馬謖
さて、話はすこし戻る。
長星橋の妓楼街の裏町に到着したものの、やはり馬謖は、仲間外れにされつづけているような、居心地の悪さがつづき、おもしろくなかった。
もちろん、あの説教好きな強面将軍も、口うるさくて生意気な主簿も、貧乏二人組も、積極的に馬謖を仲間外れにしようとはしていない。
馬謖はなにを求めているかというと、ひたすら自分を賛美し、盲目的に従ってくれる、都合のいい人間に、四人がなってくれることであった。
無理難題はなはだしいところであるが、それがわからぬあたり、馬謖は孤独でありつづける。
馬謖にとっては、己と並び立つものを認めることは、許せない事柄であり、己を否定することでもあった。
馬謖には、才能があるのである。
だが、臆病すぎるあまりに、己を高いところに肯定しておかないと、不安でいても立ってもいられない(この場合の『高いところ』とは山のことではない)。
自分を、自分の実際以上に高いところに掲げ、賛美を受けている間は、安心していられる。
だが、そこで満足しているかといえば、そうではない。
おのれを賛美する者たちの裏に、うつろな思惑があることを、馬謖は十分承知しているので、心は満たされない。
さて、そうかといって、己に直言を吐いてくれる者たちのほうが、よほどよいかと問えば、これは否で、己をすこしでも否定されると、馬謖は立ち位置がつかめなくなり、混乱を起こし、はげしく騒ぐ。
己を否定される混乱と、うつろな賛美の中にいるのと、どちらがよいかと問われて、後者を選択しつづけているのが馬謖の生き方なのである。
彼は自ら、孤独であり続ける道を選んでいるのだ。
馬謖がのぞむのは、盲目的に、おのれを肯定し、賛美してくれ、さらに、おのれの状況をも理解してくれたうえで、母のように優しく叱ってくれる相手である。
だが、そんな完璧な、『甘い人間』は存在しない。
存在しない者を求め続けるがゆえに、馬謖の心は満たされない。
そして、同じ現実を繰り返し続けている。
彼は、徹底して孤独なのだ。
そんな馬謖を心配してくれるのが、兄の馬良なのであるが、この馬良の、思惑のなにもない、まっすぐな忠告も、馬謖を溺愛している母親の言葉が制してしまうので、効果が薄くなってしまっている。
くりかえしになるが、馬謖は愚か者ではない。
だから、おのれの未来に見える、大きな落とし穴の気配は感じているのだ。
感じていながらも、どうしてそうなってしまうのかがわからないので、手を打つことができないでいる。
さて、孔明を探す四人とすこし離れて歩いていると、くいくいと袖を引っ張る者がある。
客引きか、と馬謖がうんざりして振り払おうとすると、袖を引いた男は、すばやく言った。
「旦那、薬は探しておられませぬか。いい薬がございますよ」
思わず振り返れば、そこには、子供のように小躯の男が、訳知りがおで、袖を引っ張っていた。
「薬とは、媚薬だの強壮剤だのの類いであろう。いらぬ」
すると男は、その答を予想していたのか、ひっひ、といやらしい笑みをこぼして、言う。
「うちは世間じゃ扱わないような、珍しい薬を商っております。旦那がきっと欲しくなるような薬もありますよ。店はすぐそこです。どうです、覗いてみませぬか」
「ふん、わたしはおまえのような卑しい奴に付き合う余裕はないのだよ」
「まあ、そうおっしゃらず。どんな薬もございますよ」
「大きく出るではないか。では、賢くなる薬もあるのか」
それは、と客引きが言葉を詰まらせるのを期待していた馬謖ではあるが、意外な返答がかえってきた。
「ございます」
「まことか」
「ええ。お名前を申し上げることはできませぬが、かつてこの薬を飲んだおかげで、司徒の地位に上がられた方もおられます」
まさかとは思いつつも、具体的な例が出てくると弱い馬謖は、買わないまでも、すこし覗いてみるならばよいか、という気になった。
馬謖の袖を引き、小躯の男は、いそいそと路地を行く。
そこには、奇怪な建物が、幾重にも組み合わさるようにして建っている界隈で、思いもかけないところに窓があったり、どうやって出入りしているのだろうというところに、扉があったりする。
客引きの薬屋は、獣くさい一角にあり、扉の中には、あやしげな器具や壷などが並んでいる。
客はほかにだれもおらず、店番もない。
どうやら、この小男が、客引きと店番を兼ねているようだ。
思わず馬謖は、袖で鼻と口を覆いつつ、小男に尋ねた。
「まこと、賢くなれる薬があるのだろうな」
「ございますとも、貴方様をひと目見て、このお方に、あの薬を煎じてさしあげたいと、ぴんと来たのでございます。旦那は本当に運がよい。わたくしも、この商売をはじめてから、やっと手に入れることができた、稀少な薬を仕入れたばかりだったのでございますよ。まさに天の配剤。さあさ、あの奥に薬はございますゆえ」
小男の言う奥、とは、店先の奥にある扉で、中に入ると、小さな部屋に、大きな壷や籠やらが、それぞれ、強烈な胃臭を放って陳列されている。
「こんな臭い薬に、ちゃんと効能があるのだろうな」
「良薬は口に苦し、臭いもまた、きつければきついほどによいのです」
「初耳ぞ」
「こちらは、この道、数十年の玄人ですぞ。どうぞお任せくださいませ。旦那のお求めになる薬は惚れ、この中に」
と、小男が、ぱっと籠の蓋を開けると、中には、白と黒の毛玉が入っていた。
が、その毛玉、動く。
よく見れば、それは蜀の山中に住まう、白と黒のふしぎな模様の入った、熊に似た動物の子であった。
「知っておるぞ、これは、『モー』(パンダ)という生き物だ。鉄や銅を食う、かの兵主神のような動物だ」
博識なところを見せる馬謖であるが、小男はまるで頓着せず、言った。
「そのとおり。この動物の、脳みそが、貴方様のお求めになる薬でございます」
「脳みそ?」
「左様。この動物の頭蓋を切り取り、脳みそをすすることによって、不思議な力を得ることができるのです」
「脳みそをすする? 生のままでか?」
「焼いても構いませぬが、効能が落ちますぞ」
そんな薬なんぞ聞いたことがない。
馬謖が答えを返しかねていると、店の表のほうで、激しく扉を叩いている者がいる。
おやおや、今日は千客万来だ、待っていてくださいまし、と言いながら、小男は店の表に行ってしまう。
異臭のする部屋にひとり残された馬謖は、モーの入っている籠を、こわごわと覗いて見た。
モーは、成長すると熊のように大きくなる。籠に入っているモーは、犬くらいしかないから、まだ子供なのだろう。
馬謖が覗いているのに気づいたか、籠の中のモーは、がさごそと動き回り、そして、ぴょこりと顔を出した。
その瞬間、馬謖の胸の中で、なにかときめきにも似た明るい感情がはじけた。
モーの子は、無邪気な黒い瞳を馬謖に向け、たしかに、にっこりと笑ったのである。
無垢な赤ん坊のような愛らしさでもって。
すべてが丸で構成されているような、身体の愛らしさもそうであったし、モーからは、異臭がしなかった。
むしろ敷き詰められた笹の臭いが身体に移っており、青臭い。
目はあくまでつぶらで、怯えも怒りもなく、これから待ち受ける運命の暗さを、まるで恐れていない。
子犬でさえ、ときには主人に吠え掛かる。
だが、このモーは、初対面からして、笑みを浮かべて、馬謖を歓迎していた。
こんな生き物の脳みそをすすれというのか?
ふと、表のほうを見れば、どこぞの男が、強壮剤がまるで駄目で、妓女に笑いものにされたと、小男と揉めている。
小男のほうは、いろいろ言葉を尽くして抗弁しているが、短気な客は、やがて埒が明かないと見るや、小男をぽかりと殴りつけ、そのまま床に伸ばしてしまった。
そうして、客はぶつくさ言いながら、立ち去っていく。
静かになった店のなかで、馬謖はモーを振り返った。
モーは、籠の端に己の両腕を引っ掛けて、じっと馬謖を見つめている。
馬謖も、困惑してモーを見つめていると、その丸い顔が、首をかしげるような仕草をした。
それは、馬謖に、
「これからどうするの?」
と、尋ねているように見えた。
こうなると、馬謖は決断が早い。
モーを籠から取り出すと、見えないように懐に入れて、ただ黙って持ち去るのもあれだから、と払えるだけの金を小男の側に置いて、そのまま夜の街へと飛び出して言った。
懐でもぞもぞと動くモーの毛皮がくすぐったくもあり、また、その温かさがうれしくもあった。
数日後、左将軍府にて、偉度は孔明に呼び止められた。
「偉度よ、このたびはよき働きをしてくれたな」
はて、噂を消しまくったことだろうか。ガミガミ助平(魏延)のやつめが、面白おかしく誇張して騒いでいたのを封じるのは、なかなか大変だったが、それか? と、偉度が首をひねっていると、孔明は、にこにことうれしそうに言う。
「馬謖のことだ。さきほど、季常より謝礼の手紙が来たよ。とてもよき友を紹介してくれた、そなたには感謝しておると」
「はあ…」
だれのことだ? 文偉? 休昭? あれから仲良くなったなんて、聞いていないが。
「馬謖は喜んで任地に帰って行ったそうだよ。手紙を読んでみるかね。
『愚弟が、皆様方に迷惑をかけまくったとのこと、こちらも気を揉んでおりましたが、最後になり、よき友を得ることができたそうで、その友と一緒に、任地に帰って行きました。
ともに行動できるほど、胸襟を開ける友が出来たということは、愚弟が、ようやく世間様と歩調をあわせることをおぼえた証左であり、兄としては、これほどうれしいことはございません』だと」
「軍師、申し上げますが、白まゆげ殿はなにやら勘違いされているのでは。わたくしの紹介したなかに、共に任地へ向かうほど、馬幼常と気の合ったものはおりませぬ」
「ふむ? では、返答はどうすべきかな。幼常は、そなたらに付き合ったお陰で、友を得られたと言っていたそうだが、となれば、この手紙も、的外れではないぞ」
「しかし、こちらに覚えがないのですから、白まゆげ殿に感謝される謂れもない。軍師、ご親戚なのですから、わたくしの代わりに、うまく返答してくださいませぬか」
「かまわぬが…面妖なことだな。となると、幼常の友とは、何者だ?」
「とんと見当がつきませぬ。あとで兄弟たちにも聞いておきましょう」
奇妙だ、奇妙だと首をひねりつつ、立ち去る孔明を見て、偉度は、馬幼常は、最後までよくわからぬ男だったな、とため息をついた。
連敗記録、その後。
「どこか遠くへ行きたい」
人の顔をみるなり、そう宣言した孔明に対し、趙雲は即座に答えた。
「仕事はどうする」
すると、孔明は、渋い顔のまま、肩を落して、言った。
「現実的な返事をありがとう。そうだな、仕事があるから、遠方へ行く余裕もない」
兵の調練を終えて、兵舎にて簡単な決裁を下していた趙雲のもとへ、孔明がいきなりやってきた。
孔明が、屋敷になり、兵舎になりに、いきなりやってくるのは(思いつきで動いているので)そう珍しいことではないが、わがままを口にしたと思ったら、理由も告げず、踵を返して、立ち去ろうとする。
その訳のわからなさに、趙雲は呼び止めた。
「おい、なんだったのだ」
うん? と元気がなさそうに振り返る孔明に、とりあえずそこに座れ、と座を用意して、人払いをさせた。
孔明は、しょんぼりと、力なく言う。
「連敗記録がとうとう30台に突入した」
「おまえ、まだあの用心棒と囲碁勝負をしていたのか」
呆れて言うと、孔明は、肩を落とし、目線も下向きのまま、しおれた葵の花のようになって言う。
「負けたのは別にいいのだ。連敗記録とて、あと30回も打ち続ければ、勝機が見えてこよう」
「あと30も続けるつもりか」
「継続は力なり」
「この場合、当たらぬと思うが」
「子龍、わたしには囲碁の才能がないのだろうか。象棋は無敵なのだが、囲碁ではこの有様だ」
「べつに囲碁の才能がなくても、そう落ち込む必要もなかろう。囲碁の才能があるからといって、世の中が良くなるかといったら、別だからな」
「それはそうだが、やはり、悔しいではないかね。囲碁とは士大夫のたしなみの一つであるし、囲碁が得意というと、ほら、あなたが例えば槍の他にも、馬を繁殖させるのがうまい、というのと同じで、なんというか、付加価値が上がるというか」
「まあ、賢さの目安にはなるか」
「そう、まさにそのとおり。わたしの周りには、わたしと同等の腕をもつ囲碁名人はいないからな、あの用心棒を破ってこそ、堂々と威張って、囲碁が得意と言えると思う」
「で、それがどうして、遠くに行きたいことと繋がる」
「主公が来たのだ」
「主公?」
囲碁と用心棒と付加価値と劉備と、どういう関連があるのかさっぱりわからない趙雲は、ぽんぽんと話の飛ぶ孔明の、つぎの言葉を待った。
「わたしが、市井の用心棒と囲碁勝負をしているというのを、どこからか聞きつけて、様子を見に、お忍びで、左将軍府に遊びにこられたのだ。
で、わたしが負けたのを見て、面白がってだな、『そんなに強い奴なら、儂も派手に負けてみるか』とかなんとか言って、用心棒と囲碁勝負を始めたのだ」
「ふうん?」
「で、勝った」
「用心棒が?」
「ちがう。用心棒に」
「主公が?」
「そう。そして言うのだよ。『孔明、おまえ最近、おつむの調子が悪くなったのじゃねぇか。儂が勝てて、おまえはなんで勝てないのだ』と。それはもう、誇らしげに」
ははは、と孔明は力なく笑う。
趙雲には、そのときの劉備のはしゃぎっぷりが、目に浮かぶようであった。
「出来ることならば、隠棲して、おつむの調子を上向かせてから、また戻って来たいところだ」
「囲碁のためにか?」
「そうだよ」
趙雲は、いまこそ、心の底から言った。
「おまえは莫迦だ」
「莫迦だよ」
「……肯定するな。おまえ、すこし疲れているのではないか。なんだって囲碁にこうも振り回されて、隠居まで考える必要がある。囲碁と志に、どう関係が?」
「あるような、ないような」
「ないだろう」
「主公が勝てる相手に勝てない軍師など、存在価値があるのだろうか?」
「すくなくとも、おまえでなければ動かせない仕事が残っているうちは、存在価値があるのだ」
「呆れるほどに現実的だな。しかしだな、すこしはわたしの気持ちもわからないか?」
「わかるとも。わかるからこそ、止めているのだ。もしおまえが隠居なんぞしたら、法揚武将軍がここぞとばかりにしゃしゃり出て、人事が引っくり返るだろうな。俺なんぞは、おまえに近すぎるから、閑職に追いやられるのは目に見えておる。
そうなると、俺もおもしろくない。一緒に隠居するとして、ちょっと離れたところに家を構えてだ、暇になったら会いにいって、こういう実のない会話を毎日しながら、気が付けば白髪頭になり、そのうちお迎えが来てぽっくりと逝く。そんな人生で楽しいか」
「結構楽しそうだぞ。ちょっと離れたところというと、どれくらいの距離だ? 経験から行って、屋根が見える程度の距離に家があるというのが、冬の間に困らなくてよいのだが」
「そうだろうな。馬も最低限に抑えて、あとは鶏や家鴨を食料用に飼って、番犬も飼って、あとは農耕用の牛がいればよいか」
「土地のめぼしはつけてある。近くに綺麗な沢のある、住みやすい場所で…」
「待て。そちらを具体的にするな。いまのは無し。いや、たとえ隠居を始めたとしても、おまえは飽きる。一ヶ月もしないうちに飽きる。そうして後悔するに決まっている。俺はそのとき、愚痴は聞かぬぞ」
「冷たいな」
「仮の話だ。囲碁ごときに、いままでの苦労を捨ててどこへ行く? だいたい、おまえ一人ならばよしとして、偉度やほかの者たちはどうするのだ。約束をすっかり忘れて、ほっぽり出すのか?」
「……そうか」
「そうだ。わかったなら、隠居なんぞ考えるな。主公が勝ったのは、たまたまだ。あの人は、異常な瞬発力があるからな。たまたま打ったら、たまたま勝った。次に勝負したら、きっと負けるさ。うちの馬を全部賭けてもいいぞ」
「それ、主公に言ってはならぬぞ。あんなに喜んでおられるのに」
孔明の言葉に、趙雲は笑った。
「ということは、おまえにもちゃんとわかっていて、なんとなくだが愚痴を言いたくなって、俺のところに来たというのが真情だな。図星か」
とたん、孔明は、顔を柿のように赤くして、言った。
「べつに甘えにきたわけじゃないぞ。子供じゃあるまいし。なにをそんなに笑っている。なにが可笑しい。わたしは、ちっとも可笑しくない! もう帰る。見送りは不要!」
そういって、孔明は、来たときと同じように、唐突に去って行った。
その早足に遠ざかる背中を見て、趙雲は、なんだか可笑しくなり、また笑った。
その後、孔明の連敗記録は、50を超えるあたりでようやく止まった。
それが果たして孔明の実力であったのか、それとも用心棒が、孔明のしつこさにウンザリしてわざと負けたのか、そのあたりは、いまもって不明である。
ちなみに、用心棒が孔明から巻き上げた(?)贈り物の数々は、効果をあげることはできず、用心棒は、泣く泣くその女をあきらめ、ほかの女と所帯を持ち、幸せに暮らしたそうである。
おしまい
(サイト・はさみの世界 初掲載 2005年08月)
更新の間隔があいてしまい、申し訳ありませんでした。
本日より、またデータ移行をつづけます。
どうぞよろしくおねがいします。
さて、話はすこし戻る。
長星橋の妓楼街の裏町に到着したものの、やはり馬謖は、仲間外れにされつづけているような、居心地の悪さがつづき、おもしろくなかった。
もちろん、あの説教好きな強面将軍も、口うるさくて生意気な主簿も、貧乏二人組も、積極的に馬謖を仲間外れにしようとはしていない。
馬謖はなにを求めているかというと、ひたすら自分を賛美し、盲目的に従ってくれる、都合のいい人間に、四人がなってくれることであった。
無理難題はなはだしいところであるが、それがわからぬあたり、馬謖は孤独でありつづける。
馬謖にとっては、己と並び立つものを認めることは、許せない事柄であり、己を否定することでもあった。
馬謖には、才能があるのである。
だが、臆病すぎるあまりに、己を高いところに肯定しておかないと、不安でいても立ってもいられない(この場合の『高いところ』とは山のことではない)。
自分を、自分の実際以上に高いところに掲げ、賛美を受けている間は、安心していられる。
だが、そこで満足しているかといえば、そうではない。
おのれを賛美する者たちの裏に、うつろな思惑があることを、馬謖は十分承知しているので、心は満たされない。
さて、そうかといって、己に直言を吐いてくれる者たちのほうが、よほどよいかと問えば、これは否で、己をすこしでも否定されると、馬謖は立ち位置がつかめなくなり、混乱を起こし、はげしく騒ぐ。
己を否定される混乱と、うつろな賛美の中にいるのと、どちらがよいかと問われて、後者を選択しつづけているのが馬謖の生き方なのである。
彼は自ら、孤独であり続ける道を選んでいるのだ。
馬謖がのぞむのは、盲目的に、おのれを肯定し、賛美してくれ、さらに、おのれの状況をも理解してくれたうえで、母のように優しく叱ってくれる相手である。
だが、そんな完璧な、『甘い人間』は存在しない。
存在しない者を求め続けるがゆえに、馬謖の心は満たされない。
そして、同じ現実を繰り返し続けている。
彼は、徹底して孤独なのだ。
そんな馬謖を心配してくれるのが、兄の馬良なのであるが、この馬良の、思惑のなにもない、まっすぐな忠告も、馬謖を溺愛している母親の言葉が制してしまうので、効果が薄くなってしまっている。
くりかえしになるが、馬謖は愚か者ではない。
だから、おのれの未来に見える、大きな落とし穴の気配は感じているのだ。
感じていながらも、どうしてそうなってしまうのかがわからないので、手を打つことができないでいる。
さて、孔明を探す四人とすこし離れて歩いていると、くいくいと袖を引っ張る者がある。
客引きか、と馬謖がうんざりして振り払おうとすると、袖を引いた男は、すばやく言った。
「旦那、薬は探しておられませぬか。いい薬がございますよ」
思わず振り返れば、そこには、子供のように小躯の男が、訳知りがおで、袖を引っ張っていた。
「薬とは、媚薬だの強壮剤だのの類いであろう。いらぬ」
すると男は、その答を予想していたのか、ひっひ、といやらしい笑みをこぼして、言う。
「うちは世間じゃ扱わないような、珍しい薬を商っております。旦那がきっと欲しくなるような薬もありますよ。店はすぐそこです。どうです、覗いてみませぬか」
「ふん、わたしはおまえのような卑しい奴に付き合う余裕はないのだよ」
「まあ、そうおっしゃらず。どんな薬もございますよ」
「大きく出るではないか。では、賢くなる薬もあるのか」
それは、と客引きが言葉を詰まらせるのを期待していた馬謖ではあるが、意外な返答がかえってきた。
「ございます」
「まことか」
「ええ。お名前を申し上げることはできませぬが、かつてこの薬を飲んだおかげで、司徒の地位に上がられた方もおられます」
まさかとは思いつつも、具体的な例が出てくると弱い馬謖は、買わないまでも、すこし覗いてみるならばよいか、という気になった。
馬謖の袖を引き、小躯の男は、いそいそと路地を行く。
そこには、奇怪な建物が、幾重にも組み合わさるようにして建っている界隈で、思いもかけないところに窓があったり、どうやって出入りしているのだろうというところに、扉があったりする。
客引きの薬屋は、獣くさい一角にあり、扉の中には、あやしげな器具や壷などが並んでいる。
客はほかにだれもおらず、店番もない。
どうやら、この小男が、客引きと店番を兼ねているようだ。
思わず馬謖は、袖で鼻と口を覆いつつ、小男に尋ねた。
「まこと、賢くなれる薬があるのだろうな」
「ございますとも、貴方様をひと目見て、このお方に、あの薬を煎じてさしあげたいと、ぴんと来たのでございます。旦那は本当に運がよい。わたくしも、この商売をはじめてから、やっと手に入れることができた、稀少な薬を仕入れたばかりだったのでございますよ。まさに天の配剤。さあさ、あの奥に薬はございますゆえ」
小男の言う奥、とは、店先の奥にある扉で、中に入ると、小さな部屋に、大きな壷や籠やらが、それぞれ、強烈な胃臭を放って陳列されている。
「こんな臭い薬に、ちゃんと効能があるのだろうな」
「良薬は口に苦し、臭いもまた、きつければきついほどによいのです」
「初耳ぞ」
「こちらは、この道、数十年の玄人ですぞ。どうぞお任せくださいませ。旦那のお求めになる薬は惚れ、この中に」
と、小男が、ぱっと籠の蓋を開けると、中には、白と黒の毛玉が入っていた。
が、その毛玉、動く。
よく見れば、それは蜀の山中に住まう、白と黒のふしぎな模様の入った、熊に似た動物の子であった。
「知っておるぞ、これは、『モー』(パンダ)という生き物だ。鉄や銅を食う、かの兵主神のような動物だ」
博識なところを見せる馬謖であるが、小男はまるで頓着せず、言った。
「そのとおり。この動物の、脳みそが、貴方様のお求めになる薬でございます」
「脳みそ?」
「左様。この動物の頭蓋を切り取り、脳みそをすすることによって、不思議な力を得ることができるのです」
「脳みそをすする? 生のままでか?」
「焼いても構いませぬが、効能が落ちますぞ」
そんな薬なんぞ聞いたことがない。
馬謖が答えを返しかねていると、店の表のほうで、激しく扉を叩いている者がいる。
おやおや、今日は千客万来だ、待っていてくださいまし、と言いながら、小男は店の表に行ってしまう。
異臭のする部屋にひとり残された馬謖は、モーの入っている籠を、こわごわと覗いて見た。
モーは、成長すると熊のように大きくなる。籠に入っているモーは、犬くらいしかないから、まだ子供なのだろう。
馬謖が覗いているのに気づいたか、籠の中のモーは、がさごそと動き回り、そして、ぴょこりと顔を出した。
その瞬間、馬謖の胸の中で、なにかときめきにも似た明るい感情がはじけた。
モーの子は、無邪気な黒い瞳を馬謖に向け、たしかに、にっこりと笑ったのである。
無垢な赤ん坊のような愛らしさでもって。
すべてが丸で構成されているような、身体の愛らしさもそうであったし、モーからは、異臭がしなかった。
むしろ敷き詰められた笹の臭いが身体に移っており、青臭い。
目はあくまでつぶらで、怯えも怒りもなく、これから待ち受ける運命の暗さを、まるで恐れていない。
子犬でさえ、ときには主人に吠え掛かる。
だが、このモーは、初対面からして、笑みを浮かべて、馬謖を歓迎していた。
こんな生き物の脳みそをすすれというのか?
ふと、表のほうを見れば、どこぞの男が、強壮剤がまるで駄目で、妓女に笑いものにされたと、小男と揉めている。
小男のほうは、いろいろ言葉を尽くして抗弁しているが、短気な客は、やがて埒が明かないと見るや、小男をぽかりと殴りつけ、そのまま床に伸ばしてしまった。
そうして、客はぶつくさ言いながら、立ち去っていく。
静かになった店のなかで、馬謖はモーを振り返った。
モーは、籠の端に己の両腕を引っ掛けて、じっと馬謖を見つめている。
馬謖も、困惑してモーを見つめていると、その丸い顔が、首をかしげるような仕草をした。
それは、馬謖に、
「これからどうするの?」
と、尋ねているように見えた。
こうなると、馬謖は決断が早い。
モーを籠から取り出すと、見えないように懐に入れて、ただ黙って持ち去るのもあれだから、と払えるだけの金を小男の側に置いて、そのまま夜の街へと飛び出して言った。
懐でもぞもぞと動くモーの毛皮がくすぐったくもあり、また、その温かさがうれしくもあった。
数日後、左将軍府にて、偉度は孔明に呼び止められた。
「偉度よ、このたびはよき働きをしてくれたな」
はて、噂を消しまくったことだろうか。ガミガミ助平(魏延)のやつめが、面白おかしく誇張して騒いでいたのを封じるのは、なかなか大変だったが、それか? と、偉度が首をひねっていると、孔明は、にこにことうれしそうに言う。
「馬謖のことだ。さきほど、季常より謝礼の手紙が来たよ。とてもよき友を紹介してくれた、そなたには感謝しておると」
「はあ…」
だれのことだ? 文偉? 休昭? あれから仲良くなったなんて、聞いていないが。
「馬謖は喜んで任地に帰って行ったそうだよ。手紙を読んでみるかね。
『愚弟が、皆様方に迷惑をかけまくったとのこと、こちらも気を揉んでおりましたが、最後になり、よき友を得ることができたそうで、その友と一緒に、任地に帰って行きました。
ともに行動できるほど、胸襟を開ける友が出来たということは、愚弟が、ようやく世間様と歩調をあわせることをおぼえた証左であり、兄としては、これほどうれしいことはございません』だと」
「軍師、申し上げますが、白まゆげ殿はなにやら勘違いされているのでは。わたくしの紹介したなかに、共に任地へ向かうほど、馬幼常と気の合ったものはおりませぬ」
「ふむ? では、返答はどうすべきかな。幼常は、そなたらに付き合ったお陰で、友を得られたと言っていたそうだが、となれば、この手紙も、的外れではないぞ」
「しかし、こちらに覚えがないのですから、白まゆげ殿に感謝される謂れもない。軍師、ご親戚なのですから、わたくしの代わりに、うまく返答してくださいませぬか」
「かまわぬが…面妖なことだな。となると、幼常の友とは、何者だ?」
「とんと見当がつきませぬ。あとで兄弟たちにも聞いておきましょう」
奇妙だ、奇妙だと首をひねりつつ、立ち去る孔明を見て、偉度は、馬幼常は、最後までよくわからぬ男だったな、とため息をついた。
連敗記録、その後。
「どこか遠くへ行きたい」
人の顔をみるなり、そう宣言した孔明に対し、趙雲は即座に答えた。
「仕事はどうする」
すると、孔明は、渋い顔のまま、肩を落して、言った。
「現実的な返事をありがとう。そうだな、仕事があるから、遠方へ行く余裕もない」
兵の調練を終えて、兵舎にて簡単な決裁を下していた趙雲のもとへ、孔明がいきなりやってきた。
孔明が、屋敷になり、兵舎になりに、いきなりやってくるのは(思いつきで動いているので)そう珍しいことではないが、わがままを口にしたと思ったら、理由も告げず、踵を返して、立ち去ろうとする。
その訳のわからなさに、趙雲は呼び止めた。
「おい、なんだったのだ」
うん? と元気がなさそうに振り返る孔明に、とりあえずそこに座れ、と座を用意して、人払いをさせた。
孔明は、しょんぼりと、力なく言う。
「連敗記録がとうとう30台に突入した」
「おまえ、まだあの用心棒と囲碁勝負をしていたのか」
呆れて言うと、孔明は、肩を落とし、目線も下向きのまま、しおれた葵の花のようになって言う。
「負けたのは別にいいのだ。連敗記録とて、あと30回も打ち続ければ、勝機が見えてこよう」
「あと30も続けるつもりか」
「継続は力なり」
「この場合、当たらぬと思うが」
「子龍、わたしには囲碁の才能がないのだろうか。象棋は無敵なのだが、囲碁ではこの有様だ」
「べつに囲碁の才能がなくても、そう落ち込む必要もなかろう。囲碁の才能があるからといって、世の中が良くなるかといったら、別だからな」
「それはそうだが、やはり、悔しいではないかね。囲碁とは士大夫のたしなみの一つであるし、囲碁が得意というと、ほら、あなたが例えば槍の他にも、馬を繁殖させるのがうまい、というのと同じで、なんというか、付加価値が上がるというか」
「まあ、賢さの目安にはなるか」
「そう、まさにそのとおり。わたしの周りには、わたしと同等の腕をもつ囲碁名人はいないからな、あの用心棒を破ってこそ、堂々と威張って、囲碁が得意と言えると思う」
「で、それがどうして、遠くに行きたいことと繋がる」
「主公が来たのだ」
「主公?」
囲碁と用心棒と付加価値と劉備と、どういう関連があるのかさっぱりわからない趙雲は、ぽんぽんと話の飛ぶ孔明の、つぎの言葉を待った。
「わたしが、市井の用心棒と囲碁勝負をしているというのを、どこからか聞きつけて、様子を見に、お忍びで、左将軍府に遊びにこられたのだ。
で、わたしが負けたのを見て、面白がってだな、『そんなに強い奴なら、儂も派手に負けてみるか』とかなんとか言って、用心棒と囲碁勝負を始めたのだ」
「ふうん?」
「で、勝った」
「用心棒が?」
「ちがう。用心棒に」
「主公が?」
「そう。そして言うのだよ。『孔明、おまえ最近、おつむの調子が悪くなったのじゃねぇか。儂が勝てて、おまえはなんで勝てないのだ』と。それはもう、誇らしげに」
ははは、と孔明は力なく笑う。
趙雲には、そのときの劉備のはしゃぎっぷりが、目に浮かぶようであった。
「出来ることならば、隠棲して、おつむの調子を上向かせてから、また戻って来たいところだ」
「囲碁のためにか?」
「そうだよ」
趙雲は、いまこそ、心の底から言った。
「おまえは莫迦だ」
「莫迦だよ」
「……肯定するな。おまえ、すこし疲れているのではないか。なんだって囲碁にこうも振り回されて、隠居まで考える必要がある。囲碁と志に、どう関係が?」
「あるような、ないような」
「ないだろう」
「主公が勝てる相手に勝てない軍師など、存在価値があるのだろうか?」
「すくなくとも、おまえでなければ動かせない仕事が残っているうちは、存在価値があるのだ」
「呆れるほどに現実的だな。しかしだな、すこしはわたしの気持ちもわからないか?」
「わかるとも。わかるからこそ、止めているのだ。もしおまえが隠居なんぞしたら、法揚武将軍がここぞとばかりにしゃしゃり出て、人事が引っくり返るだろうな。俺なんぞは、おまえに近すぎるから、閑職に追いやられるのは目に見えておる。
そうなると、俺もおもしろくない。一緒に隠居するとして、ちょっと離れたところに家を構えてだ、暇になったら会いにいって、こういう実のない会話を毎日しながら、気が付けば白髪頭になり、そのうちお迎えが来てぽっくりと逝く。そんな人生で楽しいか」
「結構楽しそうだぞ。ちょっと離れたところというと、どれくらいの距離だ? 経験から行って、屋根が見える程度の距離に家があるというのが、冬の間に困らなくてよいのだが」
「そうだろうな。馬も最低限に抑えて、あとは鶏や家鴨を食料用に飼って、番犬も飼って、あとは農耕用の牛がいればよいか」
「土地のめぼしはつけてある。近くに綺麗な沢のある、住みやすい場所で…」
「待て。そちらを具体的にするな。いまのは無し。いや、たとえ隠居を始めたとしても、おまえは飽きる。一ヶ月もしないうちに飽きる。そうして後悔するに決まっている。俺はそのとき、愚痴は聞かぬぞ」
「冷たいな」
「仮の話だ。囲碁ごときに、いままでの苦労を捨ててどこへ行く? だいたい、おまえ一人ならばよしとして、偉度やほかの者たちはどうするのだ。約束をすっかり忘れて、ほっぽり出すのか?」
「……そうか」
「そうだ。わかったなら、隠居なんぞ考えるな。主公が勝ったのは、たまたまだ。あの人は、異常な瞬発力があるからな。たまたま打ったら、たまたま勝った。次に勝負したら、きっと負けるさ。うちの馬を全部賭けてもいいぞ」
「それ、主公に言ってはならぬぞ。あんなに喜んでおられるのに」
孔明の言葉に、趙雲は笑った。
「ということは、おまえにもちゃんとわかっていて、なんとなくだが愚痴を言いたくなって、俺のところに来たというのが真情だな。図星か」
とたん、孔明は、顔を柿のように赤くして、言った。
「べつに甘えにきたわけじゃないぞ。子供じゃあるまいし。なにをそんなに笑っている。なにが可笑しい。わたしは、ちっとも可笑しくない! もう帰る。見送りは不要!」
そういって、孔明は、来たときと同じように、唐突に去って行った。
その早足に遠ざかる背中を見て、趙雲は、なんだか可笑しくなり、また笑った。
その後、孔明の連敗記録は、50を超えるあたりでようやく止まった。
それが果たして孔明の実力であったのか、それとも用心棒が、孔明のしつこさにウンザリしてわざと負けたのか、そのあたりは、いまもって不明である。
ちなみに、用心棒が孔明から巻き上げた(?)贈り物の数々は、効果をあげることはできず、用心棒は、泣く泣くその女をあきらめ、ほかの女と所帯を持ち、幸せに暮らしたそうである。
おしまい
(サイト・はさみの世界 初掲載 2005年08月)
更新の間隔があいてしまい、申し訳ありませんでした。
本日より、またデータ移行をつづけます。
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