※
すっかり勝ち戦の勢いに乗っている孫権の軍のなかで、甘寧ひとりが、喜びに乗り切れずにいた。
黄祖の勢力が滅びることに、感傷的になっていたのではない。
自分を孫呉に導いてくれた恩人である、|蘇飛《そひ》のことが心配でならなかったのだ。
前線に出ていなければよいがと心配する甘寧であるが、ふと、孫権のほうを見ると、|側仕《そばづか》えのものが、うやうやしく、ふたつの空箱を差し出している。
なんの箱かと首をひねっていると、こんな声が聞こえてきた。
「われらの勝利は、ほぼ決まったも同然。
あとは、この箱に、黄祖めと、蘇飛の首をおさめることができたなら、最高の勝利というべきでしょう」
これを聞いて、甘寧は沈み込んだ。
蘇飛を助けたいと思う。
しかし孫権にとっては、黄祖は親の仇。
そして、蘇飛は、その仇に与する男なのである。
落ち込んでいる甘寧のもとへ、子分がそっと近づいてきた。
「親分、蘇の旦那さまの手下が、親分あてに手紙を持ってきています。
見つかったらコトですぜ。
追い返しますか、それとも、受けとるだけは受けとってみますかい」
「莫迦!」
甘寧は一喝すると、すぐさま蘇飛の部下と面談した。
蘇飛の部下は、混乱に乗じて死んだ兵卒の衣を奪い、孫権の兵になりすまして、甘寧のそばまで命がけでやってきたのである。
その部下の持ってきた手紙には、蘇飛の、悲鳴にも似た、別れの言葉が綴られていた。
それを見てしまっては、もう甘寧は黙っておられなかった。
いつか、かならず恩を返すのだと誓ったことを思い出し、そして、そのためには命も惜しくないとさえ思った。
そも、いまの自分があるのは、蘇飛のおかげではないのか。
甘寧は、思いついたら、即実行の人である。
もはや宴席に入りつつある孫権のそのまえに転がり込むようにして平伏すると、呆気にとられている孫権のまえで、おのれの額を、何度も何度も床に打ちつけた。
何度目かで、額が割れて血が出たが、それでもなお、頭を打ちつけようとするので、孫権があわてて止めた。
「待て待て、このめでたい席で、なぜ貴公はそのように嘆くのだ」
「恩人を見捨てなければならぬ、この身が|疎《うと》ましいからでございます!」
そうして、甘寧は、泣きながら、蘇飛がどれだけ自分に類まれな友情を示してくれたか、そのいきさつをつまびらかに孫権に語ってみせた。
蘇飛がいなければ、甘寧は、孫家に仕官することはできなかったのだ。
孫権は、甘寧のことばに心を動かされたようである。
だが、それでも慎重なので、こうたずねてきた。
「しかしだ、蘇飛を助けてやったとして、のちのち、わたしに恩を感じるどころか、かえって恨みに思って刃を向けてきたらどうする」
「されば、そのときには、甘興覇の首をさし上げまする。
そして、その箱に、この首をおさめてくだされ!」
孫権は、甘寧のその熱気に押されて、蘇飛を助けることをゆるした。
甘寧はよろこんで、手下たちにその旨を伝えると、蘇飛の命を救ったのである。
一方で、夏口の英雄・黄祖は、乱戦のなか、とうとう命運が尽きて、死んだ。
※
またも盛大な宴が催された。
とくに|董襲《とうしゅう》は、その勇気ある見事な行動が、孫権の賞賛を得た。
程普や黄蓋などは、長年の悲願をようやく達成できたことに感激し、泣き笑いを繰り返していた。
凌統も、同じく、父の仇をこれで討てたと喜んでいたが、甘寧はあえて、凌統とは距離を置いて、席も近づかないように気をつけた。
そうして賑やかに飲み食いをしているなかで、孫権が言った。
「わたしが蘇飛をゆるしたのは、もちろん、貴公の言葉に感じ入ったこともあるのだが、公瑾の口ぞえによるところも大きいのだ。
あとで、貴公の口より、公瑾に礼を述べておいてくれ」
さて、そうなると、いてもたってもいられない。
甘寧は、宴のなかに周瑜の姿がないとわかると、座を立って、どこにいるのかと探しに出た。
ほどなく、周瑜は見つかった。
かれはその卓越した美貌をほこる横顔を月に向けていた。
男の自分から見ても、周瑜はうっとりするほどの男である。
「公瑾どの」
声をかけると、周瑜は一瞬、闇に眼を凝らす仕草をしたが、すぐに眉をひらいて、甘寧に笑顔を向けた。
「どうされたかな。宴はまだ盛り上がっておりますぞ」
「貴殿こそ……月を愛でておられたのですか」
「まさに。あの銀の鏡のような月を、いずれ孫将軍と都で見たいものだと思うておった」
「都、ですか」
「左様。わたしは必ずや孫将軍を天下人に押し上げたい。
そのためにはどうしたらよいかと、いま思案しておった。
黄祖を討ったことは、まだ始まりにすぎぬ」
「そのとおりでしょう。公瑾どの、遅れましたが、蘇飛のこと、お礼を申し上げまする」
猛将の甘寧が、素直に頭を下げたのが面白かったらしく、周瑜は声を立てて笑った。
「よいのだ、蘇飛を殺すことよりも、貴殿を失わないことのほうが重要だからな」
「ありがとうございます」
一瞬、沈黙が流れる。
周瑜はまた、月を見上げて、唄うように言った。
「黄祖を討ったことで荊州を獲る足掛かりになればよいが、曹操が南下してくるという噂もある。
平和であった荊州が戦乱に巻き込まれることになるのだ。
戦はつづく、民の悲愁はやまぬ、世の中、どうしてこうなってしまったのだろう。
今上帝を傀儡にする曹操をのさばらせておくかぎり、この世に平和は訪れぬであろう。
なんとしても、曹操を北にとどめ、われらは長江以南の土地を獲らねばならぬ。
そのために、貴殿の力も必要だ。これからもわれと孫将軍のため、励んでくれ」
ほかのだれかに言われた言葉なら、気の強い甘寧は反発したかもしれない。
だが、周瑜には『このひとには、かなわない』と思わせる、人を心地よく酔わせるような雰囲気があった。
「公瑾どの、ともに天下を目指しましょう」
力強く言うと、周瑜は嬉しそうに笑い、
「さて、英雄を独り占めしていると、みなに叱られてしまう。
そろそろ宴席に戻ろうか」
といって、いまだ盛り上がりを見せている宴のほうへと足を向けた。
その優美な後ろ姿を追いかけながら、甘寧もまた、このひとと、そしてこのひとの仕える孫家に忠誠を誓いつくそうと固く決めた。
そして、ようやく自分の仕えるべき主君を得たことは、じつに幸せなことだとかみしめた。
番外編 甘寧の物語 おわり
すっかり勝ち戦の勢いに乗っている孫権の軍のなかで、甘寧ひとりが、喜びに乗り切れずにいた。
黄祖の勢力が滅びることに、感傷的になっていたのではない。
自分を孫呉に導いてくれた恩人である、|蘇飛《そひ》のことが心配でならなかったのだ。
前線に出ていなければよいがと心配する甘寧であるが、ふと、孫権のほうを見ると、|側仕《そばづか》えのものが、うやうやしく、ふたつの空箱を差し出している。
なんの箱かと首をひねっていると、こんな声が聞こえてきた。
「われらの勝利は、ほぼ決まったも同然。
あとは、この箱に、黄祖めと、蘇飛の首をおさめることができたなら、最高の勝利というべきでしょう」
これを聞いて、甘寧は沈み込んだ。
蘇飛を助けたいと思う。
しかし孫権にとっては、黄祖は親の仇。
そして、蘇飛は、その仇に与する男なのである。
落ち込んでいる甘寧のもとへ、子分がそっと近づいてきた。
「親分、蘇の旦那さまの手下が、親分あてに手紙を持ってきています。
見つかったらコトですぜ。
追い返しますか、それとも、受けとるだけは受けとってみますかい」
「莫迦!」
甘寧は一喝すると、すぐさま蘇飛の部下と面談した。
蘇飛の部下は、混乱に乗じて死んだ兵卒の衣を奪い、孫権の兵になりすまして、甘寧のそばまで命がけでやってきたのである。
その部下の持ってきた手紙には、蘇飛の、悲鳴にも似た、別れの言葉が綴られていた。
それを見てしまっては、もう甘寧は黙っておられなかった。
いつか、かならず恩を返すのだと誓ったことを思い出し、そして、そのためには命も惜しくないとさえ思った。
そも、いまの自分があるのは、蘇飛のおかげではないのか。
甘寧は、思いついたら、即実行の人である。
もはや宴席に入りつつある孫権のそのまえに転がり込むようにして平伏すると、呆気にとられている孫権のまえで、おのれの額を、何度も何度も床に打ちつけた。
何度目かで、額が割れて血が出たが、それでもなお、頭を打ちつけようとするので、孫権があわてて止めた。
「待て待て、このめでたい席で、なぜ貴公はそのように嘆くのだ」
「恩人を見捨てなければならぬ、この身が|疎《うと》ましいからでございます!」
そうして、甘寧は、泣きながら、蘇飛がどれだけ自分に類まれな友情を示してくれたか、そのいきさつをつまびらかに孫権に語ってみせた。
蘇飛がいなければ、甘寧は、孫家に仕官することはできなかったのだ。
孫権は、甘寧のことばに心を動かされたようである。
だが、それでも慎重なので、こうたずねてきた。
「しかしだ、蘇飛を助けてやったとして、のちのち、わたしに恩を感じるどころか、かえって恨みに思って刃を向けてきたらどうする」
「されば、そのときには、甘興覇の首をさし上げまする。
そして、その箱に、この首をおさめてくだされ!」
孫権は、甘寧のその熱気に押されて、蘇飛を助けることをゆるした。
甘寧はよろこんで、手下たちにその旨を伝えると、蘇飛の命を救ったのである。
一方で、夏口の英雄・黄祖は、乱戦のなか、とうとう命運が尽きて、死んだ。
※
またも盛大な宴が催された。
とくに|董襲《とうしゅう》は、その勇気ある見事な行動が、孫権の賞賛を得た。
程普や黄蓋などは、長年の悲願をようやく達成できたことに感激し、泣き笑いを繰り返していた。
凌統も、同じく、父の仇をこれで討てたと喜んでいたが、甘寧はあえて、凌統とは距離を置いて、席も近づかないように気をつけた。
そうして賑やかに飲み食いをしているなかで、孫権が言った。
「わたしが蘇飛をゆるしたのは、もちろん、貴公の言葉に感じ入ったこともあるのだが、公瑾の口ぞえによるところも大きいのだ。
あとで、貴公の口より、公瑾に礼を述べておいてくれ」
さて、そうなると、いてもたってもいられない。
甘寧は、宴のなかに周瑜の姿がないとわかると、座を立って、どこにいるのかと探しに出た。
ほどなく、周瑜は見つかった。
かれはその卓越した美貌をほこる横顔を月に向けていた。
男の自分から見ても、周瑜はうっとりするほどの男である。
「公瑾どの」
声をかけると、周瑜は一瞬、闇に眼を凝らす仕草をしたが、すぐに眉をひらいて、甘寧に笑顔を向けた。
「どうされたかな。宴はまだ盛り上がっておりますぞ」
「貴殿こそ……月を愛でておられたのですか」
「まさに。あの銀の鏡のような月を、いずれ孫将軍と都で見たいものだと思うておった」
「都、ですか」
「左様。わたしは必ずや孫将軍を天下人に押し上げたい。
そのためにはどうしたらよいかと、いま思案しておった。
黄祖を討ったことは、まだ始まりにすぎぬ」
「そのとおりでしょう。公瑾どの、遅れましたが、蘇飛のこと、お礼を申し上げまする」
猛将の甘寧が、素直に頭を下げたのが面白かったらしく、周瑜は声を立てて笑った。
「よいのだ、蘇飛を殺すことよりも、貴殿を失わないことのほうが重要だからな」
「ありがとうございます」
一瞬、沈黙が流れる。
周瑜はまた、月を見上げて、唄うように言った。
「黄祖を討ったことで荊州を獲る足掛かりになればよいが、曹操が南下してくるという噂もある。
平和であった荊州が戦乱に巻き込まれることになるのだ。
戦はつづく、民の悲愁はやまぬ、世の中、どうしてこうなってしまったのだろう。
今上帝を傀儡にする曹操をのさばらせておくかぎり、この世に平和は訪れぬであろう。
なんとしても、曹操を北にとどめ、われらは長江以南の土地を獲らねばならぬ。
そのために、貴殿の力も必要だ。これからもわれと孫将軍のため、励んでくれ」
ほかのだれかに言われた言葉なら、気の強い甘寧は反発したかもしれない。
だが、周瑜には『このひとには、かなわない』と思わせる、人を心地よく酔わせるような雰囲気があった。
「公瑾どの、ともに天下を目指しましょう」
力強く言うと、周瑜は嬉しそうに笑い、
「さて、英雄を独り占めしていると、みなに叱られてしまう。
そろそろ宴席に戻ろうか」
といって、いまだ盛り上がりを見せている宴のほうへと足を向けた。
その優美な後ろ姿を追いかけながら、甘寧もまた、このひとと、そしてこのひとの仕える孫家に忠誠を誓いつくそうと固く決めた。
そして、ようやく自分の仕えるべき主君を得たことは、じつに幸せなことだとかみしめた。
番外編 甘寧の物語 おわり
(2024/12/09 続編である「赤壁に龍は踊る・改」に内容を合わせるため、ラストを書き直しました)
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、どうもありがとうございます(^^♪
そしてブログ村にたくさん投票していただきまして、ほんとうに感謝感激であります!(^^)!
がんばってつづきも制作しておりますので、また遊びにいらしてくださいませ!
そして、本日で甘寧の物語は最終回。
次回より趙雲と孔明の活躍する赤壁編がはじまります!
といっても、まだ制作中で、かなりぎりぎりの戦い(笑)になりそうですが……けんめいに書いております。
明日から、どうぞ赤壁編もよろしくお願いいたします。
ではでは、また次回も読んでやってくださいませね(*^▽^*)