孔明はというと、腕を強く組み、歌を聴いているとは思えない苦悩の表情を浮かべ、考え込んでいる。
「終わったが」
趙雲が言うと、孔明はうーむ、と唸りながら目を開き、言った。
「ずいぶんと明るい歌だな」
「なに?」
「あなたがそんな歌を唄うとは意外だった。けれど、その歌は、そんな旋律だったろうかね? 常山真定ではそうなのか。瑯琊に伝わった旋律とはだいぶ差があるようだ」
いいつつ、孔明は歌の一節を口ずさんだ。その節回しは、趙雲の記憶にある歌、そのままである。
「そう、それだ、それを唄いたかった」
「唄いたかった、って、いま唄ったではないか。あなたが言うほど、ひどい歌ではなかったぞ。しかし歌詞がどうにもわからぬ。そんなに悲しい内容でありながら、心が浮き立つような旋律で唄うとは、常山真定の人間は変わっている」
「いや、そうではなく、俺は悲しい歌を唄ったつもりだった」
孔明は、しばし柳眉をひそめ、考えた後、言った。
「しかし明るい歌に聞こえた。子龍、それでは明るい歌を唄ってみてくれ。すこしでいいから」
「明るい歌、か」
趙雲は、むかし公孫瓚のところにいたときに覚えた、兵卒たちの歌っている戯れ歌を唄ってみた。
歌詞の内容がきわどいものなので、潔癖症の孔明が雪玉をぶつけてくるかもしれないなと思ったが、しかし、孔明の反応はというと、これまた顔をゆがめて、首をひねっている。
「そのあっけらかんとした歌詞で、どうしてそんな物悲しい歌になる。どうなっているのだ、子龍」
「どうもこうも、俺は明るい歌を唄えといわれたので、そうしたのだが」
すると、孔明は、手振りで待て、というふうにすると、考え込んだ。
「ふむ、悲しい歌を唄ったのに、口から出たのは明るい歌。逆に明るい歌を唄ったのに、口から出たのは悲しい歌」
「どうなっている」
「こちらの台詞だ。やれやれ、あなたという人は、本当にややこしい人だね。あなたの頭と口がうらはらなのだとしか思えない。
もうこうなったら、楽しい歌を唄うときは、悲しい歌を唄っていると思いながら楽しい歌を唄うしかないな」
「どうやって」
「旋律ではなく、歌詞を中心に考えるのだよ。楽しい歌詞を歌うときは、悲しく歌う癖をつけてしまえ。悲しい歌は、その逆だ。あなたの口は天邪鬼で、楽しい歌を勝手に悲しくしてしまうのだから、人に楽しい歌を聞かせたいときは、楽しい歌詞を悲しい旋律で唄うことにしてしまえばいい。あなたの口の天邪鬼は騙されて、楽しい歌詞を楽しい歌で歌うようにしてくれる」
「なにがなにやらわからなくなってきた。歌とは、これほどまでにむつかしいものだったのか?」
「ふつうはここまでややこしくならないよ。もう一度、そのつもりで悲しい歌を頭の中では楽しく歌うつもりで歌ってみろ」
悲しい歌を楽しく。
孔明は簡単に言うが、趙雲は混乱しつつあった。とはいえ、やめるわけにはいかないので、最初からではなく、さびの部分を、楽しく歌うようにした。
だが、悲しい歌を楽しくする、というのは無茶な要求であった。
結果からすれば。
「うーむ、それらしい歌にはなったが、まったく心の籠もっていない歌だな」
「悲しい歌を楽しく唄うことでせい一杯で、頭がおかしくなりそうだ。感情を籠めるなど絶対に無理だぞ」
「困ったな。こうなれば、方法はひとつ。最初に唄った悲しい歌モドキを、常山真定にはこう伝わったのだと言い張って唄いとおせ」
「俺の歌は、あらためてひどかろう」
「ひどいというか、そうだな。変わっているな。かつてあなたの元を去っていた女は、あの歌を聴いて、あなたがふざけているのだと思ったのだろうと思うよ。ちゃんと唄えていれば、もしかしたら運命はだいぶ変わっていたかもしれない」
「でも同じだったかもしれない。歌のひとつでこちらを見捨ててしまえる程度の絆だったのだ」
「やれやれ、さっきから悲しい話ばかり出ているな。歌はもっと陽気で心の浮き立つものなのに」
「手本を見せてくれ。うまいだろう」
趙雲に言われると、とたん、孔明は素直に冷気を吸い込み、歌を唄いはじめた。
孔明は万軍を前に指示を出すために咽喉を鍛えている。その成果が出ているのだろう。
雪の上を寒さに負けず高く飛ぶ鳶のように、声はピンと弓が張ったようにひびき、雪原に伝わってく。
一音一音が、訴えとなって耳に入ってくる。
まったく気を逸らすことができない。
歌を聴くというよりも孔明が歌でつくリ出した世界と対峙するというふうだ。
感情を揺さぶられる。それが孔明の歌の力なのだろう。
歌の世界にすっかり入り込み、その感情に捕らわれ、趙雲は、母が歌っていた当時のことや、陰鬱な実家の様子、好きだった雪かきと、近所の子供たちとの雪合戦などを思い出していた。
孔明の歌が終わると、身近に寄り戻ってきたものは、また雪の向こうにまぎれてしまった。
いまはただ、余韻がある。
「おまえはうまいよ。単に唄がうまいというだけではなく、歌で人の心を揺さぶろうという気持ちがある。これが歌の本来の姿だな。俺なんぞは、歌めかしているが、たんに唸っているだけにも聞こえる」
「でも、聞けない歌ではないよ。子龍、あなたが歌おうとしている歌は、あなたの昔に関わる歌なのだろう」
「そうだ。むかし、母がよく歌ってくれた歌だ」
「ならば、あまりいい加減に唄いたくはないだろう」
「しかし、俺の口は莫迦になったとしか思えない」
「一緒に歌わないか、子龍。合唱をするのだよ。あなたはあなたで、いつもどおりに歌い、わたしが本来の歌を唄う。
合わせてみると、あらふしぎ、感動も二倍、できばえも二倍の見事な芸術が出来上がっている、という次第。そうだよ、一緒に歌おう」
「俺はおまえの足を引っ張るぞ」
「それはどうかな、やってみなければわからない。さっそく練習してみよう、さんはい」
孔明の合図に、趙雲は戸惑いながらもあわせて唄ってみる。
すると、自分の口から出てくるのは、あいかわらず悲しいはずが楽しい歌であったが、孔明は本来どおりの歌を唄った。
「ちょっと賑やか過ぎる部分もあったが、これはいいのではいないか。二部合唱。子龍、恩賞金はわたしたちのものだぞ。あと練習をつめていけば、もっともっと向上するにちがいない」
「そうか? おまえがそういうのなら、それでいいけれど」
「思わぬ収穫だな。これはきっとうまくいく。よし、もっと練習をするぞ。子龍、気合を入れていけ」
と、お祭り好きではないのだが、勝負がかかると、とたんに目の色のかわる孔明は、趙雲に気合を入れて、言う。
趙雲はというと、孔明がここまで頑張っているのなら、仕方ない、とほぼあきらめの境地で練習に付き合った。
雪の中の練習は、なんと半日をかけてのものであったが、さて、すぐに日々はめぐり、宴の日である。
宴の席には孔明と趙雲の姿はなかった。ふたりの欠席した様子を見て、人々は言った。
「お気の毒に、相当張り切ってらっしゃったのに、この宴のために山籠もりまでしたそうな」
「で、両者とも風邪で欠席。いまごろ苦しくて唸ってらっしゃることでしょうなあ」
「ほかの者に移したらまずいと、軍師将軍は人の少ない趙将軍のお屋敷へ避難されたそうですよ。ふたりで咳の嵐のなかにいるのでしょうなあ。あまり近づきたくない」
雪の中で張り切りすぎた二人は、すっかり身体を冷やして風邪をひいた。
しかし風邪を家人に移してはならないと、孔明が趙雲の屋敷に押しかけ、病気を理由にわがまま放題である。
そして、同じく病人となった趙雲のそばをはなれず、風邪ながらもあれやこれやと面倒をみるうえ、ちょっかいもかけてくるので、この風邪は長引くことになりそうだと、趙雲は覚悟した。
歌の恩賞は、張飛が受け取ったようである。
その報せをよそに趙雲と孔明は横になりながら、のん気に政務のことも忘れて、ひたすら何の悩みも持たない青年たちのように、風邪で嗄れた声で、愚にも付かないことをしゃべりつづけた。
たまにはこんな雪の日もあっていい。
なにせ二人は、いつもは、あまりに働きすぎなのだから。
おわり
夏の初めに、ひんやりと冬のおはなしでした。
2009年1月の作品です。
「終わったが」
趙雲が言うと、孔明はうーむ、と唸りながら目を開き、言った。
「ずいぶんと明るい歌だな」
「なに?」
「あなたがそんな歌を唄うとは意外だった。けれど、その歌は、そんな旋律だったろうかね? 常山真定ではそうなのか。瑯琊に伝わった旋律とはだいぶ差があるようだ」
いいつつ、孔明は歌の一節を口ずさんだ。その節回しは、趙雲の記憶にある歌、そのままである。
「そう、それだ、それを唄いたかった」
「唄いたかった、って、いま唄ったではないか。あなたが言うほど、ひどい歌ではなかったぞ。しかし歌詞がどうにもわからぬ。そんなに悲しい内容でありながら、心が浮き立つような旋律で唄うとは、常山真定の人間は変わっている」
「いや、そうではなく、俺は悲しい歌を唄ったつもりだった」
孔明は、しばし柳眉をひそめ、考えた後、言った。
「しかし明るい歌に聞こえた。子龍、それでは明るい歌を唄ってみてくれ。すこしでいいから」
「明るい歌、か」
趙雲は、むかし公孫瓚のところにいたときに覚えた、兵卒たちの歌っている戯れ歌を唄ってみた。
歌詞の内容がきわどいものなので、潔癖症の孔明が雪玉をぶつけてくるかもしれないなと思ったが、しかし、孔明の反応はというと、これまた顔をゆがめて、首をひねっている。
「そのあっけらかんとした歌詞で、どうしてそんな物悲しい歌になる。どうなっているのだ、子龍」
「どうもこうも、俺は明るい歌を唄えといわれたので、そうしたのだが」
すると、孔明は、手振りで待て、というふうにすると、考え込んだ。
「ふむ、悲しい歌を唄ったのに、口から出たのは明るい歌。逆に明るい歌を唄ったのに、口から出たのは悲しい歌」
「どうなっている」
「こちらの台詞だ。やれやれ、あなたという人は、本当にややこしい人だね。あなたの頭と口がうらはらなのだとしか思えない。
もうこうなったら、楽しい歌を唄うときは、悲しい歌を唄っていると思いながら楽しい歌を唄うしかないな」
「どうやって」
「旋律ではなく、歌詞を中心に考えるのだよ。楽しい歌詞を歌うときは、悲しく歌う癖をつけてしまえ。悲しい歌は、その逆だ。あなたの口は天邪鬼で、楽しい歌を勝手に悲しくしてしまうのだから、人に楽しい歌を聞かせたいときは、楽しい歌詞を悲しい旋律で唄うことにしてしまえばいい。あなたの口の天邪鬼は騙されて、楽しい歌詞を楽しい歌で歌うようにしてくれる」
「なにがなにやらわからなくなってきた。歌とは、これほどまでにむつかしいものだったのか?」
「ふつうはここまでややこしくならないよ。もう一度、そのつもりで悲しい歌を頭の中では楽しく歌うつもりで歌ってみろ」
悲しい歌を楽しく。
孔明は簡単に言うが、趙雲は混乱しつつあった。とはいえ、やめるわけにはいかないので、最初からではなく、さびの部分を、楽しく歌うようにした。
だが、悲しい歌を楽しくする、というのは無茶な要求であった。
結果からすれば。
「うーむ、それらしい歌にはなったが、まったく心の籠もっていない歌だな」
「悲しい歌を楽しく唄うことでせい一杯で、頭がおかしくなりそうだ。感情を籠めるなど絶対に無理だぞ」
「困ったな。こうなれば、方法はひとつ。最初に唄った悲しい歌モドキを、常山真定にはこう伝わったのだと言い張って唄いとおせ」
「俺の歌は、あらためてひどかろう」
「ひどいというか、そうだな。変わっているな。かつてあなたの元を去っていた女は、あの歌を聴いて、あなたがふざけているのだと思ったのだろうと思うよ。ちゃんと唄えていれば、もしかしたら運命はだいぶ変わっていたかもしれない」
「でも同じだったかもしれない。歌のひとつでこちらを見捨ててしまえる程度の絆だったのだ」
「やれやれ、さっきから悲しい話ばかり出ているな。歌はもっと陽気で心の浮き立つものなのに」
「手本を見せてくれ。うまいだろう」
趙雲に言われると、とたん、孔明は素直に冷気を吸い込み、歌を唄いはじめた。
孔明は万軍を前に指示を出すために咽喉を鍛えている。その成果が出ているのだろう。
雪の上を寒さに負けず高く飛ぶ鳶のように、声はピンと弓が張ったようにひびき、雪原に伝わってく。
一音一音が、訴えとなって耳に入ってくる。
まったく気を逸らすことができない。
歌を聴くというよりも孔明が歌でつくリ出した世界と対峙するというふうだ。
感情を揺さぶられる。それが孔明の歌の力なのだろう。
歌の世界にすっかり入り込み、その感情に捕らわれ、趙雲は、母が歌っていた当時のことや、陰鬱な実家の様子、好きだった雪かきと、近所の子供たちとの雪合戦などを思い出していた。
孔明の歌が終わると、身近に寄り戻ってきたものは、また雪の向こうにまぎれてしまった。
いまはただ、余韻がある。
「おまえはうまいよ。単に唄がうまいというだけではなく、歌で人の心を揺さぶろうという気持ちがある。これが歌の本来の姿だな。俺なんぞは、歌めかしているが、たんに唸っているだけにも聞こえる」
「でも、聞けない歌ではないよ。子龍、あなたが歌おうとしている歌は、あなたの昔に関わる歌なのだろう」
「そうだ。むかし、母がよく歌ってくれた歌だ」
「ならば、あまりいい加減に唄いたくはないだろう」
「しかし、俺の口は莫迦になったとしか思えない」
「一緒に歌わないか、子龍。合唱をするのだよ。あなたはあなたで、いつもどおりに歌い、わたしが本来の歌を唄う。
合わせてみると、あらふしぎ、感動も二倍、できばえも二倍の見事な芸術が出来上がっている、という次第。そうだよ、一緒に歌おう」
「俺はおまえの足を引っ張るぞ」
「それはどうかな、やってみなければわからない。さっそく練習してみよう、さんはい」
孔明の合図に、趙雲は戸惑いながらもあわせて唄ってみる。
すると、自分の口から出てくるのは、あいかわらず悲しいはずが楽しい歌であったが、孔明は本来どおりの歌を唄った。
「ちょっと賑やか過ぎる部分もあったが、これはいいのではいないか。二部合唱。子龍、恩賞金はわたしたちのものだぞ。あと練習をつめていけば、もっともっと向上するにちがいない」
「そうか? おまえがそういうのなら、それでいいけれど」
「思わぬ収穫だな。これはきっとうまくいく。よし、もっと練習をするぞ。子龍、気合を入れていけ」
と、お祭り好きではないのだが、勝負がかかると、とたんに目の色のかわる孔明は、趙雲に気合を入れて、言う。
趙雲はというと、孔明がここまで頑張っているのなら、仕方ない、とほぼあきらめの境地で練習に付き合った。
雪の中の練習は、なんと半日をかけてのものであったが、さて、すぐに日々はめぐり、宴の日である。
宴の席には孔明と趙雲の姿はなかった。ふたりの欠席した様子を見て、人々は言った。
「お気の毒に、相当張り切ってらっしゃったのに、この宴のために山籠もりまでしたそうな」
「で、両者とも風邪で欠席。いまごろ苦しくて唸ってらっしゃることでしょうなあ」
「ほかの者に移したらまずいと、軍師将軍は人の少ない趙将軍のお屋敷へ避難されたそうですよ。ふたりで咳の嵐のなかにいるのでしょうなあ。あまり近づきたくない」
雪の中で張り切りすぎた二人は、すっかり身体を冷やして風邪をひいた。
しかし風邪を家人に移してはならないと、孔明が趙雲の屋敷に押しかけ、病気を理由にわがまま放題である。
そして、同じく病人となった趙雲のそばをはなれず、風邪ながらもあれやこれやと面倒をみるうえ、ちょっかいもかけてくるので、この風邪は長引くことになりそうだと、趙雲は覚悟した。
歌の恩賞は、張飛が受け取ったようである。
その報せをよそに趙雲と孔明は横になりながら、のん気に政務のことも忘れて、ひたすら何の悩みも持たない青年たちのように、風邪で嗄れた声で、愚にも付かないことをしゃべりつづけた。
たまにはこんな雪の日もあっていい。
なにせ二人は、いつもは、あまりに働きすぎなのだから。
おわり
夏の初めに、ひんやりと冬のおはなしでした。
2009年1月の作品です。