はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

梁甫のギンギラギン 2 ~なぜわたしは再び天下を夢見るに至ったか~

2019年09月21日 09時40分33秒 | 臥龍的陣・番外編 梁甫のギンギラギン
蝋燭の火を消すことはなかろうと趙雲は判断し、寝台にてその細長い体を横たえる軍師の体に布団をかけてやり、自分は、あしたのための荷造りをはじめた。
趙雲は、後悔をしていた。
孔明のいうとおり、狭い室内にいて悶々としていると、どうしたって気持ちが塞ぐ。
そのために、理不尽な苛立ちを孔明にぶつけてしまったのだ。
孔明が自分を嫌っているはずはないと知っていたのだから、あんな厭味を言うのではなかった。
 
諸葛孔明という人物は、わかりやすそうで非常にわかりにくい。
見た目の派手さと名前の印象がつよすぎて、きらびやかで鼻持ちならない生意気な若造、と誤解されがちであるが(事実、趙雲も最初はそう思っていた)、実は純粋で責任感がつよく、情が深いのである。
鼻持ちならないのは虚栄ではなく、自分に愛情をそそいでくれた人々を信頼しているからだ。彼らの期待にこたえるために、かれらの理想の形に向かって、孔明は日々、努力をしつづける。
凡人が、「自分は自分なのだ」と常套句に逃げ込んで、努力をやめてしまうところを、孔明はやめない。たとえその姿が滑稽だと笑われても、気にしない。
孔明は努力する、という能力にかけての天才なのである。はじめから、天分に恵まれて、なにもかもこなすことのできる天才なのではない。
劉備の軍師になってからも、必死で見えない努力をつづけてきた。
わずか数ヶ月の間に、これほど人格、能力ともにみずからを成長させた人間を、趙雲は知らない。
だからこそ、築き上げてきたものが、他者によって崩されようとすれば、その怒りも強くなるはずである。
だが、孔明はすこしもそんな素振りをみせない。
 
「莫迦だな」
そうつぶやいて、答があるわけではないが、趙雲は荷造りの手を止め、眠る孔明のほうへ目を向けた。
実は、孔明にはあえて話していないことがある。
朱季南と遭遇した夜、じつは、もうひとり、知り合いに会っていたのである。
とはいえ、その人物は、『壷中』にはまるで関連がない。だから黙っていた。

趙雲が遭遇したのは、馬良であった。
見間違いようのない、特徴のある顔である。
その色素の薄い眉はそのままで、新野の町を、兄弟らしい、面差しのよく似た少年と肩をならべて歩いていた。
趙雲が声をかけると、それまでほろ酔い加減であった馬良は、たちまち顔を強ばらせた。
そうして、第一声がこうだった。
「孔明は、ここにいるのですか?」
「いいえ、軍師はおりません」
と、趙雲が答えると、馬良は、安堵した顔となった。が、それもつかの間、ふたたび顔を曇らせると、縋るようにして、訴えてきた。
「趙雲どの、どうかわたしと会ったことは、孔明には言わないでください」
「なぜです?」
そうして、馬良は、とつぜん夢から覚めたように、はっとなった。
馬良は、いまのいままで酔っていたのだ。
孔明に言うな、ということも、酔った上での失言だった。
趙雲は、馬良の態度に、直感的に不快感をおぼえた。
心に疚しさを抱える者特有の、どこか媚びるような眼差しを送ってきたからだ。
馬良はしどろもどろになりつつも、趙雲に言った。
「不躾なお願いをするやつと蔑んでおられることでしょう。じつは、孔明には弟が病で、その看病で出仕できぬと話をしてあるのです。今日は、その、久方ぶりにお表の空気を吸おうと押し切られて…いえ、もちろん、体によいわけではないのですが…」
趙雲は、馬良のうしろにひかえる、どこか驕慢そうな少年をちらりと見た。
まだ年若いのに世慣れた雰囲気があり、酒が入っているためか、桜色に頬が上気している。その眼差しは鋭く、並みの少年とは思われないほどの風格であったが、趙雲はひと目見て、嫌悪感を抱いた。
少年は、趙雲はめったに人を好悪の感情で振り分けないのであるが、その少年はちがった。
なんだかしらないが気に食わない。

少年は、趙雲と目が合うと、やれやれというふうに、口を挟んだ。
「兄上、そちらの方はどなたなのですか?」
馬良が説明しようとするより先に、趙雲は口をひらいた。
「おれの名は趙子龍。諸葛孔明の主騎だ。貴殿が病身の弟御か。夜遊びができるほどに回復してなによりだな」
趙雲の言葉に、馬良は顔を真っ赤にしてうつむき、弟のほうは、まずった、というふうに顔をしかめた。
「他言はいたさぬ。軍師の職務の邪魔になるからな。弟御の病が完全に治られてから、軍師のもとへ来られるがよい」
そうして、馬良に背を向けた趙雲であるが、そこへ、弟のほうの声が追いかけてきた。
「お待ちを、趙将軍。兄を足止めしているのは、このわたくしです」
趙雲は振り返り、近づいてきた弟を見た。
しおらしい言葉を吐いて、あわれっぽく訴えてくる。
趙雲は、ふざけるなと怒鳴りたくなるのを我慢しなければならなかった。
少年の態度には誠実さの欠片もなく、どういう言葉を吐けば、相手を意のままにできるか、そのことばかり考えているような類いの、実際の努力はなにひとつしない人間のそれであったからだ。
「兄を責めないでやってください。兄の身を心配するあまり、嫌がる兄に無理を言って、軍師に嘘をつかせたのはこのわたくしなのです」
まだ若いだろうに、これでは先が思いやられるな、とむしろ同情しつつ、趙雲は忍耐力を示して答えた。
「事情はあいわかった。おれの言葉は変わらぬ」
「兄を軽蔑しないでください。悪いのは、このわたくしなのですから」
それを聞いて趙雲は、吹き出すのをこらえるのに苦労した。
馬良の弟は、健気なことばを口にするのであるが、その表情が、まるで言葉に似合っていないのだ。
その表情は、あきらかに本音を語っていた。
『おまえのような猪武者に、わが兄弟の世渡りがわかってたまるか』
と。
くだらぬ。心底、くだらぬ。
「貴殿が悪いのであれば、兄君も悪い、ということではないかな。貴殿のように浅知恵をふるう弟を、野放しにしておられるのであるから」
「な」
馬良の弟が絶句したついでに、趙雲はついでに馬良に言った。
「おれに口止めをする前に、おのれの行動を反省なさるがよろしいでしょう。わが君にお仕えするには、相当の覚悟を要します。ですから、二の足を踏まれる貴殿のお心はわからないでもない。しかし、病気の弟の看病をすると嘘をついたのであれば、最後までその嘘を完璧に通されたら如何か。病身であるはずの弟と、夜歩きをするなどもってのほか。なにごとも半端というものは、不様きわまりない」
「嘘を突き通せ?」
「左様。主公にお仕えすることに、まだ迷いがあるのなら、なぜ率直に軍師に打ち明けないのか、それがおれには理解しかねるところだが。しかしそれが貴殿らの世渡りの仕方というのであれば、おれが口を出すところではない。おれは他言せぬ。他言したところで、軍師が悲しまれるだけだ」

ほんとうに、がっかりするだろうな、と趙雲は思った。
孔明が新野で孤軍奮闘しているのは、周知の事実である。
糜芳や孫乾などの古参の文官たちが、孔明の実力を知り、だんだん協力的になってきてはいるが、しかしまだ人が足りない。
孔明が、馬良が幕下に加わってくれるのだ、と語ったときの、うれしそうな様子を思い出すと、だんだん腹が立ってきた。

「半端な覚悟で主公の側にいられては、軍師の負担が増えるだけだ」
「われらが劉予州にとって、不要な人材だと? あなたはご存じないかもしれないが、わたしは…」
「馬家の五良。その末の弟君であろう。しかし、もっともよしと謳われる兄上すら、斯様にこそこそと夜道を歩く人間であるならば、その程度もしれる、ということではないのかな」
趙雲の言葉に、馬良は真っ赤になってうつむいている。
気の弱い男だな、と趙雲は思った。
見たところ、気の弱い兄を、負けん気の強い弟が、いいように言いくるめているように見える。
もし馬良が孔明ならば、傲然と面をあげて、真正面から双眸を見据えて、堂々と反論してくるだろうに。
「たかが武人になにがわかるというのです。諸葛孔明は、われらの同輩。水鏡先生の塾でも、成績は兄上のほうが上だったのですよ。それでもわれらが劉予州にとって不用だと申されるのか」
馬良の弟が憤慨して問うてくる。
趙雲は深くうなずいた。
「これ以上、くだらぬ問答に付きあわせないでくれ。軍師はわれらに必要な人間だが、貴殿らはそうではない。それだけの話だ。それでは、失礼する」
「もしかしたら、わたしは諸葛孔明より優れた人間かもしれませんよ!」
馬良の弟はまだ議論をふっかけてきたが、もう趙雲は相手にしなかった。
答えるまでもなかった。
塾の成績とやらはどうだかしらないが、そもそもの、人間としての器からしてちがう、と。
 




もしかしたら孔明は、馬家の事情を知っているのかもしれないな、と趙雲は思った。
孔明は、人の心の動きには、おどろくほど敏い。
知っていながらも、黙って飲み込んでいるのかもしれない。
趙雲が、馬兄弟と会ったことを話しても、
「知っていたとも」
のひと言で終わるような気がする。
拍子抜けした趙雲の顔を見て、孔明は笑うだろう。
だが、実際は心の内で泣いているのだ。 





もし、孔明ともっと若いころに出会っていたなら、自分はどうなっていただろう、と趙雲は想像してみる。
もっと若くて、怖いもの知らずのときに出会っていたら、孔明を担ぎ出し、江東の小覇王のように、天下を目指して打って出ただろうか。
危険な夢想であったが、趙雲は、すでに色あせ、残滓すらない過去の風景に、孔明がいたならば、と考えて見る。
それは、劉備の代わりに、自分が孔明を得ていたら…という夢想でもあったが、当然、趙雲の中には、劉備にたいする叛意など微塵もない。
しかし趙雲の夢想を咎めることができる人間などいるだろうか。
男子として生をうけて、この乱世に生まれ、抜群の武芸の才にくわえ、兵卒を率いる才能にもめぐまれたなら、だれでも夢見るだろう。
つまり、天下を取ってみたい、と。
趙雲の場合、その野望は、少年期において断念されていた。
公孫瓚の、あまりに無残な滅亡を目の当たりにしたからである。
そして、劉備に出会ったことも原因のひとつであった。
とても、あの巨大な器に追いつけるとは思えず、圧倒されてしまったのだ。
自分は天下の器に届かない。
だが、もっと早い時期に孔明と出会っていたなら…この龍の中にある、劉備に勝るともおとらない大器を見出していたならば、これを守り育て、天下を目指したのではないだろうか。

しかし、趙雲は、袞服を身にまとった孔明を想像することが、どうしてもできなかった。
さぞ似合わないだろうな、とさえ思った。
孔明の夢想する天下を、現実のものとして見てみたい気がしたが、やはり皇帝としての孔明の姿は、頭の中で立ち上げることができなかった。
趙雲は、孔明をうまく皇帝という枠にはめようと、あれこれ頭の中で苦心するおのれに苦笑した。
莫迦だな、ともう一度、趙雲はつぶやいた。
自分は、こんな無意味な空想に熱心になれる男ではなかったはずだ。
  
趙雲は、寝台の傍らの壁に背中をつけ、孔明を守るようにしてすぐそばに座り込んだ。
間近で孔明のやすらかな寝息が聞こえた。
自分の守る者の存在を闇の向こう側に感じつつ、趙雲は目を閉じた。


おわり

孤月的陣・花の章へつづきます。

(サイト初掲載年月日 2005/8/7)

梁甫のギンギラギン

2019年09月21日 09時37分22秒 | 臥龍的陣・番外編 梁甫のギンギラギン
たしかにできうるかぎり、気を逸らしてくれ、と言ったとも。
だが、こんなに異様に盛り上がれと、だれが言った?

「おひさー!」
と、頭にハチマキをして、なんらかの余興のあとの残る、ほっぺたの渦巻き型の紅もそのままに、伊籍は孔明が部屋に入ってくるなり、そう言った。
もともと明るい男であるが、いまは「底抜けに陽気」の「底」が補修不可能なほどに抜け、知性も理性もぜんぶなくなってしまった様子である。
 
樊城にて、趙雲の部下が、劉琦の側近を暗殺した。
その報をうけ、樊城と新野…つまり劉表と劉備の緊張状態をすこしでもやわらげるために、伊籍は使者として、劉琦より新野へ派遣されてきた。
趙雲から、あらかたの事情を聞いた孔明は、この暗殺事件が、なにものかの陰謀によるものだ、と推理した。
しかし「なにもの」なのか、正体が絞り込めない。
そこで、樊城にてとらわれの身になっている趙雲の側近、斐仁を尋問する許可を、伊籍から取り付けようと考えた。
趙雲は、どちらかといえば周囲に好かれる男であるが、光が濃ければ影も濃い、のたとえのとおり、趙雲を快く思わない人間も多々いる。
そういった人間が、この事態を利用して、趙雲を追放しようと動きつつあることに、孔明は気づいていた。
たったひとつの言葉でも、あげつらって追放の理由にするかもしれない。
孔明は、じつのところ武将というものが苦手であったが、趙雲は別格であった。
武芸の才もさることながら、柔軟さと語らずともにじみでる知性が気に入っていたので、くだらぬ嫉妬心のために趙雲を失いたくなかったのだ。
孔明は、あまりに整いすぎた容姿と、すっぱり切り捨てるような明快な言動のために、物事を割り切った冷たい青年のように思われがちであるが、実はそうではない。
少年期から、叔父や徐庶をはじめとする、数々の男気にあふれた人間に助けられて生きていた。
そういった人間の心地よさや、かれらへの敬慕の念を忘れていなかった。
だから、身を捨てて警護をしてくれた武人を、保身のために見捨てる、などという、忘恩はなはだしい真似はできない。
もし趙雲を助けられず、おのれも連座で罪に問われるようなことがあれば、それでもかまわない、とさえ思っていた。
手をこまねいて、先の見えない状態にぐずぐずしているのは孔明のやり方ではない。 
趙雲の巻き込まれたこの惨劇の正体を、伊籍より先に掌握すること。
それが、孔明がまっさきに考えたことである。
そこで、劉備に頼み、伊籍が趙雲に気持ちを集中させないように、気を逸らしてほしいと劉備にたのんだのだ。

が。
孔明は、酒と料理の臭いのぷんとする部屋の、だらしなく着物の前をはだけて、
「もう飲めねぇ」
などと呂律が回らない舌で、ご機嫌な様子でにたにたしながらつぶやく三人組を見た。
「軍師どの! あいかわらず貴殿はまばゆいですなぁ!」
といいつつ、伊籍は抱きついてきた。酒が入ると、伊籍は、やたらと人に抱きつきたがるのである。
ちらりと見ると、部屋の片隅では、宴のために呼ばれた楽団一座が、もう、うんざり、といった顔で、しょぼしょぼと流行の曲を奏でている。しかし、張飛のすさまじいいびきのために、旋律はところどころかき消されていた。
「ららららー♪」
と、劉備は、せっかく楽団が奏でてくれている曲とはぜんぜんちがう唄を歌いつつ、孔明のほうに手を振った。
 おお、おまえも参加しに来たのか。料理はほとんど食っちまったけど、酒はまだあるぜ。そうだ、子龍も呼んで来い!」
孔明はぎょっとした。この宴は、伊籍の注意を趙雲から逸らすためのものだ。
趙雲の話はだいたい聞き終わったが、伊籍が自分も話を聞きたいと言い出したら、厄介だ。
孔明は、斐仁から一刻も早く話を聞かねばならない、と考えていたので、伊籍に足止めをされるのは避けたかったのである。
「子龍どのはあいかわらずお元気そうで」
と、孔明にべったり張り付いたままの伊籍が酒臭い息をはきつつ言った。孔明が、はあ、と生返事すると、伊籍はなにがおかしいのか、ケタケタと笑った。
これはもしかして、すばらしい機会を得ているのではなかろうか。
孔明は、足元がふらつく伊籍を支えてやり、言った。
「機伯どの、お願いがございます。われらが樊城へ向かうお許しを取っていただけませぬか。斐仁に会いたいのです」
「樊城? 樊城はダメですよ。いや、なにがダメって、あそこの女は化粧ばっかり厚くて」
「いえ、女の話ではありません。斐仁を尋問させていただきたい。おわかりか?」
「沈む陽もあれば昇る陽もある」
「はあ」
「いくら奥さんが醜女だからって、人生、ヤケになっちゃいけません。鏡をご覧なさい、鏡を。美人が見たけりゃ、ご自分の顔でもうおなかいっぱいでしょう。いいなあ、美形は、安上がりで! わたし? わたしは十人並みですよ。いやいや、お世辞は結構です」
 部屋には、伊籍と三兄弟、孔明と楽団しかいない。ほかにも客がいた様子だが、宴が長引いたので、だんだんと人が減っていったのだ。
それなのに、伊籍は見えないだれかに話をしているふうなので、孔明は気味が悪くなり、たずねた。
「だれかほかにいるのですか」
「いますよ。軍師のうしろ。はじめまして。伊機伯と申します」
思わず背筋がさむくなり、うしろを振り返ると、とたんに伊籍がゲタゲタと品のない笑い声をたてた。
「引っかかりましたなあ! ははは、樊城で流行の悪戯でしたー!」
孔明は伊籍を寄り投げにしたい誘惑にかられたが、必死で思いとどまった。
「機伯どの、もう一度、申し上げます。とても大事なことなので、よく聞いていただきたい。斐仁に会わせてください。よろしいか?」
すると、いつの間にやってきていたのか、劉備が、伊籍の真横に立って、その肩をがっちり掴む。そうして言った。
「大事なことを、タダで聞いてあげるなんてもったいないよなあ!」
「主公?」
見ると、劉備の目も、伊籍に負けず劣らず酔いが回ってぐるぐるである。この状況がおわかりか、と孔明は目で合図するのだが、劉備にはとんと通じず、伊籍と肩を組んで、らららー♪と調子外れの唄を歌いだすのであった。
「よし、思いついた! どうだ、孔明、なにか余興をやって、それがおれらに受けたら、機伯どのは、いうことを聞く!」
なにを馬鹿なことを、と反論するより早く、ぐうぐう眠っていたはずの関羽と張飛が起き上がり、盛大に拍手を送ってきた。
「おう、そりゃあいい考えだ! 軍師、なんかやってくれよ!」
「うむ、軍師が余興に興じたところを見たところがない。ぜひ、お願いしたい」
劉備と伊籍に至っては、「余興! 余興!」と囃したてながら、あやしい手ぶりで踊り始めた。
「あの、普通に取引をさせてはいただけないのですか?」
「カタい! カタいよ、おまえは! ここは宴席だぞ。宴席には宴席のやり方というものがある。さあ、唄でも踊りでもなんでもこい!」
劉備の言葉にあわせて、今度は張飛と関羽までも「余興! 余興!」と囃しはじめた。これで断ったら、かえって場がしらけて、まとまるものもまとまらなくなる。
よし。
孔明は、ふうっと息を吐くと、楽団に言った。
「そなたら、梁父の吟はわかるか」
すると、楽団のうち、琴を担当する楽師が手を挙げた。
孔明は、自分の歌声に自信がある。司馬徳操の私塾での友人はすくなかったが(というより、ほとんど渡る世間は鬼ばかりという状況であったが)それでも孔明が歌いだすと、みな感動し、惜しみない拍手をくれたものである。
驚愕のうちに聞け!
孔明は大きく息を吸い込み、そして歌いだした。

「歩して斉の城門を出で
 遥に望む 蕩陰の里
 里中に三墳有り
 塁塁として正に相い似たり
 問う是れ誰が家の墓ぞ
 田疆古冶氏
 力能く南山を排し
 文能く地紀を絶つ
 一朝讒言を被り
 二桃三士を殺す
 誰か能く此の謀を為せる
 国相斉の晏子なり」

(要するになにかというと、春秋の斉の国の名相晏平仲は、主君の景公にお願いして、公孫接、田開疆、古冶子の三士に二個の桃を与えた。
晏子は三士に 「きみらは自分の功績の、いったい何の根拠をもって、その桃を食べるのだね」とたずねた。

公孫接は「猛獣を一撃で捕える力があるためさ」と答える。
田開疆は「戦場にて、伏兵の計で敵を混乱させ、多くの降伏者を得たことだ」と言う。
古冶子は「それがしは主公に従って黄河を渡った時、大亀が主公の馬をくわえて河に入ったので、大亀を退治し(よく息が続いたものである)、馬の尾を握って地上へ戻ってきた。
実は大亀は、河伯(河童の起源、とも言われています)と言う黄河の神であったのだ」と答えた。
それを聞いた二士は、「大亀には勝てねぇ!」と言ったかどうかはともかくとして、古冶士に及ばないのに、桃を食うのは、卑しいことだと考た。
そして、桃を受け取った以上、おのれの貪欲の不名誉を受けて死なければ、勇気がないことになる、というので自殺してしまった。
古冶子は、ほかの二人が死んだのに、自分が生きているのは不仁であり、彼らを貶めておのればかりが名声を得るのは、不義である。
結果として、こんな遺憾な行いとなってしまったのだから、それでも生きながらえるのは、勇気が無いことになると考え、自刎した。

じつは、景公は、勇者でありながらも驕慢になりつつあった三士をもてあましていたのである。方々から苦情が寄せられ、三士の処遇に悩んでいたのだ。
そこへ、宰相の、晏子が智慧を出して、桃を使って策略を遂げたのである。
ガメラを倒す勇者より、智恵だけで三人ともあっさり亡き者にしてしまった晏子のほうが強いね、怖いね、見習おうね、というお話。しかし人格的に如何なものか)

どうだ!
と、孔明は歌い終わると、誇らしげに宴席を見回した。
が、予想していた拍手は、楽師たちからぽつぽつと寄せられるだけで、肝心要の劉備たちは、どんよりした重い空気に包まれて、うなだれている。
「暗い! 暗いよ、おまえ!」
と、劉備が言った。
「なんだってそんな陰険なヤロウの自慢話の唄なんぞ歌うのだ。三人の勇者がかわいそうじゃねぇか!」
と、憤慨したあと、ぴたりと、なにかに気付いて考え込む。
「うん? 三人? ちょっと待った。点呼! いち!」
「に!」
とこれは張飛。
「さん!」
と、重々しく関羽。
「よん!」
と、元気いっぱいに両手を挙げて伊籍。
「三だ!」
しかし伊籍の点呼は無視された。
「孔明、おまえ、おれたちを桃で殺そうなんて画策しているのじゃねぇだろうな! こえぇ、もうこいつの前で桃は食っちゃならねぇ!」
「予告された殺人の記録だ!」
と、めずらしく張飛が知性のある発言をした。どこかで聞いたことのある文句ではあるが。
「左様なことを、考えているはずがないでしょうが。だいたい、亡き者にしようとしている相手に、わざわざ殺人計画を打ち明ける馬鹿者がどこにいるのです! 単にこの唄は、節回しがきれいだから歌っているだけございます!」
「裏の裏をかいたのかもしれぬ」
と、もっともらしく関羽が言う。どんなに根拠のない発言でも、関羽が口にすると、それらしく聞こえてくるから不思議だ。
「あなたがたを亡き者にしたところで、利益なんてどこにもございません。むしろ葬式を出すのが手間です」
「酷い、これは失言だ!」
劉備が言うと、ほかの三人もおおはしゃぎして、「失言! 失言!」と言いながらあたりをぐるぐる回り始めた。
「ああ、うるさい! ほら、わたくしはちゃんと余興をこなしましたぞ! 機伯どの、お約束は守っていただけるのでしょうな?」
すると、伊籍はぴたりと立ち止まり、ぽかんとして孔明を見た。
「へ? 何のことでありますか?」
どうやらぐるぐる回っているうちに、先刻のことをすべて忘れてしまったらしかった。どうせなら名前すら忘れてしまうほどにぼこぼこにしたい誘惑にかられたが、これも孔明は我慢した。
「樊城へわたしどもが伺い、斐仁に直接話を聞く、という件です!」
「そうなさればよろしいでしょう」
「まことによろしいのですか?」
「んー、どうでしょうね。いいのか悪いのか…」
「どっちです!」
「よおし、それなら呑み比べで勝負!」
と、脇から劉備がにゅっと顔をだし、酒を孔明に突き出してきた。
「先に酔いつぶれたほうの負け! さあ、孔明、飲め!」
劉備が差し出す杯を、いやいやながら孔明が受け取ると、ほかの三人は奇声をあげて、ふたたび奇妙な踊りを踊りだした。
食事か酒に、あやしい薬でも混ざっていたのではないかと孔明は不安になった。
「お待ちを。この杯、使い差しではありませぬか?」
「おまえは神経質すぎ! 大丈夫、死にやしないから!」
「…新しいのに替えてください」
そうして、孔明は杯をぐいっと飲み干した。つぎつぎと徳利からあふれる酒。盛り上げろ、と叫びつつ、張飛が楽団ににぎやかな曲を所望し、劉備が関係のないところで歌う。関羽はマメなところを見せて、あちこちに散らばった杯や皿を拾ってひとつにまとめているのだが、片づけがおわると、なぜだかまたぐしゃぐしゃにして、また同じことを繰り返している。
伊籍は、
「もー、本当は樊城になんて帰りたくないんですよー。公子のことがなけりゃ、こっちに来るのになあ」
と愚痴っている。
なにがなにやらわからないまま、孔明は意地になって杯を飲み干しつづけた。

そうして数刻後…
勝った!
孔明は、意気揚々と、部屋の中を見回した。立っているものは、自分のほかにはいない。四人の酔いつぶれた男たちは、床にだらしなく横たわっている。
散乱した酒瓶と皿、そして杯。
楽師たちは、
「もうわたしたちをお城に呼ばないでください」
と言い捨てて帰っていった。
部屋の外では、怖怖と、様子を見に来た孫乾たちが、隙間からこちらをうかがっている。
孔明は、ふらふらになった足をなんとか励ましつつ、ぐうぐうと気持ち良さそうに眠っている伊籍の肩を揺り動かした。
「機伯どの、お約束ですぞ、斐仁の件、承知してくださいますな?」
しかし、伊籍は、ぐにゃ、とか、むにゃ、とか、人語以外のことばを漏らすばかりである。これでは意味がない。
「孫乾どの!」
いきなりするどく孔明に呼ばれ、部屋の外でおろおろしていた孫乾は、声をひっくり返らせて、返事をした。
「如何なされましたか、軍師」
「紙と朱を所望いたします。すぐにご用意いただきたい」
孫乾は、孔明の言うとおり、すぐに紙を調達してきた。それを受け取ると、孔明は、目の前の酔いつぶれる伊籍に言った。
「機伯どの、斐仁の件、承服いただけますな? もしよろしいというのであれば、この紙に捺印をいただきたい」 
伊籍はなにか返事をしたようであるが、なにを言ったかは解読できなかった。孔明は、朱を伊籍の手に塗りつけると、ふたたび言った。
「機伯どの、お手!」
すると、伊籍は右手をぽん、と紙の上に置いた。首尾は上々。みごとな誓紙が出来上がった。孔明は会心の笑みを浮かべた。
「これでよし! わたしはもう眠ります。明朝には樊城へ向かいますゆえ、準備をお願いしたのですが、よろしいか?」
「それはかまいませぬが、軍師、機伯どのはそれで納得いたしましょうや?」
「します。させます。ええ、納得していただきますとも。こちらには誓紙があるのですからね」
あきれる孫乾たちの視線を感じつつ、孔明は部屋を出た。大丈夫でございますかと声をかけられて、
「一日一歩、日々前進」
と意味不明の返事をしたらしいが、記憶に残っていない。

孔明はふらふらとした足取りで兵舎へ戻ってきた。
途中まで、主簿としてつかっている文官が付き添い、兵舎についたあとは、趙雲につけていた武官がむかえてくれた。
「ただいま」
と、扉をひらくと、ちいさな蝋燭を相手に、まんじりともせず、考え込んでいるふうであった趙雲が顔を上げた。
「おかえり」
孔明の言葉に、瞬間的に反応して言葉が出たらしいが、つぎに瞬間、訝しげに首をひねっている。
「暗い、暗いぞ、子龍」
劉備の口真似をして、孔明は水差しの水を取る。簡素きわまりないぶっきらぼうな部屋の中で、眠りもせず、なにをしていたのか。
趙雲が相手にしていたのは、小指ほどの細さしかないちいさな蝋燭で、それはよくよく見れば貝を加工した燭台に置かれていた。
趙雲は、酒の臭いを全身からさせている孔明を、迷惑そうに見つつ、言った。
「酒を呑んできたのか」
「ああ。しかし感謝するがよい。伊機伯から、樊城で斐仁の尋問をする許可をとりつけた。明朝、出発する予定だ。準備をしておけ」
わかった、と趙雲は身を起こし、身の回りの品を用意し始めたが、ふと手をとめて、怪訝そうに孔明に言う。
「おれの準備はおれがする。しかし、あんたはなぜこの部屋にいる?」
「眠るためだ」
「ここはおれの部屋だが?」
「そうだ。わたしの主騎の部屋だ。おやすみ、子龍。朝がきたら起こせ」
「まて。つじつまが合ってない」
「つじつま? あきれるほどに合っていると思うがね。あなたの仕事はわたしを守ること。しかしあなたはこの部屋に軟禁状態でいるから、わたしがここにいなければ、仕事を遂行することができない。だからわたしはここで眠る。わかったら眠らせろ。口を開くのも億劫なのだ」
「…あんた、基本的におれのことが嫌いなんじゃないか?」
「莫迦を申すな。せまい部屋で悶々として、正常な判断まで失ったか、趙子龍。いくらわたしが、天下にも稀なお人よしだとしても、嫌いな奴のために、ここまで好きでもない酒を呑めるわけがないであろう…」
孔明の言葉のおわりのほうは、眠気にまぎれて、明瞭な言葉にならずに終わった。
深い眠りに落ちながら、孔明は、体にかぶせられる布団のあたたかな感触を感じていた。


おわり……

じゃなく、2につづく

(サイト初掲載年 2003)
長めの掲載なりましたが、一気に読んでいただきたかったので、この形にしました。

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