はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

青嵐に笑う 最終回

2022年02月06日 13時58分41秒 | 青嵐に笑う


翌朝、孔明は心地よく、パッチリと目を覚ますことができた。
それこそ夢もみずに、深く眠っていた。
体を動かしたことが良かったのだろう。
そうして、軽く体を伸ばし、あたりを見まわす。
すでにあたりには木の香りのみが漂い、退魔香の、得体のしれない香りはどこかへ消えていた。
孔明は自分が虫に食われていないかを確かめた。
だが、退魔香は、大げさな売り言葉を裏切らず、見事な効能をみせていた。
どこも虫に食われていない。

これはわたしの勝ちだと意気込みつつ、趙雲のほうを見ると、なにやらむずかしそうな顔をして、じっと手元を見ている。
「どうした。虫に食われていないだろう。賭けはわたしの勝ちだ」
「たしかに虫は寄ってこなかったが」
言いつつ、趙雲は、手元にあったものを、孔明に差し出して見せる。
ぎょっとすることに、ちょうど腕の長さほどもある、死んだ大蛇であった。
「ゆうべ、体を這う音で目が覚めた。おまえのところにも何匹も来ていたようだが、ぐっすり眠っていたようで、声を掛けてもぜんぜん起きなかったな」
「……何匹も?」

覗き込めば、趙雲の寝床のまわりには、退治した蛇が、ちょうど四匹ほど、きれいに並べられていた。
どれも毒のない種類の蛇ではあったが、その気味の悪い姿に、孔明はぞっとする。
「蛇は、虫に含まれるのか?」
「噛まれていないからな……『虫に三箇所以上食われたら』という条件だったから、おまえの勝ちでいい。しかし暗闇のなかでの蛇との戦い。疲れたぞ」
「すまぬ。こんどは、この香と、『どんな毒蛇もイチコロ』というのが売りの『退蛇香』も持ってこよう」
「あのな、すこしは懲りてくれ」

趙雲は、蛇は骨が多いが食べられる、と言い出したが、孔明はさすがに辞退し、朝は、趙雲がもってきた餅を焼いて食べた。
そうして出発することになったのだが、頂上のほうを見上げると、趙雲は言った。
「そうだな、昼前にはつくだろう」
頂上になにがあるのだろうと、期待しつつ、孔明はふたたび山をのぼり始めた。




昨日とつづいての快晴。
初夏の山風は適度につめたく、孔明の肌にここちよい刺激をあたえた。
頂上をひたすら目指し、山道をあるく。
朝まで昨日と変わらぬ様子であった趙雲が、頂上が近づくにつれ、また、口数がすくなくなってきた。
はて?
「どうした、疲れたのか」
昨日は退魔香に引き寄せられたのか、あらわれた四匹もの蛇と格闘し、ほとんど眠っていないという。
そのために疲れがでたのだろうかと心配した孔明であるが、趙雲は、あいまいな返事をかえしてきた。
「いや、そういうわけじゃないのだが」
「だが?」
「俺は間抜けかもしれぬ」
突然の反省の弁に、孔明としてはわけがわからず、首をひねる。
「なんだ、急に」
「いや、こいつらが」
趙雲は、山道の両脇に生い茂る、みずみずしい生命力をみせる木々のうちの葉の一枚を、まるでだれかの手を握るかのようにして掴むと、ゆさゆさと揺すった。
「木がどうした」
「この季節は、数日で木々が一気に生長することを忘れていた。そういえば、十日ほど前に、雨がつづいた日があったな。ああいう日のあとの、草木の生長というのはいちじるしい」
「そうだな」
「軍師、いまから謝っておく。かなりつまらぬかもしれぬ」
「なんだかわからぬが、期待するなというのだな」

山道には人の気配こそなかったが、頻繁に往来はあるものらしく、しっかりとした道になっていた。
趙雲は途中から本道をそれ、せまくて細い、道なき道を登り始める。
ええい、やはり、もっと軽装をしてくるのだった。
孔明は後悔しつつ、裾を気にしながら孔明が苦心して山道をのぼる。
すると、先に軽々と、それこそカモシカのように岩石の連なりをのぼっていた趙雲が、手を差し伸べてきた。

手を差し伸べられ、一瞬、孔明はためらった。
べつにほんものの龍をきどって、逆鱗がある、というわけではない。
叔父の玄を、樊城で、刺客の手によって奪われて以来、人というものに触れられることに恐怖をおぼえるようになっていたのだ。
感触が気持ちわるいから触れられない、などという程度ではない。
本能が、人の温かさをおそれ、反射的に避ける。
命という物をつつんでいる人の肉体のもろさ、そういったものを恐れているのか。
それとも、目のまえの者が、こちらの敵になることを無意識のうちに恐れているのか。
あるいは別の理由か。
孔明は自分の心を何年もかかって懸命にさぐっているのだが、いまもって、答えは出ていない。

十六からはじまった、この奇癖は、十年以上かかって、ようやく改善されつつある。
自分が覚悟をきめさえすれば、人に身を寄せられることを我慢できるまでにはなった。
が、それ以上は無理である。
唐突に、人に身を寄せられれば、おどろいて身を引いてしまう。
どころか、本能に克てずに、これを激しく突き放してしまう場合もある。

目の前の手を、なかなか取らない孔明に、趙雲は、すこし怪訝そうにする。
大きな手だな、と孔明は思う。
武器を持つ者の手だ。
叔父を殺した男も武器を持っていた。
けれど、大丈夫だ、この男は、わたしを傷つけたりはしない。
孔明は差し伸べられた手をとり、岩石をのりこえた。

趙雲は、そのあともしばらく、大きな岩石をのりこえては、振り返り、手を差し伸べてくる、ということをくりかえした。
そのたびに孔明はその手を受け取ったが、くりかえしているあいだに、手を取ることは作業となり、頭の中からむずかしい悩みは消えた。

そうして、最後の岩石の連なりをのぼりきると、やがて頂上にたどりついた。
先に頂上にたどりついた趙雲は、頂上からの眺めをみるなり、ああ、と落胆の声をあげた。
本来であれば、孔明を振りかえり、どうだ、と自慢してみたかったのであろう。
だが、眼下に広がる光景は、生い茂る木々のこんもりとした連なりがあるだけの、ごくごく平凡な山の風景であった。
頂上へ来たという爽快感はあるが、生い茂る草木ばかりが映る風景には、とりたてて目だって、素晴らしいと思える物はない。

「やはりな」
趙雲のがっかりした声が横から聞こえてきた。
「もうすこし早い時期であったら、木々もこんなに茂っていなくて、ちょうどここから、まっすぐに見えるものがあったのだ」
「なにが」
「新野の一帯がだ」
「ああ」
方向からして、山頂からまっすぐ見下ろすと、新野城と、その周囲の町が見えたのだろう。
「おまえが来てしばらくだったかな。前から、自分がいま、どこにいて、なにをすべきか、知りたいと思うときにここにやってきていた。ここへくると、不思議と気持ちがおちいた。おまえも、このところ疲れた様子だったから、すこしは気がまぎれるかと思ったのだ。
麋子仲どのも、おまえをとても心配していた。今日、おまえをここに連れてきたのも、あの方が、気分転換をさせてやってやったほうがいいと言ったからだ。あとで礼を言っておいてくれ」

ああ、そうだったのか。
孔明はようやく、趙雲が自分だけをここに連れ出した理由を理解した。
「たしかに、いまはなにも見えないけれど、気持ちがいいよ」
頂上を走り抜ける風を全身でうけながら、孔明は心からそう言った。
「これほど爽快な気分になったのはひさしぶりだ。とてもいい気分転換になったよ、ありがとう子龍」
孔明が言うと、趙雲は、あきらかに照れたらしく、顔を背けた。
「おまえのその直言、なおす予定はないのか」
「あいにくと、ない。どうしても我慢できない、ということであればなおすけれど、そこまで嫌か?」
孔明が問うと、趙雲は逸らしていた目線を孔明のほうに直した。

その目を見たとき、孔明はすくなからずおどろいた。
なつかしい表情を、そこに思い出したのだ。
叔父や父たち。
なつかしい、自分をかついていつくしんでくれたひとびとの顔に浮かんでいた表情を。
もちろん、趙雲の顔立ちは、思い出の中の顔のだれにも似ていない。
けれど、趙雲の顔に浮かぶ表情は、叔父や父たちが向けてくれた表情と、おなじ種類のものだった。
かぎりなく優しく、あたたかいもの。
そうか、だから手を触れるのも、恐ろしく感じなかったのか。

「ありがとう」
言いながら、孔明が手を差し伸べると、趙雲のほうが驚いた顔をした。
だが、趙雲が先ほど孔明にしたように、孔明が忍耐づよく待っていると、趙雲はためらいながらも、手をつかんできた。
あらためて触れた手は、思った以上に大きく、ごつごつとして、温かく感じられた。
父や叔父、そして襄陽で親しんだ仲間たちともちがう、大切な友をわたしはいま、手に入れた。
この友とともに、わたしも、もっと強くならなければ。

そうだ、だれになんと言われようとかまわない。
わたしは、たとえこの身にどんな風を受けようと、こうして泰然と立っていなくてはいけなかったのだ。
『軍師』になったのだ。
人の頭(かしら)になったのだから。
もっと精進しよう。
部屋に閉じこもっているだけでは駄目だ。
もっと外へ。
世界を知らなければ。
趙子龍。
わが君が命じたとおり、この男とともに、手を携えて、いけるところまで行ってみよう。

「ありがとう、子龍」
重ねて言うと、趙雲も、はにかみながらも、うなずいた。

頂上を吹き渡る青い風が、雲ひとつ無い空の上を駈け巡っていく。
こんな清清しい心のまま、いつまでも、どこまでも行ことができたなら。
いいや、どこまでも行ってみせよう。
この出会いで得たもの、そしてこの場所に立って思ったことは、生涯忘れないようにしよう。
これを口にしたなら、趙雲は、またも怒り出してしまうだろうなと、孔明は思ったので、沈黙を守る。
そして、ただ感謝の意味をこめて、太陽のように明るい笑顔を見せるにとどめておいた。

おわり

(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)

あとがき

〇 こんなに長い話だったけ、と思い出しながら推敲した。
〇 会話文はちょとマシだったが、地の文のおかしさは相変わらず。
〇 馬を山中に連れて行くなど、いろいろおかしな点もあったので、直したり削ったりした。
〇 「~が」でつなぐ文章が多すぎて、苦労した。ほぐして、書き改めた。
〇 誤字脱字も相変わらず多かった。
〇 推敲前の、劉備の趙雲への気持ちがすれ違っている、という部分は、今回大幅に直した。
やっぱり、劉備は趙雲や孔明をとても可愛がっていたし、趙雲と孔明も、劉備という大事な存在に導かれて、成長していく、という物語のほうが、自然な感じになる。
〇 蛇のくだりは、むかしの自分も乗って書いたものらしく、その前後は直さなくてよかった。
〇 冒頭の、関羽に認められるシーンと、麋竺が孔明を心配しているシーンは、今回付け足したもの。
孔明が曹操を見に行ったというエピソードも、追加した。三国志演義だと麦畑のシーンが有名だけれども、孔明の曹操への気持ちは、とても本人を前にして泰然としていられるようなものではなかったのでは、と想像したので、このかたち。
〇 原本のタイトルは「山びこの峠」だったが、どこが「山びこ」でどこが「峠」なのか、さっぱりわからない内容。なんでこんなタイトルにしていたのか、いまもって思い出せない。おそらく、適当につけたのだと思う。
話を思いついたのが先だったか、タイトルが先だったかも思い出せない。
今回、「青嵐に誓う」にタイトルを変更した。なんだか大河ドラマのタイトルっぽいけれど、まあいいか。
〇 「青嵐」とは、夏の季語で、初夏の、青葉を揺らして吹く強い風をあらわす。
〇 構成としては、まだまだ稚拙な部分が目立つ。またいつか直すことになるかもしれないが、2009年の推敲分よりは、だいぶ読みやすくできたと思う。


ご読了ありがとうございました!(^^)!

青嵐に笑う その9

2022年02月05日 12時54分26秒 | 青嵐に笑う


山の中腹に差し掛かったところで日が暮れはじめてきたので、野宿することにした。
一張羅が汚れてしまうことを恐れた孔明は、趙雲が、『夕食』をとりにいっているあいだに、広げた粗布のうえに、着ていたものをひろげて丁寧に畳む。
そして、こんなこともあろうかと予備で持ってきた、多少汚れてもかまわない、年季のはいったものに着替えた。
さらに虫が寄ってこないように、南蛮の商人から買った、とっておきの野営用虫除け香を焚いてみる。
きくのか、きかないのか、そのあたりは初挑戦なので、孔明にもわからない。
じき、趙雲が野鳥を何羽か取ってきて、食事の準備がはじまった。

「妙な臭いの香だな。ほんとうに虫が寄ってこないのか?」
いかにも疑わしそうに、趙雲がたずねてくる。
孔明としては、おもしろくない。
が、大丈夫だともいいきれないので、
「おそらく平気だ」
と胸を張ってみた。

「おまえ、ときどき変なところで意地を張るな。じゃあ、賭けをするか。明日の朝までに、俺が虫に三箇所以上食われていなかったら、おまえの勝ち。三箇所以上食われていたら、俺の勝ち」
「よかろう。賭けの賞品はなんだ」
「そうだな、武器の手入れをするための獣の皮が最近足りないから、それを三枚」
「ちょっと待て。それは、あなたには必要かもしれないが、わたしは獣の皮を三枚もらっても使いどころがない。というか、うれしくない」
「どちらにしろ、俺が勝つ賭けだから問題なかろう。どこで買ったのだ、こんな変なにおいの香」
「あのな、人の物に対して『こんな変なもの』扱いはひどかろう。南蛮から来た商人が売っていた『妖怪も逃げ出す』というのが売りの『退魔香』だ」
「名前からして怪しい。俺の勝ちだ」
「ふん、明日の朝が楽しみだな。獣の皮は、わたしがもらう。使い道はあとで考える」
「俺は、たぬきを三枚たのむ」
「鼠じゃだめか」
「たぬきだ」

そんな会話をしながら、すっかり暗くなった山の中、火を起こし、野鳥を串刺しにして焼いてみる。
鳥の肉の焼ける香ばしいにおいと、孔明の焚いた虫除けの香の臭いが微妙にまざりあい、山中では、なんともいえない緊迫感がただよった。
「野宿にするんじゃなかったな」
そんなことをぶちぶちと言いつつ、趙雲は、自分がもってきた包みを取り出す。
すると、中から、竹の皮につつまれた大きな握り飯が出てきた。
「いそいで握ってきたものだから、形はわるいが、味はわるくないはずだ。ほら」
趙雲は、孔明に握り飯を差し出してきた。
「ありがとう。いまの口ぶりだと、時間があれば、うまく握れるとでも言いたげだったな」
すると、趙雲は目を細めて言った。
「俺はおまえとちがって、椅子にすわっていれば自然と膳が出てくるような生活は、あまり送って来なかったのでね。たいがいのことは、ぜんぶ自分でできる」
「わたしとて、握り飯くらいならば、握れるとも。炊いた飯を拳でぎゅっと」
「駄目だ。握り飯のうまさは、力加減にある。『拳でぎゅっと』などと言っている時点で、その不味さは確定したな」
「それは食べてみなければわからぬ。新野に戻ったら、握ってくれよう」
「期待しないで待っているさ」

とげとげしい空気の中、孔明はどれどれと握り飯をひとくち、口にした。
さすがに薀蓄を語るほど、握り方を研究しているらしく、その握り飯はうまかった。
なんだかんだと、あっというまに、一粒ものこさずぺろりと握り飯をたいらげると、趙雲は得意そうにこちらを見ている。
なにやら癪であったが、ここは素直になるべきであろう。
「うまかった」
孔明がいうと、趙雲は、満足そうに声をたてて笑った。
からかうようなことは、言ってこなかった。




それからしばし歓談したあと、香のにおいを気にしつつ(悪夢を見そうだと趙雲は言った)、二人は眠りについた。
香は、なんだかんだと効力を発揮しているらしく、いつもならば人を悩ます虫が、たしかにまったく寄ってこない。
『獣の皮か。なにに使うかな』
明日の朝を楽しみにしながら、孔明は目を閉じたが、ふと、気づいた。
こんなに楽しい一日を終えるのは、ほんとうに久しぶりであった。
新野では、いつもなにかを気にしていた。
戻ったら、また同じになるだろうか。
『ならないだろう』
確信が、孔明にはあった。
ひとりではないという心強さが、孔明の足元を固めつつあった。

つづく

(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)

青嵐に笑う その8

2022年02月04日 16時46分35秒 | 青嵐に笑う


しばらく、二人して、沈黙のまま、山をのぼった。
先行する趙雲の顔は、徐々に木陰によって、見えづらくなっており、何を考えているのかは、想像するしかない。
しばらくして、趙雲のほうが口をひらいた。
「さっき、おまえがした質問だが」
さて、どの質問だろうと孔明が思い返しているあいだ、趙雲はつづける。
「俺が生まれたときから、すでに世は乱れていた。乱れているのがあたりまえの状態だった。武装して戦い、敵を討たねば、こちらが死ぬ。それはあたりまえのことだろう。だから、それをなぜとか、どうするべきかとか、考えたことはなかったな」
趙雲はそういうと、ため息をついた。
「つまり俺は、世の中を見ているようで、見ていなかったということになるのかな」
「それは、ちがうのではないかな。そんなふうに言えるということは、自分で気付いていなかっただけで、あなたは世の中をちゃんと見ていたのだよ。だから、新野でも、だれとでもそつなく付き合えるし、浮き上がることもなかったのだ。わたしには、そんなふうに振る舞えない」
「意見をいわずに、つまらない男としてすごしていたほうが、面倒に巻き込まれなくてすむ。だからそうしていただけだ」
「面倒に巻き込まれたことがあるのか」
「昔な。わが君から聞いたことがあるだろうが、俺は昔、公孫瓚のところにいた。あそこで踏んだのと同じ轍を踏むのがこわかった」
「たいへんな目に遭ったのだな」
孔明が想像して言うと、趙雲は、ちいさく、そうだな、と言ったきり、押し黙ってしまった。
公孫瓚のもとにいたころの話は、あまりしたくないらしい。
そこで、孔明は、あえて不用意なことは口にせず、黙っていた。

やがて、趙雲のほうが、また、たずねてきた。
「退屈していないか。俺は口下手だから、おまえのようにうまく話ができない」
「退屈なんてしていないよ。ぜんぜんしていない」
それは本音のであった。
当初は気乗りでなかったこの小さな旅であるが、趙雲と会話を重ねていくうちに、楽しくなってきたのである。
普段は無口な主騎が、こういうことを考えていたのかと、新しく発見することができて、面白いのだ。
「あなたは口下手じゃないよ。論客として徹底して訓練を受けたわたしが言うのだからまちがいない。自信をもってよい」
「そうかな」
趙雲にしては、らしくない、ぐずぐずした口調である。
孔明はぴんときた。
「ふむ、だれか、あなたのことを口下手と言った者がいるのだな。女だろう」
「……………」
図星であったらしい。

この男が、いわゆる『甘い囁き』とやらで、調子よく女を口説いているところを、孔明はどうしても想像できなかった。
とことん、生真面目なのである。
本当に真面目にその気持ちに向き合わなければ、対する趙雲も本気にはならない。
まさに真剣勝負。
それでは商売女は疲れてしまうだろうし、ふつうの女でもそうだろう。
よほどの教養をもち、おのれの生き方に哲学をもった女でなければ、趙雲を正面から受け止めるのはむずかしかろう。
でなければ、その真逆、底抜けに陽気で享楽的。
しかしそうなると、真面目な趙雲とは、あまり長続きしそうにないな、とも予測できる。
ふむ、そのうち、よい女人がいたら、世話をしてやろうかな、と孔明は考えた。
しかし、そのまえに自分が再婚しろと言われそうだな、とも思い付き、すぐにあきらめた。

追いかけるかたちとなっている趙雲の背中が、見るからにしおれてきた。
いかん、今度こそ、いかん。
女と公孫瓚は、趙雲にとって、触れてはいけない部分だったのだ。
失言だった。
孔明は穴埋めをすべく、つとめてほがらかに、言った。
「あなたが口下手だというのなら、わたしは社交下手なのだが、やはり人とこうして交流する、ということは大切なことなのだな」
お追従ではなく、実感して思うことであった。
こうして実際に話をしてみなければ、趙雲が果たして何を考え、こちらをどう受け止めているのか、ここまでつかむことはできなかっただろう。
「いろいろ考えていたら、憂さも晴れたよ、ありがとう」
連れ出してくれた趙雲への、感謝の意味もこめて孔明がいうと、趙雲のほうは、なぜだか怖い顔を向けてくる。
孔明はうろたえた。
「なぜ怒る」
「直言にすぎる。そういうことを言われるのは嫌だ」
今度は、孔明が顔をしかめる番であった。
「でも、わたしは言いたいのだ」
「なぜ。あんたは士大夫にしては、直言が多いな」
「士大夫だろうとなんだろうと、そんなものに構っていられるか。子龍、もしかしたら、突然、虎が襲ってくるかもしれない」
「なんだって」
「想像したまえ。それはとんでもなく凶悪で巨大な虎で、あなたの武力を持っても、制することができない。足場も悪いしな。そう、そいつはもしかしたら、この山の神から使わされた虎なのかもしれぬ」
「はあ」
「奮闘努力の甲斐もなく、あなたは虎に倒され、わたしだけが生き残る」
「おい」
「そうして残されたわたしは、泣きながら、こう思うだろう。
『ああ、こんなことになるのであったら、さっき、あなたに、山に連れ出してくれてありがとうと言うべきだった』とな」
「それで?」
「だからだ」
「ときどき、あんたと話をしていると、眩暈を感じるのは気のせいか?」
「食べている物に問題があるかもしれないな。医食同源。好き嫌いはいかん」
「俺はなんでも食うほうだが……虎はこのあたりにいない。もっと奥のほうにはいるらしいが、そこには入る予定はない。虎に会いたければ、ひとりでいけ。さすがにそこまで面倒はみないぞ」
「だから、喩えだ、喩え。わかりにくかったか。じゃあ、熊にしよう。さらに想像したまえ。それは、そうさな、小山ほどある巨大で凶悪な熊で……」
「どうぶつを変えても同じだ! わかった。つまり、言いたいときに言わないと、あとで後悔するから、だから言うのだと、あんたは言いたいのだな」
「伝わっているじゃないか」
「伝わってはいるが、直言をやめてくれと、俺は言いたかったのだ」
「どうぶつが気に入らないなら、『刺客』に言葉を変えてもいいぞ。途端に、ああ、たしかにそうかもな、と思えてくるぞ。さあ、想像してみよ」
「強制するな」
といいつつも、趙雲はしばしの沈黙のあと、答えた。
「そうだな、あんたの言うことも、一理あるかもしれん」
「そうだろう。というわけで、ずいぶん長い話になったが、ありがとう」
「あのな、まだ頂上についていないうちから、礼を言われても困る」
「頂上になにかあるのか? めずらしい岩とか?」
それは明日になればわかる、と言って、趙雲は意味ありげに笑うと、そのまま黙った。

つづく

(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)

青嵐に笑う その7

2022年02月03日 13時08分40秒 | 青嵐に笑う


内気、か。
孔明はあらためて趙雲を観察する。
たしかに、気の優しい男だ。
それがにじみ出ているためか、城の内外の女子供に人気がある。
趙雲の部隊の将兵は、とくに真面目で威張らず、規律正しいというので、余計に人気があるのだ。

ただ、趙雲本人は、人と対するとき、たしかに聞き手に回ることが多いようである。
よい聞き手は有能なものが多いというのは孔明の持論だが、その役目に徹しすぎてもいけない。
相手の都合のいいように振り回されてしまう危険があるからだ。

趙雲は、そのあたりの均衡が、いまのところ、いいとは言えないように感じられた。
なるほど、だからこそわが君は、わたしを通して、子龍に世間を知らせたいと思っておられるのか、とあらためて孔明は納得する。
親心というものであろう。
それほどに、劉備の寵愛を受けている趙雲を、孔明はすこしうらやましく思った。

しばらくして、趙雲が言った。
「襄陽のほうに足を伸ばしたほうが良かったかな。しかし、あちらだと、おまえも俺も知り合いが多いので、かえって落ち着かないだろうと思ったのだ。疲れたのなら、いまから山を下りて、俺の知り合いに宿を借りるか」
すでに日は橙色をふくみ、西に向かい落ち始めている。
「いや、これはこれで、いい気分転換になっているよ。木の香りというのは好きだ。心が洗われる」
「だったらいが、あまり気晴らしにならなかったのなら、悪かったなと思ったが」
「気遣いは無用だよ。あなたが連れて行ってくれるのが襄陽であったら、わたしは同行しなかっただろうさ。いまだに、わたしが劉州牧を選ばず、わが君に軍師として仕えたことについて、わあわあと言っている連中がいるからな。ここは人がいなくていい」
「うるさいのは、どこにでもいるもだな」
「そうさ。ところで、徐兄は軍師としてどうだった。わたしよりもっと堂々としていたのかな」
なにを思い出したのか、趙雲は苦笑いをして答えた。
「堂々というか、飄々、という感じだったな。良くも悪くも、徐軍師は、すぐに新野に溶け込んでいたよ。あの方を悪くいうのも少なかった。だから主騎が必要なかった」

それは想像がつく気がした。
徐庶は司馬徽の私塾に入るまえは、侠客として名の知れた男だった。
孔明と知り合う前に、おそらく身に備えていただろう殺気は消えてしまったようだが、それでも、劉備の部下たちは、自分とおなじにおいを徐庶に感じたに違いない。
だから、すぐに仲間として受け入れた。

「しかし、徐軍師は、いつもおひとりだった。もし、あの方に本当の意味での仲間がいたなら、あの方は母御のことをひとりで悩まず済んだかもしれない。残念だ」
「そうだな」
短く答えて、孔明は、徐庶が北へと旅立っていくのを見送ったことを思い出していた。
十年の長きにわたって青春をともにした朋友。
そのかれの姿が遠ざかっていくのを見つめながら、立っている場所の地面がえぐりとられたかのような心細さを感じたことをおぼえている。
しかし、その徐庶のおかげで、劉備という得難い主君を得ることができた。
さらに、その劉備の采配で、趙雲というあらたな友を得ることもできた。
人の縁とは面白いものだと、孔明は感慨を深くした。


つづく

(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)

青嵐に笑う その6

2022年02月02日 13時07分30秒 | 青嵐に笑う


思い出されるのは春のこと。
趙雲が孔明の主騎になったばかりの頃の話である。

孔明は、束縛されることが、やはり嫌だった。
だから、主騎はいらないと、劉備に訴えた。
しかし、劉備は首を縦に振らず、代わりに言った。
「子龍は、おまえの一番邪魔にならないヤツだぜ」
「邪魔にならないとは、細作のように人の気配を消す訓練を積んでいるから、というたぐいのことでございますか。気配を消されていようが、そこに『いる』のは間違いないでしょう。わたしは、だれかがそばにいると、集中できない性質なのです。主騎はいりませぬ」
口を尖らせると、劉備は、いやいや、技術がどうとかいう話じゃない、と手を振った。
「ともかく口は重いし、秘密は守れといったら、かならず守る。でもって頭もいいから、指示以上のことも楽にこなしてくれる。
おまえは、横からああだこうだと言われるのが嫌なほうだろう。子龍はよほどでないかぎり、口をはさんでこない。それどころか、あいつに、口をはさまれたときは、これは不味い事態だなと、自分を点検するいい機会になるという、おまけつきだ」
「そのような貴重な人材でしたら、わが君がずっとお側に置かれては如何ですか」
「いじわるを言うなよ。子龍は、おまえより五つ上なんだ」
「それは本人の口から聞きました」
すると、劉備は、顔をぱっと上げて、びしりと孔明を指さした。
「それ!」
「どれでございますか」
「おまえ、子龍にそれを聞いて知ったか? それとも子龍が言ったので知ったか?」
劉備の問いに、孔明は首をかしげて、どうであっただろうかと考える。
「本人から聞いたような」
「そうそう。おまえには言えるようなのだ。子龍は、よほどでないかぎり、自分のことを自分からいわないんだ。ところがだ、あいつは、おまえには言うんだよ。おまえら、普通にしゃべれるだろう?」
「普通に。たしかに、世間話などはいたしますが」
「世間話していると、どっちかが聞き手になる一方だったり、語り手になる一方になったりして、なんだか疲れる相手っているだろう。子龍は、おまえにとってはそうじゃないだろう」
「たしかに、対等、というと言葉がまちがっているかもしれませんが、たがいに、ふつうに意見をやりとりいたします」

あたりまえのことではないか、わが君はなにを言わんとされているのだろうと怪訝に思っていると、劉備は、ずいっと身を乗り出してくる。
「それ。そこがとても重要なのだ」
「それ、とは?」
「普通に、ってところだよ。子龍は、おまえが相手だと、自分のことを打ち明けるのに抵抗が無い様子なのだ」
「おかしなことをおっしゃいます。それでは、子龍は、ほかの者たちには、ほとんど自分のことを語らぬようではありませぬか」
「うん、そう。そのとおり」
あっさりと劉備は答え、孔明をうろたえさせる。
「それで、よくいままでやってこられましたな」
「そこがそれ、あいつ、公孫瓚のところで身につけたのだろうが、そういう処世術には慣れててな、本当にソツがない。頭がいいから、相手の先をうまく読んで、合わせて、するり、するりと世の中を渡っていっちまう。だから問題も起こさないかわりに、自分の腹を打ち明けられる仲間が少ない。
わしを慕って来てくれた奴だが、どうも十五のときと、変わってない部分があるなと、心配しておったのだ。ところが、ありがたいことに、軍師があらわれた。おまえは子龍のこころの救い主だ」
「おおげさでは」
「おおげさではないぞ。子龍は軍師にはこころを開いている。わしからすれば、びっくり仰天だよ。それほどに、あいつは内気なやつなんだ」

孔明は、趙雲の落ち着いた佇まいを思い出していた。
内気なのは確かだろう。
たまに笑い方に慣れていないような表情をする。
部下には慕われているようだが、その隙の無い様子を、逆に麋芳や劉封などはうとましく思っているようだ。
孔明からいわせれば、隙が無い人間をうとましく感じるのは、狭量のあかしではないかというところであるが。

「わが君は、子龍が内気だと心配なのですか」
「それはそうだよ。わしは、あいつには大きな夢を見てもらいたいのだ」
「夢、ですか」
「大志と言い換えてもいい。あいつは本来、おまえやわしの主騎を務めるだけの人間じゃない。大軍を統率できるだけのでっかい器量を持っている。だが、わしのところでは、その才覚を開く機会がなかった。だが、これからはちがう。わかるだろう」
「曹操は確実に襲来してくる」
「そうだ。そのとき、わしたちは曹操に立ち向かうために、最大限の力を発揮しないと生き残れないだろう。新野に籠城することになるか、劉州牧のところへ逃げ込むことになるか、それはわからないが、どちらにしろ、戦うことになるのだ。雲長もいる。益徳もいる。だが、まだ手が足りない。わしを慕ってくれる民を守るためにも、大きな器を持つ、大将が必要だ」
「それが子龍だと」
「そうだ。あいつなら、いま以上に成長できるはずだ。だが、あいつは気持ちが優しいうえに内気なのが弱点だ。優しい大将なんて、矛盾している。それはわかるだろう」

孔明はうなずいた。
たしかに将に慈悲は必要だが、それは日常に発揮すべき優しさとは種類がちがう。
劉備はそのことを言っているのだ。

「優しさを捨てろとは言えない。それは、あいつの宝物のようなものだ。だが、内気なのは話がちがう。有能であるがゆえに抱えすぎて、自滅してしまっては意味がないのだ。
あいつには、もっともっといろんな人間と触れ合って、大きな人間に成長してほしい。そのためには、おまえの力も必要なのだ。わかるな」
「わかります」
「では、もう答えは出ているだろう」
劉備はそういうと、孔明に対し、頭を下げた。
「わしは、子龍の見る大きな夢を受け止める、でっかい器でありたい。そうなるためにも、やっぱりおまえの力が必要なのだ。おまえは、わしと子龍の両方にとって、大事な人間なのだよ。だから、すまぬがわがままはひっこめて、わしの言うとおりにしてくれないか」

そこまで言われては、孔明はわがままを抑えるしかなかった。
そこで、趙雲から主騎を辞退しないかなと観察していたが、そのうちに、趙雲の人柄に触れ、劉備の言うとおり、かれがそばにいることを許すことになったのだ。

つづく

(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)

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