はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

短編・尚(こいねがわ)くば恒久の友たらんと 後編

2018年07月01日 09時28分49秒 | 短編・尚くば恒久の友たらんと
莫迦なことをしたものだ、という後悔の声は絶えず内側に響いている。
それよりも勝って、なぜ、という疑惑の声がつよい。
なぜ、魏延なんぞ(あえて『なんぞ』だ)を殴ったのか。
あの武人らしからぬ、やたらよく動く口を黙らせたかったのか。
それにしても…
と、魏延の言葉を思い出し、趙雲はまたも、ぐっと握りしめられる拳をおぼえて、いい加減、うんざりとため息をついた。
本当に病気だ、これは。

しばらくぼんやりと、千切れ流れゆく雲の、変転たるさまをながめていると、ぜいぜい、はあはあと、怪しげな獣らしきものの息遣いが聞こえてくる。
物好きなキツネか狸が、道に迷って登ってでもきたのかな。
熊や虎なら困ったものだが。
と、振り返ると、いつも瀟洒にまとめた黒髪を乱し、袖をまくって肩でぜいぜいと息をついている孔明が、岩肌からぬっ、と現われた。
趙雲が手を差し伸べて助け上げてやると、孔明はそうとうへばったらしく、ぜいぜいとまだ息をつきながら、ぺたりとその場に座り込み、
「いつもこんなところに登っているのか」
と言った。
そうして手ぬぐいで汗を拭き、いい岩があるな、といって、先に岩の上にもどっていた趙雲と、ちょうど背中合わせになるように座って、大きく息をついた。
「疲れた…吐き気もするし…なんだろう、こめかみを中心に、頭がガンガンする」
「おまえ、あんまり最近、動いていなかっただろう。そういうやつが、いきなり高所に上ると、たまにそうなるのだ」
「そうなのか? なんだろう、耳に怪音が聞こえる。山の神からの伝言か?」
「単なる耳鳴りだ」
孔明はなんだ、と言いながら、用意してきた水筒で、着付け薬をのんで、一息ついた。
孔明がすこし落ち着くのを待ってから、趙雲は尋ねた。
「よくここがわかったな」
「偉度に教えてもらったのだ。よい眺めだな…でも気持ち悪い」
「病人ならそこいらに横になっていろ。しばらく、薬が利いてくるまで大人しくしているのだな。ところで、偉度にここを教えた覚えはないのだが」
「大人しくしろと言っている端から質問か、子龍。知っているかね、人というのは、なぜか高所に登れば登るほど、その本性が出るそうだよ。意外にせっかちなのが見事に出たな」
「高所、な。それは地位も、だろうな」
と、趙雲がぽつりというと、孔明は声を立てて笑った。
「含蓄のあることを言うではないか。なるほど、人間とはそういうものかもしれぬ」
ははは、と声をあげたはいいが、孔明は頭痛がひどくなったらしく、「世界が大回転をはじめた」と言いながら、背後でぐらりと揺らめいたのがわかった。
どうやら、軍師将軍御自ら、人のことを笑わせにやってきたらしい。
「ああ、治まった。薬が利いてきたかな。そうそう、偉度だっけ? あれは、わたしに直接関わるすべての人間の行動を把握しているのだそうだよ。出自から趣味、趣向、家族構成、愛人の有無までぜんぶ」
「いつ尾行されていたのだ…」
「あなたを追うのが一番大変だったと言っていたよ。陳到なんぞ、最初から、どうせ調べるのだろうといって、自分の全行動を記した日程表を提出してきたそうだ。あの親父さんは、かえって怪しいと偉度は言っていた」
「で?」
「なんだ」
「なぜここへ来た」
「なぜもなにも、今日はたまたま、宮城へ行く用事があってね、たしか合同調練の日だったから、様子を見に行こうと立ち寄ったら、なぜだか兵卒たちがバンザイ、バンザイと言いながら解散しているではないか。
しかも見れば、魏文長がひとりでカッカとあちこちに当り散らしている。なにがあったのだろうと不思議におもって聞いてみれば、あなたが魏文長と喧嘩をして、そのまま合同調練は取りやめになったという」
「魏延に会ったのか? 話を?」
「あなたと喧嘩をしたことは、あなたのところの部将から聞いたのだけれど、ついでだし話はしたよ。まあ、天気とか、経済とか、ごくごく普通の話であったけれどね」

ふうん、と曖昧に相槌を打ちつつ、やっぱりあいつは要領がいいのだな、と趙雲はもやもやとしたものを胸に膨らませつつ思う。
すると、背後で背中合わせになっている孔明が、妙に明るく言った。

「知っているよ」
「なに?」
「魏文長が、裏でだいぶわたしのことを言っているそうではないかね。わたしはね、どういうわけか、ああいう係累の男には好かれない傾向にあるのだよ。いつものことなのだ。気にしても仕方ない」
「しかしだな」
魏延の言った言葉を思い出し、またも趙雲は苛立ちを抑えられなくなった。
すると、背後の孔明が声をたてて笑いつつ、尋ねる。
「子龍、魏文長は、わたしのことをなんと言ったのだって? あなたのところの部将は、みな口が固い。『女の腐ったのみたいな青書生』?」
「いや、まあ、そうだな」
「ふん、もっと酷かったのか。『男からはみ出しいる女もどき』? それとも『なりそこないの宦官』?」
「だれがそんな酷いことを」
思わず振り返ると、孔明はけらけらと笑いながら、長い足をぶらぶらさせながら、言った。
「襄陽のときに、やっぱり、人のことを悪く言うのが、天才的に上手いヤツがいてね。そいつに」
「いまどこにいる」
「魏に仕官した」
「魏は潰す」
「期待しているよ。いまどうしているかな。まったく名前を聞かないけれど。向こうは、『男だか女だかわからぬやつ』の名前をしょっちゅう聞かねばならず、嫌な思いをしているだろうね」

そう聞いて、趙雲は、もやもやしていたものが、わずかに薄れていくのをおぼえた。
こいつは、ずうっとそんなことを言われ続けてきて、それを逆に武器にまでしてしまった男だ。
本当は、自分の容姿が嫌いなのに、自分が美しいのだと喧伝するような格好をして、いつも煌びやかにして人の目を引き続けている。
軍師として、説客として、箔をつけるために、片時も気を抜かず。

「あなたは本当に優しいな、優しすぎて涙が出る。とはいえ、ここに来る途中で、涙はすべて流しつくしてしまったので、いまは出ないのだけれど」
「嘘をつくな。本当は呆れているくせに。俺とて自分がどうしてこんなことをしてしまったのか、よくわからぬ」
「判っているだろう。わたしのことが好きだからだ」
「あのな」
「ほかにどんな理由がある? 魏延は、あれはたしかに才能はあるけれど、わたしは、あなたのほうが人格的にも才能においても、上だと思っているよ。それに、無理に合わせてまで付き合わなければならない相手だとも思っていない」
「つまり、魏延はどうでもいい、ということか?」
「どうでもいい、というほどではないが、そうだね、私的に付き合う気を起こさせない男だ。だから、何を言われようと、わたしだって傷つかないし、言いたければ、言わせておけばいい。不思議なものでね、正直者の口ほど、なぜか閉じるのが早い。意味はわかるな?」
「多くの恨みを買って、失脚、あるいは死に至る危険が高いから」
「そのとおり。荊州人士のとりまとめたる諸葛孔明はね、ああいう不用意な発言をする男とは、私的なつながりを持ちたくないのだ。
さあ、高山にいるものだから、どんどん本音が出てきたぞ。まだ聞きたいかね」
「言ってくれ」
「子龍、わたしはまだ、やりたいことが、やらねばならぬことが山ほどある。そう、この山の連なりほど、いや、もっとだ!」
と、孔明は稜線をなぞるように手をうごかせて見せる。
「だから、失脚なんぞ絶対にしていられない。いらざる政争も不要。冷酷と言われようと、なんと言われようと、わたしは目的のためならば、側に置く人を選ぶぞ」
「それは、自分の得になる人間をそばに置く、ということか」
「近いが、すこしちがうな。世間で得、といえば、それは利益や利権を指さないかい? わたしはね、とことんまで自分勝手な人間で性質も暗愚なので、自分に得な人間が大好きなのだ。
つまり、わたしを守ってくれたり、庇ってくれたり、わたしのために本気で怒ってくれたりする人間が好きだ」

と、孔明は、背中合わせのまま、趙雲の背中に自分の背をくっつけ、それから空を仰ぐ。
雲はさまざまな形に姿を変えながら風に流されていき、一度も同じ形状をとどめない。

「わたしがここに来た理由を教えようか。ひとつは礼を言うためだ。わたしのために、怒ってくれてありがとう。それは本当に嬉しい。自分が幸せだと思うよ。本当にそうだ」
そうか、と趙雲は、声になるかならないかの、吐息にも似た声で応じた。
「だがね、もうひとつ、これは絶対に言わなければならないと思った。子龍、二度と、今日のような真似はするな」
ぐっと、背中に押し付けられる体の力が強くなる。
「今から言うのは、冗談でも世辞でも喩えでもなんでもない。全部事実だ。もしも、趙子龍が失脚すれば、諸葛孔明もともに失脚し、中央復帰は遠いものとなるだろう。
諸葛孔明という人間は、ひどく変わっているものだから、いったいどういう性質の者なのかを、周囲に翻訳してくれる人間が必要なのだ。
趙子龍は、それがもっとも上手い。諸葛孔明という人間を、おそらく本人よりもずっと理解しているからだ。趙子龍が消えれば、諸葛孔明は理解者を失い、孤立し、浮き上がる。そうして、恒久たる時の彼方に流され、忘れ去られる」
「そこまで言うやつがあるか」
「事実だと言ったではないか。全部事実。わたしが、見当外れのことを言って、あなたを不安がらせたことが、いままで一度だってあるか?」
「ないな」
「だろう。つまり、そういうことなのだよ、子龍。これは頼みだ。いや、命令だ。失脚するな。絶対に、何があっても失脚してはならぬ。私と共にある限り、ありとあらゆる局面で、罠が張り巡らされているだろう。
それでも、軽々しい真似は決してしてくれるな。あなたがいなくなったら、本当にわたしは駄目になってしまうのだよ」
「武人にいう言葉じゃないぞ」
「武人も文人も関係ないさ。それにしても、この大地というものは、いったいどこまで続いているものなのだろう。わたしたちは、いったいどこまで行くことが出来るだろうか。北の涯は? 南の彼方は? 東のその先は? 西の向こうは? 
支配することが夢ではないのだ。ただ、ひたすら知りたいのだよ。世界の果てがどこにあるのか、人の心の果てというものが、存在するのか。わたしたちは、そのために剣を取った。ただ生き残るためじゃない」
「そうだな」
孔明はわずかに首だけ振り返り、趙雲に笑って言った。
「いまから行ってもよいけれど、それでは職務放棄の上の駆け落ちになってしまうからな。いつか必ず二人で行こう。いったい、この世界の、どこまで行けるのか」
「杖が必要になる前にな」
「まったくだ。ああ、なんていい風だろう。いっそ風になれてしまえばいいのに。そうしたら、時間を気にすることなく、ずっと世界を見て回れるだろうにね。もちろん、わたしが風になったとしてもだ、あなたは、ずっとわたしの友なのだよ。ただし、失脚しなかったら、の話だからな」
「わかった。失脚なんてしない。というよりは、おまえも失脚するなよ」
趙雲が言うと、孔明は、誰に言っているのだね、と言いながら、明るく声をたてて笑った。

その後、趙雲と魏延のちいさな諍いは、劉備の口ぞえによって、あっさりと解決した。
趙雲がすぐに魏延に謝罪したことは、全兵卒が見ていたので、いまさら騒ぎ立てるのはみっともないと、魏延が判断したためである。
それから趙雲はさらに慎重かつ賢明であることをつとめ、その寿命が尽きるまで、諸葛孔明の命令を破ることはなかった。
世界の果てを見に行く約束は、守られることはなかったが、恒久の時の果てにて、それはもしかしたら守られているのかもしれない。

おしまい

2005年7月の作品でした。

短編・尚(こいねがわ)くば恒久の友たらんと 前編

2018年06月30日 20時09分03秒 | 短編・尚くば恒久の友たらんと
趙雲はぼう然とおのれの拳をみつめ、そして、地面に伏して、これまたぼう然としている魏延の顔を見下ろした。
趙雲は、自分が公の場で、しかも職務中に、激昂して人を殴るような真似はしないと、自分を信じていたし、その逆で、己をぼう然と見上げている魏延もまた、趙雲という男が、たとえどんなに無体を働いても、じっと忍耐をして見過ごしてくれる大人しい男だと思っていたようである。
周囲の者も押し黙った、異様な緊張に耐え切れず、趙雲は、らしくもなく口ごもりながら、言った。
「す、すまぬ」
魏延は、趙雲の発した言葉の意味が掴みかねている様子で、しばし目をぱちくりとさせながら、殴られた頬をさすっている。
唇が切れたらしく、その浅黒く日焼けした肌に、鮮やかな血がひとすじ、垂れた。
趙雲は、どうして自分がこんなことをしたのか、魏延の頬を殴ったおかげで、じんじんと痛む拳とともに考えようとしたが、記憶が真っ白になっており、断片的にしか繋げることができない。

魏延というのは、荊州三郡を統治していた時に、部隊長として頭角をあらわしてきた男だ。
その剛毅な、いかにも将軍然とした気風のよさが劉備の気に入り、大抜擢されて一軍をまかされるようになった男である。

趙雲は、たいがいの武将とそつなく関係を結ぶことができたが、唯一駄目なのが、『保身のうまい勘違い者』というものである。
糜竺の弟の糜芳がそうであったように、魏延もまた、おのれの地位を守るために、政治的な側面にも顔を出して、その必要があれば、賄賂をおくるのも、そのための掠奪をするのも、平気な男であった。
そもそもの最初から、こいつとは糜芳とのようになりそうだな、という、苦手意識があった。
糜芳というのは、兄の糜竺の声望の影に隠れ、驕慢で放埓な男であった。
弓馬の才能は、軍内でもずばぬけており、弓が一時、ひどく苦手であった趙雲を馬鹿にして、よくあからさまに嫌味を言ってきたものである。
そして魏延というのは、糜芳をさらに進化させたようなところがある。
たしかに軍功を華々しく挙げるし、実際に武芸の才もたいしたものである。口ばかりではないのはわかるが、その口が、いちいち刺々しいのである。
そして、この男からは、『謙虚』と『遠慮』が抜け落ちているらしく、謙譲こそ美徳なり、と信じる趙雲とは、まったく価値観の反する男でもあった。
さらに厄介なことには、この男、趙雲を気に入っていたようである。
と、いうよりは趙雲とは、すでに友であると、自分では思っていたらしい。
魏延側からすれば気の毒なことに、だから気安く口を利きすぎてしまったがゆえの、この結果。
さらに残念なことに、趙雲は、いつ魏延と友だちになったのか、そのあたりのおぼえが、トンとないのだ…だから、趙雲としては、友ではないのだろう。
第一、趙雲の友の定義というのは狭いので、友は片手で数え上げる程度にしかいないのである。
孔明は上司であり別格中の別格で、劉備は『主人』である。
となると、陳到、張飛、関羽……次点が胡偉度や馬良あたりであろうか。費文偉や董允たちは後輩であるから友とはちがうし、董幼宰は、友というよりは同志、といった言葉で括りたい人物だ。
仕事以外での友、となると、たまにいく、ちんまりとして感じのよい飲み屋で顔をあわせる、どこだかの職人だったり商人だったりだが、それとて、
「いやな天気が続きますな」
とか、
「このところ物価が高いのは、政治がいけないのです」
といった、実に無味乾燥で、意味があるような、ないような、あたりさわりのない世間話をする程度。向こうはどう思っているかどうか知らないが、すくなくとも、友というのとはちがうだろう。

それはともかく、友だち(だと思っていた)趙雲からいきなりゲンコツで横っ面を殴り飛ばされた魏延は、目をしばしばとさせながら、ゆっくりと起き上がり、それから、ようやく言った。
「あんた、何考えているのだ」
それは、趙雲が、自分自身に、いちばん聞いてみたいことである。
なぜ殴ったりなんぞしたのか。部下の手前、示しもつかない。最悪ではないか。
「すまない。本当に」
頭で考えるより、もはや反射的に身体が動いていた、といったほうがよいだろう。
ちなみに、真後ろにいきなり立たれたので、殴り飛ばした、などという、刺客や神経質な武人にありがちな理由ではない。
「立てるか」
魏延に手を差し伸べる自分を、まるで他人のように思いつつ、趙雲はそれでも素直に手を伸ばしてきた魏延の、節くれだった指を掴んで、起き上がらせた。
趙雲もうろたえているが、魏延としてもうろたえているらしい。
一体、自分の何が、趙雲の気に障ったのかがわからないでいるようなのだ。
そのため、二人して、次にどのようにしたらよいかわからず、その周囲は、もっとどうしたらよいかわからない、といった状況。
これで陳到のように、世慣れた真のお調子者がいれば、場もいくらか和やかになるのであろうが、あいにくと陳到も、陳到の係累の世慣れたお調子者関係は、たまたま全員が、その場にいなかった。
かくて、不器用なふたりは、殴った者と殴られた者とで、互いにしばし沈黙をつづけていた。

おそらく、魏延も、相手が自分より下位であったり、あるいは後輩であったりしたなら、容赦なく殴り返していただろうが、地位はともかくとして、趙雲は魏延より年も上で、劉備に仕えたのも早い。
遠慮があるために、手を出せないでいるのだが、どうやら時間が経つにつれ、ふつふつと怒りが沸いてきたらしい。
当初はぽかんと間抜けな顔をしていたが、やがて険しいものが兆してきた。
「やはり、納得がいかぬ」
「うむ、そうであろうな」
と、趙雲は素直に認めた。
自分のことを愚弄されたわけでもないのに、問答無用で殴りつけた、こちらに非がある。
趙雲があまりに素直に認めたので、ひるみつつ、魏延は言葉をつづけた。
「某は、事実を端的に述べたまでのことだ」
「なんだと!」
またもや自分のものとは思えないほどの大音声が口から飛び出し、しかもふたたび、ぐっと拳に力が籠められ、趙雲は、ほかならぬ己の拳の力に仰天して我に返った。
魏延はというと、山中でいきなり出くわした虎に吠え掛かられた旅人のように、後ずさり、趙雲の出方を伺っている。
魏延が後ろ足で踏みしめた砂利の音が、さらに趙雲を冷静にさせた。

ふと横目で見れば、合同調練の最中に、いったいこの人たちは、なにを始めたのだろうと、さらに唖然として、佇立する兵卒たちがずらりと並んでいる。
醜態をさらす、とはまさにこのことだ。
おそらく一ヶ月は、このことが兵卒たちのあいだで噂になるだろう。
じっとりと、嫌な汗が、兜をかぶった頭皮から幾筋も流れてきた。
趙雲としては、戦場以外では、滅多にかくことのなかった類いの汗である。
これは、自分はおかしいのだ。
病気なのだ。そうにちがいない。

趙雲は、調練場にずらりと並んだ兵卒たちに向き直ると、高らかに言った(つもりであったが、あきらかに声が震えていた)。
「本日の合同調練は、途中であるが終了とする!」
「なに? まだ始まったばかりであるぞ」
魏延の抗議ももっともで、実のところ、兵卒たちがしたことといえば、兵舎からぞろぞろと集って、整列しただけであった。
「いや、終わりだ」
趙雲は言うと、そのまま振り返りもせずに、調練場を後にした。
兵卒たちは、臨時休暇をもらったようなものだから喜んでいるが、残された魏延と、その部将たちは、なんだ、あれは、任務放棄ではないか、とぶうぶう言っている。
さまざまな声を背に受けて、趙雲は、逃げるように、愛馬にまたがると、町を抜け、いつもの場所へと逃げ出した。

逃げたのだ。

趙雲は、雲厚い成都の町から離れた、険阻な山のちょうど天然の物見櫓のようになっている位置に、どうぞお座りくださいとばかりに用意してある岩の上に座って、ぼう然としたまま、流れ行く雲をながめていた。

俺はだれだ?

趙子龍だ。

なぜ逃げた? 趙子龍は逃げない男であったはずなのに。

わからん。

趙雲のいる位置まで、馬が登ってくることはできない。
そのため、山の中腹で愛馬の赫曄をつないで、単身、ここまで登ってきた。山菜があるわけでもなし、特殊な獣がいるわけでもなし、旅人が立ち寄るにも街道から外れているので、この場所を訪れるものは滅多にいない。
そのため、成都の町と、それをとりかこむ山嶺を見渡せる絶景を、ひとりじめできるのだ。

つづく……

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