はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

おばか企画・白と黒の恍惚 最終回

2020年10月08日 10時25分19秒 | おばか企画・白と黒の恍惚
馬謖

さて、話はすこし戻る。
長星橋の妓楼街の裏町に到着したものの、やはり馬謖は、仲間外れにされつづけているような、居心地の悪さがつづき、おもしろくなかった。
もちろん、あの説教好きな強面将軍も、口うるさくて生意気な主簿も、貧乏二人組も、積極的に馬謖を仲間外れにしようとはしていない。

馬謖はなにを求めているかというと、ひたすら自分を賛美し、盲目的に従ってくれる、都合のいい人間に、四人がなってくれることであった。
無理難題はなはだしいところであるが、それがわからぬあたり、馬謖は孤独でありつづける。
馬謖にとっては、己と並び立つものを認めることは、許せない事柄であり、己を否定することでもあった。
馬謖には、才能があるのである。
だが、臆病すぎるあまりに、己を高いところに肯定しておかないと、不安でいても立ってもいられない(この場合の『高いところ』とは山のことではない)。
自分を、自分の実際以上に高いところに掲げ、賛美を受けている間は、安心していられる。
だが、そこで満足しているかといえば、そうではない。
おのれを賛美する者たちの裏に、うつろな思惑があることを、馬謖は十分承知しているので、心は満たされない。
さて、そうかといって、己に直言を吐いてくれる者たちのほうが、よほどよいかと問えば、これは否で、己をすこしでも否定されると、馬謖は立ち位置がつかめなくなり、混乱を起こし、はげしく騒ぐ。
己を否定される混乱と、うつろな賛美の中にいるのと、どちらがよいかと問われて、後者を選択しつづけているのが馬謖の生き方なのである。
彼は自ら、孤独であり続ける道を選んでいるのだ。
馬謖がのぞむのは、盲目的に、おのれを肯定し、賛美してくれ、さらに、おのれの状況をも理解してくれたうえで、母のように優しく叱ってくれる相手である。
だが、そんな完璧な、『甘い人間』は存在しない。
存在しない者を求め続けるがゆえに、馬謖の心は満たされない。
そして、同じ現実を繰り返し続けている。
彼は、徹底して孤独なのだ。

そんな馬謖を心配してくれるのが、兄の馬良なのであるが、この馬良の、思惑のなにもない、まっすぐな忠告も、馬謖を溺愛している母親の言葉が制してしまうので、効果が薄くなってしまっている。
くりかえしになるが、馬謖は愚か者ではない。
だから、おのれの未来に見える、大きな落とし穴の気配は感じているのだ。
感じていながらも、どうしてそうなってしまうのかがわからないので、手を打つことができないでいる。

さて、孔明を探す四人とすこし離れて歩いていると、くいくいと袖を引っ張る者がある。
客引きか、と馬謖がうんざりして振り払おうとすると、袖を引いた男は、すばやく言った。
「旦那、薬は探しておられませぬか。いい薬がございますよ」
思わず振り返れば、そこには、子供のように小躯の男が、訳知りがおで、袖を引っ張っていた。
「薬とは、媚薬だの強壮剤だのの類いであろう。いらぬ」
すると男は、その答を予想していたのか、ひっひ、といやらしい笑みをこぼして、言う。
「うちは世間じゃ扱わないような、珍しい薬を商っております。旦那がきっと欲しくなるような薬もありますよ。店はすぐそこです。どうです、覗いてみませぬか」
「ふん、わたしはおまえのような卑しい奴に付き合う余裕はないのだよ」
「まあ、そうおっしゃらず。どんな薬もございますよ」
「大きく出るではないか。では、賢くなる薬もあるのか」
それは、と客引きが言葉を詰まらせるのを期待していた馬謖ではあるが、意外な返答がかえってきた。
「ございます」
「まことか」
「ええ。お名前を申し上げることはできませぬが、かつてこの薬を飲んだおかげで、司徒の地位に上がられた方もおられます」
まさかとは思いつつも、具体的な例が出てくると弱い馬謖は、買わないまでも、すこし覗いてみるならばよいか、という気になった。

馬謖の袖を引き、小躯の男は、いそいそと路地を行く。
そこには、奇怪な建物が、幾重にも組み合わさるようにして建っている界隈で、思いもかけないところに窓があったり、どうやって出入りしているのだろうというところに、扉があったりする。
客引きの薬屋は、獣くさい一角にあり、扉の中には、あやしげな器具や壷などが並んでいる。
客はほかにだれもおらず、店番もない。
どうやら、この小男が、客引きと店番を兼ねているようだ。
思わず馬謖は、袖で鼻と口を覆いつつ、小男に尋ねた。
「まこと、賢くなれる薬があるのだろうな」
「ございますとも、貴方様をひと目見て、このお方に、あの薬を煎じてさしあげたいと、ぴんと来たのでございます。旦那は本当に運がよい。わたくしも、この商売をはじめてから、やっと手に入れることができた、稀少な薬を仕入れたばかりだったのでございますよ。まさに天の配剤。さあさ、あの奥に薬はございますゆえ」
小男の言う奥、とは、店先の奥にある扉で、中に入ると、小さな部屋に、大きな壷や籠やらが、それぞれ、強烈な胃臭を放って陳列されている。
「こんな臭い薬に、ちゃんと効能があるのだろうな」
「良薬は口に苦し、臭いもまた、きつければきついほどによいのです」
「初耳ぞ」
「こちらは、この道、数十年の玄人ですぞ。どうぞお任せくださいませ。旦那のお求めになる薬は惚れ、この中に」
と、小男が、ぱっと籠の蓋を開けると、中には、白と黒の毛玉が入っていた。
が、その毛玉、動く。
よく見れば、それは蜀の山中に住まう、白と黒のふしぎな模様の入った、熊に似た動物の子であった。
「知っておるぞ、これは、『モー』(パンダ)という生き物だ。鉄や銅を食う、かの兵主神のような動物だ」
博識なところを見せる馬謖であるが、小男はまるで頓着せず、言った。
「そのとおり。この動物の、脳みそが、貴方様のお求めになる薬でございます」
「脳みそ?」
「左様。この動物の頭蓋を切り取り、脳みそをすすることによって、不思議な力を得ることができるのです」
「脳みそをすする? 生のままでか?」
「焼いても構いませぬが、効能が落ちますぞ」
そんな薬なんぞ聞いたことがない。
馬謖が答えを返しかねていると、店の表のほうで、激しく扉を叩いている者がいる。
おやおや、今日は千客万来だ、待っていてくださいまし、と言いながら、小男は店の表に行ってしまう。

異臭のする部屋にひとり残された馬謖は、モーの入っている籠を、こわごわと覗いて見た。
モーは、成長すると熊のように大きくなる。籠に入っているモーは、犬くらいしかないから、まだ子供なのだろう。
馬謖が覗いているのに気づいたか、籠の中のモーは、がさごそと動き回り、そして、ぴょこりと顔を出した。
その瞬間、馬謖の胸の中で、なにかときめきにも似た明るい感情がはじけた。
モーの子は、無邪気な黒い瞳を馬謖に向け、たしかに、にっこりと笑ったのである。
無垢な赤ん坊のような愛らしさでもって。
すべてが丸で構成されているような、身体の愛らしさもそうであったし、モーからは、異臭がしなかった。
むしろ敷き詰められた笹の臭いが身体に移っており、青臭い。
目はあくまでつぶらで、怯えも怒りもなく、これから待ち受ける運命の暗さを、まるで恐れていない。
子犬でさえ、ときには主人に吠え掛かる。
だが、このモーは、初対面からして、笑みを浮かべて、馬謖を歓迎していた。
こんな生き物の脳みそをすすれというのか?
ふと、表のほうを見れば、どこぞの男が、強壮剤がまるで駄目で、妓女に笑いものにされたと、小男と揉めている。
小男のほうは、いろいろ言葉を尽くして抗弁しているが、短気な客は、やがて埒が明かないと見るや、小男をぽかりと殴りつけ、そのまま床に伸ばしてしまった。
そうして、客はぶつくさ言いながら、立ち去っていく。

静かになった店のなかで、馬謖はモーを振り返った。
モーは、籠の端に己の両腕を引っ掛けて、じっと馬謖を見つめている。
馬謖も、困惑してモーを見つめていると、その丸い顔が、首をかしげるような仕草をした。
それは、馬謖に、
「これからどうするの?」
と、尋ねているように見えた。
こうなると、馬謖は決断が早い。
モーを籠から取り出すと、見えないように懐に入れて、ただ黙って持ち去るのもあれだから、と払えるだけの金を小男の側に置いて、そのまま夜の街へと飛び出して言った。
懐でもぞもぞと動くモーの毛皮がくすぐったくもあり、また、その温かさがうれしくもあった。


数日後、左将軍府にて、偉度は孔明に呼び止められた。
「偉度よ、このたびはよき働きをしてくれたな」
はて、噂を消しまくったことだろうか。ガミガミ助平(魏延)のやつめが、面白おかしく誇張して騒いでいたのを封じるのは、なかなか大変だったが、それか? と、偉度が首をひねっていると、孔明は、にこにことうれしそうに言う。
「馬謖のことだ。さきほど、季常より謝礼の手紙が来たよ。とてもよき友を紹介してくれた、そなたには感謝しておると」
「はあ…」
だれのことだ? 文偉? 休昭? あれから仲良くなったなんて、聞いていないが。
「馬謖は喜んで任地に帰って行ったそうだよ。手紙を読んでみるかね。
『愚弟が、皆様方に迷惑をかけまくったとのこと、こちらも気を揉んでおりましたが、最後になり、よき友を得ることができたそうで、その友と一緒に、任地に帰って行きました。
ともに行動できるほど、胸襟を開ける友が出来たということは、愚弟が、ようやく世間様と歩調をあわせることをおぼえた証左であり、兄としては、これほどうれしいことはございません』だと」
「軍師、申し上げますが、白まゆげ殿はなにやら勘違いされているのでは。わたくしの紹介したなかに、共に任地へ向かうほど、馬幼常と気の合ったものはおりませぬ」
「ふむ? では、返答はどうすべきかな。幼常は、そなたらに付き合ったお陰で、友を得られたと言っていたそうだが、となれば、この手紙も、的外れではないぞ」
「しかし、こちらに覚えがないのですから、白まゆげ殿に感謝される謂れもない。軍師、ご親戚なのですから、わたくしの代わりに、うまく返答してくださいませぬか」
「かまわぬが…面妖なことだな。となると、幼常の友とは、何者だ?」
「とんと見当がつきませぬ。あとで兄弟たちにも聞いておきましょう」
奇妙だ、奇妙だと首をひねりつつ、立ち去る孔明を見て、偉度は、馬幼常は、最後までよくわからぬ男だったな、とため息をついた。




連敗記録、その後

「どこか遠くへ行きたい」
人の顔をみるなり、そう宣言した孔明に対し、趙雲は即座に答えた。
「仕事はどうする」
すると、孔明は、渋い顔のまま、肩を落して、言った。
「現実的な返事をありがとう。そうだな、仕事があるから、遠方へ行く余裕もない」
兵の調練を終えて、兵舎にて簡単な決裁を下していた趙雲のもとへ、孔明がいきなりやってきた。
孔明が、屋敷になり、兵舎になりに、いきなりやってくるのは(思いつきで動いているので)そう珍しいことではないが、わがままを口にしたと思ったら、理由も告げず、踵を返して、立ち去ろうとする。
その訳のわからなさに、趙雲は呼び止めた。
「おい、なんだったのだ」
うん? と元気がなさそうに振り返る孔明に、とりあえずそこに座れ、と座を用意して、人払いをさせた。
孔明は、しょんぼりと、力なく言う。
「連敗記録がとうとう30台に突入した」
「おまえ、まだあの用心棒と囲碁勝負をしていたのか」
呆れて言うと、孔明は、肩を落とし、目線も下向きのまま、しおれた葵の花のようになって言う。
「負けたのは別にいいのだ。連敗記録とて、あと30回も打ち続ければ、勝機が見えてこよう」
「あと30も続けるつもりか」
「継続は力なり」
「この場合、当たらぬと思うが」
「子龍、わたしには囲碁の才能がないのだろうか。象棋は無敵なのだが、囲碁ではこの有様だ」
「べつに囲碁の才能がなくても、そう落ち込む必要もなかろう。囲碁の才能があるからといって、世の中が良くなるかといったら、別だからな」
「それはそうだが、やはり、悔しいではないかね。囲碁とは士大夫のたしなみの一つであるし、囲碁が得意というと、ほら、あなたが例えば槍の他にも、馬を繁殖させるのがうまい、というのと同じで、なんというか、付加価値が上がるというか」
「まあ、賢さの目安にはなるか」
「そう、まさにそのとおり。わたしの周りには、わたしと同等の腕をもつ囲碁名人はいないからな、あの用心棒を破ってこそ、堂々と威張って、囲碁が得意と言えると思う」
「で、それがどうして、遠くに行きたいことと繋がる」
「主公が来たのだ」
「主公?」
囲碁と用心棒と付加価値と劉備と、どういう関連があるのかさっぱりわからない趙雲は、ぽんぽんと話の飛ぶ孔明の、つぎの言葉を待った。
「わたしが、市井の用心棒と囲碁勝負をしているというのを、どこからか聞きつけて、様子を見に、お忍びで、左将軍府に遊びにこられたのだ。
で、わたしが負けたのを見て、面白がってだな、『そんなに強い奴なら、儂も派手に負けてみるか』とかなんとか言って、用心棒と囲碁勝負を始めたのだ」
「ふうん?」
「で、勝った」
「用心棒が?」
「ちがう。用心棒に」
「主公が?」
「そう。そして言うのだよ。『孔明、おまえ最近、おつむの調子が悪くなったのじゃねぇか。儂が勝てて、おまえはなんで勝てないのだ』と。それはもう、誇らしげに」
ははは、と孔明は力なく笑う。
趙雲には、そのときの劉備のはしゃぎっぷりが、目に浮かぶようであった。
「出来ることならば、隠棲して、おつむの調子を上向かせてから、また戻って来たいところだ」
「囲碁のためにか?」
「そうだよ」
趙雲は、いまこそ、心の底から言った。
「おまえは莫迦だ」
「莫迦だよ」
「……肯定するな。おまえ、すこし疲れているのではないか。なんだって囲碁にこうも振り回されて、隠居まで考える必要がある。囲碁と志に、どう関係が?」
「あるような、ないような」
「ないだろう」
「主公が勝てる相手に勝てない軍師など、存在価値があるのだろうか?」
「すくなくとも、おまえでなければ動かせない仕事が残っているうちは、存在価値があるのだ」
「呆れるほどに現実的だな。しかしだな、すこしはわたしの気持ちもわからないか?」
「わかるとも。わかるからこそ、止めているのだ。もしおまえが隠居なんぞしたら、法揚武将軍がここぞとばかりにしゃしゃり出て、人事が引っくり返るだろうな。俺なんぞは、おまえに近すぎるから、閑職に追いやられるのは目に見えておる。
そうなると、俺もおもしろくない。一緒に隠居するとして、ちょっと離れたところに家を構えてだ、暇になったら会いにいって、こういう実のない会話を毎日しながら、気が付けば白髪頭になり、そのうちお迎えが来てぽっくりと逝く。そんな人生で楽しいか」
「結構楽しそうだぞ。ちょっと離れたところというと、どれくらいの距離だ? 経験から行って、屋根が見える程度の距離に家があるというのが、冬の間に困らなくてよいのだが」
「そうだろうな。馬も最低限に抑えて、あとは鶏や家鴨を食料用に飼って、番犬も飼って、あとは農耕用の牛がいればよいか」
「土地のめぼしはつけてある。近くに綺麗な沢のある、住みやすい場所で…」
「待て。そちらを具体的にするな。いまのは無し。いや、たとえ隠居を始めたとしても、おまえは飽きる。一ヶ月もしないうちに飽きる。そうして後悔するに決まっている。俺はそのとき、愚痴は聞かぬぞ」
「冷たいな」
「仮の話だ。囲碁ごときに、いままでの苦労を捨ててどこへ行く? だいたい、おまえ一人ならばよしとして、偉度やほかの者たちはどうするのだ。約束をすっかり忘れて、ほっぽり出すのか?」
「……そうか」
「そうだ。わかったなら、隠居なんぞ考えるな。主公が勝ったのは、たまたまだ。あの人は、異常な瞬発力があるからな。たまたま打ったら、たまたま勝った。次に勝負したら、きっと負けるさ。うちの馬を全部賭けてもいいぞ」
「それ、主公に言ってはならぬぞ。あんなに喜んでおられるのに」
孔明の言葉に、趙雲は笑った。
「ということは、おまえにもちゃんとわかっていて、なんとなくだが愚痴を言いたくなって、俺のところに来たというのが真情だな。図星か」
とたん、孔明は、顔を柿のように赤くして、言った。
「べつに甘えにきたわけじゃないぞ。子供じゃあるまいし。なにをそんなに笑っている。なにが可笑しい。わたしは、ちっとも可笑しくない! もう帰る。見送りは不要!」
そういって、孔明は、来たときと同じように、唐突に去って行った。
その早足に遠ざかる背中を見て、趙雲は、なんだか可笑しくなり、また笑った。


その後、孔明の連敗記録は、50を超えるあたりでようやく止まった。
それが果たして孔明の実力であったのか、それとも用心棒が、孔明のしつこさにウンザリしてわざと負けたのか、そのあたりは、いまもって不明である。
ちなみに、用心棒が孔明から巻き上げた(?)贈り物の数々は、効果をあげることはできず、用心棒は、泣く泣くその女をあきらめ、ほかの女と所帯を持ち、幸せに暮らしたそうである。

おしまい

(サイト・はさみの世界 初掲載 2005年08月)

更新の間隔があいてしまい、申し訳ありませんでした。
本日より、またデータ移行をつづけます。
どうぞよろしくおねがいします。

おばか企画・白と黒の恍惚 その6

2020年10月08日 10時21分50秒 | おばか企画・白と黒の恍惚
偉度+莫迦坊ちゃんズ

にじんだ月が群雲の上にあらわれて、成都の街は、すっかり夜闇につつまれた。
商店で提灯を買い求め、その灯りを頼りに、てくてくと自邸へそれぞれ向かう五人の姿がある。
先頭は趙雲で、そのあとを不機嫌そうに孔明、対称的に、ご機嫌な偉度、最後に文偉と休昭が並んで歩いている。
趙雲が寡黙なのはいつものことだが、孔明が不快なのを隠さずにいるのは珍しいし、いつも皮肉げな笑みを浮かべて、機嫌の上下とはまったく無縁な顔をしている偉度が、鼻歌でも口ずさみそうなほど機嫌がよいのも不思議な光景である。
文偉と休昭は、前を行く三人のあいだに、どんな過去があり、今に至っているのか知らない。
だから、偉度が、孔明と趙雲が揃っていると、嬉しそうにする理由がよくわからない。
文偉などは、二人がいる、というだけで、緊張してしまうし、その緊張があらわれているのが、この距離でもある。
偉度は、二人を尊敬して慕っている、というのではない。
なにかもっと強い絆を感じるのであるが、それを知ることは、偉度が語りたがらないこと、まさにさきほど、馬謖と喧嘩した原因になったことを探ることになるような気がして、問うことができなかった。

しかしそれにしても…

「馬幼常はどうしたかな」
「金子(きんす)はたっぷりありそうだから、適当な店に入って遊んでいるのじゃないか」
と、休昭は深い意味も考えずに、さらりと答えた。
まあ、特別に想像を働かせなくても、そんなところだろうな、と文偉も思う。
「金持ちは良いな。わたしもあそこで、金を気にせず遊んでみたいが」
「あんなところに入り浸るようになったら、絶交だからな」
「判っているよ、潔癖党副総裁」

休昭の言葉は戯言でなく、本気だろう。
となると、遊びに行く時は、こいつも一緒に連れて行って、黙らせる必要があるな、うむ。
二人分の遊興費が必要になる…そこまで稼げるようになるには、あとどれくらいかかるやら。

「軍師には驚かされるな。あんなところへ、独りで毎日通って」
すこしでも遊んで行こうかな、と考えなかったのだろうか。
まわりはよりどりみどり。
金はある。いざとなればその名を出して、楽しく豪勢にすることもできるだろうに。
文偉の言葉をどう取ったか、休昭も頷いた。
「あの方は度胸があるよな。わたしだったら、怖くて、一人で店に入るなどできないよ」
こいつ、いくつになったのだっけ。
潔癖というよりは、いささか小心に過ぎるのじゃないかな、と文偉は心配になってきた。

まあ、休昭は、見るからに世間知らずな純粋培養(でも貧乏)の雰囲気を全身から醸し出している。
一人で裏町をうろうろして、あのあたりに徘徊する狼どもに狙われたら、大変なことになるだろう。
とはいえ、いつまでもお坊ちゃまでいるわけにはいかない。
ふむ、となると、世間を教える役目を担うのは、わたしか。
まあ、わたしも一人っ子でこいつも一人っ子。
もう親友と言うよりは兄弟に近い(しかも互いに、競争心がぜんぜん起こらない間柄だ。意識していないだけかもしれないが)。
そうなれば、年長たるこちらが、兄の役目を負わねばなるまい。
とはいえ、いきなりあの界隈の店に連れて行ったら、幼宰さまより大目玉どころか、雷が落ちそうだ。
あの方は怒ると、とんでもなく恐ろしいからな。
折を見て、慎重に、世の中を教えていかねば。
こういう、生真面目すぎる奴に限って、ちょっとのはずみで道に逸れてしまったとき、崩れ落ちるさまも生真面目なのだ。
つまりは、絵に描いたような見事な転落っぷりを見せる。
免疫をつけなければいかん。
これは、休昭の転落を防止するためで、わたしが遊ぶ時にうるさくいわれないための防衛策ではない。うむ。





休昭にとって、親切なのか大いなる迷惑なのか、よくわからないことを、文偉が考えているなか、偉度は、さきほどから沈黙がつづいている趙雲と孔明の間に入って、提灯で足元を照らしている趙雲のほうに尋ねた。
「趙将軍は、もしや、軍師が女遊びをしているのではないと、最初から気づいておられたのですか」
すると、趙雲は、偉度のほうを見ないまま、無愛想に、
「まあな」
とだけ言った。
「なぜです」
「女は買わないと、前に言っただろう」
とは、ちょうど偉度の背後にいる孔明の言葉であるが、偉度は趙雲がなぜ慌てなかったのか、その理由を知りたかった。
付き合いが長いので、動揺したのなら、隠してもすぐ見破る自信がある。
趙雲は、まるで動揺していなかった。
「なぜなのです」
食い下がる偉度に、趙雲は、いささか迷惑そうに、眉をしかめたものの、それでも重たい口を開いた。
「顔を見ればわかる。これが、女に入れ込んでいる男の顔か」
言われて、ちらりと振り返れば、孔明はひたすら不機嫌そうであるが、その顔には、恋愛の嵐に巻き込まれている者特有の、熱っぽい艶めかしさはない。
頭の中には、等間隔で区切られた美しい碁盤の目と、白と黒の配置がぐるぐると回っているだけのように見える。
色っぽさもなにもあったものじゃない。
なるほど。
「よく観察しておられる」
「おまえは観察が足りぬな」
うまく切り返されたな、と思いながら、今度は、偉度は孔明の横に並んで、尋ねた。
「偉度に一言おっしゃってくだされば、だれにも洩らさず、ちゃんとお供いたしましたものを。なぜに黙っておられたのです」
すると、聡明な孔明にしては意外にも、そうだったな、などと、感心している。
とぼけているのではない。
孔明は、なにかひとつに夢中になると、ほかに頭が回らなくなる悪い癖があるが、今回は、それがまともに出た形だろう。
「正体をばらさず、あの用心棒に、実力を思うさま振るって欲しいというのが先に出て、ほかのことに気が回らなかった」
「場所が場所です。噂になることは考えなかったので?」
「噂はおまえが消すだろう」
「ご信頼ありがとうございます。しかし、中でなにをしていたかはともかく、妓楼に通っていた、という事実は事実なわけですから、軽率すぎますぞ。すでに、巷では、軍師によく似た者が、よからぬ場所に出入りしていると言う噂が、ちらほらと出ております」
「うむ、それはいかんな。おまえの言うとおりだな。悪かった、悪かった」
「『悪かった』は二度で結構」
「悪かった」

そのやり取りを聞いて、めずらしく趙雲が声をたてて笑った。
孔明は、さらにむっとして趙雲の背中に尋ねた。
「なにが可笑しい」
「いや、偉度は、俺よりおまえを叱るのがうまいな」
「そうでしょうか。軍師はわたしの言葉には、簡単に相槌を打たれますが、その後、反省はしてくださいませぬ」
「反省? しているとも。心からすまなかったと思っているさ」
孔明がとぼけて言うので、偉度は口を尖らせた。
「嘘をおっしゃい。では、わたしが話しかける前に、なにを考えていたか当てて差し上げましょうか。正体がばれてしまったようだが、どうやったらあの用心棒をうまく説得して、左将軍府に召しだし、実力を振るわせられるかを考えてらっしゃった。そうでしょう」
孔明は、む、と小さく言い、眉をしかめた。
伊達に主簿はしていないさ、と偉度は思いつつ、図星だったことに、ため息をつく。
「あの用心棒ならば、軍師に勝てば、もっと褒美を取らせるといえば、ますます張り切って、その腕を見せるでしょうよ。ちゃんとわたくしが連れてまいりますから、軍師は大人しく待ってらっしゃい」
「わかった。頼む」
「本当にわかってらっしゃるのか。だいたい、あなたは他のだれよりも、とびきり派手で目立つのです。普通にしていても人目に付きやすい。お忍びなんぞできる方ではないのですよ。まったく、それでも変装して出かけたというのならともかく、いつものとおり、堂々と出かけていたというのだから、話にもなりませぬ」
「ならば変装していけばよかったのか」
「変装しても駄目です。しばらく大人しくしてらっしゃい」
「ハイ」
そのやり取りを聞いて、やはり趙雲は肩を震わせ、笑っているようである。
こっちは本気で孔明に意見をしているのに、なにが可笑しいのか。
「将軍、わたくしの言葉に、おかしな点がございましたか」
「いいや、可笑しい点なぞなにもない。俺が笑ったのは、やっと俺と同じ苦労を理解できる者が出来たというのが愉快で、笑っておったのだ」
「ふん、これも仕事ですからね。仕事でなければ、なにを好き好んで、こんなわけのわからない人の面倒なんて見ますか」
「そういうことにしておくか。軍師、本気に取るなよ」
「わかっているとも。何年越しの付き合いだと思う」
どうもうまくあしらわれているような気分が取れない。
というよりは、やはり二人の意見がまずあって、なんだかんだと、最終的にはそれに添う形になっている。
この関係は、磐石といおうか、やはり崩れないものなのだな、と、安心しながらも、すこしばかり、自分の力不足を見せ付けられたような気がして、偉度は、道端の石をぽんと蹴飛ばして憂さを晴らした。

つづく……

おばか企画 白と黒の恍惚 5

2020年05月12日 07時19分01秒 | おばか企画・白と黒の恍惚


西の地平線に、徐々に徐々に陽が食われていく。
同時に、代理の太陽とでもいわんばかりにあちこちの妓楼で、うつくしい灯篭に火が灯され、客引きが通りがかりの男たちに声をかけていく。
猥雑な町のなかを、嬌声と楽の音、人々の踏む足音などが混ざり合い、独特の空気をつくりあげている。
この空気がまるで粘膜のようになって、日常では起こりえないような、きわめて危うい状況をも、すっぽり包み込んで、人々の意識のなかに、曖昧に溶かし込んでしまう。
まさに闇、と形容するほかない、得体のしれない気配が、街にはある。
しかし、それは甘い毒を含む、なんとも魅惑的なものである。
太陽が昇るのと共にそれを振り切る勇気がなければ、足を踏み入れないほうが無難だろう。

「飲み屋には入るが、このあたりにはあまり足を踏み入れたことがないな」
「表通りに面している店は一流どころばかりだが、この裏手となると、だいぶ落ちるうえに、物騒な連中も揃っているからな。無理に袖を引かれて、どこかに連れ込まれそうになったら、思い切り叫ぶのだぞ。わたしか趙将軍がすぐに行くから」
偉度の言葉に、休昭はすっかり不貞腐れて言う。
「そこまでわたしはひ弱に見えるのか?」
「見るからにカモだ。隣で笑っている文偉、おまえも危ない。そうだな、休昭は趙将軍の側へ。文偉はわたしと共に」
趙将軍だと、違う意味で客引きの集中砲火を浴びそうだよね、と話しながら、それでもきちんと偉度の言うことを聞く二人。
その二人を見る偉度に、趙雲が言った。
「おまえも油断するな」
「わたくしに、それをおっしゃいますか」
「おまえには、こいつらとは違う意味で警戒すべき人間がいるだろう。このあたりには、特にな」
「そういう意味でございますか。たしかに」
「名のある武将とて、油断すれば呆気ないものだ。おい、白まゆげの弟、おまえもあまり、離れるなよ」
相変わらず、不機嫌な馬謖は、苛立ちを隠さず言った。
「わたしが行くところは、わたしが決めますよ」
「軍師にもそういうところがあるがな、あれは、ちゃんと時と場所を考えてわがままを言うぞ。すこし周囲を見ることを覚えろ。そうでなければ、おまえの先行きは真っ暗だぞ」
趙雲の説教にも、馬謖はぷいと顔をそむけて、答える。
「わたしには、あなたの説教は効きません」
馬謖は光沢のある、高価な絹を普段に使った衣裳を身に纏っており、あたりの客引き、妓女、そのほかもろもろから、熱い視線を浴びているのだが、そこに気づかない。
趙雲ら四人は、地味にしているので、適度に声が掛かる程度である。
「じゃあ、勝手にするがいい。では、片っ端から聞いて回るとするか。偉度、おまえに心当たりはないのか」
「わたしの知っている店に軍師が出入りしているのなら、すぐに気付きます。そうではない店でしょう。あの人のことだから、あんまり裏路地には入り込んでいないと思います…が…断言できませぬ」
「あれだけ派手なのがうろうろしていれば、多少は噂にもなるだろう。それも聞こえてこないのか」
「いつぞや、独りで羽根を伸ばしたいとわがままを言って、地味な衣裳を着て屋敷を抜け出したことがあったでしょう。ご丁寧に、代理の等身大の人形に自分の服を着せて、卓に座らせて、動いていないように見せかけていた。そういうことを冗談半分、本気半分でする人ですからね」
「あったな。あの人形、どうしたのだっけ?」
「左将軍府の庫に仕舞ってあります。夜更けに見ると、ぎくりとしますよ。なかなか精巧に出来ているから、燃やすに燃やせないし、厄介物です、本当」

趙雲と偉度の会話を聞きながら、文偉と休昭はひそひそと話をしていた。
「われらの知る軍師と、趙将軍と偉度の知る軍師は、やはりすこし違うのだな」
「そういえば、父上が、軍師は集中力がなくなると、後れ毛を引っ張って枝毛を探すが、あれは悪い癖だと言っていた」
「枝毛…そういえば、わたしも髪を切らねば…と、おや? 馬幼常がいない」
「本当だ。どこかに遊びに行ったのかな」
「悪いが、すこしほっとしたよ。偉度をあんなに怒らせるんだもの。よほど相性が悪いにちがいない。偉度が怒ると、ものすごく遠い世界の人間になってしまう気がして、嫌なのだ」
「それは判るよ。偉度は、わたしたちの知らない、なにかを持っているが、偉度が何も言わないのだ。わたしたちには関係のない事柄なのだろう」
「そうさ。過剰に相手に踏み込むのは、無粋者のすることさ。この話題はもう打ち切りにしよう。それより軍師だ」
「ちょっと見上げれば、いたりして」
と、休昭は人の良い笑顔を見せて、星がちらちらと瞬き始めた空を見上げるが…
「あ」
「どうした?」
「いた」

休昭の言葉に、一同が見上げれば、妓楼の二階、ちょうどせり出した、通りを一望できる欄干に腰を掛ける形で、孔明は真剣な顔をしてなにかを見つめている。
それは、戦場でしか見せることのない、厳めしい表情であった。
ちょうど、ぐてんぐてんに酔っ払った男が、あたりに意味不明の言葉を撒き散らしながら、二階を見上げる四人の脇を通り過ぎようとする。
が、動きのある往来のなかで立ち止まり、ぽかんと上を向く四人が気になったらしく、一緒になって上を見上げ、声をたてて笑った。
そして、相変わらず、趙雲たちに気づかないでいる孔明に言う。
「おおい、そこの女みたいな面した兄さん、あんたも売り物かい?」
すると、孔明は目線を移動させないまま、手で何かをつまみ上げ、無言のまま、男にそれを投げ落とした。
ぱらぱらと、豆のように落ちてきたそれは、いくつか男にぶつかり、男は、それでも上機嫌で、
「こわい、こわい」
と言いながら去ろうとする。
しかし、趙雲がさりげなく足を伸ばして、男を地面に転がした。

足に来た、もう帰ろう、といって立ち去る男を横に、文偉と休昭が、落ちてきたそれらを拾うと、それはなめらかな光沢をもつ白と黒の石であった。
「碁石?」
ふたたび二階に目を転じると、孔明のものではない、知らない男の声がする。
「旦那、まーた投げたんですかい? 碁石だって、タダじゃねぇんだ。あんまり道端に投げないでくださいよ」
男のぼやきに、孔明は姿勢を変えないまま、答える。
「このあたりには、口の悪い人間が、特にあつまるらしいな」
「からかわれるのが嫌だってんなら、そんな目立つところにいなきゃいいんですよ。奥に部屋だって取れますぜ」
「奥は、脂粉の匂いがきついから嫌だ。女たちの邪魔にもなるであろうし」
「旦那がそこにいるだけで、もう十分に営業妨害ですぜ。まあ、こっちはおぜぜを沢山いただいておりますので、文句はいいやしませんが」
「そうだとも、こちらは大変な出費だ。こうなれば、意地でも勝つまで通う」
「何度、通ってこられたって、無駄でさ。なにせ、生まれてこの方、あたしは碁で、誰かに負けたことなんて一度もねぇんだ。
武術の腕はからっきしだってぇのに、用心棒なんてしてられるのも、剣じゃなくて囲碁で相手を負かしてきたから。ま、つまりは、この白と黒の石ころたちは、あたしの大事な盾と矛ってところですかね。ほら、今度も旦那の負けだ」
「まだだ! 最後まで決まっておらぬ!」
「そんなこと言って、こっちに置くのなら、あたしはこうします。ほら、どちらにしても八方塞り、旦那の負けですよ。さあて、今日も授業料いただきます」

妓楼の用心棒の男は、ちょうど影になって見えなかったが、孔明に向かってにゅっと手が伸びたのだけがわかった。
妓楼の入り口を飾り立てる灯篭の明かりに浮かぶ孔明は、仕方ないと言いながら、懐から、可愛らしい包みを取り出して、男に差し出す。
「今日はなんです」
「香だ。これだけ毎日、浴びせるように物を贈っているのだ。おまえの女は、いいかげんに一緒になるのを承諾してくれたのではないか」
「それが足元を見られているのだか、うんと言ってくれねぇんですよ。荒っぽいことはしたくねぇし、それこそ、こちらは八方塞がりですよ。旦那、どうしたらいいと思います?」
用心棒の馴れ馴れしさから見て、相手は孔明が何者であるかを知らないらしい。
用心棒の声に、孔明は生真面目なところを見せて、ううむ、と考え込んでいる。

そのやりとりを、ぽかんと聞いていた一堂であるが、そこへ、妓楼の主が出てきた。
「ちょいと、あんたら、でかい図体で、そうして立ってられると、こちらも商売の邪魔なんだがね! うちに入るの? 入らないの?」
「おまえが、ここの主人か」
趙雲は特に凄んではいないのだが、人を見る目に長けている妓楼の主は、ただ者ではないと察したのか、態度を軟化させて答えた。
「左様でございます。わたくしどもに、なにか」
「聞きたいのだが、あの二階の、女を買う場所で、なぜだか碁を打っているヘンなの、何者か知っておるか」
「あのお方ですか。うちの用心棒に挑戦しにきた、囲碁好きでしょう。毎日のように通ってこられるのに、うちの用心棒ばかりと囲碁なんか打って、女たちには見向きもしない。本当にヘンな…って、まさか」
と、主人は顔色を変えて、そっと趙雲に耳打ちをする。
「よその店の、うちの用心棒を引き抜きに来た、女に興味のない、もと陰…」
とたん、派手な音がして、地面に妓楼の主人が、頭に瘤をつくって、趙雲の足元にのびていた。
その音に、ようやく二階の孔明は気づいたようである。
そうしておや、と顔をしかめて言った。
「子龍、青少年を導くべき立場にある人間が、このような界隈に、連れ立って来ては駄目ではないか」
「事情は呑みこめた。いますぐ降りて来い」
「なにを言う。まだ宵の口ではないか。あと一局」
「いますぐ降りて来い!」
趙雲がきつく言うと、孔明は、しぶしぶ、というふうに席を立ち、不満そうに姿を現した。
「なにを怒っているのだ。ようやく相手の癖を見極められるかもしれないというところであったのに」
「囲碁の」
「うん、囲碁の」
「あのな」
趙雲は深く息を吸い込む。それを見て、孔明はさっと顔色を変えて、あわてて耳を塞いだ。

「囲碁ごときで騒ぎを起こすな、たわけ!」

あたりの喧騒はぴたりと鎮まり、視線は一気に趙雲と孔明という、遠目にも目立つ二人に集中している。
事情を知る休昭と偉度と文偉は、恥ずかしさのあまり、身の置き所がない。
が、趙雲は慣れたもので、鋭い視線を周囲に向けると、
「見世物ではない! 各自、作業を再開せよ!」
とふたたび怒鳴った。
「なんの作業ですか、恥ずかしい」
偉度がこぼすが、趙雲はそれを無視し、孔明に言った。
「囲碁の相手ならば、宮城や左将軍にもたくさんいるであろう。なぜ、このような誤解を招く場所にまで足を運ぶ理由がある」
「誤解を招くからこそ、あえて単独でこうして来たのだよ。それに、囲碁の相手と一口に言うが、みなわたしに遠慮しているらしくて、いつも勝ってばかりなのだ。刺激を求めているところへ、ちょうどこの男が、囲碁を打っているところに行きあったのだ。
客と、ツケを払うか払わないかの勝負をしていたのだが、それは見事な手でな、感心して声をかけたら、いつもはこの店で用心棒をしているから動けない。通ってきれくれ、というのだ」
「女物の数々は?」
「ただ囲碁を打つだけではつまらぬので、わたしが負けるたびに、この男の想い人への贈り物を、わたしが用立てるという約束をしたのだ」
「おまえが勝ったら?」
「わたしが喜ぶ」
「呆れたものだな。おい、おまえたち、こいつに遠慮して、いつも負けてやっているのか?」
「申し訳ありません、われら、あれで実力全開です」
と、文偉が代表で言い、偉度も休昭も、そうだと頷いた。
「幼宰殿や許長史は?」
「話にならぬ」
「白まゆげは?」
「それこそ、昔から負けたことがない」
と、孔明は思い出したらしく、店の入り口から、こわごわとこちらの様子を伺っている用心棒と、瘤をさすりながら、怪訝そうにしている店の主に振り向いた。
「長々とすまなかったな。そなたには、累が及ばぬようにするゆえ、安心して用心棒をつづけるがよい」
また来る、と言いかけた孔明を、趙雲は先制して言った。
「今度、そいつと碁を打つなら、左将軍府に呼ぶのだな。そしてちゃんと褒美を与えればよい。二度と、単独でこの店に来てはならぬ」
「あなたと一緒ならばよいのか」
「却下」
「ふん、近頃、意地が悪いぞ、人のせっかくの楽しみを」
「楽しみ方による。さ、帰るぞ」
趙雲が踵を返すと、孔明はぶつぶつ言いながらそれに従い、そのあとを、遅れて、ホッとしたような顔をして偉度、つづいて呆気にとられて、いまだ事態が呑みこめていない文偉と休昭がつづいて夜の成都を歩いて行った。

その後、孔明の連敗記録がどうなったかは、また別の話である。

「文偉、そういえば、馬幼常はどうなったのだろう」
「それも次の話らしい」
「つづくんだ…」

まだつづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/09/24)

おばか企画 白と黒の恍惚 4

2020年05月12日 07時17分43秒 | おばか企画・白と黒の恍惚
「なあ、偉度。そういえば、趙将軍の御宅はこの近くだったよな。近くに来たついでだし、やはり声をかけてみないか」
「なんて言って? あの人だって暇じゃないのだ。あまり迷惑をかけるな」
「偉度は、軍師にはわがまま言うのに、趙将軍には遠慮するのだな」
「趙将軍にわがままを言える人間は、赤ん坊と軍師ぐらいなものだ」
偉度が言うと、文偉は、ちらりと、
「貧乏人ども、どうして馬車に乗らないんだろう、歩いて移動だなんて信じられない。まめが出来たらどうしてくれる」
とぶつぶつ言いながら、どこまでもついてくる馬謖をちらりと見て、それから小走りに偉度の横に並ぶと言った。
「あいつ、おそらくずっと長星橋までついてくるぞ。あの界隈に顔見知りの多いわたしや休昭、それにミョーに肝の据わったおまえならば問題はないが、あれがついてくるとなると、話は別だ。あいつがまたなにか揉め事を起こしたら、軍師を探すどころじゃなくなる」
「なるほど、知恵が回るな」

偉度が、今回にかぎって『兄弟』たちではなく、偉度や休昭を頼みにするのには理由があった。
それは、『兄弟』たちが、それぞれの仕事に忙しく、手薄である、という事情もあったのだが、本音をいえば、やはり孔明が、妓楼に通いつめている、などという生臭い話を、やはりある種の幻想(夢、と言い換えても良いかもしれない)を孔明に抱いて忠誠を尽くしている彼らに聞かせたくなかったのだ。
まだ事情はわからないし、なにか理由があるかもしれない。
しかし、なにも明らかにならないうちに、話ばかり先行して、『兄弟』たちが動揺をすることを偉度は恐れた。
休昭や文偉は、そっそかしいし、立ち回りも世間ズレしていないので危なっかしいところもあるが、口は堅いし、なにより、孔明の名誉優先に動けると判断してのことだったのだ。

が、後ろについてくる、生意気盛りをとうに過ぎているはずのプライドのカタマリ、これは予想がつかない。
孔明の姻戚であるから、孔明の不利は馬謖の不利である。
そこは弁えて、莫迦なことはしないであろうが、なにぶん、変なところで素直なので、そのつもりはなくても、功名心や過剰なサービス心から、ぽろりと人に話してしまうかもしれない怖さがある。
文偉が言ったような、馬鹿馬鹿しい理由での妓楼通いというのならばいいとして、ほかの理由…まったく想像付かないが、どこぞの妓女に入れ込み、その世話を焼いている…ならば、これは緘口令である。
馬謖はそれを守れるか? 
確率は99.99999…%といったところだろうか。
守れないほうの確率が。

「よし、では趙将軍のお屋敷によって行こう。話は、休昭、おまえがするのだ」
「なぜわたしが?」
「わたしは、先刻行って、断られたし、文偉も同じことになる可能性がある。だが、おまえの話ならば、ちゃんと聞いてくださるだろう」
「わたしだと、なぜ聞いてくださるのだ? 父上の絡みか?」
父親のせいで贔屓にされている、という言葉に、休昭は敏感である。
「あの人は、そういう贔屓はしないさ。ある意味、軍師よりずっと、冷酷なくらいの実力主義者だぞ。
おまえの話ならば聞く、というのは、おまえが子馬っぽいからだ。あの人はわたしや文偉のように、多少の嫌味も笑って流すか、あるいは百倍の嫌味で返すようなふてぶてしい輩ならば、趙将軍も平気でほったらかしにするが、おまえはそうじゃないからな」
「要するに、打たれ弱いから、気の毒なので、世話を焼いてくれる、と?」
「お、いまのはちゃんとすぐに判ったではないか。判ったところで行け」
「うれしくない理由だな…」
しょんぼりと背中を丸めて、趙子龍邸に向おうとする休昭に、馬謖が唄うように言う。
「それならば、わたしが行ってあげようか? わたしの知略を持ってすれば、趙将軍は腰をあげるさ」
「いいや、ますます動かない。休昭、襄陽産の真ばか坊ちゃんは無視していいから、行って来い」

偉度がすかさず否定すると、馬謖はとうとう堪忍袋の緒が切れたらしく、こめかみをぴくぴくとさせながら小刻みに身体を震わせて言った。
「だ・れ・が! 莫迦だって? まったく黙って聞いていれば、言ってくれるじゃないか! わたしが襄陽産の真ばかなら、君はなんなのだい? 
聞いた話によれば、君は胡家の長子だという話だけれど、軍師に字を貰ったのだって? おかしいじゃないか。わたしの家と軍師の家は、姻戚だからね、軍師の交友範囲がそう広くないことも知っている。軍師が襄陽にお住まいになっていたころに、義陽の胡家と親交があったなんて聞いたことがない。
もちろん、胡家の名前は知っているさ。だがね、豪族の息子が、父親やほかの有力者ではなく、琅邪からの避難民で、一応の名前は通っていたけれど、どちらかといえば奇人ということで通っていた、まあ、ぶっちゃけ『荊州の人士とはちょっと違う』部類に思われていた軍師に字を貰った、ということが解せないのだよ。もしかして、君は胡家の子なんかじゃなくて…」

とうとうと流れるようにつづく馬謖の言葉は、ひゅん、と風を切ったものに遮られた。
それは、偉度が投げた足元の小石である。
小石は、馬謖の頬をかすめ、そして地面に落ちて、ころころと転がった。
転がる音が、いつもならば聞こえないほど小さいものであるにもかかわらず、張りつめた空気のなかでは、やけに大きく響いた。

馬謖は、小石の掠めた頬をさすりつつ、唸るように言った。
「石を投げたね?」
偉度は、若さに不釣合いなほどの殺気を身に纏いつつ、敢然と馬謖の怒りのこもった目線を受け止めた。
「投げたがどうした」
「忘れているかもしれないけれど、こちらは成都県の令なのだよ? たかが主簿の癖に、そして年下の癖に、石を投げるだなんて、どいういうことになるか、わかっているのかな?」
「わかっているさ。あんたが縊られる直前の家鴨みたいに、大騒ぎするだろうってことも、想像できるよ」
「ふん、判っているなら、お望みどおりしてあげようじゃないか。君も、ここで終わりだね」
「そうかな。終りかどうかなんて、わたしが決めることだ。騒げないようにする手段なんて、いくらでもある。生きているからといって、必ず口を利けるとは限らないよ」
淡々と言葉をつむぎつつ、偉度はいつもの、ちょっと嫌味で皮肉屋な文官の姿から、徐々に、本来の姿を取り戻しつつあった。


「偉度、怖い! 本気モードに入っているよ!」
うろたえつつも、どうやって間に入るかを考えている文偉の横で、休昭は踵を返して走り出した。
あわてて文偉は休昭を呼び止める。
「おい、偉度を一緒に止めてくれ!」
「ダメだ。父上がおっしゃっていた。もし、偉度が我を忘れるようなことがあったら、もう他の者では止められないから、軍師か趙将軍を呼べって! すぐに呼んでくるから、おまえは偉度を止めていてくれ!」
「おまえ、無茶をさらりと言うな!」
「がんばれ、文偉!」
「がんばれって…」
遠ざかる休昭の背中を見送りつつ、そろりと目線を偉度に戻せば、ふざけた調子はどこにもなく、ただひたすら、猛禽のように、目の前の敵に集中している偉度の姿があった。
偉度は、地味にして、わざと自分の容貌のよさを隠しているところがあるが、こうして見せる素の姿は、思わず背筋をぞくりとさせるような…この場には似合わない表現ではあるが、艶めかしさがにじんでいる。
思わず見とれていた自分に気付き、文偉は大きく頭を振った。

いかんいかん、わたしと偉度、もちろん休昭も含めて、この友情もまた、さきほどの喩えではないが、並べられた杯だ。

「偉度、やめろ!」
「うるさい」
静かに偉度はいうが、その中に潜む殺気に押され、文偉は言葉を飲み込みかける。
が、ここで偉度を止めなければ、大変なことになる、と己を励まして、あえて口を開いた。
「莫迦は相手にしないのじゃなかったのか? こんな莫迦につられて、いままでの積み重ねを無駄にするつもりなのか?」
文偉は、直感で言葉をつむいだのであるが、それは意外な効果をもたらし、偉度は、険しい表情を解いて、文偉を見た。
お、いいぞ。
文偉は己を励まして、言葉をつづける。
「おまえがこんな莫迦に足を引っ張られてしまったなら、軍師だってお嘆きになる! それでもよいのか?」
偉度が、文偉の言葉に説得され、徐々に険しさを解いていくのに比例して、馬謖のほうは、怒りをにじませ文偉をはげしくにらみつけた。
「だれが『こんな莫迦』だって? 没落豪族の貧乏小役人ふぜいが、舐めた口を!」
「あんたは、そういうところが莫迦だ!」
「年上に向かってなんだ、どいつもこいつも! 最初は親しげにしてきたくせに、結局、みんなそうやって本性を出して、人をガッカリさせるばかりだ! わたしがおまえたちを莫迦にしたんじゃない、おまえたちが最初にわたしを莫迦にしたんじゃないか! だから、わたしは、その数倍も莫迦にしてやるのさ! わたしがなにをしたっていうんだ。低脳ども!」

「莫迦に莫迦と真正面から言うのも、莫迦だぞ、文偉」
静かな声が場を制するように響き、見れば、いつのまにか到着していのか、趙雲が、背中に電源の落ちたアイボのようにぐったりしている休昭を背負って立っていた。
「仲裁に来たのだが、いまは偉度と馬太守ではなく、文偉と馬太守か」
「申し訳ありませぬ」
偉度は、素直に頭を下げた。
文偉はそれを見て、なんとなく、虎に従う小動物の図を思い出した。
「おまえたちは、俺よりも言葉を大事に扱わねばならぬ職についているはずなのに、どうも自覚が足りぬようだな。醜い言葉はそれ自体が石つぶてだ。
おまえたちは何気なくこぼしたものでも、相手をどう傷つけているのかわからぬ。それゆえ慎重にならねばならぬ。斯様なことは、古人の言葉を引くまでもなく、当然の道理だと思っていたが」
「返す言葉もございません」
偉度と文偉は素直に頭を下げるが、馬謖だけはつんと顔をそらして、頭を下げようとしない。
「わたしは頭なんか下げないよ。あんたの言葉が間違っているというわけじゃないけれど、わたしの誇りが傷つけられたことは、確かなのだからね」
「論点がずれているだろう。素直に謝れ。というか、わたしも悪かったが」
偉度がたしなめると、馬謖はふんと鼻でせせら笑って、言った。
「当然の言葉だね。でも、わたしの怒りが、その程度で治まると思ったのかい?」
偉度はもてるかぎりの忍耐力を駆使しつつ、趙雲に言った。
「趙将軍、もう一回、こいつに、得意技の説教をお見舞いしてください」
「いまのそやつには、なにを言っても聞こえまい。それよりも、日が落ちるというのに、三人で妓楼の軍師を探しに行くというのか」
「はい。三人だけでは心もとないので、将軍にもご同行いただければと」
「わたしを入れて四人じゃないのかい」
意地になっているのか、まだ付いてこようとする馬謖に、趙雲は言った。
「おまえは、おとなしく白まゆげの家の宅配ボックスの2番目に入っておれ。まあ、あのあたりも、あまり若者が長くうろついていて、よい街ではない。付いていってもよいが、軍師を探しきれるかどうかは自信がないぞ。あいつ、隠れるとなると、徹底的に隠れるからな」
「でも、真っ先に見つけるのも将軍でしょう」
まあな、と生返事をする趙雲に、さあさあ、となかば強引に言って、偉度と文偉と休昭、おまけの馬謖は、長星橋へと向かったのであった。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/09/04)

おばか企画・白と黒の恍惚 3

2020年05月12日 07時15分05秒 | おばか企画・白と黒の恍惚
「あのな」
と、いつになく仲良しな偉度と休昭の背中を見ながら、一歩遅れて歩く形となっている文偉は、後ろ頭のところで腕を組んだ姿勢のまま、言った。
「思ったのだが、軍師が買った小物、誰かに贈る、というのではなく、自分で使っているという可能性はないか?」
すると、偉度はぴたりと足をとめ、ぎろりと文偉を振り返った。
「莫迦文偉。軍師に女装趣味があるとでもいうのか?」
偉度は、普段は地味にしているが、この三人(プラス1)のなかでは、もっとも見目良い青年である。
顔立ちが整っているために、睨むと恐ろさも増す。
そのあまりの勢いに、うろたえつつ、文偉は言った。
「いや、単なる思い付きだ。ほら、むかし、おまえが荊州にいたころ、方々が余興で芝居をしたことがあったと言っていただろう」
「たしかに芝居はしたし、女装した方もいたさ。張将軍だったけどね」
「そう、そして、その夫役は、哀れな兄上だったのさ」
と、決別を宣言したにもかかわらず、コバンザメのようについてくる馬謖が口を挟んでくる。

三人は、この荊州発わがまま育ちの坊ちゃんの好きなようにしゃべらせておくようにした。
でなければ、また無駄な騒ぎになるからだ。

「偉度が言っているのは、天帝に見込まれた男のところに、神女が嫁にやってくる、という芝居の話だろう? 本当は、軍師が神女役だったのさ。ああいう、晴れやかな場は軍師だって好きだからね、最初は乗り気だったらしいのに、主役の男役が趙将軍だと聞いてから、絶対に嫌だと言い出して、主公が宥めても聞かないものだから、結局、文武百官全員が籤を引くことになったのさ。で、局地的な運の悪さをみせる兄上が、籤に当たった、と。
まったく、なんだってあんなに嫌がったのかね。ちょっと間抜けなところを部下に見せるのも、人心掌握術の一つだと思うのだけれどね、わたしは」
「嫌がったのは、なんとなくわかる気がするな」
文偉がぽつりと言うと、偉度がまったくだ、と付け加える。
「人の心の機微がわからないのじゃ、せっかく人心掌握術を心得ていても、宝の持ち腐れだよ、馬家の莫迦坊ちゃん」
なにおう、と後方でぶうぶう言う馬謖を尻目に、あいかわらず偉度と暑苦しく肩を組んだままの休昭が言った。
「わたしも、なぜ嫌がったのか、よくわからないな。偉度や文偉は、なぜ判るのだ?」
まあ、そりゃあ、と説明しにくそうにしている文偉の代わりに、偉度は答えた。
「領域の問題なのだよ。お子様の休昭には、いまひとつピンと来ないだろう」
「またそうやって莫迦にする。このなかで一番年少だからって、なにも判らないわけじゃない」
「ふん、じゃあ、こう言い換えようか。二つの杯がぴったりと並べられており、そこにはなみなみと水が注がれている。だが、片方は赤い水、片方は真水だ。この二つは、同等の高さと分量を保っている。奇跡の業で、交じり合わずに時間が止まって、同じ状態がずっと続いているのだ。
だが、ちょっとした衝撃、たとえば、杯の置いてある卓を揺らすなどしたら、水は跳ねて、真水が赤く染まってしまう。あるいは、どちらかが引っくり返って空になってしまう。軍師はそれを恐れたのさ」
「すまぬ、さっぱりわからぬ。文偉にはわかるのか?」
文偉は、というと、曖昧な顔をしたまま、振り返る休昭に答えた。
「偉度にはすまぬが、判りにくい喩えだな。でも、そういうことだよ」
「なんだ、判っているのじゃないか。杯は軍師と将軍を喩えたものだろう。水は?」
「それは自分で考えろ。とはいえ、おまえは、あの幼宰さまのお子だからな。もしかすると、生涯わからぬかもしれぬ」
偉度が言うと、休昭は、それじゃ意味がないとぶうぶう言った。
すかさず、最後尾の馬謖が言う。
「ふん、安心するがいい、董幼宰の子。わたしにも判らなかった」
「ええ、アレと仲間?」

ガッカリする休昭に、偉度は、とりあえず励ましの意味で、肩を組んだまま、手首だけを器用に動かして、宥めるように肩を叩くと、町中に入ってもなお、どこに消える気配もない馬謖に尋ねた。
「ところで、どこまで付いてくるつもりだ? あんたの好きそうなファミレスだのインターネットカフェだのPCショップだのは、つぎつぎと通り過ぎているのだが」(このお話はおばか企画です)
「成都は田舎で嫌だね。わたしはファミレスなんて安っぽい飲食店には入らないし、インターネットカフェも、気に入りのチェーン店でないと嫌なのだ。成都にはそれがないからね、まあ、いっそ誘致しようかという計画もたてているのだが。
PCはいつも最新のものをそろえているし、情報は常にチェックしているから、いまさら店舗に寄る意味もない」
と、馬謖はなぜか自慢げに、手入れの行き届いた黒髪をさらりとかきあげてみせた。
とりあえず、必要最小限の髪は結っているのだが、たいがいは、これ見よがしに垂らしている、という髪型である。
馬謖は、『パリのサロンの最新ヘアスタイル』とうそぶいていたが、偉度はひそかに『貞子風味の寝癖スタイル』と呼んでいる。
「じゃあ、大人しく白まゆげの君の自宅の宅配ボックスの2番目に入っていろよ」
「あのね、嫌だと言っているじゃないか。だいたい、君は、わたしより年下だっていうのに、こちらに対する敬意が不足しすぎているのじゃないかな」
「あいにくとわたしは義陽の田舎者でね。実力の在る者になら、たとえ年下にでも頭を下げるが、無能な者には頭を下げない主義なのだ」
「なんだろう、聞きまちがいかな。いま、君がとんでもなく無礼なことを言ったような気がしたけれど」
「無礼なことは言っていないさ。事実を言ったのだ」
ぶつかりあう視点のちょうど真ん中に位置する文偉は、喧嘩になりそうな気配を察知し、偉度の視線に割り込むと、わざとおどけて言った。
「なあ、さっきの話だが、軍師に女装趣味がある、というのではなく、それこそ余興で、女装する必要がある、ということはないか」
「そんな予定は聞いていないぞ」
「だから、おまえにも内緒で、みなをびっくりさせるために、女装の準備をしているのだ」

文偉の言葉に、偉度はたしかに、と想像をめぐらせる。
なんらかの余興のため、こっそり内緒で女装の準備を進めている。
そして、女らしい所作を学ぶために、妓楼へ通って指導を受けている?

「まあ、突拍子のない方だから、ありうるが」
「だろう? そうであったらいいな。いや、軍師の女装を見たいかと問われれば、いささか微妙ではあるが」
「軍師の女装かい? 背がかかしのように高いくせに、妙に妖麗な雰囲気を醸し出す、仙女のような姿であったよ」
「見たことあるのか?」
三人が一斉に足を止めて振り向いたので、馬謖としては満足したらしく、口はしに、自信満々な嫌味の笑みではなく、素直に嬉しそうな笑みを浮かべて、言った。
「そうさ。司馬徳操先生のところで、みなで飲んだとき、ふざけ半分に、このなかで女装して、いちばん見栄えの良かったものに何でも奢る、という話になってね、兄もわたしもいたのだが、まあ、とりあえず参加したけれど、若気の至りというかね、怪異現象目白押し、という状況で、さすがの先生も蒼くなっておられたが」
「が?」
「軍師が登場したら、みなしーんとなってしまってね、最初はぽかんとしていた先生も、はっとして、みなの顔を見回してから、顔をいちばん真っ青にして、『おまえは、二度とみなの前で女装はしないように。それがおまえの友のためであり、友情を長続きさせるための方法だ』とおっしゃったのさ」
「……当然ながら、男ばっかりだったのだろう、その集まり」
「そのあとの気まずい空気ったらありゃしない。軍師はそれ以来、冗談でも女装をしなくなったし、わたしたちの間じゃ、軍師の女装の話は、『してはならない話』のトップなのだ」
「軍師、お気の毒に」
休昭が言うので、偉度は思わず尋ねる。
「気の毒にというが、おまえ、なにが原因で、その場が静まり返ったのか、わかっているのか」
「わかっているとも。真面目な軍師がそのような振る舞いをされるとは、だれも思っていなかったので、呆れて黙り込んでしまったのだろう?」
偉度は肩の力をすとんと落して、苦笑いをした。
「おまえのココロは、呆れるほどにすこやかだ」
「ええ? ちがうのか?」
休昭は眉を軽くひそめて、正解を探っているが、偉度の見る限り、休昭が自力で正解にたどり着く可能性はしばらくないようである。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/09/04)

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