はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

臥龍的陣 夢の章 その12 混迷の中へ 

2022年02月27日 13時39分41秒 | 英華伝 臥龍的陣 夢の章
これは、なんの陰謀だ? 
孔明は、素早く頭を働かせた。
とうぜん、身に覚えはない。
それに趙雲の性格上、ほかのだれの策であれ、陰謀の片棒を担ぐことはできまい。
脅迫されて已む無く、という可能性もない。
趙雲が、どんな嘘をついたとしても、それを見破れる自信が、孔明にはあった。

となると、これは、罠だ。
狙いは誰だ? 
子龍か? 
わが君か? 
わたしか?

「おまえたち、何を言っているのだ。子龍を差し出すなど、そのような真似を出来るわけなかろうが!」
劉備が、趙雲を引き渡せと迫るふたりを、鋭く一喝した。
「甘いことを! 子龍は、我ら全員を苦境に陥れたのでございますぞ!」
「まだ、はっきりそうと決まったわけではないっ。いいや、わしは、そんなことは絶対にありえないと思っているのだ。おまえら二人とも、下がれ!」
「いいえ、下がりませぬ!」
麋芳は、不遜にも、劉備が抱えるようにしている趙雲を、引き離し、連行しようと足を向けてきた。
孔明は、そのあいだに素早く割り込むと、おどろき、身を止めた麋芳と劉封の両者を、敢然とねめつけた。
「問おう。貴殿らは、いかなる権限を用いて、子龍を襄陽城へ連れて行こうというのか」
「軍師、邪魔はやめていただきましょう。貴殿の本心、お隠しになられても、すぐにあきらかになりますぞ。見苦しい真似はおやめなされ」
「黙れ、無礼者めがっ」
孔明の一喝が、夜闇に響いた。普段はもの静かな孔明だけに、その落差が、いっそうの迫力を醸し出す。
「わたしがなにを隠しているというのだ。じつに聞き捨てならぬことを口にする。貴殿らは、わたしが子龍に命令し、劉公子の腹心を斬らせたと、そう言いたいのであろう。そこまで言うのであれば、わたしが陰謀を画策したという証拠を見せよ!」
「そのような悠長なことをしていられるか! いまは、新野城、ひいてはわが君の危機なのだぞ!」
麋芳は、赤い顔をさらに赤くして叫ぶ。
この男とて、それなりに、劉備の心配をしているのである。
だが、趙雲への、もともとの悪い感情もあいまって、余計に感情的になっているのだ。

「わが君に危機をもたらしているのは、ほかならぬ、貴殿らではないか! いまここで闇雲に騒ぎ、子龍を襄陽城に渡せば、そのまま我らに陰謀の意志があったと認めることにもなるのだぞ!
もしも、劉表どのが、われらを信じずに、害意ありと見て戦を仕掛けてくるならば、われらは潔白を示すためにも、これを迎え撃つまでのこと。
いまは仲間割れをしている場合ではない。貴殿らのわが君は、劉表ではなく、劉予州ではないのか。もし貴殿らが、どうしても子龍を連れて行くというのであれば、わたしは貴殿らを捕縛させる」
「なんだと!」
「新野城の全権を預かっているのは、このわたしだ! 貴殿らではない!」
麋芳らは、痛いところをつかれて、うろたえた。
視線を泳がせ、劉備や関羽たちを見るが、だれも助け舟は出さない。
隙を逃さず、孔明はたたみ掛ける。
「追って沙汰をする。貴殿らは、下がられよ」
しかし、麋芳も劉封も、そのままでは収まらないらしく、まだ反論をしようと口を開こうとする。
ふたりが言葉を口にする前に、孔明は、吼えるように一喝した。
「下がれ!」
空気をも震わせる、まさに龍の咆哮であった。
麋芳と劉封は、声に追われるようにして、あわてて引き返していった。

これでよし。
しばらく時間を稼げるだろう。

「おい、子龍、どうした」
劉備の声に振り返ると、趙雲が、うずくまったまま、動かないでいるのが見えた。
孔明は、劉備に抱えられるようにして、意識を失っている趙雲に駆け寄った。
触れると、肌が熱い。
熱があるのだ。
「寝台に運びましょう。それから、薬師を」
側仕えの者を呼ぼうとする孔明に、関羽が寄ってきて、言った。
「貴殿は、子龍に付いておられよ。諸将をまとめるのは、わしと兄者でやる」
「かたじけない。ですが、将軍、よろしいのですか」
孔明の問いに、関羽は重々しく、うむ、と答えた。
いかなるときでも山のように堂々として、動じない。
それが関羽だ。
「兄者のため、ひいては新野城の民のためだ。貴殿は子龍から、なにがあったのか、事情をくわしく聞いてくれ。襄陽城への対処もちがってくるからな」
孔明は関羽の言葉に肯いた。
そうして、腕の中で意識をうしなっている趙雲を見下ろした。

信じられない。なんという弱弱しい姿か。
弱い部分なぞ、どこにもない男だとばかり思っていた。
守らねばならぬ。
胸のなかにあるのは、また親しい者を奪われるのではないかという恐怖と、奪おうとしている何者かへの、烈しい怒りであった。


夢の章 おわり
雨の章へつづく

(2003 初稿)
(2021/12/13 リライト1)
(2021/12/29 推敲1)
(2022/01/23 推敲2)
(2022/01/25 推敲3)

※ あとがき ※
〇 初稿をほぼリライトした。
〇 初稿では分かりづらかった孔明の家族のことが、すこしわかりやすくなったかと思う。
〇 初稿とは、崔州平の行動がちがっていることにご注目。
〇 今回、いろいろ書いていくなかで、関羽のキャラクターが把握できつつあることが収穫だと、個人的には思っている。
〇 初稿のほうが良かった、というご意見もあるかもしれない。リライト版「臥龍的陣」は、初稿版で、あまりに複雑に組みすぎたプロットをほぐし、わかりやすくしている。つづく作品への伏線もたっぷり含めて書いていく予定なので、これはこれで、楽しんでいただければうれしいです。

夢の章、ご読了ありがとうございました(^^♪

臥龍的陣 夢の章 その11 急転

2022年02月26日 13時44分53秒 | 英華伝 臥龍的陣 夢の章
戸を烈しく叩く者がいる。
「人払いをせよと言ったはずだぞ」
関羽が言うと、聞きなれた声が、どこか掠れた声で返してきた。
「火急の用件でございます。どうか、わが君にお目通りを」
趙雲か、と関羽と劉備は顔を見合わせ、戸を開けた。
つねに冷静沈着な趙雲にしては、まるで似つかわしくない、切迫した声であった。
おのれの家族を殺したという部下を追っているのではなかったか。
戸をひらくと、趙雲が、うずくまるようにしていた。
いや、実際にうずくまっている。
燭の明かりに映えたその顔は蒼白で、これまた、普段の様子とはかけ離れたものである。

「如何した。孔明ならば、ここにおるぞ」
趙雲の火急の用件、というのが、このところ孔明絡みばかりであったので、劉備はそう言ったが、べつにからったわけではない。
場は、わずかにも和まず、趙雲は、平伏したまま、震える声で告げた。
「襄陽城から早馬が参りまして…わが君、申し訳ございませぬ!」
そう言うと、趙雲は平伏したまま、地面に顔を擦り合わせるようにして、泣き始めた。
孔明は、咄嗟に声をかけられずにいた。
まだ短い付き合いであったが、趙雲がこれほどまでに感情を乱しているのを目の当たりにして、実のところ、おどろいていたからだ。
それに、徐庶のこともあって、頭が麻痺して、対処ができなかった。

こういうときに強いのが劉備である。
「おいおい、なんだっていうのだ、今宵は、おまえもか。泣いていちゃ、わからぬであろう。なにがあったのだ」
劉備は言いながら、身を震わせる趙雲の前に、おなじように座り込んだ。
こうしてわざと揶揄することで、相手の客観性をとりもどさせ、自身も平常心を保とうとするのが、劉備のやり方であった。
「襄陽城から、劉公子より早馬が参りました」
「劉公子だと? それで?」
劉備に促され、ごくり、と趙雲がつばを呑んだ。
「わが配下の斐仁が、劉琦さまの家臣を、襄陽城にて斬殺し、その場にて捕らえられた、と」
「なんだと! なぜだ!」
関羽が叫ぶのと同時に、ばたばたと足音がして、麋芳と劉封が、連れ立ってやってきた。

孔明は、趙雲の報告の衝撃で、かえって冷静さを取り戻した。
そうして、武装した将兵を引き連れた、麋芳と劉封をみて、まずいな、と舌打ちをした。
麋芳は、麋竺の弟である。
おっとりした兄とはちがって、弓馬の才能を高く買われ、武将として劉備の配下に連なっている。
劉封は、劉備の実子である阿斗が生まれる前に養子にした少年であるが、孔明が軍師として配下に加わってから、孔明に対立する一派の中核を為していた。
両名とも、孔明があらわれるより前から、趙雲に反感を持っていた。
敵意を剥きだしにしている二人に対し、趙雲は、らしくないことに、すっかりおのれを失くしており、劉備が懸命になだめている。
守らねば。
咄嗟にそう思い、素早く頭を働かせはじめた。
「子龍、ここにおったか! わが君のもとへ逃げ込むとは、卑怯なり!」
麋芳はがなるように言った。
眉の濃さと、目の細さがつりあっていないために、かえって強い印象を与える風貌をしている。
その顔は興奮し、朱に染まっていた。
「わが君、表で襄陽の使者の伊籍どのが待っておられます。子龍を捕縛し、早く襄陽城へ引き渡さねば、劉州牧と戦になりますぞ!」
その言葉に、劉備は素早く反応した。
「莫迦を申すな! まさかおまえら、子龍が先走って、襄陽城になんだかややこしい陰謀を仕掛けたとでも思っているではなかろうな」
劉備はうなだれる趙雲の両肩に、息子にするように、手を置いて励ましていた。
趙雲は言葉を返さない。

沈黙に乗じるように、麋芳がつづけて訴えてきた。
「そのまさかでございます。斬殺された家臣は、かねてより長子の劉琦殿を跡継ぎにと、伊機伯(伊籍)殿とともに、推しておられた方。
これで、襄陽城の群臣の意見は、次男である劉琮殿に傾きましょうぞ。劉琦殿を推されているわが君の分も悪くなり、曹操が南下した場合、襄陽城からの支援が見込めなくなるかもしれませぬ!」
「養父上、子龍はおそらく、蔡氏につながりのある、『とある御仁』の意を受けて、こたびのことを、養父上に相談なく画策したに相違ありませぬ。
劉琮殿が家督を継げば、その御仁を通して、養父上が劉琮殿の後ろ盾として、荊州を意のままに出来ると踏んだのでしょう。
いまならまだ、子龍ひとりに責めを負わせれば、襄陽城側も納得することでございましょう。何事もなく済みます。ご決断を!」
劉封が麋芳のことばを後押しするかたちで、前に進み出て、付け加える。


荊州の太守である劉表には、二人の息子がおり、長子を劉琦、次男を劉琮、といった。
本来であれば、家督は長子が相続するものと決まっているのだが、悪いことにこの劉琦、身体が弱く、くわえて気が弱い性質で、太守の器ではなかった。
一方の劉琮はまだ少年だが、利発な性質で、劉表は目にいれても痛くないほどに可愛がっている。
おなじように、生母の蔡夫人への寵愛も深かった。
さらにこの蔡夫人は、おのれの生んだ子を次の州牧の地位につけるべく、あの手この手で劉表に劉琦のことを讒言し、劉琦を疎んじるように仕向けていたのである。
群臣は黙っていない。
劉琮が若すぎるのと、横暴に権力を振るう蔡一族への反発もあり、いま、襄陽城はすべての家臣を巻き込んで、真っ二つにわれて、争いを起こしているのだ。
その蔡夫人の姪が、黄夫人、つまりは孔明の妻なのだ。
劉封はつまり、孔明が、劉琦を除き、劉琮に家督を継がせることで、蔡一族へ恩を売り、同時に後ろ盾の名のもとに、実権を劉備に握らせようとしているのだ、と言いたいのである。

つづく

臥龍的陣 夢の章 その10 慟哭

2022年02月25日 13時02分18秒 | 英華伝 臥龍的陣 夢の章

孔明は思い出す。
旅をしていた。
行き先も日程もまるで決めていない、あてずっぽうの旅だった。
目の前に、不思議な光景があった。
それは、一見すると、なんの変哲もない光景だ。
草原があり、道があり、木々があり、往来がある。
ところが地面には、それまでずっと一つの轍を刻んでいたものが、とある場所までくると、綺麗に真っ二つにわかれていた。
いままでひとつの轍のあとをなぞってきたものが、二股に分かれて、それぞれ西と東に分かれていたのである。

「荷車を仲良く引いてきたのに、ここで喧嘩でもして、分かれたのかな。証拠に、轍はまったくぶれていない。おそらく、たがいの顔も見たくないほど、派手にやりあったにちがいない」
と、崔州平が言った。
たしかに、轍のあとは、相手をまるで見向きもしなかったように、迷うこともなく、別々の方向へと向かっていた。
だが、徐庶は言った。
「そうではあるまい。きっと、荷車にはおなじ荷物が運ばれていたのだ。ここでお互いの商品を広めるために、おなじ荷物を等分にわけて、西と東に散っていったのだ。
二股に分かれたあとの轍のあとがそれぞれにぶれていないのは、仲間がおのれと同じように、荷物を運んでくれるだろうとわかっているからだ。
もし喧嘩別れしたのなら、むしろしばらくは、互いのことが気になって、轍がぶれるものだろう」
まるで見て来たように言うのだな、と崔州平は呆れた。
だが徐庶は、穏やかに地平を見遣って笑い、孔明に言った。
「この轍を行った商人たちが羨ましい。一見すると、道は分かれているようだが、かれらは信頼で結びついている。じつはおなじ道を行っているのだよ。
とはいえ、かれらにそのことを教えても、そんなむずかしいことは考えてないと、かえって笑われるのだろうがな。
意識しない信頼ほど、つよい絆はないと思う。俺もこんなふうに、人を信じて、真っすぐ前を向いて歩いていける人間になりたいものだ」
わたしは君を信じている、と孔明は思ったが、照れてしまって、口に出しては言えなかった。
それに、言葉にしたところで、崔州平がからかってきて、せっかく伝えた言葉が、冗談にまぎれてしまうのは想像がついた。

孔明は、漠然と、たとえいまは道が分かれていても、やがてはまた一つにもどるのだと思っていた。
まったく逆方向に分かれた轍も、はるか彼方では、ふたたび引き合うようにして、一つになっているはずだ、と。
徐庶は、道は、ばらばらに分かれているものだ、ということを知っていたのだ。
それがたまに呼び合うことはあっても、二度とふたたび一つに戻らない、ということも。


いま、道は分かたれた。
少年のころの幼い思い込みは、すべて払拭された。
未熟であったからこそ、美しい夢を見ていられた時代は、終りを告げたのだ。
あの草原で、徐庶は孔明に、先に行け、といった。
なぜ、と問うと、やはり笑って、なぜだろう、いつもおまえはおれのあとをついてくる。だから、たまにはおれの前を行くおまえの姿をみたくなったのだ、と答えた。
おかしな注文をつけるものだと苦笑しつつ、孔明は先に進んだ。
徐庶の言ったとおり、まるでぶれずに、力強く道に刻まれた轍を下に見ながら。

あの時とおなじ。
そして徐庶は、自分の来た道を、進むのではない。戻っていく。
その胸に、慟哭と後悔を刻みつけたまま、沈黙と哀悼の中で歩くのだ。

「徐庶の夢は、おまえに託されたのだ。おまえは、けして倒れちゃならないぞ、孔明」
と、劉備は言った。
「それが生き残っていく人間の義務だ。徐庶はおのれの人生を閉ざすことで、わしに忠誠を誓ってくれたのだ。わしたちが徐庶にしてやれることは、徐庶の言うとおり、あいつのいる所まで、迎えにいってやることだ」
劉備のことばに、孔明は、顔を上げた。
目の前に、力強い、おのが主人の顔があった。
「なあ、絶対に行ってやろう」
慰めではない。劉備は、ほんとうに行けるのだと信じている。
そうして、このお方もまた、多くの人々の夢を引き継いで、ここまで生きてきた人なのだと、孔明は思った。
劉備の傍らにいる関羽も、力強く肯いた。


この人たちは、なんと強い人たちなのだろう。孤独も重圧も、ものともせず、志を貫いて生きてきた。
道ははじめから分かれている。
けして交わることはなく、近寄ることができたとしても、互いに声をかけあうだけがせいぜい。
それでも、頑固に、三つ並んで、真っすぐ前だけを向いて歩いてく者がいる。
それが劉備たちであった。

孔明は、ようやく、なぜ徐庶が、劉備をわが君として選択したのか、その真の理由がわかった気がした。
そうして、あの草原の轍を見て、徐庶が思ったように、孔明も思った。
わたしも、この人たちに負けないようになれるだろうか、と。

劉備の言葉に、孔明は涙を拭いて、笑みを浮かべて肯いた。
そうだ、必ず北へ行くのだ。
そうして徐庶に会いに行こう。
草原で先に行け、といった徐庶の姿がまぶたに浮かんだ。
彼はずっと、そこで待っていてくれるような気がした。


つづく

臥龍的陣 夢の章 その9 徐庶からの手紙

2022年02月24日 13時18分01秒 | 英華伝 臥龍的陣 夢の章


記憶のかなたに埋もれそうなかすかな夢の記憶。
叔父の玄の死の直前の夢。
それに合わせるようにして、玄を知る者と遭遇した。
なにかの縁だったのかもしれない。
もっと強引にでも誘えばよかったかなと、城の私室に戻った孔明は考えた。
だが、あの老人を無理に城に連れてきても、歓談できたとは限らない。
『おかしなことを言っていたな。いまは話せない、と。では、いつか話してくれるのだろうか』
その「いつか」を待つしかないか。
同じ町にいるのだから、また顔を合わせる機会があるだろうと考え、孔明は目の前の手紙に集中することにした。

文机のうえには、まっさらな竹簡がある。
そこに、孔明は許都にいる徐庶にあてて手紙を書こうとしていた。

すでに日は暮れて、燭台のちらちらと揺れる明かりが部屋を照らす。
夕餉の片づけをしている奴婢や仕女たちの気配が外でしている。
行ったり来たり忙しいかれらの影が、部屋の障子に映っていた。

あの大金持ちの崔州平が、いまは借金で首が回らなくなっているなどと書いたら、徐兄はどんな顔をするだろうかと孔明は想像する。
心配させるのも悪いが、かといって、知らせないのはもっと悪い。
徐庶は私塾に通っていた時代には、崔州平の屋敷のとなりに住んでいたほどで、とても仲が良かった。
孔明は、塾が終わると、酒店には入らず、まっすぐに徐庶の家に行って遊んだものである。
天下のこと、世間のこと、それから、ほんのすこし女人のこと。
さまざまなことを論じては、合点したり、反対したり、互いの差におどろいたり。
あれほど楽しく無邪気な時代は、もう二度と戻ってこないかもしれない。

感傷的になりすぎる自分をたしなめつつ、孔明は最初の一行を書こうとした。
そのとき。
劉備からの呼び出しがかかった。
至急の件であるという。
すぐに行くと返答し、孔明は、劉備の元へと向った。
すっかり陽は落ち、夜空には満点の星が輝いている。
燭台を手にした案内係を先頭に、孔明は夜気を切るようにして進んだ。
劉備が至急の件を伝えてくるなど、めずらしいことであった。
部屋に行くと、扉を開く前から、緊迫した空気が漏れているのが知れた。
「何かありましたか」
うむ、と頷いた劉備の目は赤く、孔明はとっさに、具合が悪いといっていた麋竺の身に何事かあったのではないかと想像した。
蝋燭の灯された部屋には、劉備と、関羽、そして、旅装の、中肉中背で、目が大きく鼻の丸い青年がいた。
見たことのない男である。
細作でもないようだ。
薄汚れた旅装をしている。
三人の面差しは、一様に深刻で、暗いものであった。
「どうなさったのです」
孔明が促すと、劉備は、文机の書簡を、孔明に差し出した。
読め、というのだろう。
そうして、同情を湛えた眼差しで、劉備は孔明を見る。
なぜそんな目で見るのだろう。
孔明が書簡を受け取ると、劉備は言った。
「徐庶からだ」
孔明は、息を呑んだ。
すると、三人目の旅装の青年が、こくりと頷いた。
「徐元直さまに託されたものでございます。わが君と、貴方様へ、と」
書簡を開く前から、孔明は、まるでおのれの心の臓をぎゅっと掴まれたような、つよい痛みをおぼえた。
書簡にところどころついている、この黒い染み。
これは、血ではないのか。
震えるおのれの手を叱りつけ、慎重に、孔明は書簡を開いた。

母は死んだ。
手紙は、いきなり、そう告げた。
怒りと悲しみの解けないうちに書いたのだろう。
文字は震えており、徐庶の受けた苦しみが、直に伝わってくるようである。
孔明は、まるでそこに徐庶の手の温かさが残っているかのように、指先でその字をなぞった。
ところどころぶれて、時には、はげしく乱れ、そして気を取り直し、また、乱れる。その繰り返しの文字。

徐庶は、過去に剣客だったときに、仲間の仇討ちで人をあやめていた。
そのときにお尋ね者となり、故郷に帰れなくなってしまった。
父は幼少時に亡くなっており、母子二人だけ生きてきた。
そのために、徐庶の、母への想いは特別なものがあったのだ。
いつかりっぱなわが君にお仕えしたあかつきには、母上をお呼びするのだ、というのが徐庶の口癖であった。

それまでも徐庶は、何度も母を、自分のいる襄陽に呼び寄せようとしていた。
だが、母は父の墓を守らねばならないという理由から、ずっと断っていたらしい。
その事情を知っていた孔明は、徐庶が劉備のもとを去ると聞いたときも、母親を人質に取られたのでは仕方がないと、素直に納得したほどだ。
孔明とて、もし叔父が存命で、おなじく徐庶のような立場となり、曹操に叔父を人質にとられたら、やむなく曹操に降る決断をしただろう。

つづられた内容は悲愴なものであった。
曹操は、徐庶に対し、新野城の情報を教えるように迫ったが、徐庶は、頑として口を開かなかった。
そのために、報復として、母親を殺されてしまったのだ。
それは冷酷な処置であった。
見せしめのためである。
今後、自分が南下することで発生するであろう、劉表および江東の家臣たちへの見せしめのため、そして、情報をもたらさない人材など、容赦なく切り捨てるぞという脅しでもあった。
さらに陰惨なことには、表向きは自殺と見せかけての殺害であった。
徐庶は表立って、抗議をすることもできない。
酷い話であった。

「曹操も、非道なことをする」
劉備がつぶやいた。それを受けて、関羽が言う。
「苛烈なお方だ。完全におのれに従う者でなければ、容赦をしない。屈せぬ者は、切り捨てる」
切り捨てる? 徐庶を? 
自分をここまで成長させてくれた、恩人とも兄とも呼べるあの男を、曹操は、わが元から奪っておきながら、今度は、まるで意味のないもののように、切り捨てる、というのか。
そんな莫迦な仕打ちがあるものか。

徐庶を呼び戻しましょう、と孔明は口にしようとしたが、声が出なかった。
無理に声にしようとすると、滂沱と涙があふれて、止まらなくなった。
悲鳴のような声が聞こえた。
それはおのれの嗚咽であった。
たまらず、顔を伏せると、劉備が立ち上がり、肩に手をかけて、労わるように、軽く揺すった。

書簡は最後にこう結んでいたのだ。
おれはもう二度と荊州にはもどらぬ。
曹公に逆らったこの俺が、あとどれだけ生きられるかはわからぬが、母がそうしたように、俺も父と母の墓を守るためだけに、残りの日々を過ごしていく。
おまえに会うことは、もうないだろう。
だが、もしおまえが、いつか俺に語ってくれたように、亡き叔父君の志を受け継ぎ、そして俺の志も継いでくれるなら、きっとおまえが、この国のあたらしいわが君の軍師として、俺のいる中原にまで、やってきてくれることを夢見ている。
おまえの語る天下は、だれの語る天下よりも美しく、力強いものであった。
俺はおまえが与えてくれた夢を見て、眠り続けていることにしよう。
かならず起こしに来い。
それまで、さらば、と。

つづく

臥龍的陣 夢の章その8 孔明、友の背中を見送る

2022年02月23日 12時49分00秒 | 英華伝 臥龍的陣 夢の章


酒店を出て、あらためて挨拶をして、孔明と州平は別れた。
孔明は、去っていく背中を、見えなくなるまでずっと目で追いかけた。
州平のほうはというと、一度も孔明を振り返らず、まっすぐ歩き去っていった。

「なにか大事を抱えている顔をしておった」
孔明に並んで、関羽が州平の後姿を見て言う。
「聞こえてしまったのだが、ほんとうに借金を返すためだけに荊州を離れるのだろうか。なにか、もっと大きなことを決意している様子だったが」
そのことばに、孔明は、はっとして、人込みに隠れて見えなくなった州平のうしろ姿を探した。
追いかけるべきではないのか。
そして、最後に言った、『忘れるな、仇讐は壺中にあり』という言葉の意味はなんだったのか。
いやな予感がして、孔明は足を踏み出す。
すると、関羽がまた言った。
「軍師どの、追いかけても無駄であろう。崔州平どののお心を変えることはできまい」
「なぜわかるのです」
軽いいらだちを懸命に押し殺しながらたずねると、関羽は重々しく答えた。
「あれほどに覚悟を決めた顔をした男を変えることは、なかなかできぬよ」

答えられなかった。
たしかに、州平の眼はいつになく澄んでいた。
迷いも濁りもなくなった、潔い目をしていた。
ああいう目をして去っていったのは、徐庶も同じだった。
ふたたび人込みに目をやると、州平の姿は、すっかり呑まれて、どちらの方向に行ったのかすらわからなくなっていた。

「かれを招へいできなかったのは残念です。ともに働いてくれたなら、きっと大きな力になってくれたでしょうに」
縁がなかったといってしまえばそれまでだが、惜しいという感情以外に、胸に広がる苦いものがある。
なぜだろう、孔明は、州平を吞み込んだ雑踏をみながら、重苦しい気持ちを持て余していた。





関羽が、市場に寄っていかないかと誘ってきたので、孔明は従うことにした。
崔州平とわかれた酒店からほど近いところにある東市には、たくさんの露店が出ていた。
往来もひっきりなしにあって、店をひやかすもの、取引をする者、ゆっくり吟味している者など、さまざまである。
しかしかれらも、孔明の背後にひかえる関羽を見ると、驚いたように顔をあげて、まじまじと見るのであった。
関羽のほうは、遠慮ない人々の視線に慣れているようで、山のように堂々としている。
たいしたものだなと孔明が感心していると、ふと、妙な気配を感じた。
だれかが、じっとこちらを見ている。
当初は、関羽を見ているのだろうと思った。
ところが、視線の主を探して目を向けると、青物や果物を売る一角で、瓜売りの老人が、わざわざ身を乗り出して、真剣な顔でこちらを見ているのだった。

はて、知り合いだったかな、と思い出しながら、老人に会釈をすると、老人もまた、ぎこちなく会釈をかえしてきた。
ヤギのように真っ白いひげをした、品のよさそうな老人である。
孔明が挨拶したのが目に入ったらしく、関羽が言った。
「軍師、みなに差し入れを買っていかぬか」
「そうですね、悪くない」
答えつつ、老人をどこで見たのだろうかと思い出そうとする。
しかし、どれだけ頭を探っても、記憶を引き出せなかった。

そんな孔明をよそに、関羽はのっそりと老人に近づいていく。
「じいさん、この水瓜はうまいか」
関羽に呼びかけられて、老人は夢から覚めたような表情になった。
「ええ、もちろん。丹精込めて作った瓜でございます。まずいわけがない」
言いつつ、じいさんは水瓜をひとつ包丁で割って、切り分けたものを関羽と孔明に差し出した。
食べてみると、なるほど果汁があふれてうまい。
関羽も同じく水瓜を受け取って、うまそうにほおばっている。
「たしかにおいしい。おじいさん、この瓜をすべて城へ運んでくれないかい」
孔明の申し出に、瓜売りのじいさんは目を白黒させている。
「全部でございますか」
「うむ、みなに食べてもらいたいからな。代金はすぐ払うよ。どうだい」
「ありがたいお申し出です。すぐにここをたたんで、城へ行かせていただきます」
じいさんは降ってわいた話に喜んで、瓜を台車に乗せはじめる。

こうして話していても、やはり、思い出せない。
お互いに人違いをしたのかなと孔明が思っていると、瓜を食べながら、関羽が妙なことをじいさんに言った。
「失礼だが、ご老体、武術をたしなんでおられるのか」
じいさんは、照れたように笑った。
「武術というほどではありませぬが、すこしだけ。なにせ、物騒な世の中ですから、こういう商売をやっていましても、たまに危険に遭いますので」
「関将軍、どうしてわかったのです」
孔明がたずねると、関羽は即答した。
「なに、武器を持つ者特有のタコが手にあったからな」
「さすがの観察力ですね」
感心して言うと、関羽は、なんてことはない、と答えたが、ぶっきらぼうな口調とはうらはらに、口元は、またゆるんでいた。

「ところで、軍師さまは徐州の出身ではありませぬか」
老人のことばに、孔明はおどろいて、目を見開いた。
「どうしてわかったのかな。訛りでもあったかい」
「いいえ、以前に知り合いだった徐州での男と、軍師さまが似ていらしたので、思い付きを言ってみたのです。当たっておりましたか」
「わたしは瑯琊の出なのだよ。そのひとは、どこの人だったのだい」
「同じです。諸葛玄という男でしたが、ご存じですか」
孔明はそれこそ、手にしていた水瓜の残骸を落としそうになるほどおどろいた。
「知っているもなにも、諸葛玄は、わたしの叔父だ」
「おお」
老人もまた、おどろいて、あらためて孔明の顔をまじまじと見た。
そこに、旧知の面影を探そうとしているかのように。
「諸葛という姓はめずらしいので、まさかと思っておりましたが、あの諸葛玄の甥御でしたか。それはおどろいた。いやはや、いやはや」
「ご老人、叔父とはどういう知り合いだったのです」
「十年以上も前になりますが、ともに劉州牧のもとで働いたことがあるのです。真面目で陽気で、優しい男でした」
「ええ、そうです。叔父はそういう人でした。ご老人、こうしてお会いできたのもなにかの縁。どうかこれから一緒に城に来て、叔父の話をしてくださいませんか。叔父を知る人はいまは少なくなってしまったので、思い出話をできる相手も限られていたのです。あなたがいろいろ教えてくださるとうれしい」
孔明は丁寧に頼み込んだが、しかし、老人は悲しげに首を横に振った。
「この汚れた年寄りが城になど」
「ご遠慮なさるな、ぜひお話を聞かせてください」
「いえ。申し訳ありませぬが、諸葛玄については、いまはお話しすることはできませぬ」

おかしな言い回しをするなと不思議に思いつつ、孔明は老人になおも城へ来てくれるよう誘ったが、老人は頑として、うんといってくれなかった。
背後の関羽がじりじりしはじめたのが気配でわかったので、孔明もあきらめて、城へ戻ることにした。

つづく

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