はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

臥龍的陣 花の章 その42 脱獄

2022年08月10日 09時53分03秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章


芋虫のように床に転がされながら、斐仁は考えていた。
一睡もしていない。ずっと考えていた。
日の差さない地下牢において、時間を掴むことはむずかしい。
辛うじて、獄吏が運んでくる食事のおかげで、だいたいのところはつかめたが、この獄吏からして、囚人を人間扱いしておらず、居眠りをしてしまうと、食事がそのまま忘れられてしまう、といったこともあったからだ。

おれはあとどれくらい、命があるのだろう。

斐仁は生き抜くことを考え始めていた。
『壷中』への報復のために襄陽城へ押し入った。
殺す相手はだれでもよかった。
『壷中』の中心人物であれば。

『あの男』に教わったとおり、目指す相手がいるはずの部屋へ押し入った。
ところが、そこには人はいなかった。
ただ、ついさきほどまで人であった肉塊が、血の海に浮いていた。
哀れな程子文の身体であった。

わけがわからなかった。立ち尽くしていると、甲高い悲鳴が聞こえた。
花安英とかいう、程子文に付きまとっていた少年であった。
花安英の悲鳴が呼子のようになって、衛士たちがやってきて、斐仁は囚われた。
抗弁をしても、聞いてくれるものはなかった。

それが、『あの男』の狙いであったのか? 
おれに罪をかぶせ、趙将軍や軍師に陰謀の疑惑を向けさせることが?

『壷中』は孔明を恐れている。
孔明が諸葛玄の甥である、という事実が、つねに『壷中』を怯えさせていた。
ただ、孔明自身は、『壷中』のことなどなにも知らない。

それに、『壷中』は、孔明に手をだすならば、もっと早くにするべきであったのだ。
孔明は、あまりに名が高くなりすぎた。
劉備の軍師になった、というのもよくなかった。
『壷中』は、まさか争いごとを嫌う孔明が、任侠あがりの劉備の軍師になるとは思っていなかったのだ。

劉備は『壷中』にまるで縁のない人間だ。
それとなく『壷中』が接触しようとしたこともあったらしいが、いずれも失敗に終わっている。
劉備のもつ、あきれるほどの健全さと、『壷中』のような不自然な組織は、相容れないから、当然の結果であった。

その劉備は、孔明を実に可愛がっている。
それは、一介の兵卒にすぎなかった斐仁の目から見てもあきらかであった。
孔明に何事かあれば、劉備は動くだろう。
現に、いま襄陽にて、諸葛玄のように孔明が遭難すれば、劉備は軍を率いてやってくる。

暗い想像に、斐仁は声をたてて笑った。

そうすれば、憎き『壷中』の連中も、あれほど流浪のヤクザどもと見下していた新野の人間に、ことごとく殺されるであろう。
その様を想像し、斐仁はいくらか慰められた。
七年間親しんだ、新野の人間に対する、屈折した想いも、そこには込められていた。

石の上を叩くようにして響く足音が近づいてくる。
食事の時間か、と首だけをもたげ、斐仁は思った。
食事のときだけは、拘束を解いてもらえる。
とはいえ、逃げられないように、足かせだけはそのままであった。

「心は決まったか、斐仁」
『じいさん』は言った。
食事よりも、待ちかねていた男であった。
斐仁は、予想より早くやってきた男に、歓喜した。
とはいえ、それは表情に出さない。
この男は、おそろしく勘がよい。
ちょっとの油断で、斐仁が心から恭順して、その指示に従おうとしているのではないと、素早く見抜くだろう。

いまの斐仁は、おとなしくなったからということで、獄吏によって、口の拘束具を外されていた。
厳しい目線を注ぐ男に、斐仁は言う。
「あんたの言っていた、『あの御方』というのがわかったぞ。諸葛孔明だな」
「そうだ。ようやく正道に立ち戻る気になったようだな。協力するか」
「無論だ。おれもようやく目が覚めた。いまこそ、昔の恩に報いるとき」
「うむ。『壷中』の動きがおかしい。早くあの御方と合流し、お守りせねばならぬ。休んでいる暇は無いぞ。動けるか」
いいざま、そいつは脇に控えていた獄吏に牢を空けさせた。
そうして、斐仁に寄ってきて、拘束を解いていく。

これでいい、と斐仁はこみあげてくる笑いを押し殺しつつ、思った。
とにかく、自由にさえなれればよいのだ。
軍師も趙将軍も、この老いぼれもどうなろうと知ったことではない。
自由になって、遂げるべきことはただひとつ。
斐仁は、暗い胸のうちで大きく叫んだ。
『壷中』に復讐を。

つづく

花の章おわり
涙の章につづく

ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございました!(^^)!
涙の章もひきつづきお楽しみください♪

臥龍的陣 花の章 その41 花は嗤う

2022年08月09日 10時08分23秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章
しかも、程子文が、いまいましいことに、孔明に遺言めいたものを残していた。
ほんとうは遺言など孔明に託したくなかったが、あの男の最期の願いを無碍《むげ》にするわけにはいかなかった。
 
程子文が、まだ生きているように思える、と趙雲に語ったのは、本心である。
こうして程子文の残した手紙によって、孔明が動いているのを見ると、さらにそんな錯覚をおぼえる。
だが程子文は死んだのだ。
血の海のなかでばらばらになって死んだ。
 
「あとで後悔するんじゃないかなあ」
花安英は、ふたたび、趙雲たちが消えていった、地平の彼方へ顔を向けてつぶやいた。
その嫌味に、背後にいる男がうめいた。
「おまえは趙子龍の真の強さを知らぬから、そのようなことを言う」

男のことばに、花安英はまた笑った。
今度は、さきほどの小馬鹿にした調子とは打って変わって、優しげな笑みであった。

「あんた、そうしていると、人間らしいね」
花安英の言葉に、男はなにかつぶやいたが、風のうなり声が邪魔をして、ひとことも花安英の耳朶に届かなかった。
「そういうふうなあんたのほうが、いままでより、ずっといいよ。
いままでのあんたって、まるで木偶人形みたいだったもの」
男は、はっきりと怒気を示したが、花安英はすこしも恐ろしく感じなかった。
そうして、また笑う。
その嘲笑は、ほんの数年前までの、この男の顔色をうかがって身をすくめ、縮こまっていた過去の自分に対しての笑いであった。

ここ数年、花安英は、身体的に、大きな成長を遂げていた。
背も伸びたし、腕力もついた。
数年前では、想像をすることすらできなかったが、いまは、この男を一瞬にして倒すことができる。
だからもう怖くない。
弁舌にも磨きがかかったし、見聞もひろがった。

見聞がひろがった。

そこが花安英の場合、そもそもの発端があった。
それまで、花安英は籠の中の鳥であった。
どこへ移動するにも、かならずだれかの監視がついて回っていた。
しかし、人生の初めからそんなふうであったので、籠の中にいるときは、それが当たり前なのだと思っていた。

当初は、従順な人形であった。
花安英も、人形として重宝されることに、むしろ誇りを抱いてさえいた。
従順であるがゆえに、籠から出された。
逃げないだろうというのが、彼らの思惑であった。
実際、花安英は逃げなかった。
逃げなかったが、世の中というものはそんなに窮屈ではない、人形であるおのれは、なんと惨めな存在であったのかと、そのことに気付いてしまったときから、なにかが狂い始めた。

花安英は、両腕をひろげて、その身いっぱいに風を受けた。
風を受けた袖が、まるで翼のように広がる。
その感覚を楽しみながら、花安英は笑った。
大声で笑った。
しかし、その哄笑は、風にまぎれて流され、襄陽城の、だれの耳にも届くことがなかった。

つづく

臥龍的陣 花の章 その40 花安英、見送る

2022年08月08日 10時08分34秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章


襄陽城の門から、二騎の駿馬が飛び出していった。
門前にひらかれた市場をつっきって、あっという間に見えなくなる。
馬の起こした砂埃を、迷惑そうに払う露天商たちの姿がおもしろい。

早馬にしても、背の高い、立派な風貌に加えて、洒落た衣を身にまとった二人組は不自然である。
目立つ二人組の立ち去ったあとを、いぶかしげにじっと観察している民もいる。
城壁の上から見下ろすと、そんな民の様子がよく見えた。

曹操が近々南下してくるという情報をおさえるのは、商人のほうが早い。
かといって、かれらは逃げ出すか、というとそうではなく、ここぞとばかりに、鍛冶屋と組んで、掠奪をふせぐ丈夫な海老錠だの、身を守るための鎖かたびらや、ちょっとした武器だのを売りさばいている。
その逞しさは、民を『黒頭』(冠をつけていないため、黒髪だけが目立つ。つまり無位の一般民衆を蔑む言葉)などと呼んで蔑んでいる襄陽城の儒者たちには、ないものだ。

「行ってしまうけれど、いいの?」
と、花安英は、日陰で隠れるようにしている男に尋ねた。
城壁の上は風が強く、花安英の衣をぱたぱたとなびかせる。
ごうごうと風の音が鳴るなか、男が答えた。
「奴らにはなにもできぬ」
「そうかなあ、諸葛孔明は、あんたが思っているほど莫迦なお坊ちゃんじゃないよ。
追いかけて、どこかで待ち伏せして、始末するべきじゃなかったのかな」
「趙子龍がいる」
「仲間を呼べばいいじゃないか」
「何人集めても同じことだ。やつは強い」
「あんたが言うより、まぬけだったけれど」
花安英は、昨夜の趙雲の様子を思い出し、思わず笑った。

孔明を待ちながら、中庭で所在なさげにつくねんとしている様が面白かった。
そこで声をかけてみた。
たいがいの人間は、花安英が声をかけてやると喜ぶ。
とくに、戦場での暮らしが長い人間は。
花安英がその気になって誘った者で、落ちなかった人間はいない。
程子文は例外だったけれど。

程子文のことを思い出し、花安英は激しく苛立った。
死してもなお、面影を消すことができず、それどころかむしろ存在感を強める男がいまいましかった。
思い出される姿を打ち消そうとするのであるが、どんなに頭の外へ追いやっても、油断するとまたもとの位置に戻っている。
 
死んでしまった男のことなんかどうだっていい。
そう、趙子龍のことだ。
趙雲は、花安英が声をかけても、喜ばなかった。
態度では喜んでいなくても、内心はまんざらでもない、というふうでもない。
芯から嫌がっていた。

気に食わなかったので、さまざまに喜びそうなことを言ったり、わざと怒らせようとしたりした。
ところが、一向にうまくいかない。

そこで、さらに気を引くために、花安英は、樊城のだれにも漏らしていない秘密を教えてやった。
そう、蔡夫人と蔡瑁の関係だ。
これを教えてやれば、当然、趙雲は孔明に注進し、孔明はそれを元手に、蔡一族を追いやり、劉琮を跡継ぎに据えようとする動きを封じて、劉琦に家督を継がせることに成功する。
そうすれば、孔明の主騎たる趙雲も面目躍如となり、そのきっかけを作った自分は、感謝されるようになるだろう。

ほかの男たちがみんな最後はそうなったように、花安英に頭が上がらなくなり、だんだん媚びるようになっていく。
そうして転落させて、自分の意のままにしてみたかった。

ところが、せっかく秘密を教えてやったにもかかわらず、趙雲は喜ばなかった。
これで孔明の役に立てると興奮するでもなし、あまりに淡々としているので、嫌いだといってやったが、それでも、動じた様子は無い。
花安英は、趙雲が孔明にかならず、蔡夫人と蔡瑁の関係を注進するだろうと思った。
事実、別れたフリをして趙雲のあとをつけると、孔明の部屋へと入っていった。

花安英は、待っていた。

趙雲の話を聞き、孔明が劉琦に密告をしに行くのを。
そうして劉琦が兵を動かして、蔡一族を捕縛するのを。

ところが、待てど暮らせど、かれらは部屋から出てこない。
なにをしているのだろうとこっそり覗いてみたら、趙雲は床のうえで、孔明は机に突っ伏して、ぐうぐうと眠っていた。

腹が立ったので、劉琦のもとへ行き、孔明ならば、かならず蔡一族を樊城から取り除ける策を持っていると教えてやった。
劉琦から促されれば、孔明とて、おのれの得た情報を使わざるを得なくなるだろう。

だが、またまた読みは外れた。
孔明は、劉琦に策を授けた。
しかし、それは期待していたものとは大きくかけ離れたものであった。
家督を相続することをあきらめて、江夏へ移動し、力を蓄えよ。
蔡一族の命は風前の灯だと期待していただけに、花安英は、がっかりした。

つづく

臥龍的陣 花の章 その39 程子文の遺言

2022年08月07日 09時53分52秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章
『この手紙をおまえさんが読んでいるということは、おれは失敗して死んだのだろう。
つくづく残念だ。
うまくすれば、おれはおれの仇を討てる機会になったのかもしれないのに。
駄目だったなら、仕方ない。
あとはおまえさんにすべてを託す。
公子を助けてやってほしい。
あの方は『壺中』を知らない。

『壺中』のことは、もう知っているだろうか。
おれがもともと所属していたのも『壺中』だ。

まずは謝らなければならない。
おれは義陽の士大夫の子だと身分を偽っていた。
そうじゃない。ただの農夫の子なのさ。
うまく化けおおせていただろう?』

孔明には、おどけた口調の程子文の声が聞こえてくるように感じた。
いまさら、程子文が身分を偽っていたと聞いても怒りはなかった。

『そもそも、おれが公子の学友に収まっていたのは、『壺中』の命令だった。
公子の動向を見張るための、いわば密偵だったのさ。

公子は見張りなんか必要ないほど裏表のないひとだ。
あの人の善良さとやさしさは、乱世に生きるにはそぐわないだろう。
しかし、おまえさんが以前にいったとおり、それを弱さと断じる風潮はまちがっている。

おれはいつしか、こういう根っから善良な人物を守りながら、一国を保ってみたいとさえ夢見るようになっていた。
図々しいかもしれないが、公子の味方になりきってしまったのだ。
これほどに純粋な人間に触れるのは、おれは初めてだったからな。

そこで『壺中』を裏切ることにしたのだが、連中はおれが所属していたときよりも、ずっと危険な組織に変わっていた。
北から来たやり手の男が組織を再編したのだという。
迷惑な話だぜ。

どうしたらいいか迷っていたところへ、麋子仲《びしちゅう》(麋竺)どのから使いが来て、機を見て『壺中』を壊滅させようではないかと誘われたのだ。
無謀ではないかと思ったが、やつらが油断しきっているいま動かないと、あとでとんでもなく面倒になりそうな予感もしていた。
そこで、兵を集めているのだが、うまくいくかな。

いや、これをおまえさんが読んでいるということは、だめだったのだろう。
あとは子仲どのがうまくやってくれると思う。
あの親父さんには、なるべく早くに襄陽を離れるよう言っておいた。
いまごろ、新野に戻っているのではないかな。

あの親父さんは気の毒なひとだ。
斐仁に脅され、長いこと金を吸い上げられていた。
そういうひとが、今回の企てで連座して首を取られるのはもっと気の毒だ。

さて、おまえさんには、諸葛玄どのを殺した男の調書を託す。
どうか落ち着いて読んでほしい。
そこには、暗殺者の宋全《そうぜん》の記録と、その妻の丹英《たんえい》のことも書かれているはずだ。

丹英は連座をまぬかれ、いま、襄陽城外の村で暮らしている。
村へ行って、くわしいはなしを聞くのだ。
おまえさんの叔父と、『壺中』のかかわりがわかるだろう』

がつんと頭を殴られたような衝撃があった。
叔父を殺した男はその場で切り捨てられたと思い込んでいた。
ところが、しばらく生きていて、取り調べを受けていたのだ。
調書まで残っていて、その妻のことまで書かれているという。
震える手で孔明は調書を開いた。

そこには、たしかに暗殺者の宋全という男の生々しい証言が書かれていた。
『壺中』の文字こそなかったが、宋全が叔父に激しい恨みを抱いていたこと、叔父が襄陽に戻ってきているという情報を仕入れ、変装して襄陽城に入り込み、暗殺を実行したことが書かれてた。
さらに、宋全の妻の丹英は、なぜか連座をまぬかれ、放免になったこと。
文書のさいごには、程子文の落書きにも似た走り書きがあり、そこに丹英のいる村の名が書かれていた。

「子龍、新野へ戻るまえに村へ行こう。いや、村へ行かせてくれ。
ここにいけば、叔父がなぜ死ななければならなかったのかがわかるのだ。
この大事な時に寄り道をしている場合ではないというのはわかっているが、どうしても行きたい」
吐き気にも似た感情が喉からせりあがってくる。
震える声で訴えると、趙雲は大きくうなずいた。
「もちろんだ、この女に話を聞けば、『壺中』の実態もわかる。だが、大丈夫か」
「叔父はけして後ろ暗いことをするような人ではなかった。
これはなにかの間違いに決まっている。
それを確かめるためにも、村に行こう。
そうと決まれば、叔至に手紙を書かねば。
どうしても確かめておいてほしいことがある。
早馬を飛ばせば、新野にわれらがもどるまえに、いろいろ調べておいてくれるだろう」

言いつつ、孔明は程子文の手紙を胸に抱きしめた。
そこに亡き友の手があるように、大切に。

つづく


※ ブログランキングに投票してくださった皆様、どうもありがとうございました!(^^)!
とても励みになります♪ これからも鋭意努力して創作に励んでまいります。
つづきも読んでいただけるとうれしいです。
またお時間ありましたら、当ブログに遊びにいらしてくださいねー。

臥龍的陣 花の章 その38 託された手紙

2022年08月06日 10時01分54秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章
孔明は凝った肩を上下させつつ、花園を見た。
赤や白、黄色の花々が咲き乱れる美しい場所。
今日でこの花園も見納めだ。

と、視線を上げると、花園の向こうに、緊張した面持ちの花安英《かあんえい》がいた。
いつもは見るたびに罵声に近い憎まれ口をたたいてくる美少年であるが、今日は思い詰めた顔をして、じっとこちらを見つめている。
なにか用事があるらしいのはわかったが、孔明は、花安英が大切そうに胸元に竹簡を持っているのが気になった。

「花安英、おまえは公子についていかなくて良いのか」
孔明が声をかけると、花安英は目に力を入れたまま、黙って近づいてくる。
趙雲のことが気になっているのかと思ったが、そうではない。
花安英は、ただ孔明のほうだけを気にしている様子であった。

「あなたのことは好きじゃない。でも、今回はあなたにお礼を言わなくちゃいけないみたいですね」
「なんのことだろう」
「公子のことですよ。劉州牧は寝込んでいるし、徳珪《とくけい》どのはあなたがたを襄陽から追っ払うことしか考えていない。
この隙に襄陽を出られれば、公子は生きながらえる」
「そうだな」
「程子文《ていしぶん》が、あなたのことを褒めていた理由が、すこしわかった気がします。
約束したことは果たす。そういう律儀なところが、程子文にはうれしかったんだ。
あのひと、ずいぶん裏切られてきたから」

ふと、孔明は、この美少年も『壺中』のことを知っているのではと思った。
趙雲が、花安英は鍛えているようだといった。
つまり、刺客としての訓練を受けている少年だとしたら、どうだろう。

だが、そこまで考えて、やめた。
どちらにしろ、花安英は、死んだ程子文について、悲しんでいる。
だいたい、体を鍛えているというだけで、花安英を疑うのは気の毒な気がした。

花安英は、だまって孔明に竹簡を差し出した。
「これは?」
「程子文が、あなたに渡すようにと言っていました」
言いつつ、花安英は、胸にしまっていた程子文の手紙らしきものも取り出し、これまた孔明に差し出した。
「程子文は、自分の死を予感していました。
そして、わたしに、あなたがまちがいなく信頼できる人だと見極めたなら渡すようにと言い残していきました」

ふいっと顔をそむけ、花安英はまわりを取り囲む花々をみやる。
「おかしなひとでした。ふざけたことばかりやっているのに、公子のことになると真剣で。
自分の力では公子を守り切れないとわかると、きっと新野の諸葛亮がなんとかしてくれると言って。
でもあなただって、万能の天才というわけじゃないでしょうにね」

ことばの最後が、わずかに上ずっている。
見れば、懸命に涙をこらえているのがわかった。
強気で生意気な少年だが、劉琦の安全が見えてきたので、気が緩んだのだろう。
これまでは劉琦を守らねばという、その一心で、義兄弟のために涙さえ流せなかったのではなかったか。

孔明がいたわりのことばをかけようとすると、それを察したか、花安英はぱっと身をひるがえし、
「たしかに渡しましたから」
とだけ言って走り去ってしまった。

あとに残された孔明と趙雲は顔を見合わせた。
「あの小僧、ちょっとだけ可愛いところがあるようだな」
「あの子にも子供らしいところがあると知れてほっとしているよ。
かつて程子文は、あの子が親から見捨てられた子だと言っていたので、すこし心配していたのだ。
無理に大人になっているのではないのか、とな」
「手紙の内容はなんだ? 子仲どののことが書いてあるのではないか」
「だといいが」
言いつつ、孔明は手紙を開いた。
まず、その手紙は癖のある文字で、程子文の愚痴が書かれていた。

つづく

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