はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

おまけのおばか企画 生まれ出る心に・三連プリン 後編

2018年10月27日 09時45分58秒 | 生まれ出る心に
「私闘の原因はなんだ?」
趙雲が尋ねると、とたんに陳到は、情けなくも泣きそうに顔を崩して、偉度を指をさす。
「こやつが、うちの娘をいじめたのでございます」
「いじめた? まことか、偉度?」
じろり、と趙雲は鋭く偉度を睨みつける。
「いじめたというか、ちょっとした行き違い、と申しましょうか。いじめた、というのは言葉が強すぎます」
偉度がそういう間にも、陳到はじっとりと、ナメクジのような目で偉度を涙目で睨みつけている。
趙雲は、やれやれとため息をついて、陳到に言う。
「叔至よ、おまえはなぜか最近、偉度に突っかかっているようだが、本当の原因はなんだ?」
問われて、陳到は、偉度をひと睨みしたあと、下唇を噛みしめ、震える声で言った。
「プ、プリンが…」
「プリン?」
「銀が菓子作りのうまいことを将軍もご存知でしょう。わたくしも、銀の作ります菓子を、晩餐の楽しみにしていたのでございます。ところが、いつものように銀のプリンを冷蔵庫から取ろうとしたところ、銀がこう言うのでございますよ!
『パパ、それは偉度っち用のプリンだからダメ! パパは外で自分でプリンを買って食べて』と。わたしの楽しみが、ねじり鉢巻きもたじろぐほどの根性曲がりのために、失われてしまったのでございます。
しかもあろうことか、そのねじり鉢巻きめは、ミョーに格好つけて、そんな健気な娘を傷つけ、泣かせおったのです!」
そういって、しくしくと、いかにも悲しげに陳到は泣く。
「なんだかよくわからぬが、お前が悪い」
趙雲に言われるまでもなく、偉度はすっかりうろたえ、言った。
「す、スミマセン…」
「声が小さい! それじゃあ、誠意が1ミクロンも感じられない! 趙将軍、叔至めに代わりまして、説教将軍の底力を、いまこそ、こやつに見せ付けてくださいませ!」
「お前までもが説教将軍と言うな! まったく、大の男がプリン、プリンと情けない。それほどにプリンを食したければ、ほら」
と、趙雲は、がさごそと、自分の提げていたビニール袋より、三連パックのプリンを取り出した。
「お珍しいですな、趙将軍が、甘いものなど」
偉度が言うと、そうか、と言うふうに趙雲は首を軽くかしげる。
「疲れているときには、たまに食べるとよいぞ。それに、安かったからな。一パック77円」
「安!」
「スプーンももらってきた。とりあえず、これを食って仲直りをするがよい。まったく、おまえらがまともにぶつかれば、どちらか一方は只では済むまい。その計算すらできなくなっていたのか?」
ぺりぺりとビニールを破り、趙雲は言って、慣れたふうに資源ごみたるプラスティックゴミとして、仕分けてスーパーの袋に戻していく。
このひとは奥が深いな、と思いつつ、偉度はプリンをひとつ貰って、鼻をすすっている陳到と肩を並べてプリンを食べ始めた。

「やっぱりプリンは、ぷっちんして食べないと、本当じゃないよな」
と、泣いた烏がなんとやら、陳到はそんなことを言いながら、残ったカラメルをいかに掬って食べるかに苦心していた。
三人の男たちは、柿の実のようにあざやかな朱色に染まる空のした、もくもくと肩を並べてプリンを食べていた。
「まったく、たまに早く帰って、特売に当たって、これは幸運だと思っていたら、結局これか」
趙雲はめずらしく愚痴を言いながら、育ちの良いところを見せて、器用に綺麗にプリンを食べていく。
食べ方の良し悪しで、育ちというものは判るものだ。親がどれだけ、子供に手をかけて育てたのかの度合いも判ってしまう。
「しかし、天下の趙子龍ともあろうお方が、お一人でスーパーで買い物をして帰る、というのも、なにやら物悲しいものがございますな」
「おまえとて独り身であろうが」
「まさか、ご自分で厨房に立たれることもある?」
「たまにな」
「想像がつきませぬ」
「だから、早くに妻女を娶られよと、わたしは申しておりますのに」
陳到はカラメルを、とうとう直接すすりはじめた。偉度はすかさず反撃する。
「趙将軍の隣に女人が並ぶことは、もっと想像つきませぬ」
「なぜだ。思い切り想像つくではないか。趙将軍がその気になれば、成都中の娘や寡婦が名乗りを挙げようぞ。わたしは、将軍の第一子の字をつける役目を授かるのが夢なのだ」

さて、趙雲はどう思っているのかな、と、偉度は横目でちらりと趙雲を見るが、いつのまにか趙雲はプリンを食べ終わり、陳到のぼやきを右から左へ流していた。
どうやら、陳到の『結婚のススメ』にはすっかり慣れてしまっているようだ。よしよし。

「俺の世話なんぞより、偉度の世話をしてやれ。こやつのほうが、まだ望みはあろう」
なんだ、いきなり。
「ご冗談を。偉度はその気になれませぬ」
「おさすがですな、趙将軍、なるほど、そうすれば、こやつが、うちの銀にちょっかいを出すこともなくなると、いうわけで」
「ちょっかいなんて、出してない。順序がおかしいでしょう、年からいえば、趙将軍が先、偉度は、趙将軍がご結婚なされたら、それに倣います」
「莫迦、俺に倣うやつがあるか。お前が妻女を娶りたがらぬ理由は、怖いからではないか」
「怖い? このわたしが? 女を恐れていると?」
思わず鼻息を荒くすると、趙雲はそうではない、と冷静に言う。
「誰かに跳ね除けられることを怖がっているのだ。ちがうか」
「あいかわらず、ずばりはっきり仰ってくださいますな」
「図星だろう。お前は、たとえ誰を選ぶにしろ、俺と違って結婚をして、普通に家庭を持ったほうが良い。お前のためだ」

俺と違って、ね。

と、偉度はまたもちらりと趙雲を盗み見た。
やっぱり、ナンダカンダと、自覚がある、ということか。
もう一方は、いつもいつもうまくとぼけて、いまひとつ真意がわからないのだけれど。
さても判りにくいことよ、と嘆く偉度であったが、その隣で、陳到がなにやら思案しているのに、迂闊にも気づかなかった。


翌日、左将軍府に出仕すると、なぜか自分の机に、やたらと人が集まっている。
何事かと思えば、山のような写真が積まれていたのであった。
それをなぜだか、孔明をはじめとする左将軍府の面々が、へえ、だの、ほお、だの言いながら、めくっているのだった。
「なんでございますか、それは」
尋ねると、許靖と、真剣に話し合いをしていた孔明が顔をあげた。
「なんだもなにも、おまえの見合い写真だ。叔至が今朝やってきて、おまえの机に置いていったのだよ」
あの親父、と偉度は思ったものの、乱暴に机の上から写真の山を跳ね除けて、いつものように仕事を始めようとする。
すると、みなの前であるにも関わらず、孔明はすかさず偉度にゲンコツを落とした。
「たわけ、人様からの大事な預かり物を、斯様に扱うでない! 罰として、偉度はこの中より、よき娘を選び、見合いをするように」
「はあ?」
「はあ、ではない! 実によい機会ぞ。ついでに、その捻り飴のごとき性根も直すがよい」
「貴方様がそれをおっしゃいますか。なれば、軍師将軍も、いいかげん、ふつうの奥方を持たれたらよろしいのでは?」
「わたしのことは、わたしが面倒を見る。わたしと違って、お前は所帯を持つべきぞ。うむ、叔至め、味な真似をするではないか。散らかした写真は、全部きちんと目を通すように」
「『わたしと違って』、ですか」
「なんだ」
「また、おとぼけか…まあ、見合いくらいならば、いくらでもこなして差し上げましょう。でも、結婚はしませぬぞ」
「見合いの席で、ふざけた真似をしたなら、ゲンコツひとつで済まぬぞ」
実は孔明のゲンコツなんぞ、痛くも痒くもないのであるから、何発喰らおうが平気な偉度であったが、まあ、親父さんの顔を立ててやるか、と思い、へいへい、と、どうでも良さげに返事をする。
孔明はちろりと睨んできたが、偉度は頓着しなかった。

そうして思った。
こうなりゃ、毎日プリンを食べに行ってやる、と。

おしまい

※「生まれ出る心に」はこれでほんとうにおしまいです。御読了ありがとうございました!
次回、10月31日水曜日より、実験小説「塔」のデータ移行をいたします。
変化球ばかりで申し訳ない……くわしくは、また後日! 
おたのしみにー!

おまけのおばか企画 生まれ出る心に・三連プリン 前編

2018年10月24日 09時12分20秒 | 生まれ出る心に
『名前ばかりの押し込み盗賊』が徘徊していると聞き、偉度は『兄弟たち』を動かしつつ、みずからもまた、市井に下りて、怪しい者の動きがないかどうかを探った。
しかし、『名前ばかり』とはよくいったもので、噂ばかりはあるものの、具体的に、どこがどうなった、という話になると、なかば中傷であったり、過去のことと混同されていたり、あるいは人騒がせが好きな者の、根も葉もない嘘であったりした(もちろん、偉度自身がそんな者をみつけたら、ただではおかなかったが)。
やれやれ、と一息を突き、成都のなかでも、ひときわ閑静な、大きな屋敷のあつまっている区域へと足を運ぶ。
どこかしら気取った町ではあるが、歴史は古いながらも、そこに住まう者自体は、みなあたらしいので、どこか古いものと新しい物が、いまだに馴染みきっていないような、浮ついた空気がある。
そんななかでも、ぽつんと、感じよい佇まいを見せているのが、陳到の屋敷であった。
陳到の家は、ほかの屋敷とくらべれば、ずっとこじんまりとしていたけれども、清潔で飾らない素朴な雰囲気が、偉度は好きである。
玄関には立たず、庭に回るようにして、しばらく小道より屋敷を眺めていると、まるで呼びかけに答えるようにして、屋敷の中から銀輪が姿をあらわした。
「あー、偉度っちだ、どうしたの? おじさん」
言いながら、銀輪は、つっかけをひっかけて、偉度のところまで垣根越しにやってくる。
「パパならいないよ。お仕事だから」
「判っているが、おまえ、ちゃんと回覧板は読んだか」
回覧板、とは、孔明の指示によってまわしている、『婦女子は伴をつけずに夕刻以降、出歩くことを禁ずる』というものである。
銀輪は素直に頷いた。
「うん、でも、なんで『婦女子』なんて限定するのかなー? 偉度っちだって、危ないよ」
「わたしは男だから大事無い」
「変質者なんて何考えているかわかんないよー。偉度っち、色っぽいから」
「私に敵う変質者なんぞいるか」
「あいかわらず、自信家だねー。で、回覧板を読んだか確認するために、わざわざ来たの? 大丈夫だよ、最近は、変質者がいるとかで、学校も集団登下校だもん。PTAもいっしょでうざいけどー、被害に遭わないためには、我慢しないとねー」」
「いい心がけだ。ではな」
「なーんだ、もう行っちゃうの?」
銀輪は名残惜しそうにしていたが、偉度は振り返らずに、言葉どおり、さっさと足を進める。
が、ふと曲がり角へきて、すこしだけ振り返ると、銀輪が、偉度にむかって、無邪気に手を振っているのが見えた。
だが、そこで素直に手を触れる偉度ではない。
ふん、と顎をわざと逸らして、無視して角を曲がる。
しかし、妙に居心地が悪くなり、思わず引き返して、そっと角から覗くと、銀輪が、垣根の隙間から、尾っぽを下げてしょげ返った犬のようになっているのが見えた。

…………………………………悪かったか、な?

偉度は、ときどき銀輪が小学生だということを忘れる。
まったくもって、自分はなにをやっているのだか。
謝りにいくか、と足を動かそうとしたとたん、右肩に、なにかがのしかかる。
それは耳元で、荒い息をひゅうひゅうといわせていた。
すわ、変質者か、と身構えた偉度であるが、耳慣れた声がつづく。
「偉度っちー」
首をわずかに動かし、ちらりと見ると、そこには、剣呑に目を細めた、陳叔至が、偉度の肩に顎を乗せて、ぴったりとくっついていた。
さすが、元同業。背後に迫る気配を、偉度はまったく感知できなかった。
じっとりと嫌な汗を偉度は背筋におぼえる。
自分にこれほど極度の緊張をさせるのは、趙雲と陳到くらいのものだ。
ほかの武将は、たとえ力で敵わなかったとしても、口と頭で勝てる自信が、偉度はある。
「偉度っち、って、なんですか、偉度と普通にお呼びくださいませ」
「いいじゃん、偉度っちー。しつもーん」
「なんでございましょう」
「二十一引く、十二は、なーんだ?」
「なんの計算でございますか」
陳到は顎を偉度の肩に乗せたまま言う。
「いいから答えてみ? 二十一引く十二だぞー」
「九?」
「だよねー。おまえは、九つも銀の年上なのに、なーんでいじめているのかなー?」
「いじめるとは人聞きのわるい。通りすがりに、挨拶をしただけでございます」
「ふぅん? それじゃあ、なんで挨拶をしただけなのに、銀は泣いているのかなー」
泣いている、と聞いて、偉度の、普段は使われていない良心回路が、めずらしく息を吹き返し、ちくちくと胸をいじめた。
「それは、ちょっと、わるかった、かな、と」
「ちょっとー? ちょっとかあ」

とたん、ぱっと陳到は偉度から離れる。
と、同時に、偉度の頬をぎりぎりに鏢が投げられ、頬をなぜるように切った。
「わが娘に近づき、あまつさえ涙をながせしは許すまじ!」
「おぼえたか、陳叔至!」
すかさず二撃目が打ち込まれるのを、偉度はすばやく身をかわし、身を駒のようにくるくると回しながら、陳到が三撃目を繰り出すのを防ぎ、そのまま素早く手にした短刀にて、陳到の咽喉笛を狙う。
相手は、趙雲に次ぐ武芸達者で、その気になれば並び立つこともできるとさえ評される陳到だ。
しかも面倒なことに、この家庭人、本気である。
「甘いわ!」
陳到は言いながら、両手に持った剣を咽喉の前で十字に交差させ、偉度の攻撃を防ぎ、跳ね返したと同時に、反動でのけぞる偉度めがけ、片足を軸に、びゅん、と素早く蹴りを入れようとする。
偉度は、のけぞる力にさからわず、そのまま後ろへ宙返りすると、すんでのところで陳到の足を避けた。
そうして地に足が着いたか着かないか、という頃合に、蹴り損ねたためにこちらに背を見せる形となった陳到を視界におさめ、懐に隠し持っていた手裏剣を投げつける。
ドス、ドス、と鈍い音がし、手ごたえを覚えた偉度であったが、しかし次の瞬間目にしたのは、手裏剣が刺さったままの上着が、砂埃のあがる地面に、まるで生き物のようにゆっくりと地に落ちていくさまであった。
頭上に影が落ちる。
ぎん、と鋭い音がして、額を割られる直前のところで陳到の刃を受け止めた。
しかし、重い。剣にこれほど重さを籠められる男と、偉度ははじめて剣を交わした。
「小癪な小僧よ、しかし、貴様の命運も今日で費えると知れ!」
陳到がいうと、
「笑止! 貴様の首は、わが刃の錆となり、二度と天を拝むまい!」
偉度もそれに応じ、二人は互いに一歩も譲らず、激しい剣戟が繰り返された。

ざざざ、ざざざと草を揺らす風のわたる叢に、二人の男がいま、対峙している。
一人は鎖帷子に身を包む、いまや往年の(といっても陳到はまだ三十代後半であるが)顔を取り戻した陳到と、いまや己が本性を取り戻し、しなやかな獣のごとき隙のなさを見せる胡偉度である。
ぴゅうと吹きすさぶ風になぶられながら、二人は、瞬きもせず、互いにはげしくにらみ合っていた。
どちらかが隙を見せれば、片一方は容赦なく渾身の一撃を繰り出し、命の息吹を消し飛ばす構えである。
ぎらりと光る刃が、夕闇に光る。
その磨きぬかれた刀身に映る己が風貌は、まさに鬼神。
西に熔けかかる太陽の、残照を背に、いま、偉度は先手を打つべく、地を蹴りとばす。

そのとき…


「陳叔至、胡偉度、両名とも刃をおさめよ! 武将同士の私闘は禁じられておること、忘れたか!」
重々しい一喝に、偉度の足は止まり、陳到の動きも止まる。
ふたりが同時に振り返ると、そこには、両手にそれぞれスーパーのビニール袋をぶら提げた、趙子龍の姿があった。
「何をしているのだ! 刃を納めぬか! さもなくば、俺が貴様らの相手になろうぞ!」
と、凄む趙雲の両手にぶら下がっている、スーパーのビニール袋から覗く、長ネギやらキャベツやらを見て、偉度はちらりと、いまなら勝てるかも、と思い、すぐにその考えを打ち消した。
趙雲には、得物がなんであろうと関係ない。
異常なまでの武芸のセンスがあるので、長ネギだろうと牛乳だろうと、瞬時に武器にして闘うことができる男だ。
長ネギで死ぬのは、みっともなさ過ぎる。
「今宵の夕食は、回鍋肉でございますか、趙将軍…」
透明なビニール袋には、『簡単クッキング 回鍋肉の素』が見えた。
偉度に言われ、趙雲は、怒気をやわらげ、自分の持つスーパーの袋を見下ろした。
「ああ、これか。たまたま通りがかったら特売をしていたのだ」
「左様でございますか…」
そのとき、偉度と陳到の両者の脳裏に浮かんだ言葉は、
『哀れなり、独身男』
という言葉であった。
男ぶりが妙に良いせいで、スーパーのビニール袋、という取り合わせが実に似合わない。

つづく……

お待たせしました、旧サイト「はさみの世界」のデータ移行、本日より再開です。
次回は土曜日の掲載となりまーす。

生まれ出(いず)る心に 10

2018年07月20日 10時48分02秒 | 生まれ出る心に


劉備は、暗くてよく見えねぇや、と言って頭巾を外すと、偉度と共に、さきほどの廃屋に気絶した黄淵を連れ込み、そして奉も助け出して、介抱してやった。
劉備はすっかり捕り物をするつもりだったようで、ちゃんと捕縛用の縄も用意していた。
ぐるぐる巻きにされた黄淵を転がしておき、奉の手当てがおわって、ひと段落ついたな、と偉度がほっとすると、とつぜん、それまで協力してことに当たってきた劉備が、偉度を殴り飛ばした。
「なにをなさいます!」
「黙れ、馬鹿野郎が!」
するどく重々しい叱責に、偉度は思わず口をつぐむ。
「偉度よ、おまえの前身がなんであろうと、わしはおまえを蔑んだりしねぇ。だがな、さっきのには呆れ返ったぜ。おまえ、拷問を楽しんでいやがったな。それじゃあ、こいつと何もかわらねぇじゃねぇか。しかも、宦官にして売り飛ばすたぁ、どういう了見だ! それがおまえのやり方ってやつか!」
「全部見ておられたのか」
二度も殴られた頬を庇いつつ、偉度は呻くように言う。
「孔明が見たら、泣き崩れるだろうよ。偉度よ、おまえが変わったのは表面だけか!」
孔明の名を持ち出された偉度は、相手が劉備だと言うこともわすれ、思わず声を荒げた。
「では、あんたはどうするつもりなんだ! せいぜい、そいつを警吏に渡して、法の裁きを受けさせるっていうだけなのだろう! それがあんたの正義なのか! 警吏に渡したところで、どんなに軍師が頑張っても、黄家の横槍で、こいつの罪は軽くなる。それが判っているのに、ただ捕らえて、役人に引き渡せと? それじゃあ、女たちの受けた苦しみはどうなる!」

劉備と偉度は、しばらく互いに無言のまま、視線を戦わせていた。

ふと、闇の中、くぐもった笑い声がする。
見ると、さきほどまで気絶していた黄淵が、目を覚まし、笑っているのであった。
劉備が、笑う黄淵に尋ねる。
「おまえ、なにが可笑しい」
「反省をしておりました、主公」
「わしの顔を知っておるのか」
「貴方様は特徴がございますゆえ、覚えておりました。どうぞ、それがしを警吏に引き渡してくださいませ」
ほう、と劉備は目を細めた。偉度は、いまいましさで、地面を蹴りたいくらいの気持ちであった。
反省だと? この男が、そんな殊勝な気持ちになるはずがない。
「あらいざらい、すべてお話いたします。どこの家の、どの女を襲ったか」
そういって、頭から血を垂らしつつ、笑う黄淵の笑みは、邪悪という表現がまさにぴたりと嵌まる、忌むべきものであった。
偉度は、本気で怖気を奮った。
この男の心根は、底の底まで腐り果てているのだ。
「そのときに、どんな様子だったか、中には、いやだいやだと言いながら、喜んでいる女もおりました。いえ、女という生き物は、所詮、力づくでものにされることを望んでいるのでございます。それがしは、女たちの望みをかなえてやっただけなのです」
「貴様、ふざけるな!」
介抱をうけていた奉が、黄淵に向かおうとするのを、偉度はあわてて引き止めた。
まさに、怒らせることが、この男の目的なのだ。
そうして、とことんまで人を苛めることを楽しみたいのだ。
黄淵は、鳩のような声をたてて笑いながら、言った。
「興味がおありでしょう、主公。すべてお話いたしますよ」
「いいや、いらねぇな」
偉度が初めて聞く、劉備の乾いた声であった。
はっとして見ると、その手には、奉が持っていた剣がある。
「おまえは警吏には渡さねぇ」
偉度は、劉備がどうするのかをすぐに悟った。
「お待ち下さいませ、主公が、御自ら手を下す価値のある男ではございませぬ!」
「いいや、偉度よ。警吏でも孔明でも、いまの黄家にゃ手を出せねぇ。あいつらの背後には、いまだわしらに心服してねぇ豪族どもがいるからだ。
だがな、この土地はわしの土地で、すべての責任はわしにあるのだ。こんな馬鹿野郎を今日までのさばらせてしまったのは、わしの徳が行き届かなかったからじゃねぇのか」
劉備は、ひきつった笑みをうかべ、剣を手にしたおのれを見上げる黄淵を、冷たく見据えた。
「漢嘉太守黄権の子淵よ、その名に免じて、おまえには、左将軍たるわしが、自らこの場にて裁きを下そう」
「ま…お待ち下さいませ、それがしは…!」
それ以上の問答はなかった。
ひゅっ、と空を切る音がした。
つづいて、どん、と重い一撃のあと、ごろん、と首の地面に落ちる音がした。
首を無くした身体は、しばらく血を吹いていたが、やがて均衡を失い、倒れた。

偉度の隣で、奉が、地面に蹲るようにして、声を上げて泣いていた。
恐怖か、怨みが晴らされたことによる興奮か、それともこの世の無情に対してか。
無意識のうちに、偉度は奉の背中を撫でさすってやっていた。
いままで、『兄弟たち』にさえ、こんなことをしてやったことはない。
「偉度よ」
「はい」
「すまねえが、後始末は頼んだぜ。それと、その兄さんを、ちゃんと家まで送ってやってくれ」
「判り申した。お待ち下さいませ、景に言って、主公に見送りを付けさせましょう」
「いらねぇよ。一人になりてぇんだ」
いいつつ、劉備は偉度に丸めた背中を向けたまま、赤頭巾を被った。
そうして、あばよ、と言って、片手を上げると、そのまま闇へ消えていく。
偉度は、黙って、その背中を見送った。

泣いているのだ。
こんな人でなしのためにさえ、あの人は本気で涙を流している。

見下ろすと、黄淵の、己の身に起こることを、最後まで理解できなかった顔が、闇の中に転がっていた。
他者の心が理解できないものには、真に己の心も理解できない。
空疎な、心なき者の末路が、目の前に転がっていた。





息子の非業の死を知った黄権は、怒り狂い、孔明や法正に、下手人を早急に捕まえて欲しいと、何度も訴状を送ったが、それが真剣に取り上げられることは一度もなかった。
豪族たちのさまざまな突き上げにも、沈黙したままの法正と、公平さを旨とする、らしからぬ孔明の態度に、周囲の者たちは首をひねった。
だが、やがて、どこからか話が流れて、黄権の子の、思わず耳を塞ぎたくなるようなひどい実態が知れたため、同情する声もしだいになくなり、やがて噂にも聞こえなくなった。
だれが説明したわけでもないのに、この処置が、正義であったと、長星橋の裏側に住む住人は、口々に言った。
黄権に雇われた者が、住民たちに、なにがあったのかを尋ねまわったが、口を開く者は、ひとりとしていなかったという。
黄淵は妻帯者で、皓という子がいたが、これは祖父の黄権が引き取ったことが、のちに偉度の耳に入ってきた。





黄淵の件が落ち着いてからほどなく、顔を見せないでいた薛が、左将軍府に元気な姿をあらわした。
見れば、あの夜に一緒だった、奉という青年を従えている。
薛は、偉度を見るや、丁寧に礼を取って、深々と頭を下げた。
「三日の期日をお守りいただきまして、ありがとうございます。亡き娘に代わりまして、御礼申し上げまする。わたくしも、世には悪ばかりではないのだと、救われた思いでございます。偉度さまは、わたくしどもの恩人です」
「よしてくれ。わたしは何もしていない」
謙遜でもなんでもなく、偉度は本気でそう思っていた。

赤頭巾をかぶって、しょげかえって夜道を帰っていった劉備の背中は、弱弱しいものですらあった。
なのに、偉度には、それがひどく大きく、超えがたいものに見えたのである。
おそらくあの背中を、一生忘れることはないだろう。

薛は、憂いの含まれた瞳に、それでも笑みを浮かべて、言った。
「すべてはこの奉から聞いております。今日は、あらためて御挨拶に参りました。実は、このたび、この奉を、正式に養子に迎えましてございます」
奉は、照れくさそうに、偉度に笑ってみせた。
「そう。そうかい。それはよい話じゃないか」
「はい、互いに蕭花を通して、父子となるはずだったのです。娘が死んだとはいえ、あらためて親子となってもおかしくはないでしょう。
わたしには子はなく、奉に親はない。これもめぐり合わせでございます。
もし、貴方様があの夜、奉をお助けくださいませんでしたなら、わたくしは、二人も子を失うところでございました。あなたはわたしと、娘と、奉の、三人を助けて下さった。なんと礼を申し述べてよいのやら、わかりませぬ」
そういって、薛は、感極まって涙をこぼした。
混じりけのない、純粋な、感謝のための涙であった。

そんなことはない、と二度目の否定をすることは、偉度にはできなかった。
堪えようにも、涙があふれて、止まらなかったのである。
普段は強気な偉度の、その涙する姿に、ほかの主簿たちや左将軍府の人々は、何事かと目を集めてくるが、それでも、偉度は、涙を袖で隠すのが精一杯で、声をたてずに泣くことしかできなかった。

本編おわり。
番外編につづく……

生まれ出(いず)る心に 9

2018年07月19日 09時22分23秒 | 生まれ出る心に


実のところ、偉度は気絶などしなかった。
たった一度だけ拳を叩きつけられたくらいで、気を失うような、ヤワな鍛え方はしていない。
避けようと思えば避けられた。
事前に、男…黄淵は、女を殴りつけてくる、ということは景から聞いていたし、人間という物はなぜか、悪事も善行も、いつも同じ方法を踏襲したがる。
わかっていながら、それでも避けなかったのは、女たちの味わった苦痛を、自分も同じように感じたかったからだ。
感じた上で、怒りと憎しみを、巫女のように呼び寄せて、この男にたっぷりと返してやるつもりであった。
けして、ただではおかない。

肩に担がれているのがわかる。
黄淵は慣れているのだろう、足取りもしっかりと、軽くはない偉度を木材でも運ぶように、息もほぼ乱さず歩く。
そのくせ、ぶつぶつとしきりに独り言を言っているのだが、それはほとんど意味を為さないもののうえ、早口なので、偉度には、はっきりと聞き取ることができなかった。
極上の獲物を得ることに成功した、狩人の気持ちなのであろう。
赤頭巾の殿様、下手に飛び出してこないと良いな、と偉度は思ったが、さすが、修羅場をいくつも潜り抜けてきた男だけあり、劉備は、いまのところ、様子を伺うことにしているようだ。
たしかに、この状態では、「女の格好をしていた男を懲らしめてやっただけ」と言い逃れされかねない。

黄淵は、やがて、偉度をどこか、ひと気のない廃屋へと連れ込んだ。
荷物のように、地面に落とされることを覚悟していた偉度であるが、意外にも黄淵は、そっと大切なものを扱うように、偉度を地面に横たえた。
いや、地面ではない。石畳の上のようだ。
うっすらと目を開くと、にじんだ月が真上に見える。
そして、痛みに呻くフリをして、手を動かすと、手の甲に、なにかが、柔らかさを含んで崩れたのが感じられた。
煙った香りが一瞬だけ感じ取れた。
そうか、火事で消失したものが、そのままになっている家、か。
偉度は合点しながらも、自分を、鼻息荒く見下ろしている男の気配をおぼえ、気絶のふりをつづけていた。
視線に敏感な偉度には、男が、やわらかな月光をたよりに、偉度の容姿が、自分の基準に合うかどうかを、じっくり確かめているのがわかった。
男が、蝋燭や行灯などを持っていなかったのは幸いである。
まさか、自分が攫ってきた者が、男だと言うことには、気づいていない様子だ。
頬を触れられる気配があり、肌の感触を確かめているのだと知れた。
このまま、手は襟元に行くか、それとも胸元にいくか、そうなったら、目を覚まさねばな、と思って身構える偉度であるが、男の手は、頬をなぞったあと、離れる。
そして、偉度は初めて、男の足音を聞いた。それが、離れていく。
なぜ離れる? 
もしや、攫う男と、襲う男と、別人なのか。
なればやっかいだな、と、ふたたび、うっすらと目を開き、闇の中に、もう一人の気配を探るが、廃屋は思った以上に狭く、見れば、焼け残った戸口から、男がきょろきょろと、こちらに背を向ける格好で、あたりを探っているのが見えた。
大胆な犯行を重ねながら、妙なところで神経質な男だな。
嫌悪と共に、偉度は思った。
無防備な娼妓を殴りつけて攫い、襲う。
それでは足らなくなり、今度は、市井の、気に入りの美人の家を狙って、押し込み、襲う。
そして我は黄家の息子なり、と、沈黙を無理に押し付け、去っていく。
この男は、卑劣な臆病者なのだ。

「だれかいるかい、黄家の若旦那」
黄淵が、ぎょっとして、こちらを振り向いた。
その顔。陳叔至と同じくらい、いや、輪をかけて特徴のない、それこそ、どこにでもいそうな顔をした男であった。
あまりに平凡な面構えをしているので、偉度は拍子抜けした。
もっと、醜怪な容貌をしているとか、悪鬼のような面構え、というのであれば、女たちを襲う理由、その歪んだ理由も、容姿がまずくて、女たちに相手をされないことを恨んで、ということで、説明がつけられたであろう。
しかし、黄淵は、あまりに普通の容貌をしていた。
加えて、父親に甘やかされ放題に甘やかされ、食うにも困らない生活をしている。
なにが気に入らない? なにに飢えている? 
おそらく問うても、本人にすら、うまく答えられないであろう。
手が届きそうで届かない、しかし確実に胸のうちに巣食っている、悪夢の塊。
ああ、またか、と偉度は暗然とし、上半身を起き上がらせると、うろたえている黄淵に尋ねた。

「だれもいやしないだろう。あんた、ここでこうして、いっつも女を手篭めにしていたのか」
「おまえ…男か?」
声でそれと知れたのだろう。
今更なうろたえぶりが可笑しくて、偉度は声をたてて笑う。
「そうだよ。残念だったね、女じゃなくて。今度から、獲物を吟味する時は、咽喉元に余計なものがないか、見ておくのだね。ただし、あんたの『今度』はもうないけれどね」
偉度は、にやりと不敵に笑みを見せると、隠し持っていた、愛用の短刀を抜き放つ。
それはおぼろな月の光を受けて、銀色に凶悪に輝いた。
黄淵の顔から、血の気が引くのがわかった。
「おや、もしかして実戦経験、ほとんどない? そうか、あんたは女を選ぶ時に、あまり戦わずに女を襲える家ばかり狙っていたのだな。臆病だから」
最後の、臆病、のひとことで、黄淵の頬がぴくりと動いたのがわかった。卑劣漢のくせに、誇りの高さは人並み以上、というわけだ。
「だれかを呼ばれて、武芸達者なり、警吏なりが追いかけてきたら、恐ろしいから、わざと女の身元がはっきりわかるような所持品を奪い、そしてあえて名乗ったのだね、漢嘉太守をつとめる黄家の息子だと。だから、自分の家より格式の高い家は狙えなかった。これも、怖いからさ」
「ちがう!」
黄淵の声は震えていた。しかし、それはおのれの悪事を掌握している偉度への怯えではなく、偉度の決め付けが許せないから、という様子である。
「おれは、臆病なんかじゃない! 臆病じゃないから、訴えられても怖くないから、名乗ったのだ!」

ふざけるな。
偉度は腸が煮えくり返るほどの怒り、というものを、はじめて他人のためにおぼえた。
この男の、なんと身勝手で醜い物言いか。
こいつは、自分以外を人間だと思っていない。
感情のあるものだと理解していない、偉度の天敵ともいうべき係累に属する、真の悪であった。

「臆病じゃない? それは、とてもいいことだと思うよ」
偉度は、ゆっくりと石の寝台から起き上がる。そして、女装を解かぬまま、短刀を構えた。
「では戦おうではないか」
黄淵は口ごもり、言葉を発さない。偉度は目を細め、己の頬から笑みを消した。
「あえて名乗らぬ。おとなしく死ね」
黄淵の、ぜっ、と息をのむ音が聞こえた。
戦うこともできない、こんなヤツのために、なぜ、苦しまなければならない人々がいるのか。
黄淵が戸口から、外へ逃げ出そうとする。
偉度は、領巾に仕込んでいた鏢を投げつけると、黄淵の足元に絡ませるようにした。
とたん、黄淵はもんどり打って倒れる。
偉度は、そのまま、領巾が引きちぎれるまで、容赦なく、黄淵をおのれの方に引き寄せる。
黄淵は、必死に逃れようとするものの、不様にあがくその指には、廃屋の泥が埋まっていくだけである。
「どうしたい、若さま、臆病じゃないのなら、なぜ女の格好をしているわたしから逃げなさる? 戦ってみたら如何か。それとも、女ならば勝てるけれど、男には勝てないと?」
「ち、ちが」
ちがう、と言いたいようであるが、偉度は聞かなかった。
そして、領巾で押さえつけるようにして、うつぶせになっている黄淵を蹴り飛ばして仰向けにし、まずは、のしかかるようにして、膝をうまく使い、相手の利き腕である右肩を外した。
黄淵のぶざまな悲鳴が廃屋中に響いた。
「なぜに嘆かれる、黄家の若さま。おかしいじゃないか、女だって、こうして泣いたり、叫んだり、許しを請うたりしただろう。それを聞かなかったあんたが、なぜに嘆くのだ」
「貴様、俺は、漢嘉太守の息子だぞ!」
「だからなんだね。わたしの知ったことじゃない。あんたが、女たちの幸せなんぞ、知ったことかと思ったように、わたしもあんたが誰であろうと、知ったことじゃないのだ!」
肩の痛みに呻きつつ、なおも起き上がろうとする黄淵の顎を、偉度は地面に押さえつけるようにして掴んだ。
ごん、と地面に後頭部がぶつかる音がする。
「わたしもいろいろ考えてね。あんたをどうするか、本当に真剣に考えた。笑わせるじゃないか。このわたしが、おまえなんかのために、頭を使わねばならなかったんだからね。それはたいしたものだよ、誉めてあげよう。
だがね、若様、あんたを殺しても、あんたに死に追いやられた娘は戻ってこないし、女たちの傷は癒えない。どうだろうね、若様。わたしにはたくさんの知り合いがいてね、あんた位の年の男の宦官を、捜している人間がいるのだよ」
「か、宦官?」
黄淵の引っくり返った声がする。
それが滑稽だったので、偉度は思わず残酷な笑みを浮かべた。
「そうだよ。宦官さ。ただね、そいつはちょっと変わった男でね。宦官といっても、自分の女に身の回りの世話をさせる男を、捜しているのじゃないのだ。つまり、女の代用品として、宦官が欲しいのだそうだ。あんた、いままで、さんざん手前勝手にいい思いをしてきたのだ。今度は、自分が役に立ってみないかい」
「い」
いやだ、と答えようとした黄淵は、いつのまにか、偉度の刃が股間にぴたりと当てられているのに気がつき、息を呑んだ。
もはや偉度は笑っていなかった。暗い目をして、黄淵を見据える。
「あいにくと、痛み止めもなにも持っていない。血があんまり出過ぎないことを祈るよ」
衣を割られ、冷たい刃の感触が、触れるか触れないかのところで感じ取れたのだろう。
それまで、恐怖と痛みに顔をゆがめ、震えていた黄淵が、突如としてされる直前の牛のように大暴れをはじめた。
しまった、追いつめすぎた、と偉度は後悔したが、遅かった。
馬乗りになった体の下で、黄淵は激しく暴れ、身をよじって、偉度を跳ね飛ばすと、外れた肩を抱えたまま、立ち上がった。
「待て!」
黄淵は聞かず、廃屋の戸口から、転がるように逃げていく。
必死な人間の抵抗の強さを、偉度は計算に入れていなかった。
震えて怯える黄淵の姿を前に、獰猛な苛虐心しかなくなった。
それとて、弱さである。
己の性を押さえつけられなかったことを呪いつつ、偉度は逃げる黄淵を追った。

と、暗闇から、黄淵の前に立ちふさがる影がある。
赤頭巾の殿様か、と思った偉度ではあるが、そうではなかった。
「黄家の息子だな? 娼妓たちから、おまえが今日もこのあたりをうろうろしていると聞いてきたのだ。ここで会ったが百年目ぞ! 蕭花の仇をとってくれよう!」
蕭花の婚約者であったという、奉であった。
なんと間の悪い、と偉度は舌打ちをした。
奉も決死の覚悟できたのだろう。
その手には剣が握られているが、握り方からして、まるで武芸をかじったことのない男の物腰だとわかる。
黄淵も敏感にそれを感じ取ったらしく、外されていない左腕を振り上げるや、奉の横面を難なく殴り飛ばすと、その手から剣を奪い、横倒れになって呻いている奉の咽喉元に、剣を突き立てた。
「止まれ! さもなくば、こいつを殺すぞ!」
「とことんまで腐った男だね」
憎まれ口を叩く偉度であるが、言われたとおり、黙って従うしかない。
足を止めると、黄淵は、咽喉元に剣を突きたてたまま、じりじりと後退していく。
偉度の脳裏には、つぎに黄淵がどうするか、たいがいの予想ができた。
かつての自分なら迷わずそうしたし、そうしろと、教えられてもいたこと。
すなわち、奉を刺し、こちらが手当てのために足止めを食らっているあいだに、逃げるつもりなのだ。
頭に差したままになっている銀の簪は、武器もなるものである。
ここで簪を手裏剣の如く投じて、黄淵の手から剣を奪うことも可能だが、しかしあまりに暗すぎた。
朧月夜のおかげで、だいたいの形はわかるものの、細かいところまでが見切れない。
下手にこちらが動けば、黄淵は迷うまい。
むしろ、さらに残酷な所業に、追い立ててしまうことになるかもしれない。
どうする? 
いちかばちか…
ゆっくりと、銀の簪に手をかけたそのとき、黄淵の背後にて、赤いものがあらわれた。
赤頭巾である。
両手には大きな石を持っており、偉度にばかり集中している黄淵は、後頭部に迫る赤頭巾に気づかなかった。
やがて、がつん、と音がして、黄淵の後頭部に石が落とされた。

つづく……

生まれ出(いず)る心に 8

2018年07月18日 09時26分06秒 | 生まれ出る心に
偉度は動く彫像のように、のったりとした人々の動きを横目にみながら、しばらく広場や、あちこちの路地を徘徊した。
そうして、まさに唐突に気づいた。
いまは、お勤めをしているので気負っているからだろうか、最初に、この場所に足を踏み入れたときにおぼえた恐ろしさが、いまはない。
荊州にて分かれた兄弟たちの姿を、ここで見つけてしまうことの恐ろしさ。

恐ろしさ、か。

ふと、己の不甲斐なさがおかしくなって、偉度は思わず、自嘲の笑みをこぼす。そうして、天空にあり、黒い群雲のなかに見える、にじんだ月を見上げた。
あのひとならば、こんなことは思うまい。
たとえ見つけてしまったとしても、ひとたび己の手から漏れた水ならば、乾ききってしまわぬうちに、また掬ってみせようと、嘆くことすらせずに、全身全霊を傾けるであろう。
覆水盆に還らず、なんて言葉は通用しないくらい、しつこいというか、ねばり強いのだから。

不意に体じゅうが、ふわりと羽根のように軽くなった心地がして、ああ、わたしは本当に救われていたのだな、と偉度はあらためて思う。
ついさっきまで、自分の過去、その意味を忘れるほどに、黄淵をおびき寄せることに集中していた。
なんの疑問も思うことなく、闇への嫌悪も忘れて。
ほんとうにさっきまでは、黄淵の歪んだ欲望のために、幸福を摘み取られ、人生を狂わされた女たちのために、ただそれだけのために純粋に動いていた。
動くおのれを疑問に思うことすらしていなかった。

もしも十年前の自分がここにいて、いまの姿を見たら嘲笑したことであろう。
そんなことをしてやったって、だれに感謝されるわけじゃなし、こんな命令はだれからも受けちゃいない。
相手は黄家という、成都の豪族のなかでも名門なのだ。面倒をどうして自分から呼び込む真似をするのだ?
偉度は過去のおのれに言い聞かせる。
だから言っただろう、単なる縄張り争いなのだ。
光にねじ込もうとする歪んだ闇を、叩き潰す。それだけのこと。そのために、自分は生かされているのさ。
昔のおまえは、意味も判らず、命じられるまま、人を殺めていた。莫迦な連中の便利な掃除屋がおまえだった。
いまは、意味のある殺しをしているのさ。莫迦よりは、ちょっとマシな程度の連中のための、掃除屋。
そう、立場自体は、変わりはしないのだ。

どこかの店から、気だるげな筝の音が流れてくる。
たしか、これは最近、流行っていた歌だったな。あのひとが、気づいていたかはしらないけれど、口ずさんでいたっけ。どこで覚えたのやら。
偉度は笑いながらも、筝に触発されるようにして、一緒になって唄を口ずさみはじめた。
それは、男の訪問が、ぱたりとなくなったことを嘆く、娘の唄である。
このまま見捨てられるくらいならば、死んだほうがいい、こちらはすっかり婚儀を挙げるつもりでいたのに、兄弟からも身持ちが悪いように思われて、このままどうして生けていけ、というのか…詩経にあった詩を、さらに今風に変えたものである。

ぺたり、ぺたりと石畳を蹴る、自分の足音が響く。
たまに蹲る闇のなかに人影があるのを偉度は見たが、それはどこかの店から放り出された酔客か、あるいは客を取ることが出来ずに、あたりをふわふわと流れている流しの娼妓たちであった。
かれらの人生は、堰の止められた腐った水面に、集って浮かぶ木の葉のようだと思う。
好むとこの好まざるとにかかわらず、そこに流されて、もはやどこに移動することもできず、あとは腐り沈むように死を待つばかり。
彼らが好んでここにいる、というわけではないことは、判っている。
それでも、軽蔑を拭うことができないのは、真剣に人生と向き合って生きた結果の、この末路ではないからだ。
彼らは戦うべきときに戦わずに、逃げ出した。
そのツケを払わされているのであるが、ツケすら、真剣に払おうとしないので、複雑怪奇な運命というものは、利子をどんどん膨らませ、彼らに返済を迫っているのである。
守れなければ…いわずもがな。
大きな悲しみがない代わりに、大きな喜びのない人生が終わる。

彼らの中にあって、闇の中で、もぞもぞと、いつまでも天空にあって、自分について回る月のように、動いている影がある。
偉度がさっきから、巻こう、巻こうとしている、赤頭巾であろう。
おかしな殿様だ、と偉度は思う。
巴蜀の人口だけで約六百万人あまり。
そのなかの、ごくごく一部の悲鳴を聞いて、助けてやって、仁君のフリをしたいのだろうか。
まあ、でも、人を忠誠の美名の元に、むりやりに従わせた、同族のだれかさんよりは、ずっとマシか。
おそらく、偉度があまりに動き回るので、身を隠してついてくのが、やっとにちがいない。
偉度としては、自分の動きについてこられる、というだけで、あの殿さま、やっぱり若い頃から、ぶいぶい言わせてきたのは、伊達じゃないな、と感心するところであるが、齢五十を超えた劉備には、この暗夜行はきつかろう。
ぶつくさ言っているのだろうな、と、その姿を想像しただけでおかしくなり、思わず偉度が声をたてて笑っていると、背後より、声がかかった。
「ご機嫌だね、姐さん」
この界隈には似つかわしくないほど、明瞭で、品のよい発音の、若い男の声であった。
偉度は、ぴたりと足を止める。

こいつ、いま、足音を消して、寄って来た。

声を発さずにすこしだけ顔を振り向かせると、夜闇に、男の輪郭だけが見えた。
すぐそばの家から漏れる明かりのために、男の顔は、逆光になってしまい、見ることが叶わない。
男は、最初は、蕭然とそこに立っていた。
が、偉度の横顔をはっきりと確認するやいなや、男は利き腕をすばやく動かすと、その拳でもって、がつんと偉度を殴りつけてきた。
目に火花が散る、とは、このことであろう。
闇夜に熔けた月と、人家の明かりがぐらりと視界を回っていく。
偉度は地面に叩きつけられ、そのまま倒れた。
男の、足音を殺した気配が近づいてくるのが判った。

つづく……

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