※
趙雲は、孔明を誘って酒を飲み交わしたことがない。逆も然り。
意外につきあいがいいのだな、とちらりと盗み見ると、目が合った。
孔明が、屋敷に入ってから、どうも無愛想なのが気にかかる。
無理に誘った、というわけでもないのだが。
武人三人を前にした孔明、というのもなにやら新鮮であるが、本人はさきほどから、ほとんど会話に入らず、おとなしく杯をかたむけている。
とりあえず相槌を打ったり、冗談には控えめな笑みをみせたりしているので、ふてくされているわけではないようだ。
「しかし子龍、嫁に家を追い出された俺が言うのもなんだが、やはり一度は、嫁をもらうべきだぜ。ここはいい家だけど、なんか知らないヤツの家に勝手に上がりこんでいる気がしてしょうがねぇ」
最近は、すべての話題を『ヨメモラエ』に結び付けたがる張飛である。
張飛の言葉に、盛り上がり好きの陳到が、ぱあっと顔を輝かせて食い込んでくる。
「じつは、我らのあいだでも、趙将軍にヨメを、と運動したことがございます。この酒宴もなにかの縁。張将軍、如何でございますか。われらでふたたび盛り上げる、というのは」
「お、いいな。ふむ、では早速、荊州中の見どころのある女たちに声をかけねばならぬな。ははん、こいつならば、名前も知れているし、見た目もよい。もらってくださいと女たちが行列つくるんじゃねぇか、うらやましいな、色男」
張飛は、つん、と肘で趙雲をつつく。うれしくない。
「とはいえ、おまえにも好みというものがあるだろう。言ってみろ」
「好み以前に、いまは必要ない」
「また、それか。兄者がぼやいていたぜ。長阪でおまえにつらい思いをさせちまったのが原因で、おまえが家庭を持つのに神経質になっちまっているんじゃねぇのか、って。それとも、なにか別の理由があるのか? いい機会だ。言ってみろ」
もし別の理由があって、それを言ったとする。
だが、とりあえずほんとうに心から心配してくれているだろうが、口を閉ざしている、ということができない張飛と、口は閉ざしているだろうが、ことあるごとに意味ありげな顔をするようになるであろう噂好きの陳到、そしてなにより表情の読めない静かな表情で、じっとこちらを観察している孔明の三者に話すつもりはない。
天下に向かって打ち明け話をするようなものだ。
黙っている趙雲に、張飛が眉をひそめる。
「おまえ、まさか、不倫か?」
「フリン!」
きらりと陳到が顔を輝かして、腰を浮かす。
「勝手に話を膨らませるな! それはない!」
「たしかに、ないな」
と、さりげなく孔明がつぶやき、張飛と陳到は、あっさりと「なあんだ」と引っ込んだ。
「でもま、ヨメを取るにしても、子龍の年から考えて、いまさらどっかの娘、ってわけにもいかねぇだろうな。だいたい、こんなわかりにくいヤツ、十五かそこらの娘に我慢ができるはずがねぇ」
うんうん、とおおいに肯きながら、陳到が話をあわせる。
「となると、寡婦ですか」
「おうよ。寡婦で、そうだな、旦那が無口でも気にしない、心の広い女だ。器量はそこそこでいい。なぜなら、おまえはきれいな顔に慣れすぎている。そうじゃないほうが新鮮だろうが。あんまり田舎の女じゃだめだな。ある程度、世の中の動きに敏い女。お、だんだん具体的になってきたじゃねぇか。どうせなら同郷の女がいいだろうな。そのほうが、話題を捜しやすいだろう」
すると、それまで沈黙を守ってきた孔明が、突然口をひらいた。
「寡婦で、常山真定近辺の出で、心の広い女、器量はどうでもよろしい、というのであれば、手配してさがさせましょうか」
「お、はなしが早ぇな。さすが軍師」
孔明は、めずらしく愛想よくにっこり笑って張飛の杯に酒をなみなみと注ぐ。
「ほかにご注文は?」
「そうさなぁ。俺の頭の中じゃ、こんなふうなのだ。その女は、早くに幼なじみと結ばれて、しあわせな結婚生活を営んでいたのだが、旦那を徴兵に取られてしまい、心細い思いをしていたのだ。うむ、旦那の生死もわからず、家でじっと帰りを待っていたのだが、親戚連中が再婚話を持ってきて、相手が気に入らないやつだったので、とうとう旦那を捜すために家をでることを決めた」
陳到は、めずらしく想像力をはたらかせる張飛の話に目をかがやかせる。
「おお、貞婦ですな」
陳到の言葉に気をよくして、張飛はさらに酒をぐっと飲み干して、身を乗り出してくる。
そこへ、すかさず孔明が酒を注ぐ。
なんだ、この三人の、このなかよしぶりは。
「女の一人旅は、苦労の連続よ。それでも旦那の面影をもとめて、女は千里の彼方まで行く覚悟なのだ。健気じゃねぇか。ところが、旦那がどうやら戦死したらしい、という噂を聞くことになる。女はその真相をたしかめるべく、荊州のここまでやってくるわけだ。だが、その行く手を、夜盗どもが立ちふさがる! 女の危機だ。そこへ、いよいよ主役の登場だ。なにか予感に動かされて、夜の散歩にでた趙雲がそこにあらわれる。そうして、弱い者をいじめてはいかんと夜盗をバッタバッタと切り伏せる。その勇姿に女は感動し、お名前は、とこうくるわけだ。そうして名乗ると、『あら、貴方様はかの有名な常山真定の趙子龍さま。実はわたくしも常山真定の生まれです』となるわけだ。運命を感じるふたり! そうして話はとんとんと進み…いや、とんとんと進みすぎてもおもしろくない。実は旦那が生きているのじゃねぇか、という話もはさむか」
陳到は、うひゃうひゃと、なにがそんなに楽しいのか、奇妙な笑い方をして大喜びだ。
「いいですなぁ、盛り上がりますなぁ」
「惹かれあうふたり。艱難辛苦をのりこえて、子龍の家にヨメがやってくる。めでたしめでたし。というわけで、子龍、いまから夜回りに行って来い。嫁が落ちているかもしれん」
「断る。というか、おまえたちで行け」
「なにを言っているんだよ。俺たちはもうヨメがいるから駄目なんだよ。おまえのヨメは、こんな寒そうな夜に常山真定からはるばるやってきたあげくに、夜盗どもに襲われそうになっているのだぜ。可哀想じゃねぇか」
「勝手にかわいそうな話にしたのだろうが。それならば、こんな夜更けに、また外に出て行かねばならぬ俺だって可哀想だ」
「ヨメのためだぞ、頑張って行って来い! おおい、ご主人がまた出かけるぞー!」
と、張飛は勝手に家令に命令をし、すでに出来上がりつつあった陳到が、妙にはしゃいでそれを手伝う。
趙雲は、最後の砦、とばかり孔明に目線をおくるのだが、酒が入ったせいでほんのすこし顔色の上気した孔明は、
「行ってこい」
と無情にかえすだけであった。
そうしてしぶしぶと、趙雲は夜回りにいかねばならないはめになった。
※
とはいえ、張飛の話は作り話であるから、夜道に都合よくヨメがいるはずもなく、ヨメどころか気晴らしになってくれそうな夜盗の類も、野良犬一匹さえいなかった。
代わりに、夜警をしている兵士たちとばったり会ってしまい、抜き打ちに見張りにやってきたと勘違いされ、おおいに煙たがられた。
憮然として帰ってくると、ちょうど自分の屋敷から、大八車に家具を載せ、えっちらおっちらと夜道を移動する家令一家に出くわした。
こんな夜更けにどこへ行こうというのか。
趙雲が声をかけると、家令は、
「しばらくおいとまをいただきます」
と言って振りかえりもせずに、おもい車をぎいぎい言わせて去ってしまった。
いやな予感に突き動かされ、趙雲が屋敷に戻ると、まずは家の戸口が真っ二つに割れていた。
そうして、中に踏み入れると、フゴー、フゴーと化け物じみたいびきが聞こえてくる。
中は惨憺たるありさまで、あれほどきちんととのえられていた部屋の面影はどこにもない。
それこそ夜盗におそわれたのではないかというくらいだ。
いや、それよりも。
「ヨメは落ちていたか子龍」
孔明が、この夜更けにたすきがけをして、部屋のそうじをしている。
なにがどうなっているのか、頭が真っ白ではたらかない。とりあえず、趙雲はこたえた。
「いなかった」
「それはそうであろう。わたしが治めている街であるからな。夜盗なんぞいるか」
と、壊れ物の海の真ん中で居丈高にしていた孔明だが、急にしょんぼりうなだれた。
「すまない」
「みたところ、俺の家は壊れたようだが」
「うむ。わたしの思惑がこれほどまで壊れたのもはじめてだ」
「どういうことだ?」
孔明はよほど気まずいのか、めずらしいことに目を合わせようとしない。
趙雲は、口ごもる孔明に、首をかしげるような仕草で先をうながした。
いつもならば首をかしげる仕草は孔明がするのであるが。
これでは立場がまったく逆だ。
「悪気はなかったのだ。むしろ逆だ。街であったとき、あなたがあまりに憮然とした顔をしていたので、これは張飛と陳到がムリにあなたの家に押しかけようとしているのだと思い、それならば助けてやろうかと。思い上がりであった」
「で?」
「とりあえず、彼らのいちばん好きそうな話題で盛り上げさせて、酒をどんどん飲まして潰してしまえと思ったのだ」
「それで?」
「そうしたら暴れだした。張飛が暴れるといっても、噂は誇張で、ちょっと管を巻くだけだと思っていたのだが、ほんとうに暴れるとは…」
「軍師、いままで軍師が、張飛の暴れだすところを見たことがなかったのは、主公がいつも側にいたからだ」
そうであったのか、と、めずらしく、孔明はしおらしくうなだれる。
「ただの暴れようではなかったようだが?」
「うむ、陳到が家に帰りたいと泣き出したのがいけなかった。あいつは泣き上戸だったのだな。それで張飛が怒り出し、陳到は怒られて、逆に切れだして決闘になってしまったのだ」
「家の中でか」
「止める暇はなかった。家令一家を無事に脱出させるのが手一杯であった」
「脱出…というか、逃げていった。しばらく戻るまい」
「かさねがさねすまぬ。そこでせめてもの詫びにと掃除をしていたのだが」
臥したる龍とも呼ばれた男が、なんという情けない格好をしているのやら。
趙雲がため息をつくと、孔明は眉根をよせて、言った。
「すまなかったと言っているのだ。そんなに怒ることなかろう」
「いまのは、そういう意味ではない。お互い、今日は冷静になるのはムリなようだ。今日はこのまま帰ってくれぬか」
「追い出すのか?」
「そう物の尖った言い方はやめてくれ。この時点でおかしいではないか。ふつうならば、こんなことでいちいち、いい争いなどせぬであろう。俺たちは互いに疲れているのだ。疲れているときに言い争ったら、ろくなことにはならぬぞ。家は壊され、喧嘩もし、では目も当てられぬ。言いたいこともあるかもしれぬが、今日は互いに沈黙を守り、このまま一晩眠る、というのはどうだ」
ありがたいことに、孔明は抗弁しなかった。
どんなに疲れていても、思いやりだけは忘れないのはこの男の美点である。
「わかった。あなたの提案を聞く。しかし眠るとはいっても、子龍、こんな有り様のなかで眠れるか?」
「屋根があるだけ、野宿よりましだ。馬車のところに家人が迎えに来ておったぞ。一緒に帰るといい」
孔明は、趙雲に言葉を尖らせたことを気にしているらしく、まだなにか言いかけたが、わかった、と一度は了解した手前、それ以上のことは言わずに、部屋を出て行った。
やれやれ、と趙雲はふたたびため息をつき、部屋に飛び散った、陶器のかけらをひろいはじめた。
あの家令一家に口止めをする余裕がなかったので、張飛の噂はまたひとつ、ネタが増えるわけだ。明日、張飛の奥方のところへいって、たのむから旦那を屋敷から出さないで欲しいと頼むことに決めた。ついでに陳到のところへいって、餅のことはよく言い含めておくから、帰ってきてよいと、いってやってくれ、と頼もう。
そうしてしばらくいろいろ考えながら掃除をしていると、ふと玄関で物音がする。
部屋は出て行ったものの、孔明は、まだ玄関のところで、うろうろしているようだ。どうやら、引き返してちゃんと謝るべきか否かを迷っているようだ。
趙雲は思わず口元をほころばせた。
まあ、その態度ひとつですべて水に流せるが。
馬のいななきがしたので、どうやらあきらめて馬車に乗って、従者といっしょに帰ったらしい。
趙雲は、真っ二つにわれた戸口をまたいで、表に出ると、従者の手にする明かりにうかびあがる、夜道をしょんぼりと猫背で去っていく孔明の背中を見送った。
とりあえず、明日、いちばんに、まず軍師のところへ行こう。
張飛の家へは…あとでいい。屋敷も壊され、家令も出て行ってしまい、孔明とも仲たがい、というのはあまりに自分が悲惨すぎる。
そうして趙雲は、あらかた片付けおわった部屋に転がるふたりの男に布団をかけてやり、それから自分の寝台に行って、孔明にどんな言葉をかけるか、それを考えながら眠りについた。
おわり
御読了ありがとうございました。
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/02/12)
趙雲は、孔明を誘って酒を飲み交わしたことがない。逆も然り。
意外につきあいがいいのだな、とちらりと盗み見ると、目が合った。
孔明が、屋敷に入ってから、どうも無愛想なのが気にかかる。
無理に誘った、というわけでもないのだが。
武人三人を前にした孔明、というのもなにやら新鮮であるが、本人はさきほどから、ほとんど会話に入らず、おとなしく杯をかたむけている。
とりあえず相槌を打ったり、冗談には控えめな笑みをみせたりしているので、ふてくされているわけではないようだ。
「しかし子龍、嫁に家を追い出された俺が言うのもなんだが、やはり一度は、嫁をもらうべきだぜ。ここはいい家だけど、なんか知らないヤツの家に勝手に上がりこんでいる気がしてしょうがねぇ」
最近は、すべての話題を『ヨメモラエ』に結び付けたがる張飛である。
張飛の言葉に、盛り上がり好きの陳到が、ぱあっと顔を輝かせて食い込んでくる。
「じつは、我らのあいだでも、趙将軍にヨメを、と運動したことがございます。この酒宴もなにかの縁。張将軍、如何でございますか。われらでふたたび盛り上げる、というのは」
「お、いいな。ふむ、では早速、荊州中の見どころのある女たちに声をかけねばならぬな。ははん、こいつならば、名前も知れているし、見た目もよい。もらってくださいと女たちが行列つくるんじゃねぇか、うらやましいな、色男」
張飛は、つん、と肘で趙雲をつつく。うれしくない。
「とはいえ、おまえにも好みというものがあるだろう。言ってみろ」
「好み以前に、いまは必要ない」
「また、それか。兄者がぼやいていたぜ。長阪でおまえにつらい思いをさせちまったのが原因で、おまえが家庭を持つのに神経質になっちまっているんじゃねぇのか、って。それとも、なにか別の理由があるのか? いい機会だ。言ってみろ」
もし別の理由があって、それを言ったとする。
だが、とりあえずほんとうに心から心配してくれているだろうが、口を閉ざしている、ということができない張飛と、口は閉ざしているだろうが、ことあるごとに意味ありげな顔をするようになるであろう噂好きの陳到、そしてなにより表情の読めない静かな表情で、じっとこちらを観察している孔明の三者に話すつもりはない。
天下に向かって打ち明け話をするようなものだ。
黙っている趙雲に、張飛が眉をひそめる。
「おまえ、まさか、不倫か?」
「フリン!」
きらりと陳到が顔を輝かして、腰を浮かす。
「勝手に話を膨らませるな! それはない!」
「たしかに、ないな」
と、さりげなく孔明がつぶやき、張飛と陳到は、あっさりと「なあんだ」と引っ込んだ。
「でもま、ヨメを取るにしても、子龍の年から考えて、いまさらどっかの娘、ってわけにもいかねぇだろうな。だいたい、こんなわかりにくいヤツ、十五かそこらの娘に我慢ができるはずがねぇ」
うんうん、とおおいに肯きながら、陳到が話をあわせる。
「となると、寡婦ですか」
「おうよ。寡婦で、そうだな、旦那が無口でも気にしない、心の広い女だ。器量はそこそこでいい。なぜなら、おまえはきれいな顔に慣れすぎている。そうじゃないほうが新鮮だろうが。あんまり田舎の女じゃだめだな。ある程度、世の中の動きに敏い女。お、だんだん具体的になってきたじゃねぇか。どうせなら同郷の女がいいだろうな。そのほうが、話題を捜しやすいだろう」
すると、それまで沈黙を守ってきた孔明が、突然口をひらいた。
「寡婦で、常山真定近辺の出で、心の広い女、器量はどうでもよろしい、というのであれば、手配してさがさせましょうか」
「お、はなしが早ぇな。さすが軍師」
孔明は、めずらしく愛想よくにっこり笑って張飛の杯に酒をなみなみと注ぐ。
「ほかにご注文は?」
「そうさなぁ。俺の頭の中じゃ、こんなふうなのだ。その女は、早くに幼なじみと結ばれて、しあわせな結婚生活を営んでいたのだが、旦那を徴兵に取られてしまい、心細い思いをしていたのだ。うむ、旦那の生死もわからず、家でじっと帰りを待っていたのだが、親戚連中が再婚話を持ってきて、相手が気に入らないやつだったので、とうとう旦那を捜すために家をでることを決めた」
陳到は、めずらしく想像力をはたらかせる張飛の話に目をかがやかせる。
「おお、貞婦ですな」
陳到の言葉に気をよくして、張飛はさらに酒をぐっと飲み干して、身を乗り出してくる。
そこへ、すかさず孔明が酒を注ぐ。
なんだ、この三人の、このなかよしぶりは。
「女の一人旅は、苦労の連続よ。それでも旦那の面影をもとめて、女は千里の彼方まで行く覚悟なのだ。健気じゃねぇか。ところが、旦那がどうやら戦死したらしい、という噂を聞くことになる。女はその真相をたしかめるべく、荊州のここまでやってくるわけだ。だが、その行く手を、夜盗どもが立ちふさがる! 女の危機だ。そこへ、いよいよ主役の登場だ。なにか予感に動かされて、夜の散歩にでた趙雲がそこにあらわれる。そうして、弱い者をいじめてはいかんと夜盗をバッタバッタと切り伏せる。その勇姿に女は感動し、お名前は、とこうくるわけだ。そうして名乗ると、『あら、貴方様はかの有名な常山真定の趙子龍さま。実はわたくしも常山真定の生まれです』となるわけだ。運命を感じるふたり! そうして話はとんとんと進み…いや、とんとんと進みすぎてもおもしろくない。実は旦那が生きているのじゃねぇか、という話もはさむか」
陳到は、うひゃうひゃと、なにがそんなに楽しいのか、奇妙な笑い方をして大喜びだ。
「いいですなぁ、盛り上がりますなぁ」
「惹かれあうふたり。艱難辛苦をのりこえて、子龍の家にヨメがやってくる。めでたしめでたし。というわけで、子龍、いまから夜回りに行って来い。嫁が落ちているかもしれん」
「断る。というか、おまえたちで行け」
「なにを言っているんだよ。俺たちはもうヨメがいるから駄目なんだよ。おまえのヨメは、こんな寒そうな夜に常山真定からはるばるやってきたあげくに、夜盗どもに襲われそうになっているのだぜ。可哀想じゃねぇか」
「勝手にかわいそうな話にしたのだろうが。それならば、こんな夜更けに、また外に出て行かねばならぬ俺だって可哀想だ」
「ヨメのためだぞ、頑張って行って来い! おおい、ご主人がまた出かけるぞー!」
と、張飛は勝手に家令に命令をし、すでに出来上がりつつあった陳到が、妙にはしゃいでそれを手伝う。
趙雲は、最後の砦、とばかり孔明に目線をおくるのだが、酒が入ったせいでほんのすこし顔色の上気した孔明は、
「行ってこい」
と無情にかえすだけであった。
そうしてしぶしぶと、趙雲は夜回りにいかねばならないはめになった。
※
とはいえ、張飛の話は作り話であるから、夜道に都合よくヨメがいるはずもなく、ヨメどころか気晴らしになってくれそうな夜盗の類も、野良犬一匹さえいなかった。
代わりに、夜警をしている兵士たちとばったり会ってしまい、抜き打ちに見張りにやってきたと勘違いされ、おおいに煙たがられた。
憮然として帰ってくると、ちょうど自分の屋敷から、大八車に家具を載せ、えっちらおっちらと夜道を移動する家令一家に出くわした。
こんな夜更けにどこへ行こうというのか。
趙雲が声をかけると、家令は、
「しばらくおいとまをいただきます」
と言って振りかえりもせずに、おもい車をぎいぎい言わせて去ってしまった。
いやな予感に突き動かされ、趙雲が屋敷に戻ると、まずは家の戸口が真っ二つに割れていた。
そうして、中に踏み入れると、フゴー、フゴーと化け物じみたいびきが聞こえてくる。
中は惨憺たるありさまで、あれほどきちんととのえられていた部屋の面影はどこにもない。
それこそ夜盗におそわれたのではないかというくらいだ。
いや、それよりも。
「ヨメは落ちていたか子龍」
孔明が、この夜更けにたすきがけをして、部屋のそうじをしている。
なにがどうなっているのか、頭が真っ白ではたらかない。とりあえず、趙雲はこたえた。
「いなかった」
「それはそうであろう。わたしが治めている街であるからな。夜盗なんぞいるか」
と、壊れ物の海の真ん中で居丈高にしていた孔明だが、急にしょんぼりうなだれた。
「すまない」
「みたところ、俺の家は壊れたようだが」
「うむ。わたしの思惑がこれほどまで壊れたのもはじめてだ」
「どういうことだ?」
孔明はよほど気まずいのか、めずらしいことに目を合わせようとしない。
趙雲は、口ごもる孔明に、首をかしげるような仕草で先をうながした。
いつもならば首をかしげる仕草は孔明がするのであるが。
これでは立場がまったく逆だ。
「悪気はなかったのだ。むしろ逆だ。街であったとき、あなたがあまりに憮然とした顔をしていたので、これは張飛と陳到がムリにあなたの家に押しかけようとしているのだと思い、それならば助けてやろうかと。思い上がりであった」
「で?」
「とりあえず、彼らのいちばん好きそうな話題で盛り上げさせて、酒をどんどん飲まして潰してしまえと思ったのだ」
「それで?」
「そうしたら暴れだした。張飛が暴れるといっても、噂は誇張で、ちょっと管を巻くだけだと思っていたのだが、ほんとうに暴れるとは…」
「軍師、いままで軍師が、張飛の暴れだすところを見たことがなかったのは、主公がいつも側にいたからだ」
そうであったのか、と、めずらしく、孔明はしおらしくうなだれる。
「ただの暴れようではなかったようだが?」
「うむ、陳到が家に帰りたいと泣き出したのがいけなかった。あいつは泣き上戸だったのだな。それで張飛が怒り出し、陳到は怒られて、逆に切れだして決闘になってしまったのだ」
「家の中でか」
「止める暇はなかった。家令一家を無事に脱出させるのが手一杯であった」
「脱出…というか、逃げていった。しばらく戻るまい」
「かさねがさねすまぬ。そこでせめてもの詫びにと掃除をしていたのだが」
臥したる龍とも呼ばれた男が、なんという情けない格好をしているのやら。
趙雲がため息をつくと、孔明は眉根をよせて、言った。
「すまなかったと言っているのだ。そんなに怒ることなかろう」
「いまのは、そういう意味ではない。お互い、今日は冷静になるのはムリなようだ。今日はこのまま帰ってくれぬか」
「追い出すのか?」
「そう物の尖った言い方はやめてくれ。この時点でおかしいではないか。ふつうならば、こんなことでいちいち、いい争いなどせぬであろう。俺たちは互いに疲れているのだ。疲れているときに言い争ったら、ろくなことにはならぬぞ。家は壊され、喧嘩もし、では目も当てられぬ。言いたいこともあるかもしれぬが、今日は互いに沈黙を守り、このまま一晩眠る、というのはどうだ」
ありがたいことに、孔明は抗弁しなかった。
どんなに疲れていても、思いやりだけは忘れないのはこの男の美点である。
「わかった。あなたの提案を聞く。しかし眠るとはいっても、子龍、こんな有り様のなかで眠れるか?」
「屋根があるだけ、野宿よりましだ。馬車のところに家人が迎えに来ておったぞ。一緒に帰るといい」
孔明は、趙雲に言葉を尖らせたことを気にしているらしく、まだなにか言いかけたが、わかった、と一度は了解した手前、それ以上のことは言わずに、部屋を出て行った。
やれやれ、と趙雲はふたたびため息をつき、部屋に飛び散った、陶器のかけらをひろいはじめた。
あの家令一家に口止めをする余裕がなかったので、張飛の噂はまたひとつ、ネタが増えるわけだ。明日、張飛の奥方のところへいって、たのむから旦那を屋敷から出さないで欲しいと頼むことに決めた。ついでに陳到のところへいって、餅のことはよく言い含めておくから、帰ってきてよいと、いってやってくれ、と頼もう。
そうしてしばらくいろいろ考えながら掃除をしていると、ふと玄関で物音がする。
部屋は出て行ったものの、孔明は、まだ玄関のところで、うろうろしているようだ。どうやら、引き返してちゃんと謝るべきか否かを迷っているようだ。
趙雲は思わず口元をほころばせた。
まあ、その態度ひとつですべて水に流せるが。
馬のいななきがしたので、どうやらあきらめて馬車に乗って、従者といっしょに帰ったらしい。
趙雲は、真っ二つにわれた戸口をまたいで、表に出ると、従者の手にする明かりにうかびあがる、夜道をしょんぼりと猫背で去っていく孔明の背中を見送った。
とりあえず、明日、いちばんに、まず軍師のところへ行こう。
張飛の家へは…あとでいい。屋敷も壊され、家令も出て行ってしまい、孔明とも仲たがい、というのはあまりに自分が悲惨すぎる。
そうして趙雲は、あらかた片付けおわった部屋に転がるふたりの男に布団をかけてやり、それから自分の寝台に行って、孔明にどんな言葉をかけるか、それを考えながら眠りについた。
おわり
御読了ありがとうございました。
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/02/12)