はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

浮漚の記 4

2020年04月27日 09時44分34秒 | 浮漚の記





雨が降ったおかげで旱天による水不足は一気に解消した。
しかし、今度は今度で、水路が氾濫しただの、水で流されてきたゴミが詰まって悪臭がひどいだの、床下浸水で家が駄目になったので住むところがないだのと、あらたな問題が吹き出した。
孔明は、それらの陳情をひとつひとつ解決していたが、そこへ、足音も荒々しく、趙雲がやってきた。
「このあいだのニセ道士、おぼえておられますか?」
おぼえている、と孔明がうなずいた。

あれから屯所で手配をしたところ、ほかからも話があり、どうやらあちこちで、似たような詐欺をはたらいている、けちな男らしい。
曹操によって制圧された、懐かしの襄陽あたりでも同じ詐欺をはたらき、これはすぐに捕らえられたのであるが、隙を突いて逃げ出して、懲りずに現在に至る、というわけだ。

趙雲は渋い顔をして、言う。
「やつめ、雨が降ったのは己の札が効いたのだと喧伝し、また市中で札を売っております。止めようとしたのですが、街の人間が信じてしまって、止めることができませぬ」
「街の人間が信じているならば、慎重にせねばなるまい。小覇王の斬った干吉の例もあるし」
「余裕で構えている場合ではありませぬぞ。貴殿、厨の娘にあの札を与えたでしょう? やつはそれを盾に、札を売っているのですぞ。街の人間も軍師中郎将が信じているならば、と札を求めておるのです」
「冗談だろう?」
「冗談でこんなことは言えませぬ。戯れが過ぎましたな。どうされる?」
「どうするもこうするも…おかしいな。わたしはあの子に確かに札を与えたが、札はあの娘の部屋に貼ってあっただけで、よその人間がそのことを知っているとは思えない。うちの家人は特に口が固いものばかりだし、どこから漏れたのであろう?」
考えていても埒が明かない、ともかく見に行こう、とこうことになり、孔明は趙雲とともに町へ出た。

町は大雨のあとの後片付けでにぎわっていた。
水路が氾濫した地域は、なんともいえぬ泥臭さがあたりに充満しており、町人たちは、旱のつぎは大雨、極端すぎる、とぶつぶつ言いながら掃除をしていた。
目指す道士はこのあいだと同じく、柳の下で怪しい札を片手に、ひとびとに御札の効用を説明している。

「御覧なさい、あの娘がおりますぞ」
趙雲が示すとおり、道士のとなりには、例の少女が立っていて、なんと札を売る手伝いをしているのであった。
札を貼ったとたんに効果覿面、ほんとうに雨が降ったので、道士を信じてしまったのだろうか。
不憫な、と思いつつ、孔明はちらりと隣の趙雲を盗み見た。
気に入っていたようだから、がっかりしているかなと思ったのであるが、これがやはり、険しい顔をして道士をにらんでいる。
こうなったら、こちらも侠気を出して、あの少女をよこしまな魔手より救い上げ、めでたく引き合わせてやるのがいちばんかもしれない。

目的ができたところで、さてどう動こうかと策を練っていると、それより先に趙雲が動いた。
柳の下で、このあいだより十枚ふえて、先着限定20名様になっている御札を売っている道士の元へ行く。
道士は、趙雲の顔を見ると、気まずそうな顔をしたが、このあいだのように逃げはしなかった。
おそらく、民の心を掴んでいるので自信があるにちがいない。
趙雲は、道士のもとへ行くなり、まん前に立つと、
「いますぐ、このくだらぬ商いを止めよ」
と高らかに宣言した。
そこで、はいそうですか、と詐欺師が簡単に答えるわけがなく、鼻で笑うだけである。
趙雲は、息を軽く吐き、低くつぶやくように言った。
「では、おまえを今から殴る」
「はい?」
ぽかんとする道士めがけ、予告どおりに趙雲の拳が、道士の顔にめりこんだ。
鼻がへし折れた音が、孔明の立っている位置からも聞こえた。
いくら激昂しているとはいえ、いささかやりすぎである。
孔明が飛んでいくと同時に、道士のかたわらにいた少女も、道士に駆け寄った。
道士のほうは、鼻と口から血を吹いて、地面にのびている。

「子龍、やりすぎだぞ!」
孔明が近づくと、険しい顔をしたまま、趙雲は振り向いた。
「やりすぎだと? 貴殿、わかっておらぬな。この男は、卑しくも貴殿の名を借りて詐欺を働いたのだぞ。たとえ実際には貴殿が関わっていないにしても、こういった話は利用されやすいものだ。ここで無関係だということをきっちり証明しておかないと、せっかく築いた名に傷がつく!」
まさに虎の咆哮。
戦場で見せる顔そのもののはげしい剣幕にうろたえつつ、孔明は答える。
「わたしのことを心配してくれるのがありがたいが、いきなり詮議もせずに殴りつけたとあっては、世間は孔明の過失を誤魔化すために、暴力でもって口を封じたと思うであろう。落ち着いてくれ」
「暢気なことを言っている場合か! なんだってそんな他人事なんだおまえは!よいか、もう以前とは事情が違う。軍師はおまえのほかにもう一人。寵を与える人間はただ一人。おまえたちにその気がなくても、周囲は利権をもとめて、二手に分かれて争い始める。如何におまえたちの志が高かろうと、欲に駆られた輩はそんなことを無視しておまえたちを利用しようと、いくらでも足を引っ張ってくるだろう。いまはその戦の始まりにすぎぬ!」
「すまない…そうなのか…な?」
趙雲は、ふうっ、と大きくため息をつき、腕を組んだ。
「な? ではない! まったく。よからぬ噂ばかりが飛び交っているので、心配して桂陽から来てみれば、このありさまだ。迂闊に過ぎるぞ。俺とて味方を悪し様に言いたくはないし、派閥争いなんぞしたくもないが、現実としてすでに争いは始まっているのだ。いままでと同じように気軽に振る舞っていられては困る」
「わかった、注意する…が、なぜわたしのことで、あなたが困るのだ?」
すると趙雲は、じろりと孔明を睨んだ。
多少のことではたじろがない孔明も、趙雲に睨まれるとうろたえる。
「いまさらくだらぬ問いをするな。俺が主公よりおまえの主騎を拝命して以来、ともに一蓮托生の身ではないか。おまえが倒れれば俺も倒れる。ついでに言っておくが、俺は主公とおまえ以外の人間に、この頭を下げるつもりはないぞ。だから心配をしているのだ!」

わたしが倒れて、ともに倒れてしまったとしても、あなたほどの優秀な人間ならば、倒れていたくても、周囲がそれを許すまい、と孔明は思ったが、黙っていた。
言ったら、今度は拳が孔明に向かってくるだろう。

一方で、趙雲に打ち倒された道士に、少女がすがりついている。
道士は血だらけの顔をわずかに動かし、うめいている。少女が叫んだ。
「郎君! しっかりして!」
「あなた、だと? そなた、この男の妻になったのか?」
「わたくしは以前より、この方の妻でございます! せっかくお会いできたというのに、なんてことなの!」
騒ぎを聞きつけて、屯所より兵士たちがやってきた。
ニセ道士は手当てを受けながらも引っ立てられ、娘は、嘆きながら、それに付き添っていった。

取り調べて見たところ、少女の言ったとおり、ニセの道士は少女の夫であった。
もともと襄陽で商いをしていたのだが、曹操の南下で避難生活を強いられ、無一文になってしまい、自棄になって詐欺に手を染めたのだった。
そうして捕らえられ、逃げてしまった夫を追い、少女は臨烝へやってきたという。

「あの方には本当に神通力がございます。だって、ほんとうに雨が降ったではありませんか」
「あれは偶然だ」
「偶然だという証拠がございますの? 札が効かなかった、という証拠がございますの?」
少女はそう言って、夫をかばおうと必死であった。
その一途さに打たれ、孔明は、ニセ道士への刑罰を軽くしてやり、その代わり、今後、諸葛孔明の名のあるところでは、二度と詐欺を働かない、と念書を取った。
刑罰として鞭で打たれ、ぼろぼろになった夫を少女は引き取り、そうして去っていった。

結局、孔明は少女の名前を聞くことができなかった。名づけるのにも間に合わなかった。
おそらく、二度と会うことはないだろう。
その名を知ることもあるまい。
少女の大人しい、儚げな風情に、浮漚、などという名前を思いついたこともあったが、その芯は、あぶくどころではなく、どんな強風にさらされようと、揺らぐことのない大木のように、どっしりしていたのだ。

「お人よしめ。ああいった手合いはまた同じことを繰り返すぞ。あの娘も若いのに気の毒に。どうしてあのような手合いを夫に出来るのか、さっぱりわからぬ」
と、趙雲は悪態をつく。
気に入った娘が、詐欺師の妻であった、ということで、苛立っているのだろう。
気の毒な、と孔明は同情した。
「…言葉が戻っているぞ、子龍。娘に関しては、あの道士と引き離すべきであったかもしれない。だが、しかし、あの娘にとっては、夫の側にいることが至上の幸いなのだと思ったのだよ。苦労を共にする幸福、というものもあるのだ。すまなかったな」
「なにを謝られるのです? 貴殿こそ、落ち込んでおられるのでは?
ずいぶんとあの娘を気に入っておられたようでしたから」
「わたしが? なぜそう見た?」
「名前を付けてやろうなどと、ずいぶん気を遣っておられたので」
「それは不便だったからだ。気に入っていたのはあなただろう。愛らしい、などと言っていたではないか」
そう言うと、趙雲は、ああ、と短く言って、表情を変えずに答えた。

「驢馬です」

「驢馬?」
「貴殿の屋敷の驢馬は、じつに聡明な愛らしい顔立ちをしている。あんな驢馬が一頭、わが厩舎にもいたらいいなと思ったのですよ。ご自慢の驢馬なのでしょうな?」
「…驢馬の顔を、じっくり眺めたことがないからよくわからないな」
驢馬の顔はみんなぼーっとしているように見える。
そもそも、動いて物を運んでくれればそれでいい、と思っていた。

趙雲は、驢馬のことを思い出したのか、どこか物憂げな、それでいて妙に輝いている目で、馬屋のほうを見た。
現世の事物に執着のない男かと思っていたが、そうでもないらしい。
しかし美しい娘より、驢馬に目が行く、というのはどんなものか。
「子龍、それほどまでにわが驢馬を買っているのなら、桂陽に持って帰ってよいぞ」
「よろしいのですか?」
とたん、趙雲の顔が、いままでにないほど明るく輝いた。
出世して禄が上がっても、これほどまでうれしそうにしたことはない。
なんでそんなに驢馬が好きなのだ。
たかだか驢馬だろう、という言葉を、孔明は飲み込んだ。
孔明が帯や飾り物などの小道具にこだわるのと一緒で、おそらく趙雲にもこだわりたい物があるのだ。
それが驢馬だったり、白馬だったりするに違いない。
「あの驢馬も、わが家にいる限り、ただの運搬係で終わる。あなたの家に貰われていったほうが、きっと大切にしてもらえるだろう」
「もちろんですとも、きっと大切にいたします」
「驢馬の名前は『浮漚』だ」
「浮漚? これはまた、驢馬に似つかわしくない名前ですな」
「浮漚ゆかりの驢馬、ということでね。気に入らなかったら、改名しても良い」

趙雲は孔明の手を両手で掴み、浮漚はきっと大事にいたします、また参りますので、御身お大切に、と言葉をのこし、嬉々として驢馬をつれて桂陽へ戻っていった。

その姿を見送りつつ、今度は驢馬の様子を見に、わたしが桂陽に行ってもよいな、と孔明は思った。


おわり

御読了ありがとうございました。

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2004)

浮漚の記 3

2020年04月27日 09時43分10秒 | 浮漚の記


そうして夜半すぎ。
おどろいたことに日中はあれほど太陽が照り付けていたのに、夕陽が落ちた頃から雲が出て、どんどん空は暗くなり、やがていままでの溜まった分を一気に吐き出すように、大雨が降りだしたのである。
とおくで雷が轟いているのが聞こえる。これは臨烝の周辺の村も潤うであろうし、桂陽のほうも降っているにちがいない。

「雨を降らせるには、子龍に女を誉めさせれば良いのだな」
腹立ちまぎれの冗談であったが、家人はわからず、首をひねっている。
配膳をしている恰幅のよい料理女の影に隠れるようにして、少女の姿がある。
その儚げな風情に、『浮漚』の二文字が浮かんだ。
しかし、浮漚…うたかた、というのは名前にふさわしくない。
少女は配膳を手伝っていたが、途中で手をすべらして、椀を一つだめにした。
叱られつつ、厨へ戻っていく。
「まったく、いつもうわのそらなのだから」
と、料理女はその背中に悪態をついた。
孔明はだまって羹を飲む。
料理女は、配膳を進めつつ、雨音に耳を寄せて、言った。
「久しぶりのお湿りでございますね。厨の子の御札が効いたのでしょうか」
「偶然だろう。それにしても、厨の子という呼び方では不便ではないか。なぜ名前をつけてやらないのかね」
「不便じゃございませんので」
料理女は、にこりともせずに憮然と言い放った。
あいかわらずきつい女人だな、と思いつつ、顔には出さないで孔明は尋ねた。
「どこの出身なのだろう?」
「わかりません。一月ほどまえ、宿場で行き倒れになっていたところを、家令さんが拾ってきたのです。愛想のない子ですよ。名前も名乗らないし、どこの出なのかも言わない。身内を探して臨烝に流れてきたという話ですけれど、本当かどうか。旦那さま、あの娘が、なにか粗相をしたのでしょうか?」
「騒ぎ立てるほどのことはしていないよ。ただわたしが不便なので名前を付けてやろうかと思うのだが、なかなかぴったりなのが浮かばなくてな」
まあ、あの娘には贅沢すぎるお話でございますよ、と言いながら、料理女は退出した。





孔明は屋根をはげしく打つ雨音に耳を傾けつつ、髪を解き、絹の寝巻きに着替えると、寝台に入った。
雨音に邪魔されずに安眠できるようにと、香を焚くのも忘れない。ゆったりと身体の伸ばせる寝台に、身を横たえて、はじめて一日の緊張が解けて、ほっとする。
孔明は趙雲をおのれの屋敷に泊まるようにすすめたのだが、趙雲は、供もいるので、と断った。
いまごろ、街の宿屋でおなじように眠りについているか、あるいは意外に付き合いのよいところを見せて、旧知の武将と酒盛りでもしているか。

桂陽を攻めたときのことが思い出される。
趙雲が、趙範の兄の寡婦であった女との縁談を断った、と聞いたときは、主公のご家族をお守りし切れなかったことが、まだ尾を引いているのかなと心配したものだが、なんのことはない、まるで元気ではないか。
思うに、たんに趙範の兄嫁は好みではなかったのだ。
に、しても、娘くらいに年下の少女に目をつけるとは問題だ。
あれは自分の年がわかってないな、たしかに三十半ばには見えないけれど。

考えてみれば、仮にも将軍の地位についている男が、いまだに独り身というのは珍しい。
本人曰く、家族を持つと、そちらばかりに気が行って、ぞんぶんに戦えなくなる、とのことだが、今までとちがい、確実に劉備も地盤を固めている。
家族を持つにはよい機会だし、本人もそれを判っているはずだ。
あの娘が気に入ったのであれば、あの娘の主であるわたしがお膳立てをするべきなのだろう。

孔明はそう思うと同時に、鬱々たる気分におそわれる。
何事も堅実なあの男のことだから、一年もたたないうちに子どもが生まれるにちがいない。
そうして、サルの子と変わらない皺くちゃの赤ん坊を抱き上げて、将来楽しみだ、などと社交辞令を口にしなければならないわけだ。
隣には、やに下がった子龍の顔があるにちがいない。

自分で勝手に想像を進めておきながら、孔明はだんだん腹が立ってきた。
おのれの結婚生活がよそと比べて風変わりだから、ふつうの幸せな家庭を持てる人間が妬ましいのだろうか? 
自問して、すぐに否定する。
幸福な家庭とやらにあこがれているのであれば、さっさと二番目の妻を娶っている。
そうしないのは、家に帰ってまでややこしい気遣いをしたくないからだ。
だとしたらなにか、と問えば、やはり面白くない、のひと言に尽きるだろう。
特別な理由はない。ただ、面白くないのだ。
「もうやめよう」
だれに言うでもなく、雨音のつづく薄闇のなか、孔明は天蓋をみつめてつぶやいた。

こんなに気持ちが晴れないのは、趙雲が自分を立てるという名目で取っている、あのどこかよそよそしい態度に原因がある。
たしかに礼節は大事だが、なにもあんなにかっちり守らなくてもいいではないか。

ふと、劉備が寄越した手紙のことを思い出した。
荊州の三郡を取り、劉公子の後を継いだおかげで、劉備の周囲も様変わりした。
さらに龐統を軍師として迎えたのであるから、その勢いたるや、まさに昇り竜。
目出度いことこのうえないのであるが、一方で、古くから劉備に仕えてくれている者が、環境が激変して戸惑っているという。
とくに張飛や関羽の戸惑いぶりは、孔明が軍師に迎えられたときの比ではない。
あのときは、孔明ひとりであったから、張飛や関羽は、素直に不平不満をぶちまけてくれたが、今回は人も増えたし領土も増えたし、旧来の仲間たちも広い領土に散り散りになったしで、不平不満をうまく口にできないでいるらしい。
しかも劉備が大事なときだとわかっているから、さらに沈黙を守っている。
関羽などはまだよいが、張飛はかわいそうなくらいに力を出し切れないでおり、もし戦があるならば、まっ先に張飛を使ってもらえるように、龐統に頼んでいる、という内容であった。

めまぐるしく動いていく時間に戸惑い、付いていくのがやっとなのは、わたしも同じです、と孔明は返事を書くつもりであった。
器用に付いて行っている者も、稀にいるわけだが。
明日、すぐに主公に手紙を書こう。
心のなかでつぶやきつつ、孔明は目を閉じた。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2004)

浮漚の記 2

2020年04月27日 09時41分33秒 | 浮漚の記


臨烝は水路のうつくしい街だ。
馬車を使うよりも水路を使って、小船で町の様子を眺めたほうが、人の暮らしぶりがよくわかる。
とはいえ、このところの旱魃により、水の量もずいぶん減ってしまっていた。
照りつける日差しを受けて、水面はきらきらと光を跳ね飛ばしている。
連日の酷暑のため、街の人も、馬も、野犬さえも気力がなく、じりじりと照りつける陽光のなか、かげろうのようにゆっくりと動いている。
その動きにあわせるようにして、水路の上を、趙雲と孔明を乗せた舟がすべっていった。

「町がこれでは、里のほうも思いやられます。あたらしい水脈が見つかればよいのだが」
趙雲が、舟から手を出して、水路の水をすくう。
ふと、訝しそうに眉根を寄せて、顔を向けてきた。
「どうなされました?」
「いや…太守の地位が、見事に板についているなと思ったのだよ。あなたほど器用な人も珍しいだろうね」
「器用貧乏という言葉もございますぞ」
「それは言葉をまちがえたな。一騎当千の武将であるあなたが、行政官としても高い能力を見せているのはおどろきだ。普通はどちらかに偏るのだがね」
「それは、いままで運が良かっただけのこと。
文官が足りませぬ。曹操から逃れて南部に避難している人材を集めて、主公の地盤を固めるという策は、あれからどうなりましたか?」
「龐士元のおかげで順調だ。やはり龐家の名はつよい。主公も士元を気に入った様子でね、最近は、そちらはすべて士元に任せている。桂陽にも人が増えるのではないかな」

左様か、と趙雲はつぶやき、浮かぬ顔をする。
孔明は眉をしかめた。
「今度は、あなたがどうしたのだ?」
「いや…元気か?」
急に、ことばが以前のような親しげなものに戻った。
「なんだ、急に。目の前にいるわたしを見れば、すぐに答えの出る話ではないか」
そうだな、と趙雲は、歯切れわるく言って、笑いつつ目を逸らす。
ははあ、これは、出歯亀のくだらぬ噂話を聞いてしまったのだな、と孔明は合点した。

龐統が劉備のあたらしい軍師と加わってから、劉備はなにかにつけ、龐先生、龐先生、である。
そのために、それまで寵愛を一身にあつめていた孔明に対し、あいつは主公にもう見向きもされなくなった、もうあの軍師も用済みだ、という意地の悪い噂が流れている。
司馬徳操の私塾の同門だったというわりに、孔明と龐統は、親しく文を交わすでもない、公務以外ではほとんど疎遠なのが、傍目には目立つのだろう。
孔明としては、龐統と憎みあっているわけではない。
まして寵争いをしているつもりもない。
劉備とて、いまは龐統の…引いては龐家のもつ影響力がひつようだから、いちばんに立てているのであり、けして孔明が用済みになったから、ほったらかしにしているわけではない。
噂とは不愉快なものだ。
とくに、事実とかけ離れた憶測だけのものは。

「まったく、人の弱みにつけこむ輩はどこにでもいるのだな」
「え?」
趙雲の声に、振り仰ぐと、柳の並木のつづく酒家や妓楼があつまっている通りに、人だかりができている。
人の輪の中心には、導士ふうの格好の男がおり、あつまったひとびとに対し、なにやらまくしたてていた。
その手には、獣の皮をうすくなめしたものに、字だか記号だかわからぬものが書きなぐってあるものが握られている。
耳をすますと、どうやら、それは特殊な護符というふれこみであるらしく、家の戸口に貼っておけば、雨は降るわ、自然と水がめに水は溜まるわ、お金は溜まるわ、異性にもてまくるわで大変な騒ぎになるらしい。

「岸に付けてくれ」
趙雲は船頭に言うと、舟が岸に着くとすぐに、道士のもとへ向かった。
あとを孔明が追いかける。
「子龍、暴力沙汰はよせ」
わかっている、と軽く手を振り、趙雲は、人の輪を押しのけて、道士の前に出た。
「その札を貼れば、まことに雨が降る、というのだな?」
いきなりあらわれた、身なりは地味だが風貌のひときわ立派な男の登場に、道士はうろたえながらも、そうだ、と頷いた。
道士といっても、まだ若い。
痩せぎすで背が高く、わずかに垂れた目をした、女に好かれそうな、甘い顔立ちをしている。
「ただし、雨が降るか否かは、これを買われた方の、お心がけ次第、ということで」
「ならば自信がある。一枚買おう。いくらだ」
毎度あり! と道士とは思えない威勢の良さで、道士が顔をほころばせる。
だが、趙雲は金をすぐには渡さず、たずねた。
「これが効かなかった場合はどうなるのだ?」
「さきほども申し上げたとおり、買われた方の信心が足らなかった、ということとなりますな」
「では信心があれば、すぐに降るのか。今日にでも?」
道士はちらりと、天上の、かんかんと照りつける太陽を見上げてから、
「ええっと…心がけ次第かと」
と、モゴモゴしつつ答えた。
「俺ならば今日中に降るだろう。もし降らねば、これが、いかさまであったということになる」
「ご冗談を。これはまことに霊験あらたかな、泰山の仙人が丹精こめて作り上げた、特別限定先着10名様のための雨乞いの護符。
いかさま、などということはございませぬ。この護符によって幸せを掴んだ各地の皆様の、体験談もございます。お話して差し上げましょうか」
孔明は、道士が柳の枝にひっかけて並べている札の数を数えた。十枚ある。
「先着10名の限定品で、各地にすでに購入者がいるというのに、札はいまここに十枚ある。ということは、一部は偽物なのか?」
新手の登場に、道士がするどい視線を投げてきた。
「なんてことをおっしゃる。各地で皆様が幸福を掴んだことを喜ばれた仙人が、旱天にくるしむ臨烝の街の方のために、あらたに特別に札を書き下ろしてくださったのですぞ! こーれだから田舎の書生さんはいけません」
いまだに書生臭さが抜けていないのかな、とがっかりしつつ、孔明はたずねた。
「泰山の仙人が書いた、という話だが、なんという名前なのかね」
「太極老師とおっしゃる、泰山周辺では、其の名を知らぬ者はない、帝はもちろん、かの曹公も、親以上にこの老師には尽くされている、というほどの高名なお方ですぞ」
「泰山周辺? へえ、わたしは琅邪の出なのだがね、ついぞ其の名は耳にしたことがなかったな」
えっ、と道士が一瞬、答えにつまる。
そうしてから、温和な顔を、急に追いつめられたネズミのように険しくして、顔をまともにこちらに向けてきた。

「知る人ぞ知る、という意味なのですよ、この旱天で町中苦しんでいるさなかに、高価な香油をぷんぷんさせているお方。あなたみたいな人には、このお札のありがたさはわからないでしょう…」
と、言葉の途中で、どんどん声がちいさくなっていく。
道士は、はじめて孔明の面貌を真正面から見たのだ。
格好だけから判断すれば、たしかに書生のような地味なナリをして、若いけれども、その中身は、書生、などと形容するにはもったいない、思わず呑まれてしまいそうな絢爛たる雰囲気をもつ男だとはじめて判ったらしかった。
道士は、それまでろくに孔明の面貌を観察していなかったのである。

道士はうろたえつつも、顔をそむけて、言う。
「ええっと…ともかく、札が穢れます。あちらへ行ってください」
趙雲が身を乗り出しかけたのが、道士の肩越しに見えた。
孔明はそれを目で制する。
「申し訳なかったね。しかしそちらの方に札を売るのはよいが、もし雨が降らなかったら、大変なことになると思うよ」
「ほお? 怖い関係の方々に追いかけられるとか? それならば恐ろしくともなんともございません。わたくしには太極老師という強い味方が…」
「怖い関係の方々とやらを取り締まる人間なのだよ、このお方は。桂陽太守の趙子龍だ」
どよっ、と周囲がどよめき立つ。
道士は絶句し、たちまちその顔色は青くなった。
その後ろで、趙雲が付け加える。
「おまえの言う、田舎の書生とやらが、軍師中郎将の諸葛孔明だ」
道士はますます顔を青くして、孔明と趙雲の顔を交互に見比べる。
趙雲が、一歩、前に進み出た。
「さて、その札を売ってもらおうか」
「売れません! 品切れでございます!」
道士は叫ぶと、そのまま品物を置き去りにして、風のようにぴゅう、と駆け去ってしまった。

その背中を見送りつつ、趙雲が言った。
「出過ぎた真似をしましたかな」
「いいや、ありがとう。あとで屯所へ手配を回しておく。やれやれ、旱天のために詐欺まで横行するとは。ところで子龍、堅苦しいのはやめて、前のようにしてくれないか。役所にいるわけではないのだし」
そうだな、という返事を期待した孔明であるが、趙雲はにべもない。
きっぱり答える。
「出来かねます。前にもお話したはずですぞ。貴殿は劉玄徳の軍師にして、この荊州三郡の統括であられる。そのお方に対し、いくら親しいとはいえ、礼儀に反した態度で接するわけにはまいりませぬ。上が礼儀を守らねば、下もそれに倣い、貴殿を侮るでしょう」
「わたしは侮られているのかね」
「さきほどの詐欺師にも言われたでしょう、書生、と。それがしはそうは思いませぬが、貴殿は若すぎるので、人を見る目のない者からは、ただの白面郎に見えるのです」
理路整然と、核心を突いているだけに、反論がむずかしい。
孔明は、たまに趙雲が武官であることを忘れる。
これで趙雲に愛想があれば、おそらく使者としても十分に通用するだろう。
ただし宣戦布告用。

「桂陽の太守になってから、さらに磨きがかかったな」
と、つぶやいたところへ、見知った顔が、こちらを見ているのに気が付いた。
例の、今朝方、髪を結ってくれた少女であった。
ちいさな驢馬にまたがり、柳の下に立っているのが孔明かどうか、確認しようと身を乗り出している。
名前がないのは不便なものだな、と思いつつ、孔明は大きく手を振って、知らせてやった。
すると少女は、恥ずかしそうに俯きつつ、驢馬と一緒にこちらにやってきた。
「お忙しいのに申し訳ありません。家令さんが、旦那さまにこちらをお持ちするように、と」
それは更衣のための着物一式であった。
今朝方は髪を結うのに時間がかかってしまったため、出掛けにばたばたしてしまい、いろいろ忘れ物をしていたのである。
李じいさんは、孔明が出て行ったあと、それに気付いて、名無しの少女に追いかけさせたのだ。
少女は、着物を渡しつつ、上目遣いで孔明の頭を見た。
「髪…」
いかん。
「ああ、これは、木の枝に髪をひっかけてしまってね」
「え? 今朝から…」
変わらないでしょう、といつものごとく、物事を糺そうとする朴念仁の趙雲の袖を引っ張り、孔明は言葉を止めさせた。
少女は、すこしほっとしたようだった。
そうして、孔明をふたたび上目遣いで見て、眉根を寄せる。
「その御札は…旦那さまが書かれたものなのですか?」
孔明の頭上には、さきほどのニセ道士が柳にひっかけたまま、ほったらかしにしていた札がひらひらとそよ風に舞っている。
「これは詐欺師の忘れ物だ。もしかしたら雨が降るかもしれない。試しに一枚持って帰って、戸口に貼っておいたらどうかな」
趙雲がしかめ面をして、孔明のことばを諌める。
「戯言を。軍師中郎将ともあろう者が、くだらぬ詐欺にひっかかったと、よからぬ噂が立ちますぞ」
「冒険心の賜物とは見てもらえないかな」
からからと笑う孔明に、少女は顔を伏せたまま、言った。
「でも、効くかもしれません…一枚、ください。わたしの部屋に貼ってみます」
迷信深い子なのかなと思いつつ、孔明は柳にぶらさがっている御札を一枚、少女に与えた。
すると少女は、大事そうにそれを抱えると、ぺこりと頭を下げて驢馬を引いて去っていった。

「いまの娘は、貴殿の屋敷の者ですか?」
「厨で働いている飯炊き女でね。名前がないので現在考案中だ」
ふむ、と言ったきり、趙雲は少女の去っていったほうをじっと眺めている。
武器をもたぬ者に感心をもつなど、珍しいこともあるものだ。
孔明は趙雲に尋ねた。
「なにか気にかかることでも?」
「そうではないが…愛らしいと思いましたので」
「…は?」
間抜けな声が、つい漏れた。
「愛らしい?」
鸚鵡返しにした孔明に、趙雲が気味悪そうに顔を向ける。
「如何しました、なぜそんな素っ頓狂な顔をしておられる?」
「わからないか」
「わかりませぬ」
趙雲は誤魔化しているのではなく、ほんとうに判らないらしい。
同じ主公を掲げて働き、すでに二年ちかく。
劉備の配下のなかでは…いや、劉備を除いては、いままで出会った中では、もっとも気心のしれている人間だと思っている。
しかしいままで、可愛らしいだの、美しいだの、華麗だのといった女性に対する美辞麗句が、この男の口から出たのを聞いたことは一度もない。
今日は本当に雨が降るのではないか、と孔明は炎天下に思った。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2004)

浮漚の記 1

2020年04月27日 09時38分51秒 | 浮漚の記
孔明は、まだ朝も明けきらないうちに目が覚めた。
それというのも、このところの旱天で、陳情が絶えず、夜半過ぎまで処理に追われており、結局、うつらうつらとしか眠っていないためでもある。
「酷い顔だな」
と、水がめに映えたおのれの顔につぶやいてみる。
もともと食が細いうえに、熱中しやすい性質である。
自分が最後に食事をしたのがいつであったか覚えていない。
くわえて、睡眠不足。
丈夫なほうではないから、これではみずから身体を壊しにかかっているようなものだ。

主の目覚めに気付いたか、家令が部屋にあらわれた。
おはよう、と声をかけようとして、言葉が止まる。
いつもの家令ではなかった。
長い黒髪を、後ろで一つにまとめて、器用にねじらせ、垂らしている、十四、五歳くらいの少女である。
「李さんは腰を痛めまして、本日はお休みをしております」
 と、少女はか細い声で言った。
伏せ目勝ちの、長く濃い睫毛が目立つ少女である。
地味にしているが、着飾ればなかなかの美女になりそうな。
「御髪を整えさせてください」
少女は言うと、孔明の髪を整えにかかった。
震える手で、髪に櫛をかけていく。
緊張している様子だ。
おそらく古株の家人から、うちの主人は気むずかしいと言い含められているのだろう。
気むずかしいのは認めるが、理不尽に辛く当たることはない。

少女の緊張をほぐすため、孔明は声をかけた。
「おまえはいつからこの屋敷にいるのだっけ?」
「はい。一月ほど前からでございます」
厨の下働きとして雇ったおり、家令とあいさつにやってきたのをかすかにおぼえている。
「ここは楽な奉公場所であろう? わたしは食道楽とは無縁だからな。口に入ればとりあえず文句は言わぬ」
冗談を言ったつもりであったが、少女はにこりともせず、むしろ辛そうに顔を伏せた。
「もうしわけございません。わたしの腕が悪いから」
「そうではない。出されたものが不味いと思ったことはないぞ。それとも、そんなふうにおまえを苛める者がいるのかね」
少女は、あ、と小さくうめくように言って、櫛を動かす手を止めた。
孔明は軽くため息をつく。

赤壁において孫権と同盟を組み、首尾よく江南の地を手に入れ、孔明は劉備の命により、臨烝に居をかまえた。
あらたに屋敷を得て、家人もそろえたのであるが、家を取り仕切る妻が不在のためか、屋敷は古株の使用人が、どうしても幅を利かせてしまう。
いま孔明の屋敷で切り盛りを担当しているのは家令の李じいさんであるが、これが気持ちの空回りする性質のじいさんで、張り切っては身体を壊してすぐ寝込む。
代わりに出張っているのが厨の料理女なのであるが、これが性格のきつい寡婦で、気に入らない家人をことごとくいびっているらしい。

「わたし、役立たずなんです」
と、消え入りそうな声で少女は言い、髪を結うために油を髪に塗る。
塗りすぎだ、と孔明は思ったが、いま注意したら泣き出すのは必至であったので、黙っていることにした。
話を変えよう。
「そういえば、おまえの名前はなんであったかな?」
「名前…ありません」
「ない? では、みなはおまえをどう呼んでいるのだい?」
「厨の子と」
「ここに来る前は、なんと?」
「…」
背後に立った少女から、真っ黒い雲がもやもやと現われているように感じるのは気のせいか? 
「厨の子ではあんまりだな。なにかよい名前を考えてやろう。待っていなさい」
「そんな…」
「嫌かね?」
「嫌ではありません。でも、ご迷惑では、と」
「迷惑ではないよ。気がまぎれるし、名前を考えたりするのは好きだ。楽しみにまっておいで」
言うと、少女は、ようやく笑みらしきものを口はしに浮かべた。
感情の読み取りにくい少女だ。
手の震えはおさまったものの、みずから告白したとおり、役立たず、という言葉は間違いでなかったようで、出来上がった髪は、いつもより納まりがわるかった。

仕方ない。

恐縮する少女に、もうよいから、と言って、孔明はとりあえず、かるく朝餉を口にして、馬車に乗り込むと、見送りに出ている家人たちの目に触れないところまで来たのを確認してから、すでに崩壊の兆しをみせている結髪の上に、頭巾をかぶせた。





「しばらく見ないうちに、ずいぶんおやつれになられた」
開口いちばん、桂陽からやってきた趙子龍はそういった。
それはそうだろう。
孔明は、身だしなみに特別な注意を払っている。
おのれの容姿の良さと雰囲気が、どれだけ周囲に影響力を与えているか、よくわかっているからだ。
だから、どんなに忙しいときでも、たとえ敵陣の中にあったとしても、身だしなみに手を抜いたことはない。
どこから見られてもよいように計算し、常に他者の目を意識している。
だから、今朝のように、隠者のかぶるような頭巾をし、顔色の冴えない様子というのはめずらしいので、悪目立ちするのだ。

「いろいろ事情があるのでな」
「無理をなさるな。風呂に入る暇もないのですか」
「ふむ…香油はそんなにきついかな」
例の少女が、髪を結うさいに、加減がわからず、たっぷりと香油をふりかけてくれたおかげで、おのれでも眉をしかめるくらいに、今日は匂いがきつくなっている。
悪い匂いではありませんが、と趙雲は言い足した。

孔明が軍師中郎将として荊州の三郡を統治するようになって以来、趙雲はいままでの、同胞にするような気さくな態度はあらためて、礼にかなった態度と言葉遣いをするようになった。
とはいえ、その間柄に変化があったわけではない。
ひさしぶりに遠慮のない会話ができる相手がやってきたので、孔明の表情も、ついゆるむ。
「ところで、新しい井戸のほうはどうだ?」
「あまり気が進みませぬが、道士を雇って水脈を探らせているところです。蛇の道は蛇。もしかしたら上手くいくかもしれません」
「弱気だな」
孔明が揶揄するように言うと、趙雲は、腕を組み、口をヘの字に曲げた。
「弱気にもなります。このところ陳情が耐えないのです。やれ、隣家が農地の境界線を越して収穫を取ってしまっただの、よそものが水路を勝手につかって困るだの、流民が盗賊のまねごとをしているから退治してくれだの。趙範がいままで如何になにもしてこなかったかよく判り申した」
その苦りきった様子に、思わず孔明は声をたてて笑った。
臨烝の文官たちは、その声におどろいて、こちらを振り返る。

孔明は、おのれは感情の起伏のはげしい人間だと思っている。
だからこそ普段はつとめて感情を表に出さないようにしていた。
冷静沈着に見えるのは、冷冷とした己の風貌に拠るところが大きい。

文官たちがおっかなびっくりと孔明の様子を窺っているのを見て、今度は趙雲が苦笑する。
「すいぶん怖がられているようですな。舐められるよりはよいが」
「上に立つものは嫌われ役でもあるのさ。好かれるのは主公お一人だけでよい。
桂陽のほうはどうだ?」
「趙範の取り巻きと、それがしが連れてきた人間とで派閥が出来つつあります。この調整に手間取っております」
趙雲が弱音を吐く、などということは、それこそ真夏に雪が降るくらいにめずらしい。
疲れているのだろう。
おのれの弱気がおかしくなったのか、苦笑いを浮かべ、趙雲は付け加えた。
「今日、こちらにやってきたのも、報告がてらに息抜きをしに来たというのもあるのです」
「ならばゆっくりしていくといい。そうだ、臨烝の町はあまり見ていないのだろう? 視察に行くので、一緒に来ないか」


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2004)

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