はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

画眉の背景 4

2020年05月04日 10時04分03秒 | 画眉の背景








それから数日間、毛は趙雲のうしろにくっつくようにして、あちこちを移動しつつ、絵を描くべく、書画の道具をもって、孔明の姿の見える場所に陣取り、下書きをはじめていた。
とはいえ、それは描いては、破棄し、ふたたび描いては、首をひねって、やっぱりやめる、といった繰り返しである。
紙はとても高価なものであり、劉備が自腹を切って、毛のために用意したものである。
こいつはわかっているのかな、とハラハラしつつ、趙雲はなりゆきを見守っていた。

毛は、開け放たれた孔明の執務室からよく見える、中庭の東屋に座り、青葉のはざまから見える、机に向かって刀筆を動かしている孔明の姿を、熱心に観察していた。
趙雲も、調練の合間をみては、毛のとなりで、同じように、じっと孔明を観察する。
いつも見慣れているものだったから、注意して観察したことがなかったが、孔明の容姿は素晴らしく均整が取れていると思う。
座って、背を伸ばし、やわらかな光沢を見せる絹の衣裳を床に垂らして、細い指先をしきりに動かしている様は、近づけば、すぐそこにいることはわかっているが、どこか蜃気楼のようにつかみ所がなく、神秘的な別世界の住人のようにも見える。
孔明は、徐庶に剣を倣った程度で、集中して身体を鍛えたことが無いという。
それでいて、あの余計な肉のひとつもない、完璧なまでに均整のとれた身体を保っていられるのだから、たいしたものである。
孔明という人物を説明するとき、能力に見合うだけの努力をしているのもたしかだが、生まれつき天に愛されている者、ということで、本当はすべての説明がついてしまうのかもしれない。

「わたしは、なんとなく判ってまいりました」
と、筆を動かしつつ、毛は言った。
横を見れば、そこには、十七の若者とは思えない、真摯な表情があった。
「当初、主公に軍師の絵を描け、と言われたとき、わたしはあのかたの外貌を、いかに捕らえるかばかりを考えておりました。
男とも女ともつかぬ、曖昧な美。それがどこから発せられるものなのか、魏将軍がおっしゃったように、顔立ちは女のようであるのに、上背がある、という不均衡さに不可思議な魅力があるのか、関将軍がおっしゃったように、表情にあるのか、それとも胡主簿がおっしゃったように、仕草と雰囲気か、あるいは張将軍がおっしゃったように、琅邪のご出自だから、もともとからして不思議なお方なのか」
「結論は出たのか」
「まだ迷いはございますが、胡主簿がおっしゃったとおり、あの方の外貌だけを描こうとするのは無理なのです。張将軍が描かれたような、単なる美人画になってしまいます。魂がそこに入らなければ、それは軍師の絵ではない」
「おまえ、むずかしいことを言うな」
「そうでしょうか。軍師のことを尋ねると、みなさまは、わたしが絵を描くとわかってらっしゃるのに、その外貌ではなく、内面を語ろうとなさる。
親しい方であればあるほど、あの方がどんな方か、わたしに教えようとなさる。あの方は、とてもみなさまに好かれておいでなのですね」
「そうだろうか」
ぶっきらぼうに答えつつ、趙雲は、こいつは、若いのに、なかなかよく見ているな、と感心していた。
毛は、傍らにおいていた紙を、一枚趙雲に差し出す。
そこには、ほぼ完成品といってもよい、孔明の姿を描いた物があった。
立ち姿であり、均整の取れた美しい身体に、豪奢な衣裳を身に包み、切れ長の双眸はどこか遠くを見つめている。
「さすが、はるか洛陽まで行って、名人に弟子入りしようとするだけある。たいしたものだ」
これだけでも、十分に劉備は喜ぶであろう。
趙雲は感心するが、しかし、毛は、それはだめだ、と首を振る。
「わたしの筆先が、なにかが足りない、これはちがうと訴えてまいります。将軍、いつか、おっしゃいましたね、軍師は、一で十を知るお方だと」
「うむ」
「それほどに心の鋭いお方は、おそらく心が休まらず、たいがいは内側に籠もってしまわれる。そうしなければ、己を保つことができないからです。
僭越ながら、わたしめにもそういう傾向がございますので、軍師のお心のうちは、なんとなく察しがつくのです。
わたしの頭にございます軍師というのは、とても苦しんでおられる。貴方様に、絵のことでこぼしておられた、あのお姿が、頭から離れないのです。ですから、その苦しみが、その絵の目に表れているのでございます」
言われて、あらためて見れば、彼方を見遣る孔明の目に、力強さはなく、どこかじっと耐えて、なにかを我慢して見つめているようにも見える。
「それは、軍師にそっくりな、ニセモノの絵でございます。軍師が、苦しみを抱えてもなお、あのように力強くも清い眼差しをしておられるのか、その理由を知りたいのです」
「ニセモノは言いすぎだろう。この顔は、見覚えがある」

新野に、軍師として招かれたばかりのころ、孔明は、こんな顔をしていた気がする。
傲慢で、偏狭で、頑なな顔をしていると、趙雲も反発を覚えたものだ。
その中に、不安と恐怖と怯えが潜んでいたことに気づいたのは、だいぶ後になってからだった。
明朗な言葉と、倣岸な態度に隠されて、抱えていた弱さに気づくのが、遅れたのだ。
あれからもう、二年にもなるわけか。
あまりにいろいろなことがあって、まるで人生の初めから、共にいたような感覚すらおぼえるときがあるのだが、まだ二年なのだ。

「あいつの目の力の源は、自信ではないか。大きな仕事をやり遂げたという、自信。おまえは知らぬかも知れぬが、大変なものであったのだぞ」
自信、と毛は鸚鵡返しにして、それから筆を止め、なにやら考え込んでいる。
「将軍、あらためてお伺いしたいのですが」
「なんだ」
「皆様方より、軍師に関しての、たいがいのお話は聞くことができました。しかし、いまだ将軍の口より、軍師をどのように見ておられるか、聞いておりませぬ。
毛が拝見いたしましたところ、軍師にもっとも近しいところにいるのは、貴方様でしょう。貴方様が、軍師をどう見ておられるか、それをお伺いしたいのです」
「それは、絵に関係するのか」
「はい」
きっぱり言い切ると、毛は、趙雲の返事をまって、真剣そのものの眼差しをむけてくる。
このまま席を立ってもよかったが、それでは、この青年の、絵に対する真剣さをも踏みにじってしまうような気がして、出来なかった。
「誰にも口外せぬと約束できるか」
「それはもちろん。毛は、絵が完成しましたら、すぐに洛陽に参ります。洛陽に着いたとしても、決してだれにも話しませぬ」
「そこまで大仰にする話ではなかろう。俺が、軍師をどう見ているか、つまり、俺にとって軍師はどのような位置にあるか、ということだな」
「はい」
趙雲は、青葉の向こう側にいる、孔明の姿を見た。
いつの間にか、すべての中心が、自分の思考によるものではなく、ただ一点にのみに集中して動くようになっていた。
栄達も財貨にも興味はない。
以前はそれなりにあったはずだが、どうでもよくなってしまった。
「あれは、俺にとって、目であり、心であり、真実を語る唇だ。軍師が、生きてさえいてくれれば、それだけで嬉しいと思う」
自分で、すごいことを口にしたな、と思ったが、隣の毛は、真剣そのものの顔をして、じっと趙雲を見つめている。
毛の、絵に対する真摯さに引きずられた。
おのれを見上げる毛の顔に、驚きや呆れ、戸惑いがなかったことに、趙雲は、ほっとした。
そして、青葉のはざまの向こう側にいて、筆を動かし、たまに手をとめて、思案げに後れ毛をかき上げては、また竹簡に目を落とす、といった仕草をくりかえしている孔明を見、納得したらしく、なるほど、とだけ言った。





それから毛は、一気に孔明の絵を描きあげて、劉備に献上した。
劉備は出来上がった絵を見て、こりゃあ、たいしたものだと、大いに喜び、約束どおり、毛に路銀をあたえ、さらに見送りまでつけて、無事に洛陽に届けてやった。
出来上がった絵は、劉備は出し惜しみして、孔明本人ですら、なかなか見せてもらえなかったが、主公ひとりでずるい、との声が大きくなってきたので、ようやくみなの目に触れることとなった。
絵は、趙雲が東屋で見せてもらった絵を基本に、表情を変えたものであった。
彼方を見遣る双眸の、自信に満ちた、幸福そうでいて、どこかで悲しげな、矛盾する笑みを浮かべた、謎めいた表情は、まさに孔明の内面を写しきっている。もともとの外貌の美しさとあわせて、見事に孔明という人物を描いたものであった。
孔明自身は、こんな顔をしているかな、と戸惑っていたが、周囲の者たちは、これはたしかに軍師だ、あの毛というやつ、きっと将来はたいした画師になるだろうと、口々に、できばえの素晴らしさを誉めあげた。
















さて、趙雲はというと、毛を見送ってのち、毛を数日のあいだ、軟禁していた部屋を、みずから片づけていた。
兵卒たちに命令して、片づけさせてもよかったのだが、仕事をいかに達成したかは、最後の締めくくりにかかっている、というのが趙雲の持論であったから、こうして、掃除も買って出ているのである。
その点、孔明と趙雲は、仕事に対する考え方が、とてもよく似ていた。
掃除を進めていると、毛が置いて行った書画の道具の一式がでてきた。
もともと、偉度が貸してくれたものであったから、返してやらねばな、とまとめていると、道具と一緒に、巻きつけた紙が一枚あった。
下書きを処分し損ねたものか、と趙雲が開いてみると、趙子龍さまへ、と毛の字が片隅にあり、そこには、劉備に献上したものと同じ孔明の絵があった。

いや。

趙雲は、窓辺に寄って、書画をあらためた。
すらりとした体躯に、豪奢な衣裳を身に纏う、凛とした立ち姿。
だが、その表情は、劉備に献上したそれとは違い、澄明な双眸は、はっきりと此の方を見つめており、憂いはなく、ひたすら明るく幸福そうに微笑んでいた。
それだけではない。劉備に献上した絵の孔明は、手に羽扇を持っていたが、その絵は剣を持っていた。
その剣を確かめた時、趙雲は思わず絵を閉じて、そのままどこかへ放り投げてしまいたくなるほどの気恥ずかしさに襲われた。
しばらく、どうしたものかと迷って、思案してから、おちついて、ふたたび絵を開く。
見れば、絵の片隅に、書付があり、そこにはこうあった。
『献上いたしました絵も、こちらの絵も、同じく真の姿であろうと、毛は信じてございます』
「大きなお世話だ、お節介が」
ここにはもういない者に、思わずつぶやき、趙雲は、書画をふたたび、今度は丁寧に閉じると、偉度に返す道具をきちんとそろえて、それから部屋を後にした。
孔明に会わないといいな、どんな顔をすればよいか、わからないから、と思いつつ。


おわり

御読了ありがとうございました。

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/14)

画眉の背景 3

2020年05月04日 10時02分56秒 | 画眉の背景


毛は逃げ出す気配はなかったが、監視できるように、趙雲の寝泊りしている部屋のそばに、同じく就寝させることにした。
劉備に、孔明を描け、と言われたときは、戸惑いばかりを浮かべていた毛であるが、いまは、さまざまな人間から、孔明と言う人物のあれやこれやを聞き、なにかしら、描くものが形になってきた様子である。
兵舎の部屋を使うのにあたり、手続きが必要だというので、連れ立って歩いていると、毛が趙雲に尋ねてきた。
「将軍が、さきほどおっしゃっていた、軍師は、一で十を知る類いの人間だ、というのは、どういう意味なのでございますか」
「聞こえていたのか」
「はい。いま気づきましたが、みなさまは、軍師のこととなると、それぞれに熱心にお話になるのに、趙将軍は、ずっと黙ってらっしゃる」
「もともとお喋りは得意ではない。ここの連中は、みなお喋り好きだが」
「そうではございませぬ」
と、毛は、上背のある趙雲を、ちらりと見上げた。
「軍師のことをお話になるのを、避けてらっしゃる。たしか、将軍は軍師の主騎であられたはず。しかし、胡主簿さまとのお話では、さほどお好きではないような」
「そう聞こえたか」
たしかに、偉そうに見えたとかなんとか言ったな、と思いつつ、毛の追及を、どう交わそうかな、と趙雲は考えた。
この毛、画師を目指すだけあり、観察力が、なかなかに鋭いようだ。育ちの良さそうな、人の良い顔に気を抜いていた。
「一で十を知る、とは?」
「おまえ、なかなかねばり強いというか、しつこいな」
「画師を目指しておりまするゆえ、気になったことは、とことん追及する癖がついております」
「厄介な癖だな」
「申し訳ございませぬ。で?」
本当にしつこいな、と辟易しつつ、趙雲は重たい口を開いた。
「たとえば、おまえが真新しい経験を一つしたとする。失敗でも成功でも構わぬ。そこで、並みの人間であれば、一つだけのことを学ぶ。良かったな、とか、残念だったな、とか。
ところが、諸葛孔明というのは、一つの出来事で、十くらい一気に学べてしまう。感覚がするどいのだ。何事も見逃さず、小さなことからも、次の大きなことに繋がる知識を得ることができる。
つまり、我らが十くらいの経験をしなければ得られぬものを、諸葛孔明は、一つの出来事から一気に学んでしまうのだ。だから、年齢も関係なしに、我々より一足飛びに同等の経験を積んだのと同じになってしまう」
ほう、と毛は驚きつつも、ゆっくりと趙雲の言葉を吟味し、それから、言った。
「それは苦しいことでございましょう」
「なぜ」
「一度に、いくつもの心の波にさらされる、ということでございますよ。歓喜のなかにあってさえ、苦みをおぼえ、安息のない状態は、つらいでしょう」
「それは逆に、苦しみを覚えつつも、わずかな希望をも見い出せる、ということでもある。だからこそ、諸葛孔明は、力強く神秘な龍たりえるのだ」
毛は、あらためて驚いたように趙雲を見るが、当の趙雲は、あえて頓着しなかった。





さて、手続きを終えて兵舎に戻る途中、ちょうど廊下をひとりで行く、孔明その人と行きあった。
孔明は、趙雲と、その後ろに控えている毛の姿を認めると、足取りも軽やかに近づいてくる。
おや、今日の衣に焚き染めた香は、好きな香りだな、と思いつつ、趙雲は礼を取る。
型どおりの挨拶が終わったあと、孔明は、不機嫌そうに、白羽扇をぱたぱたと仰いで見せた。
「わたしなど描いたところで、いいことなどひとつもなかろう。奥方の絵を描かせればよいものを。主公はなにをかんがえていらっしゃるのか」
と、孔明はひとしきりぶつぶつ言ったあと、はじめて間近で見る孔明の姿に、感心して、口をあんぐりと開けている、毛のほうを、煩わしそうに見た。
「間近で見ねば描けぬ、というのであれば、時間を作るが」
「協力的ではないか」
趙雲が言うと、孔明は、事務仕事で疲れたのか、肩をまわしつつ、ため息をつく。
「そのほうが、早く終わるだろう。わたしの絵を、主公が描かせようとしているので、あちこちで口がさない雀たちが、あれやこれやと五月蠅くて叶わぬ。『軍師は女のような顔をしていらっしゃるので、どうせ、単なる美人画になるだけであろうよ』と、こうだ」
趙雲は、孔明が、自分の容姿を武器にしながらも、本当は気に入っていないことを知っている。
だからこそ、みながあれやこれやと論じている中でも、あえて口を挟まなかった。
わかりにくい諸葛孔明という人間の、複雑な心のうちを説明したところで、そもそも口下手の自覚のある自分では、百の言葉を尽くしても、本当のことは伝えられぬ、かえって誤解を招いてしまうと思ったからである。
「おまえ、疲れていないか」
「顔に出ているか」
と、孔明は柳眉をしかめ、自分の頬に手を当てる。
そういえば、このところ馬良とほとんどふたりで、あちこちを動き回っていた。
もともと色白なのが、さらに蒼く透き通るようだ。
「城壁の修復に、思いのほか予算がかかりそうなのだよ。どこをどう締めて、費用を捻出すべきかで、ずっと計算に追われていた。軍備を削るわけにはいかぬし、かといって、増税をすれば、いまだ落ち着かぬ情勢で、民も不満を募らせよう」
「おのれを取り巻く言葉のうち、わざわざ否定的な言葉を捜して耳を傾けるな。疲れたなら休め」
「休めるものなら、休みたいところであるが」
「人任せにするのが不安なのか」
はっきり言うな、と孔明はつぶやき、曖昧ながらも、そうだ、と答えた。
趙雲はちいさくため息をつき、言う。
「人をどこまで信用するかも技量のうちだぞ。気持ちはわかるが、これから、我が軍の規模はさらに大きくなる。新野と同じ方法を取っていたのでは、やっていけなくなるぞ。
いままでの方法がうまくいかないのであれば、怖じずに新しい方法に飛び込め。失敗を恐れていては、なにも為すことはできないと、前に自分で言っていただろう」
「うん…言ったな」
趙雲の言葉に、孔明の顔にあった険が薄らいだ。どうやら、態度が刺々しくなっていたことを反省したらしい。
趙雲は、孔明の明朗な素直さが気に入っている。
笑みをこぼしたくなるのを抑えつつ、精一杯、厳しく、趙雲は言った。
「おのれの言葉すら忘れるとは問題だ。今日は俺が屋敷まで送る。もう仕事はするなよ。迎えに行くから、部屋で待っているがいい」
「それはありがたいが、絵は?」
「絵の心配は、こいつのほうがする。それと、ほかのヤツが言うことに、いちいち反応するな。みなが騒いでいるのは、みな、おまえの絵がどうなるか、興味があるからだ。それだけ、普段から注目されている、ということだろう。張飛など、叔至たちと一緒になって、自分でおまえの絵を落書きして、こんなふうじゃないか、などと遊んでいるくらいだったからな」
孔明は、せわしなく動かしていた羽扇を止め、趙雲を見た。
「張飛殿が?」
孔明は、張飛が自分を苦手としていると思っているが、実情は、深刻なものではない。張飛は単純明快な男なので、昔はともかく、いまは劉備と同じくらいに、孔明を家族も同様の者だと見なしているのだ。
自分の才能や容姿をあれこれ誉められるよりも、張飛の話のほうが、孔明の心を明るくしたようである。
趙雲は、おのれの言葉の与えた効果に満足しつつ、つづけた。
「うむ。なかなか器用に描けていた。土に描いたものだから、もう消えてしまったかな。みな、おまえの絵を楽しみにしているのだ。そう、不貞腐れることもなかろう
「そうか」
孔明は、その様子を想像したのか、飾り気のない、照れたような笑みを浮かべた。
「ところで、悪口を叩いているのはだれだ」
「聞いてどうする?」
「別に。いつものとおりだが」
それを聞くと、孔明は、今度は声をたてて、陽気に笑った。
「わが主騎は、ときにひどく物騒になる。あなたが過激な行動に走らぬよう、わたしとしては、悪口を忘れるしかなさそうだな。今日は早く休むことにするよ」
では、またいずれ、と言いながら、優雅に踵を返すそのうしろ姿を見送っていると、毛が、ぽかんと口を開いているのが横に見えた。
その視線が、ちくちくと当たるのがわかったが、趙雲はあえて無視をして、毛を兵舎の一室に連れて行き、それから孔明のもとへと急いだ。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/14)

画眉の背景 2

2020年05月04日 10時01分16秒 | 画眉の背景


「ふん、画師。画師ね」
と、それまで有能な主簿の顔をして、つんとすましていた胡偉度は、とたんに意地悪そうな笑みを毛にむける。
それだけで、毛は竦みあがってしまう。
そういえば、こいつも画才があったな、と思い出し、趙雲は尋ねた。
「そういうわけで、軍師の絵を、こいつが描くことになった。軍師には、主公からお話が行っているはずだ。おまえから、ほかの主簿たちに話をしておいてほしいのだが」
「ま、殿様のご趣向ならば、いた仕方ございません。ご協力いたしましょう。に、しても、軍師を描くとはいい根性しているね、あんた」
と、偉度は後れ毛を蓮っ葉にかきあげてみせる。
地味にしている偉度が、唐突に本性をあらわすと、その極端な差に、たいがいのものは言葉をなくす。
態度が変わるだけではない。
その纏う雰囲気が、一気に毒々しささえ含んだ華やかなものに転じるのだ。
これには、慣れている趙雲でさえ、たまにうろたえる。
初対面の毛は、なおさらであった。
気の毒になり、凍り付いている毛を庇うようにして、口を入れる。
「おい、いきなり脅すやつがあるか。仲良くしてやってくれ。しばらく俺と一緒に行動するのだからな」
「これはこれは、面倒見のよろしいことで。この無茶な冒険者のために、骨折りをなされるか」
「無茶?」
偉度は小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、言った。
「わたしは軍師を描こうと思ったことは一度もありませんよ。だって、無理だもの」
「おまえも、やはりそう思うか。だが、なぜそう思う?」
「軍師はね、あの雰囲気に特長があるのです。玲瓏たる容姿のなかに隠された、強靭な精神、鋼のごとき意志。見た目が問題なのじゃない。心のありようが、あの方を、世にも稀な絶佳に見せているわけですよ」
縮こまっていた毛は、偉度の言葉に、なにかしら心に響くものがあったらしい。
首を伸ばして、偉度に尋ねた。
「どこに特長があると思われますか」
「特長? そんなことは、あんたが観察して、見つけ出すことだろう」
厳しくぴしゃりとやられ、毛は首を亀のようにひっこめて、趙雲の後ろに隠れる。
偉度は、こういう育ちの良さそうな同年輩の若者には、ことさら意地悪をする傾向がある。

「意地悪しないで教えてやれ。どうせ、あまたある意見のうちのひとつだ。出し惜しみするな」
「出し惜しみなんかじゃありませんが、まあいいや。顔の作りがどう、体つきのしなやかさがどう、という話じゃありません。先ほども申しましたとおり、雰囲気。あの方の心の中にあるものがさまざまに作り上げ、全身から発せられる、気、とでも申しましょうか。あの独特の迫力で全身を鎧われておられるからこそ、軍師は軍師なのです。
それともうひとつ、どちらかといえば、脆弱なふうに見られがちな体躯をしておられるのに、舐めた態度に出る者がすくないのは、仕草でしょう。
あの人を、まったくの他人だと思って、そこいらに何もさせずに座らせておけば、わたしたちは、まちがいなく、軍師を女のような弱弱しい男がいる、というふうにしか見ない。
でも実際には、軍師はすこしも弱弱しくなんかない。わたしたちがそう思うのは、あのひとの言動を聞いたからであるし、あの人の仕草は、役者のように、ぴしゃりと、まるで謀ったように綺麗に決まるのです。軍師がうろたえて、オロオロとみっともなくしているところは、見たことがありません。つまり、そういった印象の積み重ねが、さらにあの人の特別な印象を強くするのでしょう」
「まあ、たしかに、困っていても、妙に堂々とえらそうにしているやつだからな。なるほど、ヒトによって、あれこれ違うものだな。おまえは、雰囲気や仕草が、軍師の特長だというのか」
「仕草を絵に籠める、というのは案外むずかしいのですよ。それにあの人ときたら、まるでだれかに指揮されているように、ここぞという場面にぴったりの仕草をするのです。司馬徳操の私塾で学んだ成果なのですかね。あまりに決まりすぎていて、圧倒されてしまうこともありますよ。あと雰囲気、これを絵に出す、というのは、名人でも、なかなか難しいでしょう」
「言われてみれば、仕草は力強いな。顔が女のようだと思うのは、おまえもか」
「顔の形の線が鋭いので、女の顔ではないのですが、睫毛が長いので、そう見えてしまうのですよ。あれで損をしている人ですよね。女々しいところなんか、すこしもありゃしないのに」
「そこは同感だ」
と、趙雲は偉度の言葉にうなずいた。
「でも、男らしいかといえば、そうでもない」
偉度は、すっかり毛のことは頭になくなったらしく、頭の後ろで手を組んで、なにやら思案して彼方を見る。
「女顔、というのは、わたしのような顔を言うのです。軍師が女装しても、似合わない。今月の給料を賭けてもいい」
「賭けるまでもなく、似合わぬだろうよ」
趙雲が言うと、偉度は目を細めて、にやりと意味ありげに笑った。
「でもすこし、見てみたいと思いませぬか」
「いいや、全然。話を戻せ。軍師は、女々しくもないが、かといって男らしくもない。では、なにものだ?」
「その得体の知れなさこそが、実は諸葛孔明という人間のもつ、美の源かもしれませぬな。引き合いに出すのはあれですが、若くて美しい宦官のように、男でも女でもない、独特の神秘的な、妖しい気配というのと、すこし似ている気がいたします」
「かといって、弱い存在ではない」
「それは、われらがあの人の言葉を、いつも耳にしているからですよ。あの人は弱音を吐かないし、基本的には能天気ですから、落ち込んでもすぐに回復する。それに結構しぶといですしね。そういう性格を知っているから、強い、と思っているからで、将軍が最初に軍師と会った時は、どう思われましたか?」
「最初? 最初から、あいつは偉そうであったから、なんだか嫌なやつだと思ったな」
「へえ、本当ですか」
興味津々、といった顔で偉度が首を伸ばしてくる。
「では、いつごろから、いまのようになったのです」
「いまのように、とは?」
「またまた誤魔化す。まあ、よろしいですけれどね。さて、そこの労役囚、考えはまとまったかい」
趙雲が振り返ると、毛は、すっかり混乱し、なにをどう捕らえたらよいのか、わからなくなっているようであった。
たしかに、孔明という多面性をもつ人間を、一瞬を切り取るしかできない絵で表現するのは、なかなかに難しいかもしれない。
趙雲は毛をつれ、偉度の執務室をあとにした。

兵舎に戻ると、陳到をはじめ、張飛までも混ざって、なにやらわいわいとやっている。
なにかな、と思って覗いて見れば、兵卒たちの調練もせずに、陳到や張飛たちが中心となり、木の棒で、地面に、めいめいで、なにやら書き付けている。
さては、と思って見てみれば、やはりそれは、孔明を描いたものであった。
趙雲が覗いてみると、張飛は、えへんと得意そうにして、胸を張る。
「どうだ、なかなかよく描けているだろ。おい、おまえが例の画師か。俺に弟子入りしてもよいのだぞ」
屈託なく言う張飛に、趙雲が、地面に描かれた絵に目を落とすと、そこにはたしかに、孔明らしき人物の絵が描かれていた。
うりざね顔の中に、ぱっちりと大きな目、高い鼻梁はすっと通って、綺麗な線を描いて、形の良い唇に繋がっている。
「美人だな」
趙雲が言うと、ますます張飛は、うへへ、と嬉しそうにする。
張飛は意外に器用なのだ。
だが、趙雲は、更に素直な感想をつぶやく。
「しかし、これは軍師ではないな」
なにおう、と言いつつ、趙雲に噛み付こうとする張飛であるが、陳到や毛も、その絵をみて、上手だ、けれど、なんだか軍師じゃない、と口々に言い始めたので、口をへの字にしてしまった。
「ちぇっ、うまく描けたと思ったのによ。でもまあ、たしかに言われて見りゃあ、軍師じゃないわな。男装した美人、って感じだな」
素直なところを見せて、張飛はしまいには、自分でそれを認めた。
「なんでかな。目がちょっと釣り上がり気味なところやら、鼻の高いところとか、唇とか、ひとつひとつは、よく描けているんだがなぁ。どうして軍師にならねぇんだろう」
はて? と首をひねる張飛の後ろで、陳到が、そおっと自分が地面に描いた孔明の絵を、足で消そうとしている。
趙雲はそれを押し留め、地面に描かれたそれを見た。

人間らしい。

と、いうのは、目は二つ、鼻はひとつ、唇はひとつ。
しかし指が六本、頭が妙に大きく、胴が短く、足が極端に長い、という、妖怪じみた者の姿がそこにあったからだ。
「なぜ指が六本もあるのだ」
「知らないあいだに生えました」
「計算ちがいで書き足してしまったのだろう。叔至、ずばり言うが、下手だな」
しゅんとした陳到であるが、持ち前の前向きさを、すぐさま発揮し、将に画才は必要ございませぬゆえ、と言った。

が、しばらく、その妖怪モドキをながめていた趙雲は、妙に、これは孔明だな、と思えてきた。
張飛も同じふうに受け止めたらしく、趙雲と並んで、ふぅむ、と難しい顔をしつつ、陳到の描いた孔明を見下ろしている。
「人間じゃないように見えるのに、目がなれてくると、軍師かな? と思えてくる、不思議な絵だな」
「なにかな、つまり軍師が人間じゃねぇってことか? ほら、昔、軍師がまったく食事を摂らなくなったときがあっただろ。そのとき、もしかして軍師は、仙人みたいに、本当に霞しか食ってねぇんじゃねえか、ってみんなで話したことがあったな」
「軍師は人間だぞ」
「わかってらぁな。だが、なんというか、軍師が実は人間じゃねぇ、ってなっても、どこかで『やっぱりな』と思うところってないか。なぜなのだろうな。やっぱ雰囲気か? 琅邪の人間って、不思議なヤツが多いって話だからな。徐福とかよ」
張飛は、平和になったのを機に、孔明や馬良らの姿に触発され、書物を読むようになったので、ここぞとばかりに得た知識を披露したがる傾向にある。

徐福とは、不老不死を願う始皇帝に、東の大海に浮かぶという蓬莱という島国に不老不死の薬がある、といって金を出させ、そのまま逐電した、という不思議な逸話の主人公だ。
この徐福が、孔明とおなじ、琅邪の出なのである。
琅邪というのは、中華最高の霊峰である泰山を頂く土地でもあり、神秘的なことになにかと結びつく土地でもある。
どこか、中原ともちがう文化風土があるのかもしれない。
徐州の人間は総じて背が高く、それがさらに神秘的な雰囲気を加えているのかもしれない。
まして、容姿が良ければ、なおさらだ。
異国、あるいは異世界との繋がりを思わせる雰囲気、自分たちとは違う風土の中に居た者。
違和感にも似た空気を孔明が醸し出している。
それが目に見えぬ力となって、周囲の目を引くのだろうか。

「軍師はむずかしい。あの方のお顔は、わたしの法則に当てはまりませぬゆえ」
みんなに、やれ妖怪だ、やれ遠い蛮地の異邦人だ、叔至の本当の姿だ、と、懸命に描いたものを、さんざんに馬鹿にされ、いささか傷心ぎみの陳到は、頭をぼりぼりと掻きながら、言う。
「おまえの法則とは、なんだ」
「主公も、将軍らもそうですが、人のもつ迫力というものは、いかにその人が、それまでの過程で苦労してきたかによって増すものだと、叔至は信じておりましたが、軍師はいささか、それとは違うようですな。
裕福なお家に生まれ育ち、ご両親は早世されたとはいえ、親代わりであった叔父君に大切に育てられ、その後も姉上や弟と仲良く暮らしていたという」
「良家といっても、さまざまだぞ。外からはわからぬ」
趙雲の脳裏には、長兄であり、呉に使える諸葛謹と、孔明の確執がある。
腹違いとはいえ、実の兄から、目の仇にされているのだから、苦労知らずであったとはいえまい。
それに、叔父をめぐるさまざまな暗い出来事が、あれの目に、一種の憂いを与えていると、趙雲は思っている。
「しかし、将軍、それでも、飢えたこともなく、戦乱の恐怖のただ中にいたこともない。矢面に立ち、死を覚悟したこともない、しかもあれだけお若い方が、主公に負けない威圧感を出す。不思議ではありませぬか。これは、生まれ持ってのもの、としか言いようがございませぬ」
「生まれつき、で片づけるなよ。実は、知らないところで苦労しているのかもしれねぇじゃねぇか」
と、珍しく張飛が、孔明を擁護するようなことを言った。そして、趙雲に、なあ、と同意を求める。
張飛は、おそらく、孔明が勉強家であること、くわえてたいへんな努力家であることを言いたいのだろう。
しかし、陳到が言うことも、的外れではない。
いくら書物と向き合って努力したところで、経験には叶わない。
この城のなかでも、世間を知らない部類に入るであろう孔明が、艱難辛苦をほとんど嘗め尽くした劉備と、ほぼ同等の迫力を持っている、というのも、不思議な話なのである。
「あれは、一で十を知る類いの人間なのだ」
趙雲がぼそりと言うのを、張飛も陳到も聞こえなかったらしく、その後も、孔明について、ほかの将兵たちも巻き込んで、あれやこれやと話を咲かせた。
結局、『軍師は不思議』という、あやふやなところに落ち着いたらしい。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/14)

画眉の背景 1

2020年05月04日 09時58分54秒 | 画眉の背景
長坂、赤壁とつづいた激戦が、荊州三郡を手に入れてから、落ち着いて、まるで嘘のように平和であった。
にもかかわらず、趙雲は目覚めが悪く、今日は嫌な予感がするなと、思ったものである。
劉備に、「いい年して、兵舎で寝泊りもなかろう」と与えられた街中にある屋敷には、やはりほとんど帰らず、兵舎の一室をまるまる借り切って、そこで寝泊りしているのであるが、使い慣れた寝台から起きる段になり、足がもつれたようになって、転げ落ちた。
以前にも同じことになった日が一度だけあり、それが、孔明の主騎に任じられた日であった。
ゆえに、今日は悪いことが起こるに決まっている。

とはいえ、不機嫌さを隠さずにいるのは大人気ないし、将として上に立つものの態度ではなかろう。
さすがにいつも笑顔を絶やさぬ劉備のようには振る舞えないが、せめて常に、顔色を変えぬ男でいたいものである。
趙雲はそう思いつつ、兵卒たちの挨拶に答えながら、ともに食事をとるべく食堂へ行こうとすると、なにやら、向こう側からどすどすと、足音も荒っぽくやってくる者がある。
なにかと思えば、ズタ袋を地面に引きずった魏延であった。
この魏延、字は文長は、ここ最近、劉備に目を掛けられ、部隊長となった男である。
年は趙雲より三つほど年下である。
趙雲は実際の年齢より若く見られる容姿ならば、魏延は、実際の年齢より年かさに見られる、気むずかしそうな、いかめしい顔をした男だ。
やる事為すこと荒っぽく、怖いもの知らずなのか、世間知らずなのか、口に遠慮がなさ過ぎるため、腕は立つし、兵卒のあつかいも上手いのに、いつもだれかと諍いを起こしていた。
だからというわけでもなかろうが、魏延はおのれの周囲を、お気に入りの兵卒でいつも固めている。
魏延はえこひいきが多い、それに軍師をあまりよく思っていないようだ、という話も聞こえてきたので、趙雲は付き合うのに距離を置いていた。
「おう、趙子龍殿、良い朝でございますな」
良い朝だということが気に食わない、とでも言わんばかりの剣幕で、魏延は言った。
そして、その手を見れば、ズタ袋だと思ったそれは、ズタ袋のように粗末に扱われ、殴られ蹴られを繰り返された、無残な若者の姿であった。
「その者は?」
「おう、生意気にも、脱走したやつなのです。それも何をトチ狂ったか、洛陽へ行きたいなどと言っている」
脱走、と聞いて、趙雲は、半ば意識を失い、呻いている兵卒を見下ろした。
見れば、まだ若い。十七くらいであろうか。とはいえ、脱走は重罪だ。戦中ならば、理由の如何を問わず即処刑であるが、いまはわずかに軽い。とはいえ、労役は免れまい。
しかし、この扱いは酷すぎよう。
趙雲は魏延に尋ねた。
「で、どこへ行く?」
「決まっております。調練場にて、こいつを吊るしてやるのですよ」
「吊るすだと。裁きにもかけず、おまえが私刑にかける、というのか。それは許されぬ。荊州三郡における賞罰はすべて軍師が行っている。軍師に引き渡せ」
軍師、と聞くや、武骨な魏延のいかつい顔が、ぴくりと震えた。
「脱走は脱走でございましょう。なぜにあの御仁に」
「規則は規則だからだ。おまえが嫌だというのであれば、俺が軍師のところへ、そいつを連れて行く。おい、名は?」
魏延が足を止めた際に、若者も意識を取り戻したようである。呻く若者に尋ねると、
「毛、字は…」
「毛、字は叔英です」
と若者の声にかぶせるように、魏延が大きく言う。
そして、やはりこれは、それがしが軍師の下へ、と足を進めるので、なにやら予感に突き動かされた趙雲は、引きずられ、あちこちぼろぼろの泥だらけな若者に、あらためて聞いた。
「そなたの名は?」
「毛、字は伯義」
「なに、伯義とな。長子か」
字に「伯」の字がつくのは長子の証しである。著名なところでは、「史記」に登場する「伯夷・叔斉」の兄弟であろうか。
江東の小覇王と呼ばれた風雲児、孫策も、孫堅の長子であったから、字も伯のつく伯符である。
「文長、此度の徴兵は長子以外の男子、ということではなかったか。おまえ、ちゃんと徴兵のときに調べたのか」
「調べましたとも。こいつが嘘をいっているのでしょう」
魏延はしれっというのであるが、どうも怪しい。
そういえば、こいつの部隊は、ほかのどこよりも早く徴兵を終えて、劉備に誉められ、得意になっていたが、もしや、裏工作をして、無理に兵卒を集めたのではなかろうな、と趙雲は思った。
魏延は、劉備が大好きな男だ。
まるで熱烈な恋に落ちているようですらある。
劉備に気に入られるためには、なんでも過激にしてしまう、悪いところがあるのだ。
「魏延、やはりその男は俺に任せろ」
「将軍、この男が嘘をついているのでございます」
「そうなのか? あらためて問う。おまえの字はなんだ」
ふたたび問うと、毛は、よわよわしい声音で、答えた。
「毛、字は伯義。長子でございます」
「なにを、こいつ。俺を愚弄するつもりか」
魏延がいきり立って蹴ろうとするのを、趙雲は抑える。
すると、首根っこをつかまれたまま、泥だらけの兵卒は、うっすらと目を開けて言う。
「洛陽に連れて行ってやると言われて、こちらへ参りました。まさか兵役に付くことになろうとは…ここにいては、いつ洛陽に行けるかわかりませぬ」
「徴兵の役人に騙された、ということか」
といいつつ、ちらりと魏延を見ると、趙雲の言葉に、すこしホッとしたような顔色を見せる。
やはり、こやつは怪しい。
趙雲の視線を振り払うように、魏延はさらに強面を激昂させ、兵卒に怒鳴った。
「いつ洛陽にいけるかわからぬ、とは不埒な! 我が君のお力があれば、間もなく洛陽ぞ!」
「それはどうかな」
「趙将軍! 将軍職にあるお方が、なんと弱気な!」
こいつ、本気か、それともお芝居か?
「端的に事実を述べたまでだ。いずれは洛陽を目指しはするが、現状ではまだ難しかろう。特に、まともに徴兵すらできぬ将兵がいるような状態ではな」
魏延はうろたえつつも、強気なところを見せて、言った。
「それがしが、役人どもに騙されたのです!」
「どちらが騙されたのかは、あとで取り調べるとして、そうなると事情が変わってくるのではないかな。こいつは長子で、本来ならば兵役につくべき男ではない。しかも騙されたというのであれば、尚更だ。だが、行き先が敵地、というのが気にかかる。おまえ、毛伯義とやら、なにゆえ、洛陽を目指す?」
趙雲が尋ねると、毛は、呻きつつも答えた。
「画師に…わたしは画師になりたいのです。洛陽には著名な画人がおりまする。ぜひ弟子入りしたいと…父にも承諾をいただき、路銀まで用意していただいたのに、なぜかこんなところに」
「こんなところ、とはなんだ!」
魏延が吼えるのを手で押さえ、趙雲は毛を助け起こしてやり、考えた。
「文長、やはり、こいつは、処刑はできまい」
「なんですと」
「軍師に裁定を仰がねばならぬが、おそらく脱走の罪には問えまいよ。まあ、みなを騒がせたというので、軽い労役くらいにはなるだろうが」

「うん、そいつはいいな」

突然の声にぎょっとして、振り向けば、そこに劉備と関羽が立っていた。
いつからそこにいたのか、趙雲はわからず、魏延に集中していた。
あわてて礼を取ると、劉備は、いいから、いいから、と言いながら、なんとか起き上がり、劉備に礼を取ろうとしている若者の前に立つ。
朝陽をさんさんと浴びて、いつにも増して機嫌のよい劉備の笑顔に、緊張していた毛の顔も、ほっとゆるんだ。
「毛伯義とか言ったな。故郷を出て、親父さんに頭を下げ、遠い洛陽にいる名人に弟子入りして、画師になりたいというのなら、それなりの才能があるってことだろう。自信はあるかい」
「恐れながら、ございます」
と、正座しているぼろぼろの毛伯義は、あざだらけの顔で、まっすぐ劉備を見据えて言った。
息子に書画を習わせるくらいの家であるから、良い育ちをしたのであろう。
毛の顔立ちにも品があり、清潔な、好ましい印象を抱かせるものであった。
「いい目をしているな。よし、それじゃあ、おまえさんの心意気に免じて、わしがどんな労役をするか決めてやろう。おまえさんは、あれを書くのだ」
と、劉備がぴっ、と指差した先を、趙雲、魏延、関羽が見る。
その先には、なにやら楼閣の上で、馬良らとあれやこれやと話をしている、早朝から目も覚めるばかりに典雅で、上質の衣を身に纏った孔明の、長身痩躯の姿があった。
「兄者、それはむずかしい」
「主公、それは無理かと」
関羽と趙雲が、劉備の取り決めを否定したのは、ほぼ同時であった。
劉備は気を削がれたようで、なんでだ、という目を向けてくる。
「なぜだ。おまえたちは見たくないのか、孔明を描いた絵」
「見たいとは思うが、絵にする、となると、ちと難しいのでは」
と関羽が呆れたように、自慢の髯を手で梳きながらいう。
劉備は、というと、すっかり毛と友だちのようになって、ちょこんと正座したその肩に手を回し、そんなこたぁねぇよな、と念押しをして、こくりと頷かせている。
しかし関羽は重々しく言った。
「軍師は絵にするには不向きぞ。わしが思うに、軍師のよきところは、単に秀麗な外貌にあるのではない。あのころころと変幻自在に変わる、表情にあるのではと。となれば、ひとつの面しか描ききれない絵では、軍師を描ききることは、むずかしいのでは」
「でもよ、表情にもいろいろあるが、その人だからこその表情、ってのもあるわけだろう。孔明だかこその表情、ってやつを見つけて、絵にするのだ。ちょいと大変だが、為せばなる。もしちゃんと描けたら、親父さんの用意してくれた路銀ってのは、俺が代わって、また用立ててやろう」
関羽の言葉を頭のなかで反芻し、それから、馬良と一緒になって、絵図を広げて熱心に相談している、遠目にも、世にも稀な美貌の主とわかる孔明の姿を見て、毛は不安そうに劉備に問うた。
「もし描けなかったらどうなりましょう?」
「そんときぁ、魏延のいうとおりだな」
もちろん悪い冗談なのだが、毛はすっかり震え上がり、絶対に描きます、完璧に描きます、と何度も頷いた。
その傍らで、関羽が、嘆かわしい、というふうに首を振る。
「兄者も人が悪い。もしわしが画師であったなら、軍師を描け、といわれても断るぞ」
「なんでだ。いい題材じゃねぇか。わしは、あれほど綺麗な男はほかにない、と思っているがな」
「たしかに綺麗は綺麗だが、綺麗な男、というと、なにか違わないか」
と、関羽が目を向けると、視線に敏感な孔明は、地上の者たちが、自分を見ていることに気づき、典雅に礼を返してきた。
関羽は、それを律儀に返しつつ、劉備に言う。
「うまく口にはできぬが、あれは、『綺麗な人』だ。男とか、女とかで、あえて区切りたくない雰囲気。その曖昧なところに、軍師の美の特長があるように思える」
「ふん、なるほど、言いたいことはわかるぜ。たしかに色も白いし髪も真っ黒、顔立ちも整っているが、綺麗な顔ってだけなら、結構、そこいらにあるからな。あれの持つ、迫力ってのは『美人』だから、というわけではなさそうだ。なんだと思う?」
趙雲は水を向けられたのは判っていたが、あえて黙っていると、魏延が代わりに口を開いた。
「女のような顔をしているのに、並みの男より背が高い、その不均衡なところが、人の目を引くのではないでしょうか。僭越ながら、それがしは、そのように思うのですが」
「それじゃ、女が男の格好をして、ああいうふうに振る舞ったら、おまえは言うことを聞くかい」
「主公が聞け、とおっしゃるならば」
「おまえの中の女ってのは、ずいぶんちっぽけな存在のようだな、よくないぜ、文長。それはともかくとして、孔明の顔は、女のような顔かな。たしかに睫毛は長いし、唇も、朱を塗ったように赤いけれど、女みたいだなと思ったことはないぜ。なあ、子龍」
いよいよお鉢が回ってきたので、趙雲としては、口を開かざるを得なくなった。
「女に、ああいう顔の者は、そうそうおりますまい」
それは正直な感想であった。だが、魏延の言葉を否定することにもなったので、おもしろくない魏延が軽く睨みつけてくる。趙雲は、あえて無視をせず、その視線を受け止めた。
「こらこら、変なところで張り合うな。ま、あんまり言いたくないっていう、おまえの気持ちもわかるけどな。孔明を絵に。ちょいとした思い付きだったが、やっぱり面白いぜ、これは。なあ、難しいからこそ、やりがいがあるってものだろう」
がんばれよ、と肩を叩かれた毛は、だんだん蒼ざめてきて、はあ、と曖昧に返事をする。
横で、関羽が、ぼそりと、
「兄者は鬼だ」
と言った。
そして、毛の世話は、趙雲が特別にすることとなった。
孔明を描くのだから、孔明の主騎である趙雲と一緒にいたほうが、面倒がなくていいだろう、という劉備の言葉があったからである。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/14)

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