偉度は思い出していた。
毎日のように顔をつき合わせているために、わざわざ酒を飲んで、いまさら親睦を深めることを考えたことがなかったし、偉度自身が、酒が嫌いなためであった。
「許靖殿の酒宴は楽しかったよ。あの人は、さすが洛陽で趣味人として鳴らしただけあり、洗練されている。文鎮なんぞどうでもよかったから、おまえも連れてくるべきだと思った」
「お気遣いだけで結構でございますよ。偉度は、酒は好みませぬゆえ」
「それは知っている。だが、おまえはやはり、多くの人ともっと付き合いを深めるべきだよ。ちょうどよい機会だから言うが、わたしがむかし、おまえに言ったことを覚えておるか」
「もちろん」
一言一句、鮮明に覚えている。
ついて行くと決め手から、偉度はそういうふうに孔明の示す道筋をたどってきた。
「わたしは、おまえが罪をつぐないたいと思うのであれば、わたしと共に来いと」
「たしかにそうおっしゃいました」
「わたしは、あのとき誤ったことを言った。わたしは神ではない。わたしはおまえを過去に縛っていた者たちと、同じ過ちをしてしまったのではなかろうか。偉度、世の中はとてもとても広いのだよ。きっと、わたしより、おまえのほうがずっとそのことを知っているだろうな。
だから、何千万人という人のなかで、諸葛孔明という人間ひとりが進む道だけを、お前が道しるべにすることはないのだ。おまえには、おまえの道しるべをおのれで決める権利がある。わたしはそれすら許さず、おまえについて来るように強制した。すまなかったと思う。許せ」
「何事でございますか、急に」
偉度が驚くと、孔明はすこし寂しそうに笑った。
「許靖どのの宴は、よい宴であったよ。途中で、舞が披露されてね、おおいに盛り上がったのであるが、突然に、許靖どのが泣き始めたのだ。なにかと思えば、夭折されたご子息が、この舞を好きだったのだという。それを聞いたほかの子供たちが、やはり嘆くのだ。
同情すべきではあったけれど、死がすべてを止めてしまっている。ふとそんなふうに感じて、おそろしくなった。人は己の死を乗り越えることはできない。とすれば、他者の死など乗り越えることはもっとできないのかもしれない。まして、相手が特別であれば、なおさらだ」
馬車はゆっくりと進む。
偉度は、孔明の言葉のひとつひとつを聞き逃したくなかったので、わざと馬の歩みを遅らせていた。
「偉度、お前はわたしを見ていない。わたしの中の、死者を見て歩いているのだ。わたしと共にいる限り、おまえは窒息してしまうだろう。おまえの献身はありがたく思う。だが、過去と戦えといっておきながら、わたしはおまえに、過去を背負わせていたのではないだろうか」
「この手が手綱を握っていなければ、殴りますよ、軍師」
うん、と孔明は意外そうに、となりの偉度を見る。
偉度は、馬の足をさらにゆるめて、言った。
「わたしは、あなたなんかより、ずっと人を見る目があるのです。そのわたしが、あなたについていくことを決めた。なのに、そのあなたが、それではいけないと仰るのですか。
わたしだって、迷うことだってある。いや、迷ってばかりなのだ。狂気に捕らわれてしまったほうがどれだけよいか、過去に溺れてしまったほうがどれだけ楽か、あなたなんかには、すこしもわかりはしないでしょうよ。それでも正気に戻ってくることができるのは、あなたの言葉があるからなのだ。
それを否定なさるなら、いますぐ偉度を殺しなさい。わたしは、あなたの名づけた者です。わたしは、あなたの子なのだ」
しばらく沈黙が続いた。
いちばんゆっくりと走らせている馬車の、車輪の音がやけに大きく響く。
前方の、月光に揺れる馬の背が、そこだけ生き物の気配を感じさせていた。
不意に、髪に手の触れる感触があり、偉度は孔明の手で、頭を引き寄せられるようにして、その肩に頭をあずける格好となった。
「すまなかった」
孔明の声が、すぐそばで聞こえた。この人の声は、こんなに深く、優しかっただろうか。
「ほんとうにすまなかった」
「なにをなさるのです、危ないでしょう。運転中ですよ」
偉度の強がりに、孔明はちいさく苦笑を洩らし、それからさらにつよく偉度の頭をつよく引き寄せてきた。
「おまえが望む未来は、残念だがわたしには見ることができない。でも、おまえがわたしといて、それでよいというのであれば、わたしはお前の望むものになるよ」
「あなたは、あなたのままであればいい。わたしのことなんぞ、いちいち考えなくてよいのですよ…なぜ泣くのです。ほんとうにあなたは、会ったときから泣いてばかりだ」
偉度は自分の双眸にも、慣れぬ生暖かい水があふれてくるのを覚えていたが、これはただの水、と自分に言い聞かせ、嗚咽を漏らしそうになる唇をぐっと堪えて我慢した。
そうして、馬車は、ゆっくりと闇夜に消えて行った。



其の夜、宿直の爺さんのひ孫は無事に誕生したそうである。



おしまい
2005年7月に作ったおはなしでした。

希望の鐘 4

2018年07月09日 09時37分28秒 | 希望の鐘
「すごい! 休昭がそれらしくなってきた! ほれ、鏡!」
鏡を見せられた休昭は、顔を真っ赤にして、唐辛子をふたつ重ねたように真っ赤になっている唇を尖らせた。
「ばか、これでは真面目な話が、ただの笑い話になってしまうではないか!」
「もとより、おまえが女神、という時点で、すでに笑い話なのだよ。張将軍に負けない伝説をつくれ!」
「いやだ、そんな伝説! だいたい、馬季常さまも、張将軍も、すでにそれなりの地位のあるお方であったから、みな笑うだけで終わったのだ! 私のような、ただのびんぼう書生が女装したなら、単に同情と奇異のまなざしで見られるがオチ! 第一、父上が悲しまれるお姿が目に浮かぶ! やっぱりいやだ!」
と、この普段は大人しく、(本人の意思とは裏腹に)流されるだけ流されて、いつのまにやら、ろくでもない位置にいる青年は、今日もまた、こんなのはいやだといって泣くのであった。
「ううむ、たしかに幼宰さまは嘆かれるであろうな。ほかのことならばともかく、あのお方は休昭のことになると、目の色がかわる。大事な一人息子が、みなの笑いものになっているのを、みなと一緒になって笑えまい。というか、この芝居を企画したわたしが怒られる可能性がある」
しくしくと泣いている親友にほだされたか、そうつぶやく文偉に、偉度はうんざりして言った。
「わかっているのならば、おまえがすればよかろう、女神役。たしかに休昭は柔らかな顔立ちをしているが、女装が似合うかどうかというと、また別だ。顎の発達具合からすれば、おまえのほうが、化粧をすれば女に見えるぞ」
文偉は気味悪そうに言う。
「なんだ、偉度。おまえ、いつも人のこと、そんなふうに観察しているのか?」
「やかましい。忠告が必要そうであったから、教えてやっただけのことであろうが! それよりほれ、おまえも化粧をしてみるがいい!」
休昭ほど抵抗はなく、おそらく好奇心が勝っているのであろう。
文偉は意外に協力的に、みずから偉度に化粧をほどこしてもらう。
「ほんとうだ、女だ、女っぽい!」
と、泣いたために不気味に顔が崩れている休昭(現代のわれわれから見れば、その顔は、ピカソの『ゲルニカ』の泣く女にそっくりであった)は、目を輝かせる。
「よし、それではわたしが心栄えの立派な若者をやる。おまえは女神。それでよかろう!」
「よかろう、ってな、よいわけがなかろう!」
憮然として鏡を見て、文偉は言った。
たしかに文偉は白粉をはたき、紅をさせば、休昭よりは綺麗にみえたけれど、綺麗、というだけで、女らしさとは程遠いのであった。
偉度もうなずく。
「たしかに顔かたちは悪くないのに、たとえ女装させても、衆目は納得せぬぞ。これは単なる化粧の好きな変な男だ」
「どこが悪いのであろう?」
偉度は、化粧をして、顔ばかり雅やかになった文偉を、頭からつま先までじろりと見下ろす。
「うむ、雰囲気だな。休昭が、ろくに化粧もしなくとも女らしく見えたのは、その性格が女らしかったからだ。だが、文偉は、顔は女顔ともいえるが、性格が男丸出し。だから、これっぽっちも女らしくないのだ」
休昭は、じっとりと偉度を睨みつける。
「偉度、どさくさにまぎれてすごい悪口を言っていないか。つまり、わたしは女々しいと。きみ、言っておくが、この狭い部屋に、二対一だぞ」
よほど傷ついたのか、泣いて開き直ったのか、めずらしく凄んでくる休昭に、偉度は鼻を鳴らして言った。
「二人だろうと二十人だろうと、おまたち程度ならば、怖くともなんともない。瞬殺だ」
そうしてにやりと笑うと、なにやら説得力があったらしく、ふたりは、う、と呻いて偉度から距離を置いた。
やれやれ、ばか坊ちゃん。もともと住む世界が違うのだ。こうして三人でいること自体が、おかしなことなのだぞ。
またもや泣きそうな顔になっている休昭に、文偉は化粧した顔のまま、宥める。
「まあまあ、そう気を尖らせるな。おまえがそれほど嫌なら、女神役はわたしが代わってやるさ。台詞を覚えなおさねばならぬが、たいした手間ではあるまい。うちの伯父は、幼宰さまのように、わたしが女装をしても怒らぬであろう。むしろ、腹を抱えて大笑いするであろうさ」
「文偉―」
と、別な意味で泣きそうになっている休昭を見て、文偉はからからと笑っている。
このさわやかさ。
軍師ならば微笑ましく思うのであろうが、偉度は嫉妬もあり、苛立ちしか感じない。

おのれの性根の悪さを恨みつつ、偉度は文偉に言った。
「おまえのところは伯父上だけであったか。従兄どのは演芸大会やらには出ないのか」
「忙しくて無理であろうな。そういえば、このあいだ、ようやく長い休みを取れるようなので、温泉に行くのだと手紙にあったよ。家族でひっそりしているほうが、あのひとにはいいのだ。わたしのように、みんなと賑やかにしているほうが、楽しい人じゃないから」
「おまえは、みんなと馬鹿騒ぎをするのが好きなのか」
「偉度は嫌いか? わたしは好きだな。だって、一人ではないと思えるだろう」
「一人か。集団の中にいるときのほうが、むしろ己が異質と感じて、自分が一人なのだと思わぬか」
と言ってしまってから、偉度はしまったと思った。
どうもこの費文偉、本人にその気はないのだろうが、つい本音を漏らしてしまいたくなるところがある。
その呆れるほど明朗で素直な性格が、対峙する者をも素直にしてしまうのだろうか。
さて、なぜだと問われたら厄介だ、こういう内面的な話をぐずぐずするのは好きじゃない。
なにか話題を変えようと考えていると、意外にも、休昭が横から入ってきた。
「それは判るな。わたしも、賑やかな場は好きじゃない。きみみたいに話題が豊富じゃないし、みなを笑わせることもできない。気を使うばかりでひどく疲れるし、みんなが楽しそうにしているのに、自分だけ疲れてションボリしている、自分はみなと違うのではないかと、不安になるよ」
すこしちがうが、不安になる、という点では似ている。
偉度は、休昭にすこしだけ親近感をおぼえた。
「わたしは幼少の頃から、父上に大事にされすぎたからだろうか、他者とうまく繋がることができないのかもしれぬ。いつも父上の真似をして、こうしよう、ああしようとするのであるが、父上が素晴らしすぎて、なんというか、壁にぶつかるような感覚があるのだ。父上は超えられぬ。あの人のように、みなから慕われる官僚になるにはどうしたらよいのかと考えて…それで実は、芝居のことも乗ってみたのだ。でも、女装はヤッパリ嫌だ」
「なるほど、そういうことであったか、ならば、なおさら女神はわたしがやるべきだろう。どう思う、村人その一兼そのニ兼村長」
「どう思う、といわれても、休昭の内面のことであろう。わたしには、まあ、がんばれとしか言いようがないよ。よき父上がいてよかったではないか」

偉度は、父親に関する記憶のすべてを封じている。
嫌な思い出ばかりではなく、いい思いでも、ほんとうに砂粒ほどではあったけれど、あったのだ。
一緒に遊んでもらったこと、肩車をしてもらったこと、どれだけ楽しくてうれしかったか。
あの男、名も知らぬ男に殺されたあの男は、自分の息子が、あのとき一瞬でも、世界のすべての愛情を、父親を通して得たのだと知っていただろうか。
知っていてもなお、家門のためにと理由をつけて、自分を奈落の底に突き落としたであろうか。
あんな男には決してならないし、なろうとしても、そうなれるものではあるまい。
優しい感情が、どこかで壊れて根こそぎなくなってしまったのだとしか思えない。

『もしかしたら、おまえの父親も、程度こそちがえ、親か、あるいは他の大人に、似たような目に遭わされたのかも知れないぞ』
と、いつだったか、あのひとが言っていたことがあったな。
そう、めずらしく、孔明が裁定を下した裁判のあとであった。
博打で借金を方々にこさえ、先行きに不安をおぼえた男が、妻子を殺害し、自分も死のうとしたのだが、果たせなかった、という事件であった。
男に同情をする向きもあったが、孔明は処刑の判定を下した。
男が、最後まで、妻子はこれで苦しまずに済んだのであるから、死んでよかったのだといい続けたからである。
孔明は男の身辺を偉度に調べさせた。
偉度が調べたところによれば、やはり男の親も、博打狂いで借金をつづけており、しかもひどい酒乱で、妻を殴打しては鬱憤を晴らす毎日であったという。
親が曲がっていたから、子も曲がる。だから、自分の子も曲がるにちがいない。だから始末したのだ。良いことをしたのだ。これは親の過ちをこれ以上、ふやさないための孝行である。男はそういい続けて死んだ。
あの男…父も、祖父という人物に虐げられたことがあり、自分にも『家門を守る』ための犠牲を強いたのであろうか。
だとしたら、自分がもし子ができたとして、自分はどうしてやれるだろう。
そう考えたとき、偉度は、自分は、結婚はしないし、子も作らないことを決めた。
いっそ宦官になってしまいたいとさえ望んだ。
そのほうが、悲劇が増えずにすむ。
それを孔明に告げると、いきなり横面をはたかれた。
『おまえは、父親の影に怯えて、そこで負けるのか。父親を憎むのであれば、とことんまで憎め。そして、打ち克ってみせるがいい! おまえの陥った境遇には同情する。しかし、かといって、おまえの犯した罪のすべてが消えるわけではない。おまえは、罪をつぐなう意識があるのか?』
ある、と偉度は言った。
父親も、樊城をめぐるいざこざも含めて、殺さなくていいもの、傷つけなくていいもの、過去には許しを請わねばならぬものが有りすぎた。
顔も名前も思い出せない者たち。彼らにどう償ってよいのかわからない。
自分がそもそも、父親と母に捨てられた『間違った子供』であったから、こんな間違ったことをするのだと、そう言い訳を繰り返し、罪もつぐなわずに生きるのかと、孔明は問うたのであった。
『もしも、心の底から罪をつぐないたいと思うのであれば、おまえの良心のすべてに賭けて、正しいと思うことのみを実行することにせよ。殺めた相手は生き返らぬし、傷つけた相手に謝ったところで、言葉だけではなにもならぬ。
己の身がいかに引き裂かれようと、辛かろうと、苦しかろうと、過去と戦え! 過去を葬るということは、過去を殺すこととは違うのだ。おまえがおまえである限り、過去は決して死ぬことはない。
お前の忌まわしき過去を生んだものを恨み、同じことばかりくりかえし思い出し、煩悶と苦しみ生きることを選ぶか、それとも、新たな苦しみに飛び込み、忌まわしき事実をすこしでもよき方向に流そうとするために、わたしと共に来るか、どちらかを選べ!』
ああ、そうだ。そこでついて行く、と言ったから、いまわたしはここにいるのだった。
なんだって死ぬことを考えたり、一人はさびしいなどと、考えたりしたのであったかな。
どうして、嫌なことばかりは鮮明に覚えていられるのに、よいことは忘れがちになってしまうのだろう。

つづく……

希望の鐘 3

2018年07月08日 09時50分32秒 | 希望の鐘
文偉はヒマなのか、それとも、いますぐ甥とやらが来てくれることを期待しているのか、しばらく、がらんごろんと青銅の鐘を、頻繁に鳴らし続けていた。
休昭は、部屋の隅で白い衣を被ったまま、力ない様子で膝をかかえてつくねんとしており、偉度は偉度で、甥とやらが来たならば、すぐに部屋を出るつもりであった。

この二人が嫌いではない。
孔明が、この二人を好きだからだ。
偉度は四六時中孔明という人間を観察しているので、表立ってはけっして好悪の感情をあからさまにしない青年軍師の、ほんのちいさな感情のひだまで読み取ることができる。
孔明は、この聡明で素朴で実直で、それでいて不思議と…たとえは悪いがこんにゃくのように、するり、するりと世の悪や誘惑をすり抜けて、のびのびと過ごしている二人を好ましく思っているようであった。
きっと、あの人の襄陽時代もこのような呑気なものであったのだろう。
天下を論じ、夢を見、ときに悶々と悩み、友と衝突し…それでも後ろ暗さの欠片もない、うらやましいほどの夏の太陽のような、まぶしく熱にあふれたときを過ごしたのだ。
青春と聞くと、それだけでたいがいの者は、気恥しさと懐かしさの入り混じった感情にとらわれるようであるが、偉度の場合は、まるで神仙の世界のなにかの道具と同じくらい、ぴんとこないものであった。

偉度は繁華街へ足を向けるのが嫌いだ。自分と同じ眼差しを、雑踏の中に見つけるのが嫌いだ。
だけれど、左将軍府には、自分と同じ眼差しをもつ者がない。どれもみんな、世の中を真っ直ぐに見つめようと気概にあふれた、清い目をしている。
劉備は、周りにあつまっているのが、どうも真面目な一辺倒すぎる。孔明は、器量がちょいとばかり狭いのじゃねぇか、などと心配をしているようだが、孔明は劉備ほどに、心の芯がつよくできていない。まだ鍛えられきっていない鉄と同じなのだ。
自分だけならまだしも、魏延や糜芳みたいなのがうろうろしてみるがいい。一ヶ月ともたず、左将軍府はぴりぴりした嫌な空気に包まれてしまうだろう。
もっとも、それを治めるのも器量というものなのであろうが、孔明はまだ若いのだ。これから力をつけていく段階なのである。
自分だけでいいのだ。そう、あのひとはまだ、自分だけのものであればいい。

とっとと甥とやらがこないだろうか。じっとしていると、ろくなことを考えない。

其の間も、文偉はよほどヒマなのか、がらん、ごろんと鐘を鳴らし、最後には節をつけて、調子外れた歌まで唄いだす始末。
それを遮るように、偉度は尋ねた。
「なあ、希望の鐘などという名前がついているが、なぜそのような名前なのだ?」
「さあて、爺さんの話だと、さんざん脅されたやつが、『是、判りました』と答えて、ようやく解放してもらえる、その合図がこの鐘の音だったからだと聞いたが」
ぞっとしない話だと思いつつも、しかしあの宿直の爺さんは、孔明が左将軍府の主となってから、雇った人間ではなかったか、と偉度は思い出していた。前任のだれかから聞いたのであろうか。
「しかし、甥とやらは遅いな。爺さん、泡を食って、甥っ子の家によるのを忘れたのじゃないだろうか」
文偉がぼやくと、それまで膝を抱えてつくねんとしていた休昭が、ぽつりと言った。
「子供か。無事に生まれるとよいな」
「ああ、お前のところは母上が、おまえを産んですぐに亡くなったのだったな」
文偉の言葉に、休昭はこくりと寂しそうに肯く。
「だから、どんなお方か、顔すらわからぬ。父上は、わたしは母上にそっくりだと言うのだが」
「たしかに、おまえは頑固なところ以外は、あまり幼宰さまに似ておらぬな。伯父に聞いたが、お美しいお方だったそうだぞ」
「うん、それは父も言っていた。お前のところは、たしか、弟か妹を産んだ直後に亡くなられたのだったな」
「ああ。そもそも、懐妊が決まったときから具合がわるくて、産婆からも堕胎を進められていたほどだったらしいのだ。それでも産みたいといって、結局、出血がひどくて、弟ともども亡くなってしまわれた。母上の横で、父上が泣きもせず、なにも言わずに背中を丸めて、じっとされていたのを今でも覚えているよ。
おもえば、父上の活力の源は、すべて母上だったのだな。あれから、馬車馬のように働くだけ働いて、体を壊して、母上が亡くなられてからすぐに、父上も倒れて、それきりだ。なんというか不思議なものでな、こういうと薄情に思われぬかもしれぬが、わたしは、父や母が死ぬのだということを、事前に気づいていたよ」
「ほう」
なんというのかな、といいながら、費文偉は手持ち無沙汰に鐘をがらんごろんと響かせながら、慎重に、言葉をひとつひとつ選びながら言う。
「死の気配というのだろうか。影、というのかな。家に、生き物みたいにそれが常に『いる』のだ。妖怪の類いとかではないぞ。気配があるだけで、なにをするでもない、恐ろしくもなんともないのであるが、こいつがいるからこそ、母上も父上も、間もなく亡くなられるのだな、と」
「それはわかるな」
思わず、偉度は口を挟んでいた。

淀んだ死の気配の中、どんどん真綿で首を絞められていく状況にあると知りながら、それでも劉琦を守るために死んだ男。
あの男の周囲にも、死の気配がつねに付きまとっていた。
もはやどうしようもなかった。
どうしようもできないことを知っていた。

ふと、がらごろと鐘を鳴らしつつ、文偉が水を向けてくる。
「そういえば、わたしは偉度のご家族のことを何も知らぬな。弟君がいるのであったっけ?」
「ああ、義陽で家を継いでいる。異腹でね、あれのほうが正嫡だったから」
と、偉度は嘘をついた。しかし抵抗感はない。
いつもついている嘘であったから、繰り返しているうちに、それが本当のように自分でも思えるようになってきていた。
それでは、と文偉がさらに言葉を継ごうとするので、すかさず偉度は遮った。
「おっと、父と母のことは言いたくない。そんなふうに人の詮索をしているより、おまえたちはこの隙にでも、せっせと芝居の練習をしたらよかろう」
「よかろう、ってな。おまえときどき、軍師にそっくりな口を利くから、こちらもどきりとするよ。まあいいや。休昭、どうする」
文偉に促された休昭は、気乗りのしない様子で、答えた。
「だが、宿直の甥とやらが来るまでは落ち着かぬ」
「ただぼんやり待っているよりは、よほど有意義だぞ。そうだ、偉度、おまえ、わたしたち以外の役をやってはくれぬか」
「なんだ、おまえたち二人だけの芝居ではないのか」
「うん、ほかの連中は、やれ酒の付き合いだ、女房が待っているだのと、なんやかやと理由をつけて帰ってしまったのだ」
「ふん、見たところ、休昭の女神役も、その要領のいいやつらに押し付けられたのだろう」
図星であったらしく、休昭は答えないまま、むっつりと黙り込んだ。

休昭や文偉にとっては世間話でも、偉度にとっては時に、薄氷の上を踏むような、嫌な作業になることがある。
自分では図太いほうだと思いこんでいたのだが、近頃はどうしたことか、過去と現在の感覚が、だんだん曖昧になって、どちら側にいた自分が本当だったのか、わからなくなってきているのだ。
刺客としての酷薄で容赦のない胡偉度か、孔明の有能な主簿としての冷徹な胡偉度か。
どちらにしろ、人に好かれる立場ではない。
そもそも、好きだと言ったことはあったけれど、それはあくまで手段だけの話であった。
此方の身体を餌に、相手を油断させるための、最初のとっかかり。
甘い言葉は、だれにでも耳障りが良いらしく、好んで聞きたがる。好きだの、えらいだの、立派だの、美しいだの、格好よいだの。
もちろん、偉度とて、そのお返し、とばかり、いろんな美辞麗句をもらったことがある。
だが、たった一言だけ、一度も、誰からも、もらったことがない言葉がある。
「愛している」
「は?」
ぎょっとして思わず声を上げると、かえってぎょっとした文偉と休昭が、偉度のほうを見た。
「なんだよ、おまえの出番じゃないぞ。ここは山場なのだから、『村人その一』は大人しく野良仕事をしているのだ。突っ込み不要!」
「ああ、わかった。『村人その一』は、真となりで濡れ場が展開されようとしているのに、まったくそれと気づかぬように、農作業をしている間抜けなフリをしていればよいのだろう。ぼんやり度が過ぎていたよ。すまぬ」
「まったく、おまえ、わたしたちのことを、ずいぶん棒読みだの、大根だのけなしていたが、おまえだってまるでダメじゃないか」
「当たりまえだろう。芝居に出るのはわたしではないのだ。それと文偉、おまえ、まともに誰かに愛を告白したことがないだろう。全然気持ちがこもっていないから、山場どころか、ここで客は呆れてみな眠りだすぞ」
「言ってくれるではないか。するとおまえは、そう言うことを、言ったことが…」
と、しばらく文偉は、いつもの冷笑的な笑みを浮かべる、地味にはしているものの、秀麗な顔立ちをしている、どこか色気さえ感じさせる偉度を見つめていた。
が、やがてぼそりとつぶやいた。
「ありそうだな。たっぷり」
ふん、ばか坊ちゃんども。年季が違う、と心でつぶやき、偉度は鼻を鳴らした。
「だいたい、そんなどこかの布団みたいな布だけを被った男に、色っぽい台詞を言おうとするのが間違っておるのだ。休昭、化粧しろ」
はあ? といいつつ、休昭は小動物並みに危険を察知し、元刺客(一応現役でもあるが)の偉度の前から、すばやく後ずさった。
しかし文偉は大いにうなずく。
「よくぞ言ってくれた。実はちゃんと白粉やら紅やら、一式全部持ってきてあるのだよ。それなのに、こいつが嫌がるものだから。ほら、偉度もこう言っているのだ。覚悟を決めて、女神になりきれ! 芝居を甘く見てはならぬ。そんなことでは、とてもではないが、お客様を満足させることはできないぞ!」
「わたしは、本職の俳優ではないのだぞ!」
せまい部屋で、しかも孔明よりもなおとろい、と評判の高い休昭は、あっさり文偉に捕まって、偉度の手により、手早く化粧が施された。
その慣れた手並みに、おおー、と文偉が感嘆の声を挙げる。

つづく……

希望の鐘 2

2018年07月07日 09時34分28秒 | 希望の鐘
「いきなりすごいやつだな、おまえは。ああ、腹が痛い」
と、蹴られたところをさすりつつ、文偉は立ち上がる。文偉と偉度の年はさほど変わらないため、文偉は人懐っこい性格を発揮して、偉度に対し、最初から親友のように親しげな口を利いている。
なぜこんな素早い芸当が出来るのだ、と突っ込まれたらやっかいだと思っていた偉度であるが、呑気は文偉はそこには突っ込まずに、目を回している休昭のほうに言った。
「おい、起きろ、休昭。賊じゃない、偉度だ。女神のくせして、これしきで倒れてどうする」
「女神?」
床に伸びている貴公子然とした休昭は、たしかに父親に似ず、柔和な顔立ちをしているが、しかし女神などとはお世辞にも言えない。
「おまえたち、もしかしてこうやって逢引をしている、怪しい関係か」
冗談ではなく本気で偉度が尋ねると、それまで気絶していた休昭が、がばりと起き上がった。
「人を変態のように言うな! わたしたちは芝居の練習をしていたのだよ!」
「芝居? 演芸大会があるということだが、それか」
「そうだ。主公がおっしゃったことであるし、われら無名の書生としては、ここが名を売るよい機会であるから、芝居を披露しようということになったのだ」
「で、女神? どこの女神だ? 気絶の女神か?」
「ちがう。心栄えの立派な若者が、天帝のおめがねにかなって、娘に姿をかえた女神を妻にするのだが、途中で正体が知れて、天に帰ってしまう、という、あの芝居をするのだ」
やっと文偉が、いつもの粗末さかげんに加えて、腰蓑に籠を提げた漁夫の格好をしているのに気づき、偉度は合点した。
「ああ、あの、実は正体が、虎だか鶴だか亀だか狸だか、ともかく人ではなかった、という、よくある御伽噺か。で、文偉がその『心栄えの立派な若者』で、休昭が『女神』? しかしなぜ左将軍府で芝居の練習なんぞしているのだ。おまえらの勤め先はここではなかろう」
「仕方なかろう。みなにはナイショなのだ。幼宰さまにはご了解いただいているし、軍師もご存知のはずだぞ。というか、休昭が、女装している姿をだれにも見られたくない、とわがままをいうものだから」
「女装、ねぇ」
女装というよりは、白い布を被っただけの董允の姿に呆れつつ、偉度は短刀をしまいながら、言った。
「そういえば、荊州にいたときも、似たような芝居をしたことがあったな。薄気味悪い女装を披露してさ」
「へえ? おまえがやったのか?」
「いいや。最初は趙将軍と軍師で、ということで話が進んでいたのだが、お二人が強烈に嫌がったものだから、結局、籤を引くことになったのだ。考えてみれば、身の丈八尺の美女なんてぞっとする」
「そうか? 軍師なら、きっとお似合いだったと思うのだがな」
「おまえたちが思っているほど、あのひとは女顔じゃないぞ。まあ、それはともかく、籤の結果、立派な若者に馬良、嫁に張飛どの」
文偉と休昭の両方から、同時に「うわー」という声が挙がった。
「見たかったような、見たくなかったような」
「見たほうは悪夢にうなされたがな。しかし、こうも遅くまで芝居の稽古とは感心せぬな。帰らなくていいのか」
「しかし、まったく台詞がおぼえられぬのだよ」
見てやる、と偉度が言うと、文偉と休昭は、しぶしぶながらも台本を片手に、芝居をはじめた。

文偉「おお、これはなんという美しい人か。お嬢さん、いったいどうなさったのですか(棒読み)」
休昭「あなたさまのお心に打たれました。どうぞ妻にしてください(棒読み)」
偉度「盛り上がらぬこと、甚だしいな」

偉度の容赦ない感想に、文偉と休昭は同時に口を尖らせた。
「じゃあ、おまえはできるのか」
偉度は鼻を鳴らして、傲然と胸を張る。
「もともとの素材がちがうしね。わたしが女装したら、すくなくとも五人は虜にしてやれる自信があるぞ」
「それって、自慢できることか」
「ふん、どちらにしろ、演芸大会に出るのはわたしじゃない。まあ、せいぜい頑張るのだね。当日は、笑いに行ってやるよ」
休昭が怒って、暴れだしたのを、文偉が懸命になだめているのを尻目に、部屋を出ようとした偉度であるが、戸口が開かない。
「おや、なにかつっかえているのだろうか」
と、見るが、桟のところには特に何もないのであった。困ったな、とつぶやく偉度に、文偉は言った。
「なんだ、左将軍府に勤めているくせに知らぬのか。この部屋は、内部からは開かない仕掛けになっているのだよ。劉璋時代に、この部屋は、政敵を閉じ込めて脅すために使われていた、特殊な部屋だったとか」
なるほど、と偉度は周囲を見回した。
孔明をはじめ、だれかがこの部屋を使ったところを見たことがないし、見たところ、ただの物置としてしか用を成していないらしい。
脅迫などといった陰湿な手を使うことを拒む孔明が、この部屋を使うこともなければ、使わせるはずもないのであった。
「それでは、おまえたちは、どうやってこの部屋から出る」
「そこはそれ。希望の鐘」
といいつつ、文偉は部屋の隅っこに置いてあった、青銅の、杯をひっくり返したような大きさの鐘を取り出した。
「宿直の爺さまを、これで呼び出すのさ。帰るのだろう」
「急ぎ、軍師のところへ行かねばならぬからな。おまえたちは、まだ残るのか」
「うむ。盛り上がらぬといわれては、こちらも立つ瀬がない。見ておれ、当日には、みなが思わず踊りだすほど見事な芝居をみせてくれよう」
「期待してないで待っていよう。さあ、希望の鐘とやらを鳴らしてくれぬか」
ほいきた、と文偉は手にした鐘をがらんごろんと、なんとなく陰湿な音をさせて派手にならした。

鐘の音は、しんと静まり返った闇を抜け、左将軍府に響き渡った…

はずなのであるが。
「爺さんがこない」
と、つぶやいてから、偉度は、はっとした。
「宿直の爺さん、孫が産気づいたといって、さっき飛び出して行ったばかりだぞ!」
「なに? まことか? 俺たちがここに入るときは、なにも言ってなかったのに!」
「それはそうだ。孫が産気づくことを早々に予知できるものか。さて、困った。となると、この鍵束もこの部屋では役にたたぬというわけか…」
と、偉度は、爺さんからもらった鍵束を見下ろした。
「つまり?」
顔をひきつらせて尋ねてくる休昭に、偉度は答えた。
「つまり、わたしたちは、朝までこの部屋に閉じ込められる、というわけさ。いや、待てよ、爺さんの甥というのが代わりにやってくるのであった。それまで、しばらくここで我慢するか」

つづく……

希望の鐘 1

2018年07月06日 20時32分59秒 | 希望の鐘
「いかん、忘れた」
の、孔明の一言がすべての始まりであった。
どうなされたのです、と偉度がたずねると、孔明は、あらためて袖やら、衣にあわせてしつらえた手提げやらを探っているのであるが、やはり失せ物はみつからないらしく、柳眉をしかめた。
「なにをお忘れでございますか」
「文鎮だ。此度、よい石が手に入ったというので、主公がわざわざわたくしに贈ってくださったものなのだが」
「ああ」
あの、とのさまにしては趣味の良い、と偉度は心のなかで付け加えた。
光沢といい、肌触りのなめらかさといい、適度な重さ、大きさといい、その豪奢な彫り物といい、非の打ち所のないものなのである。しかも洒落ていることには、水を跳ね除けて泳ぐ勇壮な魚の姿がそこにはあり、つまりは世人の口に上った『水魚の交わり』を、形にしたものであった。

すなわち、劉備の軍師にもとめられた孔明であるが、若いことと無名であることなどが古参の将兵の不満を招いた。
それを押さえるために、劉備は「俺が孔明を得たのは、魚が水を得たようなもんなんだよ。堪えておくれな」と言ったことからはじまる。

あたらしい奥方をもらってから、とのさまは趣味がよくなられた、と偉度は思うが、孔明は以前のご夫人がたのほうに強い思いいれがあるらしく、そういった話題にはあまり乗ってこない。
それはともかく、孔明は、贈られた文鎮を大切にしていたので、公務ではもちろんのこと、自邸にもそれを持ち帰り、大切に使っているのであった。
孔明のことばを聞いて、御者と一緒に迎えに来ていた、養子の喬が、なにも言われないうちから馬車を降り、とことこと左将軍府に入って行こうとする。
偉度はそれを留めた。
「お待ちなさい、喬さん。今宵は、あなたはお父上と一緒にお呼ばれなのでしょう。遅刻をしてしまいますよ。軍師のお忘れ物ならば、わたくしがもちに行き、あとで届けに参りましょう」
言うと、横で聞いていた孔明は、すまなさそうに言う。
「よいのか」
「それも主簿の仕事でございますから。道中の、せっかくの親子水入らずに邪魔をしてもいけない。許靖さまも首を長くしておまちでしょう。さあ、遅くならないうちに出かけておしまいなさい。ただでさえ、遅れてしまっているのだから」
「ならば、おまえの言葉に甘えるとしようか。だが、偉度よ、もう暗いゆえ、見つからぬかもしれぬ。そのときは無理をせず、もう帰ってよいぞ。あの文鎮がよい、というのは、単なるわたしの我侭であるからな」
「わたくしを誰とお思いか。闇夜にはつよい。お任せなさい。それでは、またあとでいずれ」
喬は、軽く偉度に手を振ってふたたび馬車に乗り込み、そして孔明も偉度を気にしつつも、許靖の家に向かって行った。

許靖という男、頭に馬鹿がつくほどの正直者で、数々のあきれるほどの不運…董卓に殺されそうになったり、孫策に殺されそうになったり、南蛮の地に逃げたら風土病にかかったうえに道に迷って一族が全滅しかけたり、劉備にひとりで降伏しようとして世の中の笑いものになったり…を乗り越えて年を取った男である。
偉度が見るに、おそらく肝臓を傷めているのではないか、というくらいに肌の浅黒い老年だ。
無邪気な男で、さまざまな人生経験ゆえか、男女貴賎のべつなく人を扱うため、さして実力があるというわけでもないのだが、ふしぎとひとから慕われた。
孔明などは、実地の知識をもっとも知る人物として、大切に遇しているほどである。
そして、偉度は、孔明の養子である喬が、許靖の半分は冗談ではなかろうか(しかしおそろしいことにすべて実話なのであるが)苦難の物語の数々を聞くのが好きだということを知っていたので、お招きに遅れては気の毒だろうと思ったのだ。熱心な聞き手を許靖もよろこび、孔明も含めて、許靖は喬を屋敷にまねいてくれたのである。

どうせ自分は、だれかに招かれていることもないし、こじんまりした屋敷はあるが、『弟妹たち』がたまに寄ってくる程度である。
その頻度も、おそらく義理以外のなにものでもない、と偉度は思っている。
偉度は優秀すぎるのと、孔明に近すぎるために、ほかの『弟妹たち』は遠慮をして胸襟をひらかないのである。
雑踏のなかにいれば、沁み込んだ癖ゆえに、あやしい動きをしているものを探してしまうし、だれかの家に遊びに行く宛てもない。酒は飲めるが、そこにまつわる思い出に、暗いものがありすぎる。

偉度が、左将軍府に戻ると、いつもおっとりした宿直の爺さんが、中からびゅんと矢のように飛び出してきた。
「どうしたのです」
偉度が尋ねると、爺さんは、すっかり泡を食っている様子で、一気にまくしたてた。
「孫が産気づきまして、ええ、まえの子は流産だったので、今度、危なければ、二度と子は望めぬと医者のやつに言われておりまして。それが急にいまさっき、産気づいたというのですよ。使いのものが、孫が苦し紛れに、爺さんに会いたい、爺さんに会いたいと、言っていると言うのです」
「そうかい、そうかい、で、宿直を変わって欲しいというのだね」
「いえいえ、とんでもない。この近所にうちの甥っ子が住んでおりまして、孫の家に行く途中、声をかけてゆきますので、そいつに代わりをさせます。ですが、そのあいだだけ、偉度さまに宿直をお願いしてよろしいでしょうか。この礼はかならず」
「ああ、わかった、そんなつばを唾して泣きながら頼むのじゃないよ。わたしだって用があるのだから、戻ってきたのであるし。ただし、ずっとはいられないよ。甥とかいう男に、早く来てくれるように言ってくれるならば、すこしのあいだだけ、ここに留まろう」
「ありがとうございます。この礼はかならずいたします」
そういって爺さんから、偉度は、左将軍府のあらかたの部屋の鍵束を預かり(孔明が私室がわりに使っている部屋は、孔明が鍵を管理していた)、左将軍府に入っていった。

ああ、こういうときは、軍師ならば、『よい子が生まれるといいね』と答えるのだろうな、と偉度は思う。
表ばかり真似をしても、やはり中身は『胡偉度』である、というわけか。
孔明の衣のお下がりを纏い、自然とその後れ毛を指先でもてあそぶ仕草や、小首をかしげて誰何する仕草、ものの言い方、考え方、あきれるくらいに見つめて、それが真似たおかげで、偉度という人間から浮いたものではなくなるまでになった。
孔明を必死に真似ているのは、孔明に心酔しているわけではない。
もちろん、孔明のことは特別に思ってはいるが、それはおそらく、諸葛孔明と言う人物だけが、自分の過去に辿れる扉であるからだ。
孔明の中にある、己のもっとも慕わしい過去を、偉度はいまもって探し続けているのである。
ときに、自分はもう終わっているのだ、とさえ思う。いま呼吸をし、目を開き、世の中を見ているのは、孔明が名づけた『胡偉度』であって、以前の自分ではない。
過去を捨て、恨みを吐き出し生きよ、と孔明は言ったが、やはり、あの人は、愛される一方の星の下に生まれているので、恨みとは、つねに執着や思慕と、離れがたく結びついていることが、ぴんとこないのであろう。
わたしは愛されなかった。その思いをずっと背負って、これから先も生きねばならない。

ああ、鬱陶しい。こんなことは終わりにしないか。楽に死ねる方法なんて、いくらでもあるのだ。
ほら、そこの文鎮。そいつで自分の頭を勝ち割ってしまってもよいし、だれが置いて言ったのやら、帯をちょいと柱にひっかけて、そこに首を載せればそれでおしまい。
護身用の刀で動脈を切ってしまえば、いささか派手だが血の海で凄絶に死ねる。苦しみたくなきゃ毒がいちばん。万が一のためにと言葉巧みに頭をさげて、奥方にもらった毒は、いつも懐にしまってある。
おや、なんだかさっきから、自分は死ぬことばかり考えているな。
なにをしにもどったのであったかな。そうそう、文鎮だ。
胡偉度は、孔明の卓の上にあった文鎮を取ると、丁寧に絹の布にくるんで、ふところに入れた。
そして、星明りに輪郭だけをおぼろに浮かび上がらせる、黒い座卓の並ぶ部屋を振り返る。
昼間の賑わいが、うそのように静かだ。
なんとなく、柱にもたれて座り込み、偉度は闇の中でしばらくじっとしていた。闇にも質があると思う。これは、水にこぼした墨の類いの闇だな、と偉度は思った。
昼間の喧騒を吸収し、大気に薄めて、朝にそなえている静かな闇だ。

闇を凝視していたあと、何も考えることもなくなったので、偉度は立ち上がると、部屋を出た。偉度の中では、過去は足を取るものではなく、彼の中に組み込まれ、いまも生きているものである。
こうして時々落ち込んで、死すら幻想することを危ぶんで、孔明が『恨みを吐き出せ』と忠告したのであれば、やはりあのひとはたいした方なのだろう。
そうして許靖の館にいるであろう孔明のもとへ行こうとする偉度であったが、ふと、左将軍府の一室の、明かりが漏れているのに気がついた。
いましがた残業だというのか。もはや宿直(とのい)の爺さんしか残っていなかった深夜に?

もしや、爺さんの孫が産気づいたというのは狂言で、賊ではないのか。

偉度はすぐさま、孔明の主簿の面を捨て、しなやかな獣のような刺客の顔を取り戻した。
足音をさせることなく、ゆっくりと明かりの漏れる部屋へと近づく。
そして、そおっと隙間から中をのぞくと、蝋燭の明かりに、真っ白な布を頭から被った、何者かのすがたがぼおっと浮かび上がっているのである。うしろ姿からすれば、どうやら女。
女の賊? 細作か?
「何者ぞ!」
偉度は叫び、部屋に入ると、すぐさま、白い女の咽喉笛に、短い刀をつきつけた。そうして、気配ですでにさぐっていた、傍らの男が近寄ってくるのを、すばやく片足で蹴り飛ばす。
「おいおい、宿直の爺さん、いつからこんなに強くなったんだ!」
と、蹴られて壁に叩きつけられた男は、呻きながらも憎まれ口を叩く。
白い女のほうは、自らこぼれた魚のように口をぱくぱくさせて、気絶寸前なのだ。
男の声にきき覚えがあった。
咽喉笛につきつけた刃をゆるめ、蝋燭に浮かび上がる男の顔を見る。
費文偉であった。
「なにをしている、おまえたち!」
「なにをもなにも。偉度、休昭が白目を剥いている。解放してやってくれぬか」
たしかに、白い布を頭から被った女だと思っていたものは、女などではなく、死者が纏うような白い衣に、布を被って髪を垂らしただけの、董休昭であった。
それが、蟹のようにぶくぶくと泡を吹いて倒れかけている。

費文偉は、巴蜀の名族費家のあととり息子であり、族父である伯父と二人暮しである。
名族というからにはきらびやかな生活を想像させがちであるが、費家というのは運のない家で、その家の隆盛の中心であった女性は劉璋の母、つまり追い出された昔の君主の母親だった、というややこしいいきさつのため、新勢力から敬遠され、びんぼう生活を余儀なくされている。
一方の董允は、巴蜀を代表する官吏の鑑・董和の一人息子である。
その潔癖な態度と男気あふれる人格によって、絶大なる民衆の人気を勝ち得ている董和であるが、いかんせん世渡りベタで、せっかく実力はあるのに、いつも浮上できないでいるため、やはりこれまたびんぼう生活を余儀なくされている。
この不器用なびんぼう一家の息子が、びんぼうを鍵にして仲良くなるのは自然の道理。偉度が知る限り、この二人は仔犬の兄弟のように、いつも一緒にいるのであった。

つづく……

今回は偉度が主役のおはなしです。


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