周瑜は、しばらく龐統がもうそこにいないかのように、物思いにふけっていたが、やがて顔を上げた。
「士元、あらめて確認したいのだが」
「なんなりと」
「孔明が何をするにせよ、わたしのやることは変わらぬな?」
「そうですとも、曹操を討つ。それだけです」
龐統が力を籠めると、そうだな、と周瑜はうなずいた。
「どうもわたしは孔明に気を取られすぎているな。
わたしの第一の敵は曹操だ。それを誤ってはならぬ」
周瑜は、自分に言い聞かせるようにして言った。
ときどき周瑜は、龐統を壁のように使って、おのれの考えをたしかめようとするときがある。
いまがまさにそれだった。
壁にされても、龐統はいやな気はしない。
なんだかんだと、周瑜が自分を信頼しているということが、わかっているからである。
ただ、本音を言えば、信頼しているなら、もっと引き上げてほしいとは思っているのだが。
龐統と話をしたことで、周瑜も落ち着いたのか、愁眉《しゅうび》をひらいた。
「おかげで気が晴れた、礼を言う」
「なんの、わたしは何もしておりませぬ」
「いや、貴殿がいるおかげで、わたしも頭がまとまる。助かるぞ」
そのあとは、曹操軍の今後の出方や、曹操が負けた場合の戦後処理について、逆に、曹操が荊州から出て行かなかった場合の戦略など、さまざまに語り合った。
周瑜は、龐統のことばに、じっくりと耳を傾けてくれる。
こういう、ふところの深いところが、周瑜の魅力であり、龐統の好きなところであった。
※
周瑜のもとを辞去すると、少年兵の鶉火《じゅんか》が、待ってましたとばかりに駆け寄って来た。
どうやら、龐統が執務室から出てくるのをずっと待っていたらしい。
走るたびに、その頭頂で一本に結んだ黒髪が揺れる。
仔馬のような鶉火の姿を見るたび、わしが早くに結婚していたら、これくらいの子がいたかな、と龐統は思う。
鶉火自身は、冷静沈着な従者たらんとつとめていが、じつのところまだまだ子供で、感情が表情にでるのをうまく調整できないでいる。
このときもそうで、これから自分が語る言葉を龐統はどう受け止めてくれるかという期待でいっぱいの、笑みがこぼれだしそうな顔をしていた。
なにか良い知らせがあるのだろう。
陸口城内《りくこうじょうない》はいつでも人の動きが激しい。
少年兵の鶉火と、ずんぐりむっくりの中年男の龐統の組み合わせを不思議に思って振り返る者はいない。
鶉火は、いったんかしこまると、誰にも聞こえぬよう、素早く報告してきた。
「都督の命令で、波止場に蒙衝《もうしょう》が何艘も用意されているそうです」
「うむ、都督から、用意しているとは聞いている。ほかには?」
「一部隊が借り出されて、藁《わら》でなにやら作っているようです」
「ふむ、なんであろう」
「孔明のことですから、筵《むしろ》かなにかではないでしょうか」
孔明が仕える劉備が若いころ、筵を織って生計を立てていたというのは有名な話である。
それを連想して、鶉火はそんなことを言ったのだろう。
龐統は思わず笑った。
「筵をどうするというのだ。まさか、そこに降伏と書いて、曹操の元へ飛び込むつもりなのか」
それを聞いて、鶉火は真剣な顔をしてたずねてくる。
「ありうるでしょうか」
「さて……孔明は徐州でかなり悲惨なものを見聞きしてきたと言っていたな。
その孔明が、当の虐殺者である曹操に降るとは思えぬが」
周瑜もまた、孔明が徐州の出身だから曹操へ降ったりはしなかろうと、否定していたが。
『だが、万が一ということは、あるのではないか?』
そのとき、龐統の脳裏には、荊州の田舎で曹操を避けている妻や、かわいい弟たちの顔が浮かんでいた。
さぞかし不便な暮らしをしているだろう。
かれらを早く揚州に呼び寄せられるように、一日も早く、ここでしっかりとした地位を固めておきたい。
『矢が用意できない孔明が、曹操に降らんとするその直前に、都督のため、捕えることが出来たら』
周瑜はおおいに喜ぶだろう。
いままで、荊州の情報を教えることくらいでしか役に立てていない。
逃亡しようとする孔明を捕えられたら、周瑜はますます自分を重宝するようになるはずだ。
ちらっと、となりにいる鶉火を見る。
鶉火は、龐統の顔つきを見て、なにか命令があるのだとわかったのだろう、さらに目を輝かせた。
「士元さま、なんなりとお申し付けください。きっとお役に立って見せます」
ほんとうに、この子には隠し事はできぬな、と思いつつ、龐統は言った。
「今宵、陸口を出航する船に、おまえも乗り込め。
もし孔明が曹操のもとへ降るようなら、子敬(魯粛)どのを人質に取らんとするであろう。
おまえはそれを阻止するのだ」
「それだけでよろしいのですか?」
言外に、斬らなくてよいのか、と尋ねてくる。
そのとき、龐統は鶉火の中にある孔明への過剰な攻撃性に気づいた。
気づいたものの、ほかに的確に命令を聞いてくれる者がいないので、鶉火に託すことにした。
「それだけでよい。くれぐれも無理はするなよ」
とだけ言い添えた。
それをどう受け止めたか、鶉火は、元気に、はい、と応じて、龐統の前から去っていく。
その小さな背中を見送る龐統の目には、鶉火の姿より、妻や、幼い子どもたち、そして自分を頼ってくれている兄弟や一族のことばかりが映っていた。
そのため、鶉火が思いがけない行動をとるということを、龐統は想像もしなかった。
三章終わり
四章につづく
「士元、あらめて確認したいのだが」
「なんなりと」
「孔明が何をするにせよ、わたしのやることは変わらぬな?」
「そうですとも、曹操を討つ。それだけです」
龐統が力を籠めると、そうだな、と周瑜はうなずいた。
「どうもわたしは孔明に気を取られすぎているな。
わたしの第一の敵は曹操だ。それを誤ってはならぬ」
周瑜は、自分に言い聞かせるようにして言った。
ときどき周瑜は、龐統を壁のように使って、おのれの考えをたしかめようとするときがある。
いまがまさにそれだった。
壁にされても、龐統はいやな気はしない。
なんだかんだと、周瑜が自分を信頼しているということが、わかっているからである。
ただ、本音を言えば、信頼しているなら、もっと引き上げてほしいとは思っているのだが。
龐統と話をしたことで、周瑜も落ち着いたのか、愁眉《しゅうび》をひらいた。
「おかげで気が晴れた、礼を言う」
「なんの、わたしは何もしておりませぬ」
「いや、貴殿がいるおかげで、わたしも頭がまとまる。助かるぞ」
そのあとは、曹操軍の今後の出方や、曹操が負けた場合の戦後処理について、逆に、曹操が荊州から出て行かなかった場合の戦略など、さまざまに語り合った。
周瑜は、龐統のことばに、じっくりと耳を傾けてくれる。
こういう、ふところの深いところが、周瑜の魅力であり、龐統の好きなところであった。
※
周瑜のもとを辞去すると、少年兵の鶉火《じゅんか》が、待ってましたとばかりに駆け寄って来た。
どうやら、龐統が執務室から出てくるのをずっと待っていたらしい。
走るたびに、その頭頂で一本に結んだ黒髪が揺れる。
仔馬のような鶉火の姿を見るたび、わしが早くに結婚していたら、これくらいの子がいたかな、と龐統は思う。
鶉火自身は、冷静沈着な従者たらんとつとめていが、じつのところまだまだ子供で、感情が表情にでるのをうまく調整できないでいる。
このときもそうで、これから自分が語る言葉を龐統はどう受け止めてくれるかという期待でいっぱいの、笑みがこぼれだしそうな顔をしていた。
なにか良い知らせがあるのだろう。
陸口城内《りくこうじょうない》はいつでも人の動きが激しい。
少年兵の鶉火と、ずんぐりむっくりの中年男の龐統の組み合わせを不思議に思って振り返る者はいない。
鶉火は、いったんかしこまると、誰にも聞こえぬよう、素早く報告してきた。
「都督の命令で、波止場に蒙衝《もうしょう》が何艘も用意されているそうです」
「うむ、都督から、用意しているとは聞いている。ほかには?」
「一部隊が借り出されて、藁《わら》でなにやら作っているようです」
「ふむ、なんであろう」
「孔明のことですから、筵《むしろ》かなにかではないでしょうか」
孔明が仕える劉備が若いころ、筵を織って生計を立てていたというのは有名な話である。
それを連想して、鶉火はそんなことを言ったのだろう。
龐統は思わず笑った。
「筵をどうするというのだ。まさか、そこに降伏と書いて、曹操の元へ飛び込むつもりなのか」
それを聞いて、鶉火は真剣な顔をしてたずねてくる。
「ありうるでしょうか」
「さて……孔明は徐州でかなり悲惨なものを見聞きしてきたと言っていたな。
その孔明が、当の虐殺者である曹操に降るとは思えぬが」
周瑜もまた、孔明が徐州の出身だから曹操へ降ったりはしなかろうと、否定していたが。
『だが、万が一ということは、あるのではないか?』
そのとき、龐統の脳裏には、荊州の田舎で曹操を避けている妻や、かわいい弟たちの顔が浮かんでいた。
さぞかし不便な暮らしをしているだろう。
かれらを早く揚州に呼び寄せられるように、一日も早く、ここでしっかりとした地位を固めておきたい。
『矢が用意できない孔明が、曹操に降らんとするその直前に、都督のため、捕えることが出来たら』
周瑜はおおいに喜ぶだろう。
いままで、荊州の情報を教えることくらいでしか役に立てていない。
逃亡しようとする孔明を捕えられたら、周瑜はますます自分を重宝するようになるはずだ。
ちらっと、となりにいる鶉火を見る。
鶉火は、龐統の顔つきを見て、なにか命令があるのだとわかったのだろう、さらに目を輝かせた。
「士元さま、なんなりとお申し付けください。きっとお役に立って見せます」
ほんとうに、この子には隠し事はできぬな、と思いつつ、龐統は言った。
「今宵、陸口を出航する船に、おまえも乗り込め。
もし孔明が曹操のもとへ降るようなら、子敬(魯粛)どのを人質に取らんとするであろう。
おまえはそれを阻止するのだ」
「それだけでよろしいのですか?」
言外に、斬らなくてよいのか、と尋ねてくる。
そのとき、龐統は鶉火の中にある孔明への過剰な攻撃性に気づいた。
気づいたものの、ほかに的確に命令を聞いてくれる者がいないので、鶉火に託すことにした。
「それだけでよい。くれぐれも無理はするなよ」
とだけ言い添えた。
それをどう受け止めたか、鶉火は、元気に、はい、と応じて、龐統の前から去っていく。
その小さな背中を見送る龐統の目には、鶉火の姿より、妻や、幼い子どもたち、そして自分を頼ってくれている兄弟や一族のことばかりが映っていた。
そのため、鶉火が思いがけない行動をとるということを、龐統は想像もしなかった。
三章終わり
四章につづく