はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

冬の歌い人 後編

2018年06月30日 09時31分26秒 | 短編・冬の歌い人
孔明はというと、腕を強く組み、歌を聴いているとは思えない苦悩の表情を浮かべ、考え込んでいる。
「終わったが」
趙雲が言うと、孔明はうーむ、と唸りながら目を開き、言った。
「ずいぶんと明るい歌だな」
「なに?」
「あなたがそんな歌を唄うとは意外だった。けれど、その歌は、そんな旋律だったろうかね? 常山真定ではそうなのか。瑯琊に伝わった旋律とはだいぶ差があるようだ」
いいつつ、孔明は歌の一節を口ずさんだ。その節回しは、趙雲の記憶にある歌、そのままである。
「そう、それだ、それを唄いたかった」
「唄いたかった、って、いま唄ったではないか。あなたが言うほど、ひどい歌ではなかったぞ。しかし歌詞がどうにもわからぬ。そんなに悲しい内容でありながら、心が浮き立つような旋律で唄うとは、常山真定の人間は変わっている」
「いや、そうではなく、俺は悲しい歌を唄ったつもりだった」
孔明は、しばし柳眉をひそめ、考えた後、言った。
「しかし明るい歌に聞こえた。子龍、それでは明るい歌を唄ってみてくれ。すこしでいいから」
「明るい歌、か」

趙雲は、むかし公孫瓚のところにいたときに覚えた、兵卒たちの歌っている戯れ歌を唄ってみた。
歌詞の内容がきわどいものなので、潔癖症の孔明が雪玉をぶつけてくるかもしれないなと思ったが、しかし、孔明の反応はというと、これまた顔をゆがめて、首をひねっている。
「そのあっけらかんとした歌詞で、どうしてそんな物悲しい歌になる。どうなっているのだ、子龍」
「どうもこうも、俺は明るい歌を唄えといわれたので、そうしたのだが」
すると、孔明は、手振りで待て、というふうにすると、考え込んだ。
「ふむ、悲しい歌を唄ったのに、口から出たのは明るい歌。逆に明るい歌を唄ったのに、口から出たのは悲しい歌」
「どうなっている」
「こちらの台詞だ。やれやれ、あなたという人は、本当にややこしい人だね。あなたの頭と口がうらはらなのだとしか思えない。
もうこうなったら、楽しい歌を唄うときは、悲しい歌を唄っていると思いながら楽しい歌を唄うしかないな」
「どうやって」
「旋律ではなく、歌詞を中心に考えるのだよ。楽しい歌詞を歌うときは、悲しく歌う癖をつけてしまえ。悲しい歌は、その逆だ。あなたの口は天邪鬼で、楽しい歌を勝手に悲しくしてしまうのだから、人に楽しい歌を聞かせたいときは、楽しい歌詞を悲しい旋律で唄うことにしてしまえばいい。あなたの口の天邪鬼は騙されて、楽しい歌詞を楽しい歌で歌うようにしてくれる」
「なにがなにやらわからなくなってきた。歌とは、これほどまでにむつかしいものだったのか?」
「ふつうはここまでややこしくならないよ。もう一度、そのつもりで悲しい歌を頭の中では楽しく歌うつもりで歌ってみろ」

悲しい歌を楽しく。
孔明は簡単に言うが、趙雲は混乱しつつあった。とはいえ、やめるわけにはいかないので、最初からではなく、さびの部分を、楽しく歌うようにした。
だが、悲しい歌を楽しくする、というのは無茶な要求であった。
結果からすれば。
「うーむ、それらしい歌にはなったが、まったく心の籠もっていない歌だな」
「悲しい歌を楽しく唄うことでせい一杯で、頭がおかしくなりそうだ。感情を籠めるなど絶対に無理だぞ」
「困ったな。こうなれば、方法はひとつ。最初に唄った悲しい歌モドキを、常山真定にはこう伝わったのだと言い張って唄いとおせ」
「俺の歌は、あらためてひどかろう」
「ひどいというか、そうだな。変わっているな。かつてあなたの元を去っていた女は、あの歌を聴いて、あなたがふざけているのだと思ったのだろうと思うよ。ちゃんと唄えていれば、もしかしたら運命はだいぶ変わっていたかもしれない」
「でも同じだったかもしれない。歌のひとつでこちらを見捨ててしまえる程度の絆だったのだ」
「やれやれ、さっきから悲しい話ばかり出ているな。歌はもっと陽気で心の浮き立つものなのに」
「手本を見せてくれ。うまいだろう」

趙雲に言われると、とたん、孔明は素直に冷気を吸い込み、歌を唄いはじめた。
孔明は万軍を前に指示を出すために咽喉を鍛えている。その成果が出ているのだろう。
雪の上を寒さに負けず高く飛ぶ鳶のように、声はピンと弓が張ったようにひびき、雪原に伝わってく。
一音一音が、訴えとなって耳に入ってくる。
まったく気を逸らすことができない。
歌を聴くというよりも孔明が歌でつくリ出した世界と対峙するというふうだ。
感情を揺さぶられる。それが孔明の歌の力なのだろう。
歌の世界にすっかり入り込み、その感情に捕らわれ、趙雲は、母が歌っていた当時のことや、陰鬱な実家の様子、好きだった雪かきと、近所の子供たちとの雪合戦などを思い出していた。

孔明の歌が終わると、身近に寄り戻ってきたものは、また雪の向こうにまぎれてしまった。
いまはただ、余韻がある。
「おまえはうまいよ。単に唄がうまいというだけではなく、歌で人の心を揺さぶろうという気持ちがある。これが歌の本来の姿だな。俺なんぞは、歌めかしているが、たんに唸っているだけにも聞こえる」
「でも、聞けない歌ではないよ。子龍、あなたが歌おうとしている歌は、あなたの昔に関わる歌なのだろう」
「そうだ。むかし、母がよく歌ってくれた歌だ」
「ならば、あまりいい加減に唄いたくはないだろう」
「しかし、俺の口は莫迦になったとしか思えない」
「一緒に歌わないか、子龍。合唱をするのだよ。あなたはあなたで、いつもどおりに歌い、わたしが本来の歌を唄う。
合わせてみると、あらふしぎ、感動も二倍、できばえも二倍の見事な芸術が出来上がっている、という次第。そうだよ、一緒に歌おう」
「俺はおまえの足を引っ張るぞ」
「それはどうかな、やってみなければわからない。さっそく練習してみよう、さんはい」

孔明の合図に、趙雲は戸惑いながらもあわせて唄ってみる。
すると、自分の口から出てくるのは、あいかわらず悲しいはずが楽しい歌であったが、孔明は本来どおりの歌を唄った。
「ちょっと賑やか過ぎる部分もあったが、これはいいのではいないか。二部合唱。子龍、恩賞金はわたしたちのものだぞ。あと練習をつめていけば、もっともっと向上するにちがいない」
「そうか? おまえがそういうのなら、それでいいけれど」
「思わぬ収穫だな。これはきっとうまくいく。よし、もっと練習をするぞ。子龍、気合を入れていけ」
と、お祭り好きではないのだが、勝負がかかると、とたんに目の色のかわる孔明は、趙雲に気合を入れて、言う。
趙雲はというと、孔明がここまで頑張っているのなら、仕方ない、とほぼあきらめの境地で練習に付き合った。

雪の中の練習は、なんと半日をかけてのものであったが、さて、すぐに日々はめぐり、宴の日である。
宴の席には孔明と趙雲の姿はなかった。ふたりの欠席した様子を見て、人々は言った。
「お気の毒に、相当張り切ってらっしゃったのに、この宴のために山籠もりまでしたそうな」
「で、両者とも風邪で欠席。いまごろ苦しくて唸ってらっしゃることでしょうなあ」
「ほかの者に移したらまずいと、軍師将軍は人の少ない趙将軍のお屋敷へ避難されたそうですよ。ふたりで咳の嵐のなかにいるのでしょうなあ。あまり近づきたくない」
雪の中で張り切りすぎた二人は、すっかり身体を冷やして風邪をひいた。
しかし風邪を家人に移してはならないと、孔明が趙雲の屋敷に押しかけ、病気を理由にわがまま放題である。
そして、同じく病人となった趙雲のそばをはなれず、風邪ながらもあれやこれやと面倒をみるうえ、ちょっかいもかけてくるので、この風邪は長引くことになりそうだと、趙雲は覚悟した。

歌の恩賞は、張飛が受け取ったようである。
その報せをよそに趙雲と孔明は横になりながら、のん気に政務のことも忘れて、ひたすら何の悩みも持たない青年たちのように、風邪で嗄れた声で、愚にも付かないことをしゃべりつづけた。
たまにはこんな雪の日もあっていい。
なにせ二人は、いつもは、あまりに働きすぎなのだから。

おわり

夏の初めに、ひんやりと冬のおはなしでした。
2009年1月の作品です。

冬の歌い人 前編

2018年06月29日 20時08分57秒 | 短編・冬の歌い人

吐息がそのまま昇天して白い雲に転じてしまうのではと錯覚するほどに、身体の芯から冷える日であった。
なぜこんな日に屋外へ、しかも山の中へ入らねばならないのかと趙雲は訝しく思う。
もちろん、おかしいのではないかと異議はとっくの昔に立てたのだ。
だが、孔明は、
「だれもいないところ、すなわち、だれも行きたがらないところだぞ」
と言って、渋る趙雲の異議を却下した。

いつもの厚手の上衣のうえに、さらに高級品であるキツネの皮衣をまとい、体中を布で覆うような格好で外に出る。
目だけ残して顔まで覆う頭巾をかぶることも考えたが、視界が悪くなってしまうのであきらめた。
万が一刺客が襲ってきた場合、動きがにぶくなってはいけない。

刃のように冷たく吹き抜ける風を頬に受けつつ、趙雲は、まったくなんだってこんなことに、と心の中で愚痴をつぶやきながら、山に入った。
同道する馬も、今日ばかりは機嫌が悪そうである。
そも、山へ行こうと言い出したのは、孔明であった。
このところ、落ち着きがないうえに元気のない趙雲を気にして、そう言い出したのである。
とはいえ、あまりうれしくない誘いであった。
断ることもできたのだが、孔明の気持ちを考えると、できなかった。
孔明はというと、この寒さをむしろ楽しんでいるようで、ときおり強い風がぴゅうと吹くと、声をたてて笑いながら、寒い、寒いと震えている。
寒ささえも楽しめる底抜けの明るさに、趙雲はむしろ感心する。
この明るさゆえに、幾多の危機も乗り越えられてきたわけだ。

山に入ってしばらく進むと、林道の先に見晴らしの良い野原が開けた。
さえぎるものがまったくないため、山から吹き降ろす風がまともにぶつかってくるのだが、いったいどういうわけなのか、ふたりが野原に到着したとたん、さきほどまでびゅうびゅうと容赦なく吹き抜けていた風がぴたりと止んだ。
厚く積もった雪が、まるでふくらんだ餅のような曲線を描いてそこにある。
空も晴れてきて、雲ひとつない澄んだ青空の下の、真っ白な雪原がまぶしい。
「日ごろの行いがよいせいだな」
と、孔明は、なにに納得したのか、うれしそうにうなずきながら言った。
孔明の姿も、いつもの瀟洒なものとはちがって、だいぶ実用的な、わるく言えばぶざまなものであった。
動物の皮の上衣に動物の皮の長靴、きつねの襟巻き、きつねの帽子。鶴がきつねに化けているように見えなくもない。
「ここでなら十分に練習ができるはずだぞ、よかったな、子龍」
孔明のことばに素直にうなずけない趙雲は、おのれの身を抱きしめるようにしながら、言った。
「俺の家でも練習できたはずだぞ」
「家令のじいさまに聞かれるのが恥ずかしいと渋っていたではないか。だからここまで来ることになったのだよ。いやしかし、ここまで来るのは大変だったな。一時はどうなることかと思ったが」
「まったくだ。遭難するかと思ったぞ」
「でも無事にたどり着いた。きっと青女(雪の女神)もわれらの健気な姿に感動して、その手を緩めてくれたにちがいない。さあ、青女の気持ちをありがたく汲んで、練習しよう」

練習。
まったくもって、なぜこんな練習をしなければならぬのかと、趙雲は苦々しく思う。
事の始まりは新春の宴であった。
いつもどおりに宴はなごやかに進んでいたのだが、劉備がふと、こんなことを漏らしたのである。
「みんなで集まって酒を飲んで余興を楽しんで、それはそれで悪くないけれど、なにかが足りねえなあ」
そこへ手を挙げたのが、宴会のことならなんでもござれの劉琰である。
劉琰。字を威碩といい、ふだんは目立たぬところにおり、位も固陵太守と、さして重要ではないところにいる男である。しかし宴会となると、俄然、輝き出す。
生来、こうした賑やかな場に華を添える才能に恵まれているのだろう。詩歌を得意とし、管弦に通じ、そのうえ、談論も愉快なため、劉備にとくに気に入られている人物である。
出自はさして高くはないのだが、劉姓ということで尊ばれ、宴では賓客あつかいをされていた。
その劉琰が張り切って言ったのである。
「主公、わたくしが思いますに、余興といっても、芸子の余興ばかりで目新しさがありませぬ。かといって、皆様方から余興の得意な方を募っても、たいがい同じ方が手をあげられるので、これまた目新しさがございませぬ。如何でございましょう、つぎの宴では、全員で歌くらべをする、というのは」
「歌くらべ? 詩は儂だって作れねえよ」
劉備が口をとがらすと、劉琰は上品な笑い声をたてて、言った。
「そうではございませぬ。よそでは歌くらべといいますと、自分で作った詩歌を吟ずることかもしれませぬが、われらは、単純に歌を唄って、その優劣を競おうではございませぬか」
「ああ、それならいいな。儂たちでも楽しめそうだ。よし、みんな聞こえたな。つぎの宴は、全員が歌を唄うのだぞ、いまから練習してこい。いいなー」
と、気楽に劉備が言うと、それはようございますと、みなが賛成した。ただし、歌の得意でない者数人と、照れ屋の数人が、非常に渋い顔をしたのだが、それは無視された。

趙雲の場合、歌が得意でない者のなかの一人である。
次の宴は憂鬱だなと悶々としていた趙雲を見て、孔明が、それでは練習しようと言い出した。
で、いま、この雪原にいるのである。

「あなたは上手いはずだよ」
断言する孔明に、趙雲は渋い顔をして言った。
「また明言するものだな。どうしてそんなことが言える」
「だって、ほら、顔の輪郭がよいもの」
「顔の輪郭がよいと、歌が上手いのか」
「顔の輪郭がよいと、声がよい。実際に、あなたは声がいいのだから、唄えば映えるはずだよ」
しかし声がよければ、音程を取るのも得意というわけではなかった。趙雲はこれまでの経験から、自分にはまったく楽才がないことを知っている。
とりあえず琴は弾けるが教えられたとおりに爪弾いているだけで味わいもなにもない音しか出せないし、宴に出ても、歌を聴いて楽しめたことがない。
詩を作れる人間は、きっと特別な才能があるのだと信じてやまない。そんなふうなのだ。
だからこそ、つぎの宴で唄わねばならない、ということは、苦痛なこと、このうえなかった。

「とりあえず唄ってみてくれ。寸評してさしあげよう。ほーら、さんはい」
合図を送る孔明だが、しかし、趙雲は唇を動かさない。
この場にいるのは孔明と冬眠してない動物だけ、ということはわかっていたが、しかし恥ずかしかったのである。
「照れているのか、それともわたしの舌が怖いのか。きついことは言わないと約束するよ。唄ってみてくれ。でなければ、なにも始まらぬ。ここまで来た甲斐がないではないか」
「俺の歌は」
「うん」
「ひどい」
「……自分でそう思い込んでいるだけかもしれないではないか」
「いや、ひどい。おまえもこの話を聞けば気が変わるぞ。むかし、俺に執心している女がいて」
「ふむ」
潔癖症の孔明は、話題が気に入らないらしく、ぴくりと片方の眉を器用に吊り上げる。
しかし、趙雲はあえてそれを見なかったことにしてつづけた。
「ほとんど女房のような状態にまでなった。ところが、当時も劉威碩が、いまと同じようなことを言い出して、宴ではひとりひとりが詩歌を唄うのが流行のようなことになった。
俺は主公の主騎であることを理由にずっと歌わないでいたのだが、あるとき、女が言ったのだ。みなさまがたが唄ってらっしゃるのに、あなた一人が黙っていてつまらない。どうか唄ってくださいまし、あなたさまは声がいいのだから、きっと歌もお上手なはず、と」
「おや、わたしと同じ事を思った者がいるのだな」
「そうだ。で、唄ってみせたのだが、次の朝、女は俺の元から去っていった」
「歌を聴いて?」
「歌を聴いて。どうだ、俺の歌のひどさがわかるだろう」
「単に別の理由だったかもしれないぞ。思いつかないけれど。しかし、あなたの口から出てくる女は、みんなあなたを捨てていくな、気の毒に」
「そうだとも。だから俺はいまだに独り身なのだ」
ふて腐れて言うと、孔明は諸手を挙げて、言った。
「ああ、気を悪くしたならすまなかった。でも子龍、なんだってどれだけひどかろうと、練習さえすれば、なんとかなる程度にはうまくなるものだよ。歌だって同じではないか。ともかく、どれだけひどいか聞かせてくれないか」
「おまえも俺が嫌いになるかもな」
なかば冗談であったが、孔明は、目を丸くして、言った。
「たかが歌で? それしきの薄いつながりだと思っているのか、失礼な」
「ああ、悪かった、悪かった。冗談だ。しかし心の準備が出来てない」
「そうか、ではこうしようか、あなたはわたしが隣にいるから気になって歌えないのだよ。あなたとて、だれもいないときに鼻歌を唄ったりするだろう」
「しないな」
「まったく?」
「まったく」
「……まあいい。だれもいないと思って唄えばいい。最初だから、そうだ、わたしは目を閉じて、耳を塞いでいるよ。だからいっぺん、唄ってみるといい」
そういうと、孔明はぎゅっと目をつむり、両手で耳を塞いで、趙雲の歌を待った。
趙雲はというと、それならばと思い、一度は呼吸を深く吸い込んだ。

が、すぐに気づいた。

「待て」
言っても、固く耳を塞いでいる孔明は聞こえないらしく、子供のようにぎゅっと目をつぶったまま、動かない。
趙雲は、仕方なく孔明の肩を叩く。
すると、孔明は開口一番、言った。
「早かったな!」
「唄ってない。おまえはときどき莫迦になるな」
すると、孔明は、はて、というふうに首をかしげた。
「なぜ」
「なぜもなにもない。おかしかろう、おまえですら聞かない俺の歌に、なんの意味がある」
「木霊が聞く」
「あのな、そうではなくて、だれも聞いてないのに俺一人が歌うことに意味はなかろう。おまえが聞いて、はじめて論評が出来るのだ。
もし一人で練習すればいいのなら、俺は屋敷の蔵にでも閉じこもって練習していたさ」
孔明はというと、目をぱちぱちとさせて、言った。
「たしかにそうだが、気持ちを整えるための一曲目という意味だぞ」
「もう唄う気がなくなった」
「また。そう言って逃げようとする。趙子龍は逃げたりしない。つねに戦うのだ」
「歌と?」
「歌と! 一人で唄うのが恥ずかしいというのなら、一緒に歌ってやろうか?」
「そのほうが、もっと恥ずかしい。おまえはいいな、歌が上手いから」
趙雲が腐って言うと、孔明は言葉を素直に受け取ったらしく、にんまりと笑って、言った。
「そうか、やはりあなたも上手いと思うか。つぎの宴は楽しみでならぬよ。いちばん上手く唄えた者には、主公から恩賞が与えられるそうな」
「俺には縁のない話だ」
「何を言うか。努力賞もあると聞いている。それにな、子龍、わたしの歌の上手さはみな知っているから、新鮮味を与えられないというところが苦しいところだ。
そこへいくと、あなたの歌は、みなほとんど聴いたことがないから、新鮮であることこのうえない。有利だぞ」
「恩賞、とは?」
「さて、馬かも知れぬぞ。どうだ、俄然、やる気が出てきたのではないか」
「あまり変わらぬ」
孔明は、ふう、と息をついて、言った。
「やれやれ、あなたを奮い立たせるのは骨だな。子龍、こうなったら命令だ。わたしのために歌を唄え! どうだ、これならば唄わざるをえまい」
「いま思い出したが、雪の中で歌うと雪崩になるそうだぞ」
「いま思いついた、の間違いであろう。その話は聞いたことがあるが、与太だ。わたしが保証する。隆中にいたころ試して、何も起こらないと実証済みだ。極端に大声さえ出さなければ問題ない」
「どうしても唄わねばならぬか」
「いいから唄え。 命令だ、命令」

命令と言われて、むっとしないでもなかったが、あまりぐずぐずしていると、孔明が本格的に怒り出しそうな気配もあった。
趙雲は、覚悟をきめて歌を唄い出す。
それは、遠い昔に聞いた古謡であった。
母が子供のおりに、よく聞かせてくれたものである。優しい響きをもちながら、どこか物寂しげで、翳りを感じさせた。
最初は音程を気にしていたが、次の歌詞を頭で追いかけているうちに、なにがなにやらわからなくなってきた。
しまった、ここは高音だった、いや、こっちは低音だったはずだぞ。ここは伸ばすのではなかったか。
などと逡巡しているうちに、歌詞は尽きた。
唄い終わったのである。

つづく……

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