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雨が降ったおかげで旱天による水不足は一気に解消した。
しかし、今度は今度で、水路が氾濫しただの、水で流されてきたゴミが詰まって悪臭がひどいだの、床下浸水で家が駄目になったので住むところがないだのと、あらたな問題が吹き出した。
孔明は、それらの陳情をひとつひとつ解決していたが、そこへ、足音も荒々しく、趙雲がやってきた。
「このあいだのニセ道士、おぼえておられますか?」
おぼえている、と孔明がうなずいた。
あれから屯所で手配をしたところ、ほかからも話があり、どうやらあちこちで、似たような詐欺をはたらいている、けちな男らしい。
曹操によって制圧された、懐かしの襄陽あたりでも同じ詐欺をはたらき、これはすぐに捕らえられたのであるが、隙を突いて逃げ出して、懲りずに現在に至る、というわけだ。
趙雲は渋い顔をして、言う。
「やつめ、雨が降ったのは己の札が効いたのだと喧伝し、また市中で札を売っております。止めようとしたのですが、街の人間が信じてしまって、止めることができませぬ」
「街の人間が信じているならば、慎重にせねばなるまい。小覇王の斬った干吉の例もあるし」
「余裕で構えている場合ではありませぬぞ。貴殿、厨の娘にあの札を与えたでしょう? やつはそれを盾に、札を売っているのですぞ。街の人間も軍師中郎将が信じているならば、と札を求めておるのです」
「冗談だろう?」
「冗談でこんなことは言えませぬ。戯れが過ぎましたな。どうされる?」
「どうするもこうするも…おかしいな。わたしはあの子に確かに札を与えたが、札はあの娘の部屋に貼ってあっただけで、よその人間がそのことを知っているとは思えない。うちの家人は特に口が固いものばかりだし、どこから漏れたのであろう?」
考えていても埒が明かない、ともかく見に行こう、とこうことになり、孔明は趙雲とともに町へ出た。
町は大雨のあとの後片付けでにぎわっていた。
水路が氾濫した地域は、なんともいえぬ泥臭さがあたりに充満しており、町人たちは、旱のつぎは大雨、極端すぎる、とぶつぶつ言いながら掃除をしていた。
目指す道士はこのあいだと同じく、柳の下で怪しい札を片手に、ひとびとに御札の効用を説明している。
「御覧なさい、あの娘がおりますぞ」
趙雲が示すとおり、道士のとなりには、例の少女が立っていて、なんと札を売る手伝いをしているのであった。
札を貼ったとたんに効果覿面、ほんとうに雨が降ったので、道士を信じてしまったのだろうか。
不憫な、と思いつつ、孔明はちらりと隣の趙雲を盗み見た。
気に入っていたようだから、がっかりしているかなと思ったのであるが、これがやはり、険しい顔をして道士をにらんでいる。
こうなったら、こちらも侠気を出して、あの少女をよこしまな魔手より救い上げ、めでたく引き合わせてやるのがいちばんかもしれない。
目的ができたところで、さてどう動こうかと策を練っていると、それより先に趙雲が動いた。
柳の下で、このあいだより十枚ふえて、先着限定20名様になっている御札を売っている道士の元へ行く。
道士は、趙雲の顔を見ると、気まずそうな顔をしたが、このあいだのように逃げはしなかった。
おそらく、民の心を掴んでいるので自信があるにちがいない。
趙雲は、道士のもとへ行くなり、まん前に立つと、
「いますぐ、このくだらぬ商いを止めよ」
と高らかに宣言した。
そこで、はいそうですか、と詐欺師が簡単に答えるわけがなく、鼻で笑うだけである。
趙雲は、息を軽く吐き、低くつぶやくように言った。
「では、おまえを今から殴る」
「はい?」
ぽかんとする道士めがけ、予告どおりに趙雲の拳が、道士の顔にめりこんだ。
鼻がへし折れた音が、孔明の立っている位置からも聞こえた。
いくら激昂しているとはいえ、いささかやりすぎである。
孔明が飛んでいくと同時に、道士のかたわらにいた少女も、道士に駆け寄った。
道士のほうは、鼻と口から血を吹いて、地面にのびている。
「子龍、やりすぎだぞ!」
孔明が近づくと、険しい顔をしたまま、趙雲は振り向いた。
「やりすぎだと? 貴殿、わかっておらぬな。この男は、卑しくも貴殿の名を借りて詐欺を働いたのだぞ。たとえ実際には貴殿が関わっていないにしても、こういった話は利用されやすいものだ。ここで無関係だということをきっちり証明しておかないと、せっかく築いた名に傷がつく!」
まさに虎の咆哮。
戦場で見せる顔そのもののはげしい剣幕にうろたえつつ、孔明は答える。
「わたしのことを心配してくれるのがありがたいが、いきなり詮議もせずに殴りつけたとあっては、世間は孔明の過失を誤魔化すために、暴力でもって口を封じたと思うであろう。落ち着いてくれ」
「暢気なことを言っている場合か! なんだってそんな他人事なんだおまえは!よいか、もう以前とは事情が違う。軍師はおまえのほかにもう一人。寵を与える人間はただ一人。おまえたちにその気がなくても、周囲は利権をもとめて、二手に分かれて争い始める。如何におまえたちの志が高かろうと、欲に駆られた輩はそんなことを無視しておまえたちを利用しようと、いくらでも足を引っ張ってくるだろう。いまはその戦の始まりにすぎぬ!」
「すまない…そうなのか…な?」
趙雲は、ふうっ、と大きくため息をつき、腕を組んだ。
「な? ではない! まったく。よからぬ噂ばかりが飛び交っているので、心配して桂陽から来てみれば、このありさまだ。迂闊に過ぎるぞ。俺とて味方を悪し様に言いたくはないし、派閥争いなんぞしたくもないが、現実としてすでに争いは始まっているのだ。いままでと同じように気軽に振る舞っていられては困る」
「わかった、注意する…が、なぜわたしのことで、あなたが困るのだ?」
すると趙雲は、じろりと孔明を睨んだ。
多少のことではたじろがない孔明も、趙雲に睨まれるとうろたえる。
「いまさらくだらぬ問いをするな。俺が主公よりおまえの主騎を拝命して以来、ともに一蓮托生の身ではないか。おまえが倒れれば俺も倒れる。ついでに言っておくが、俺は主公とおまえ以外の人間に、この頭を下げるつもりはないぞ。だから心配をしているのだ!」
わたしが倒れて、ともに倒れてしまったとしても、あなたほどの優秀な人間ならば、倒れていたくても、周囲がそれを許すまい、と孔明は思ったが、黙っていた。
言ったら、今度は拳が孔明に向かってくるだろう。
一方で、趙雲に打ち倒された道士に、少女がすがりついている。
道士は血だらけの顔をわずかに動かし、うめいている。少女が叫んだ。
「郎君! しっかりして!」
「あなた、だと? そなた、この男の妻になったのか?」
「わたくしは以前より、この方の妻でございます! せっかくお会いできたというのに、なんてことなの!」
騒ぎを聞きつけて、屯所より兵士たちがやってきた。
ニセ道士は手当てを受けながらも引っ立てられ、娘は、嘆きながら、それに付き添っていった。
取り調べて見たところ、少女の言ったとおり、ニセの道士は少女の夫であった。
もともと襄陽で商いをしていたのだが、曹操の南下で避難生活を強いられ、無一文になってしまい、自棄になって詐欺に手を染めたのだった。
そうして捕らえられ、逃げてしまった夫を追い、少女は臨烝へやってきたという。
「あの方には本当に神通力がございます。だって、ほんとうに雨が降ったではありませんか」
「あれは偶然だ」
「偶然だという証拠がございますの? 札が効かなかった、という証拠がございますの?」
少女はそう言って、夫をかばおうと必死であった。
その一途さに打たれ、孔明は、ニセ道士への刑罰を軽くしてやり、その代わり、今後、諸葛孔明の名のあるところでは、二度と詐欺を働かない、と念書を取った。
刑罰として鞭で打たれ、ぼろぼろになった夫を少女は引き取り、そうして去っていった。
結局、孔明は少女の名前を聞くことができなかった。名づけるのにも間に合わなかった。
おそらく、二度と会うことはないだろう。
その名を知ることもあるまい。
少女の大人しい、儚げな風情に、浮漚、などという名前を思いついたこともあったが、その芯は、あぶくどころではなく、どんな強風にさらされようと、揺らぐことのない大木のように、どっしりしていたのだ。
「お人よしめ。ああいった手合いはまた同じことを繰り返すぞ。あの娘も若いのに気の毒に。どうしてあのような手合いを夫に出来るのか、さっぱりわからぬ」
と、趙雲は悪態をつく。
気に入った娘が、詐欺師の妻であった、ということで、苛立っているのだろう。
気の毒な、と孔明は同情した。
「…言葉が戻っているぞ、子龍。娘に関しては、あの道士と引き離すべきであったかもしれない。だが、しかし、あの娘にとっては、夫の側にいることが至上の幸いなのだと思ったのだよ。苦労を共にする幸福、というものもあるのだ。すまなかったな」
「なにを謝られるのです? 貴殿こそ、落ち込んでおられるのでは?
ずいぶんとあの娘を気に入っておられたようでしたから」
「わたしが? なぜそう見た?」
「名前を付けてやろうなどと、ずいぶん気を遣っておられたので」
「それは不便だったからだ。気に入っていたのはあなただろう。愛らしい、などと言っていたではないか」
そう言うと、趙雲は、ああ、と短く言って、表情を変えずに答えた。
「驢馬です」
「驢馬?」
「貴殿の屋敷の驢馬は、じつに聡明な愛らしい顔立ちをしている。あんな驢馬が一頭、わが厩舎にもいたらいいなと思ったのですよ。ご自慢の驢馬なのでしょうな?」
「…驢馬の顔を、じっくり眺めたことがないからよくわからないな」
驢馬の顔はみんなぼーっとしているように見える。
そもそも、動いて物を運んでくれればそれでいい、と思っていた。
趙雲は、驢馬のことを思い出したのか、どこか物憂げな、それでいて妙に輝いている目で、馬屋のほうを見た。
現世の事物に執着のない男かと思っていたが、そうでもないらしい。
しかし美しい娘より、驢馬に目が行く、というのはどんなものか。
「子龍、それほどまでにわが驢馬を買っているのなら、桂陽に持って帰ってよいぞ」
「よろしいのですか?」
とたん、趙雲の顔が、いままでにないほど明るく輝いた。
出世して禄が上がっても、これほどまでうれしそうにしたことはない。
なんでそんなに驢馬が好きなのだ。
たかだか驢馬だろう、という言葉を、孔明は飲み込んだ。
孔明が帯や飾り物などの小道具にこだわるのと一緒で、おそらく趙雲にもこだわりたい物があるのだ。
それが驢馬だったり、白馬だったりするに違いない。
「あの驢馬も、わが家にいる限り、ただの運搬係で終わる。あなたの家に貰われていったほうが、きっと大切にしてもらえるだろう」
「もちろんですとも、きっと大切にいたします」
「驢馬の名前は『浮漚』だ」
「浮漚? これはまた、驢馬に似つかわしくない名前ですな」
「浮漚ゆかりの驢馬、ということでね。気に入らなかったら、改名しても良い」
趙雲は孔明の手を両手で掴み、浮漚はきっと大事にいたします、また参りますので、御身お大切に、と言葉をのこし、嬉々として驢馬をつれて桂陽へ戻っていった。
その姿を見送りつつ、今度は驢馬の様子を見に、わたしが桂陽に行ってもよいな、と孔明は思った。
おわり
御読了ありがとうございました。
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2004)