「文偉、いいかげん、宿直の爺さんの甥とやら、遅すぎやしないか」
偉度が尋ねると、うむ、と文偉も頷いた。
と、そこへ、みしり、みしりと床を軋ませ、何者かが近づいてくる。
「お、ようやく来たようだぞ。文偉、その希望の鐘を、がらごろと鳴らしまくれ」
よしきた、と文偉は派手に鐘をがらん、ごろんと鳴らしまくった。
すると、足音はどんどん此方へ向いてくる。
一人ではなく、複数のようであった。
そうして、がらりと部屋の扉が開かれる。
そこには、なぜだか軍師将軍諸葛孔明そのひとと、董允の父・董和、文偉の伯父の伯仁の三人が、それぞれしかめ面をして立っていたのであった。
その後ろには、かしこまった風の若い夫婦が、そおっと中の様子を覗いている。おそらく宿直の爺さんの甥と、心配してついてきたその女房らしかった。
偉度と文偉と休昭の三人が、ぽかんとしていると、孔明は、大きく息を吐いて、それから偉度に言った。
「おまえ、宿直の爺さんに、留守を預かったとき、鍵束も一緒に預かったであろう」
「はい」
「そのとき、ご丁寧に、門の鍵まですべて閉めなかったか」
「あ」
偉度は思い出した。
自分の辿った道を探られないように、すべて現状を元に戻して先に進む癖が、無意識のうちに出ていたのである。
「宿直の交代を頼まれたものの、中に入りたくても入れない。なのに、なかから、ガラゴロと、不吉な鐘の音がいたします、というので、この者たちが、わたしの屋敷にやってきた。
ところが、わたしは許氏の屋敷に招かれていない。どうしようというので、うちの家令が気を利かせて、董幼宰殿の屋敷に飛んで行った。すると、ちょうど囲碁をして遊んでおられた費伯仁どのも居合わせて、そういえば、うちの甥っ子も帰ってこないとなって、大騒ぎになったのだよ。で、あわてて左将軍府にもどってきたら、まあ」
と、孔明は、顔ばかりが雪のように白い、幽鬼も裸足で逃げ出すか、あるいはその場で笑い死ぬか、というくらいの顔をしている文偉と休昭、そして、らしからぬ過ちに、ぼう然としている偉度をそれぞれ見回した。
「とりあえず、無事でなによりだ。三人とも外に出るように」
「休昭、早くこっちへこい! まったく、なんだ、その情けない顔は! ほら、井戸へゆくぞ。顔を洗え! まったく、いい年をしてあきれたものだ、どれだけ心配をしたと思っているのだ、おおたわけ!」
と、董和は部屋から出てきた休昭を、抱えるようにして連れ出すと、井戸端へと急いだ。
一方の費伯仁はというと、甥っ子の、顔だけ美女、という姿に大笑いをし、しばらくぜいぜいと苦しそうにしていたが、
「おもしろい、傑作だ! お前は笑いに関しては、並々ならぬ感性を持っておる。さすがわが甥。鼻が高いぞ!」
「喜ぶべきか、微妙でございます、伯父上」
「あんまりおもしろいから、うちの家人にも見せてやろう。顔を洗う? だめだめ、これをわれらにしか見せないというのは、罪というものだ。ついでに、町のみなにも見せてやろう。よき芝居の宣伝にもなろうぞ。さあ、帰ろう」
と、これまた器の妙に大きなところを見せて、偉度を連れて、大笑いしながら、そのまま去っていった。
さて、孔明はというと、ほんのわずかに酒の香りをさせて、偉度から受け取った鍵束を、甥夫婦に頼むと、宿直をまかせて、その場を去った。
左将軍府の前には、御者のないちいさな馬車がひとつあるきりで、どうやら許靖から借りてきたものらしい。喬の姿もみえなかった。
「許靖さまのお屋敷に戻られるのでは」
と、偉度が尋ねると、孔明は答えた。
「喬は、今宵はあちらで泊まらせてもらうことにした。われらは帰るぞ。隣に乗れ」
「お酒を呑まれた方に、手綱を預けるわけには参りませぬ」
偉度はみずから御者台に乗ると、孔明もまた、その隣に座った。
「文鎮のせいで、とんだ騒ぎになったな」
「文鎮ならば、ちゃんと持って参ってございます。お屋敷に帰られますか」
「うむ、それもよいが、そういえば、わたしはおまえと酒を飲み交わしたことがないな」
なんです、とつぜんに、と答えつつ、たしかにないな、と偉度は思い出していた。
毎日のように顔をつき合わせているために、わざわざ酒を飲んで、いまさら親睦を深めることを考えたことがなかったし、偉度自身が、酒が嫌いなためであった。
「許靖殿の酒宴は楽しかったよ。あの人は、さすが洛陽で趣味人として鳴らしただけあり、洗練されている。文鎮なんぞどうでもよかったから、おまえも連れてくるべきだと思った」
「お気遣いだけで結構でございますよ。偉度は、酒は好みませぬゆえ」
「それは知っている。だが、おまえはやはり、多くの人ともっと付き合いを深めるべきだよ。ちょうどよい機会だから言うが、わたしがむかし、おまえに言ったことを覚えておるか」
「もちろん」
一言一句、鮮明に覚えている。
ついて行くと決め手から、偉度はそういうふうに孔明の示す道筋をたどってきた。
「わたしは、おまえが罪をつぐないたいと思うのであれば、わたしと共に来いと」
「たしかにそうおっしゃいました」
「わたしは、あのとき誤ったことを言った。わたしは神ではない。わたしはおまえを過去に縛っていた者たちと、同じ過ちをしてしまったのではなかろうか。偉度、世の中はとてもとても広いのだよ。きっと、わたしより、おまえのほうがずっとそのことを知っているだろうな。
だから、何千万人という人のなかで、諸葛孔明という人間ひとりが進む道だけを、お前が道しるべにすることはないのだ。おまえには、おまえの道しるべをおのれで決める権利がある。わたしはそれすら許さず、おまえについて来るように強制した。すまなかったと思う。許せ」
「何事でございますか、急に」
偉度が驚くと、孔明はすこし寂しそうに笑った。
「許靖どのの宴は、よい宴であったよ。途中で、舞が披露されてね、おおいに盛り上がったのであるが、突然に、許靖どのが泣き始めたのだ。なにかと思えば、夭折されたご子息が、この舞を好きだったのだという。それを聞いたほかの子供たちが、やはり嘆くのだ。
同情すべきではあったけれど、死がすべてを止めてしまっている。ふとそんなふうに感じて、おそろしくなった。人は己の死を乗り越えることはできない。とすれば、他者の死など乗り越えることはもっとできないのかもしれない。まして、相手が特別であれば、なおさらだ」
馬車はゆっくりと進む。
偉度は、孔明の言葉のひとつひとつを聞き逃したくなかったので、わざと馬の歩みを遅らせていた。
「偉度、お前はわたしを見ていない。わたしの中の、死者を見て歩いているのだ。わたしと共にいる限り、おまえは窒息してしまうだろう。おまえの献身はありがたく思う。だが、過去と戦えといっておきながら、わたしはおまえに、過去を背負わせていたのではないだろうか」
「この手が手綱を握っていなければ、殴りますよ、軍師」
うん、と孔明は意外そうに、となりの偉度を見る。
偉度は、馬の足をさらにゆるめて、言った。
「わたしは、あなたなんかより、ずっと人を見る目があるのです。そのわたしが、あなたについていくことを決めた。なのに、そのあなたが、それではいけないと仰るのですか。
わたしだって、迷うことだってある。いや、迷ってばかりなのだ。狂気に捕らわれてしまったほうがどれだけよいか、過去に溺れてしまったほうがどれだけ楽か、あなたなんかには、すこしもわかりはしないでしょうよ。それでも正気に戻ってくることができるのは、あなたの言葉があるからなのだ。
それを否定なさるなら、いますぐ偉度を殺しなさい。わたしは、あなたの名づけた者です。わたしは、あなたの子なのだ」
しばらく沈黙が続いた。
いちばんゆっくりと走らせている馬車の、車輪の音がやけに大きく響く。
前方の、月光に揺れる馬の背が、そこだけ生き物の気配を感じさせていた。
不意に、髪に手の触れる感触があり、偉度は孔明の手で、頭を引き寄せられるようにして、その肩に頭をあずける格好となった。
「すまなかった」
孔明の声が、すぐそばで聞こえた。この人の声は、こんなに深く、優しかっただろうか。
「ほんとうにすまなかった」
「なにをなさるのです、危ないでしょう。運転中ですよ」
偉度の強がりに、孔明はちいさく苦笑を洩らし、それからさらにつよく偉度の頭をつよく引き寄せてきた。
「おまえが望む未来は、残念だがわたしには見ることができない。でも、おまえがわたしといて、それでよいというのであれば、わたしはお前の望むものになるよ」
「あなたは、あなたのままであればいい。わたしのことなんぞ、いちいち考えなくてよいのですよ…なぜ泣くのです。ほんとうにあなたは、会ったときから泣いてばかりだ」
偉度は自分の双眸にも、慣れぬ生暖かい水があふれてくるのを覚えていたが、これはただの水、と自分に言い聞かせ、嗚咽を漏らしそうになる唇をぐっと堪えて我慢した。
そうして、馬車は、ゆっくりと闇夜に消えて行った。
其の夜、宿直の爺さんのひ孫は無事に誕生したそうである。
おしまい
2005年7月に作ったおはなしでした。
偉度が尋ねると、うむ、と文偉も頷いた。
と、そこへ、みしり、みしりと床を軋ませ、何者かが近づいてくる。
「お、ようやく来たようだぞ。文偉、その希望の鐘を、がらごろと鳴らしまくれ」
よしきた、と文偉は派手に鐘をがらん、ごろんと鳴らしまくった。
すると、足音はどんどん此方へ向いてくる。
一人ではなく、複数のようであった。
そうして、がらりと部屋の扉が開かれる。
そこには、なぜだか軍師将軍諸葛孔明そのひとと、董允の父・董和、文偉の伯父の伯仁の三人が、それぞれしかめ面をして立っていたのであった。
その後ろには、かしこまった風の若い夫婦が、そおっと中の様子を覗いている。おそらく宿直の爺さんの甥と、心配してついてきたその女房らしかった。
偉度と文偉と休昭の三人が、ぽかんとしていると、孔明は、大きく息を吐いて、それから偉度に言った。
「おまえ、宿直の爺さんに、留守を預かったとき、鍵束も一緒に預かったであろう」
「はい」
「そのとき、ご丁寧に、門の鍵まですべて閉めなかったか」
「あ」
偉度は思い出した。
自分の辿った道を探られないように、すべて現状を元に戻して先に進む癖が、無意識のうちに出ていたのである。
「宿直の交代を頼まれたものの、中に入りたくても入れない。なのに、なかから、ガラゴロと、不吉な鐘の音がいたします、というので、この者たちが、わたしの屋敷にやってきた。
ところが、わたしは許氏の屋敷に招かれていない。どうしようというので、うちの家令が気を利かせて、董幼宰殿の屋敷に飛んで行った。すると、ちょうど囲碁をして遊んでおられた費伯仁どのも居合わせて、そういえば、うちの甥っ子も帰ってこないとなって、大騒ぎになったのだよ。で、あわてて左将軍府にもどってきたら、まあ」
と、孔明は、顔ばかりが雪のように白い、幽鬼も裸足で逃げ出すか、あるいはその場で笑い死ぬか、というくらいの顔をしている文偉と休昭、そして、らしからぬ過ちに、ぼう然としている偉度をそれぞれ見回した。
「とりあえず、無事でなによりだ。三人とも外に出るように」
「休昭、早くこっちへこい! まったく、なんだ、その情けない顔は! ほら、井戸へゆくぞ。顔を洗え! まったく、いい年をしてあきれたものだ、どれだけ心配をしたと思っているのだ、おおたわけ!」
と、董和は部屋から出てきた休昭を、抱えるようにして連れ出すと、井戸端へと急いだ。
一方の費伯仁はというと、甥っ子の、顔だけ美女、という姿に大笑いをし、しばらくぜいぜいと苦しそうにしていたが、
「おもしろい、傑作だ! お前は笑いに関しては、並々ならぬ感性を持っておる。さすがわが甥。鼻が高いぞ!」
「喜ぶべきか、微妙でございます、伯父上」
「あんまりおもしろいから、うちの家人にも見せてやろう。顔を洗う? だめだめ、これをわれらにしか見せないというのは、罪というものだ。ついでに、町のみなにも見せてやろう。よき芝居の宣伝にもなろうぞ。さあ、帰ろう」
と、これまた器の妙に大きなところを見せて、偉度を連れて、大笑いしながら、そのまま去っていった。
さて、孔明はというと、ほんのわずかに酒の香りをさせて、偉度から受け取った鍵束を、甥夫婦に頼むと、宿直をまかせて、その場を去った。
左将軍府の前には、御者のないちいさな馬車がひとつあるきりで、どうやら許靖から借りてきたものらしい。喬の姿もみえなかった。
「許靖さまのお屋敷に戻られるのでは」
と、偉度が尋ねると、孔明は答えた。
「喬は、今宵はあちらで泊まらせてもらうことにした。われらは帰るぞ。隣に乗れ」
「お酒を呑まれた方に、手綱を預けるわけには参りませぬ」
偉度はみずから御者台に乗ると、孔明もまた、その隣に座った。
「文鎮のせいで、とんだ騒ぎになったな」
「文鎮ならば、ちゃんと持って参ってございます。お屋敷に帰られますか」
「うむ、それもよいが、そういえば、わたしはおまえと酒を飲み交わしたことがないな」
なんです、とつぜんに、と答えつつ、たしかにないな、と偉度は思い出していた。
毎日のように顔をつき合わせているために、わざわざ酒を飲んで、いまさら親睦を深めることを考えたことがなかったし、偉度自身が、酒が嫌いなためであった。
「許靖殿の酒宴は楽しかったよ。あの人は、さすが洛陽で趣味人として鳴らしただけあり、洗練されている。文鎮なんぞどうでもよかったから、おまえも連れてくるべきだと思った」
「お気遣いだけで結構でございますよ。偉度は、酒は好みませぬゆえ」
「それは知っている。だが、おまえはやはり、多くの人ともっと付き合いを深めるべきだよ。ちょうどよい機会だから言うが、わたしがむかし、おまえに言ったことを覚えておるか」
「もちろん」
一言一句、鮮明に覚えている。
ついて行くと決め手から、偉度はそういうふうに孔明の示す道筋をたどってきた。
「わたしは、おまえが罪をつぐないたいと思うのであれば、わたしと共に来いと」
「たしかにそうおっしゃいました」
「わたしは、あのとき誤ったことを言った。わたしは神ではない。わたしはおまえを過去に縛っていた者たちと、同じ過ちをしてしまったのではなかろうか。偉度、世の中はとてもとても広いのだよ。きっと、わたしより、おまえのほうがずっとそのことを知っているだろうな。
だから、何千万人という人のなかで、諸葛孔明という人間ひとりが進む道だけを、お前が道しるべにすることはないのだ。おまえには、おまえの道しるべをおのれで決める権利がある。わたしはそれすら許さず、おまえについて来るように強制した。すまなかったと思う。許せ」
「何事でございますか、急に」
偉度が驚くと、孔明はすこし寂しそうに笑った。
「許靖どのの宴は、よい宴であったよ。途中で、舞が披露されてね、おおいに盛り上がったのであるが、突然に、許靖どのが泣き始めたのだ。なにかと思えば、夭折されたご子息が、この舞を好きだったのだという。それを聞いたほかの子供たちが、やはり嘆くのだ。
同情すべきではあったけれど、死がすべてを止めてしまっている。ふとそんなふうに感じて、おそろしくなった。人は己の死を乗り越えることはできない。とすれば、他者の死など乗り越えることはもっとできないのかもしれない。まして、相手が特別であれば、なおさらだ」
馬車はゆっくりと進む。
偉度は、孔明の言葉のひとつひとつを聞き逃したくなかったので、わざと馬の歩みを遅らせていた。
「偉度、お前はわたしを見ていない。わたしの中の、死者を見て歩いているのだ。わたしと共にいる限り、おまえは窒息してしまうだろう。おまえの献身はありがたく思う。だが、過去と戦えといっておきながら、わたしはおまえに、過去を背負わせていたのではないだろうか」
「この手が手綱を握っていなければ、殴りますよ、軍師」
うん、と孔明は意外そうに、となりの偉度を見る。
偉度は、馬の足をさらにゆるめて、言った。
「わたしは、あなたなんかより、ずっと人を見る目があるのです。そのわたしが、あなたについていくことを決めた。なのに、そのあなたが、それではいけないと仰るのですか。
わたしだって、迷うことだってある。いや、迷ってばかりなのだ。狂気に捕らわれてしまったほうがどれだけよいか、過去に溺れてしまったほうがどれだけ楽か、あなたなんかには、すこしもわかりはしないでしょうよ。それでも正気に戻ってくることができるのは、あなたの言葉があるからなのだ。
それを否定なさるなら、いますぐ偉度を殺しなさい。わたしは、あなたの名づけた者です。わたしは、あなたの子なのだ」
しばらく沈黙が続いた。
いちばんゆっくりと走らせている馬車の、車輪の音がやけに大きく響く。
前方の、月光に揺れる馬の背が、そこだけ生き物の気配を感じさせていた。
不意に、髪に手の触れる感触があり、偉度は孔明の手で、頭を引き寄せられるようにして、その肩に頭をあずける格好となった。
「すまなかった」
孔明の声が、すぐそばで聞こえた。この人の声は、こんなに深く、優しかっただろうか。
「ほんとうにすまなかった」
「なにをなさるのです、危ないでしょう。運転中ですよ」
偉度の強がりに、孔明はちいさく苦笑を洩らし、それからさらにつよく偉度の頭をつよく引き寄せてきた。
「おまえが望む未来は、残念だがわたしには見ることができない。でも、おまえがわたしといて、それでよいというのであれば、わたしはお前の望むものになるよ」
「あなたは、あなたのままであればいい。わたしのことなんぞ、いちいち考えなくてよいのですよ…なぜ泣くのです。ほんとうにあなたは、会ったときから泣いてばかりだ」
偉度は自分の双眸にも、慣れぬ生暖かい水があふれてくるのを覚えていたが、これはただの水、と自分に言い聞かせ、嗚咽を漏らしそうになる唇をぐっと堪えて我慢した。
そうして、馬車は、ゆっくりと闇夜に消えて行った。
其の夜、宿直の爺さんのひ孫は無事に誕生したそうである。
おしまい
2005年7月に作ったおはなしでした。