しんぼくかい。~帰路~
「やれやれ、疲れたな」
西の空に消え行く茜色の陽光を受けて、ふうっと大きく息を吐く趙雲を、孔明はじいっと見つめていた。
「なんだ」
孔明は、問いには答えず、手を伸ばし…趙雲は武人であるので、体に触れられるまえに、さっと身をかわして、逆に伸びてきた手を捻り上げるのが常であり、おとなしく触れさせるということが、いかに例外であるか、孔明は知らない…そうして、残念そうに顔をしかめた。
「毛なんぞ残っておらぬぞ」
「そのようだな、つまらぬ。本当に見事な毛並みであったのに。どこかにまだ残っていないのか?」
孔明はからかっているのではなく、心底、虎の毛並みが気に入ったのである。すると、趙雲は、襟に手をやって、にやりと不敵に笑った。
「全部脱いで、たしかめさせてやろうか」
「うん」
「…冗談だ」
「判っているよ。あなたの冗談は、下手だから」
「悪かったな。ところでどうする」
「なにが?」
「おまえには、まだ仕事が残っているだろう。主公への報告だ」
ああ、と曖昧に相槌をうって、孔明は、川辺を振り返った。
ちょうど、果敢に水泳に励んでいた馬岱が、漁師の投げた網に引っかかり、じたばたしているところであった。
「親睦会と虎と水泳を、どう繋げるかが問題だな。三題話をまとめるのだ。まともに報告すれば、正気を疑われるであろうし、さて、困ったものだ」
「虎は要らぬだろう。なんと報告するつもりだ。俺が虎になったと?」
「そうだよ。それはそれは見事な虎で、あまりに素晴らしい毛並みに、孔明はうっとりしてしまいました、と、こうだ。主公は話が大きければ大きいほど、喜ばれる」
「人の気も知らないで、呑気なものだな。俺が虎になって、正気を保っているのが精一杯だったというのがわからぬか」
「ほんとうか?」
孔明は驚き、隣の主騎の顔をのぞきこんだ。
「本当だ。虎は人界には住めぬもの。おまえがいくら庭で飼うと言ったところで、やがては山野に追い出されてしまったであろう。でなければ、害獣として退治されていたであろうな」
「退治なんぞさせるものか。庭に子龍。返す返すも惜しかったかもしれぬ。仕事に疲れたときに、庭に立って、子龍と呼ぶと、虎のあなたがやってくるのだよ。虎と共にいれば、刺客も恐れて近づかないであろうし、一石二鳥であったのに」
「俺の名をつけた犬を飼え」
「それも一つの手だな。しかし、虎になっても子龍はまったく動揺していなかったように見えたが」
「常人であれば、すぐに発狂するか、ぶざまに泣き喚いていたであろう。俺が冷静でいられたのは」
「は?」
趙雲は、言葉を続けようとしたようだが、ちらりと、隣の好奇心に目を輝かせる孔明を見て、口を閉ざした。
「やめた。おまえが増長する」
「ほーお? では、言おうとしていた言葉は、まさにわたしが増長してしまうような、嬉しい言葉だったと見てよいのだね。たとえば、『なんとかしてくれると信じていた』とか」
「見当がついているのならば、いちいち口にするな」
「そうかそうか、信じていたか」
孔明は、晴れ晴れとした顔をして、しばらく声を立てて笑っていた。
だいぶ先に行っても、まだ笑っていた。
「笑い茸でも食べたのか」
「嬉しすぎて笑いが止まらなかっただけだ。子龍、わたしの顔を舐めても良いぞ」
「いらぬ」
「まあ、遠慮するな。いまが嫌なら、舐めたくなったら言うがいい」
「一生、言わぬ。まったく、おまえは寝ているときが一番まともだ」
「そうかね。わたしはどうも、あなたのそばだとすぐに眠ってしまう癖がある。そして、いまも眠い」
うん、と怪訝そうな眼差しを向けてくる趙雲に、孔明はにっ、と笑って、両手を差し伸べた。
「もうくたくたで歩けない。足がもつれて、たぶん転ぶ」
「転ぶまで歩け」
「わたしは、疲れきった旅人だよ。さて、こういうときはどうする?」
趙雲は、仕方がない、とぶつぶつ言いながら、それでも孔明を背負った。
「市街の手前までだぞ。さっき、俺の知らぬあいだに、妙なものを食べたとしか思えぬ。なぜ、今日はやたらとひっついてくるのだ」
「さてね。ようやく叔父上のことを忘れられつつあるのかもしれない。いいことだけを思い出せるようになってきたのだ。よいことだと思わぬか」
そうだな、と趙雲は相槌を打つ。
孔明は上背があるわりに軽いのだろう。
もとより、鍛え方がちがうので、まったく息も乱さない。
間近で体温をおぼえつつ、孔明は言った。
「なぜかな、あなたはとても懐かしいのだよ」
「懐かしい?」
「そう。行きに、義兄弟の話はしただろう。わたしがあの話をしたのは、あなたが主騎をやめたあと、繋がりが欲しかったから、そう言ったのではない。少しはあるけれど」
「ほう?」
「あなたが、本当にわたしの兄だったなら良かったのにと思ったからさ。いや、兄というか、父かな? 両方か。ともかく、あなたはわたしの兄で、父で、よき先輩であり、同胞、そしてわたしの主騎だ。これをひと括りで言うのはむずかしい。義兄弟というのも、またちがうものがある。そうだな、ひとが聞けば、正気を疑われるかもしれないが、たぶん、あなたはわたしの生涯の友であり、伴偶なのだ。気味が悪がられるだろうから、誰にも言うことは出来ないけれどね」
「まったくだ」
「気を悪くしたのなら謝る。邪念なぞなにもない。これはいつものわたしの、言えるときに言うという、いつもの癖だ」
「わかっている」
そうして、ふたりは暮れなずむ川沿いの道を、しばらく無言でいた。
そろそろ日も落ちる頃合で、すれ違う者もない。
ふと、趙雲の首のあたりで交差させた手に、温かいものが落ちてきたのをおぼえ、孔明は、さらに力を込めて、腕を巻くと、目を閉じた。
趙雲の声が聞こえる。
「軍師」
「なんだ」
「誰にも言うな」
「わかってる」
そうして孔明は、いま聞いた声も、すこし涙声であったことは、誰にも言わずに、一生の秘密にしようと思った。
こうして、親睦会は終わった。
おわり。
御読了ありがとうございました!
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/06/07)
「やれやれ、疲れたな」
西の空に消え行く茜色の陽光を受けて、ふうっと大きく息を吐く趙雲を、孔明はじいっと見つめていた。
「なんだ」
孔明は、問いには答えず、手を伸ばし…趙雲は武人であるので、体に触れられるまえに、さっと身をかわして、逆に伸びてきた手を捻り上げるのが常であり、おとなしく触れさせるということが、いかに例外であるか、孔明は知らない…そうして、残念そうに顔をしかめた。
「毛なんぞ残っておらぬぞ」
「そのようだな、つまらぬ。本当に見事な毛並みであったのに。どこかにまだ残っていないのか?」
孔明はからかっているのではなく、心底、虎の毛並みが気に入ったのである。すると、趙雲は、襟に手をやって、にやりと不敵に笑った。
「全部脱いで、たしかめさせてやろうか」
「うん」
「…冗談だ」
「判っているよ。あなたの冗談は、下手だから」
「悪かったな。ところでどうする」
「なにが?」
「おまえには、まだ仕事が残っているだろう。主公への報告だ」
ああ、と曖昧に相槌をうって、孔明は、川辺を振り返った。
ちょうど、果敢に水泳に励んでいた馬岱が、漁師の投げた網に引っかかり、じたばたしているところであった。
「親睦会と虎と水泳を、どう繋げるかが問題だな。三題話をまとめるのだ。まともに報告すれば、正気を疑われるであろうし、さて、困ったものだ」
「虎は要らぬだろう。なんと報告するつもりだ。俺が虎になったと?」
「そうだよ。それはそれは見事な虎で、あまりに素晴らしい毛並みに、孔明はうっとりしてしまいました、と、こうだ。主公は話が大きければ大きいほど、喜ばれる」
「人の気も知らないで、呑気なものだな。俺が虎になって、正気を保っているのが精一杯だったというのがわからぬか」
「ほんとうか?」
孔明は驚き、隣の主騎の顔をのぞきこんだ。
「本当だ。虎は人界には住めぬもの。おまえがいくら庭で飼うと言ったところで、やがては山野に追い出されてしまったであろう。でなければ、害獣として退治されていたであろうな」
「退治なんぞさせるものか。庭に子龍。返す返すも惜しかったかもしれぬ。仕事に疲れたときに、庭に立って、子龍と呼ぶと、虎のあなたがやってくるのだよ。虎と共にいれば、刺客も恐れて近づかないであろうし、一石二鳥であったのに」
「俺の名をつけた犬を飼え」
「それも一つの手だな。しかし、虎になっても子龍はまったく動揺していなかったように見えたが」
「常人であれば、すぐに発狂するか、ぶざまに泣き喚いていたであろう。俺が冷静でいられたのは」
「は?」
趙雲は、言葉を続けようとしたようだが、ちらりと、隣の好奇心に目を輝かせる孔明を見て、口を閉ざした。
「やめた。おまえが増長する」
「ほーお? では、言おうとしていた言葉は、まさにわたしが増長してしまうような、嬉しい言葉だったと見てよいのだね。たとえば、『なんとかしてくれると信じていた』とか」
「見当がついているのならば、いちいち口にするな」
「そうかそうか、信じていたか」
孔明は、晴れ晴れとした顔をして、しばらく声を立てて笑っていた。
だいぶ先に行っても、まだ笑っていた。
「笑い茸でも食べたのか」
「嬉しすぎて笑いが止まらなかっただけだ。子龍、わたしの顔を舐めても良いぞ」
「いらぬ」
「まあ、遠慮するな。いまが嫌なら、舐めたくなったら言うがいい」
「一生、言わぬ。まったく、おまえは寝ているときが一番まともだ」
「そうかね。わたしはどうも、あなたのそばだとすぐに眠ってしまう癖がある。そして、いまも眠い」
うん、と怪訝そうな眼差しを向けてくる趙雲に、孔明はにっ、と笑って、両手を差し伸べた。
「もうくたくたで歩けない。足がもつれて、たぶん転ぶ」
「転ぶまで歩け」
「わたしは、疲れきった旅人だよ。さて、こういうときはどうする?」
趙雲は、仕方がない、とぶつぶつ言いながら、それでも孔明を背負った。
「市街の手前までだぞ。さっき、俺の知らぬあいだに、妙なものを食べたとしか思えぬ。なぜ、今日はやたらとひっついてくるのだ」
「さてね。ようやく叔父上のことを忘れられつつあるのかもしれない。いいことだけを思い出せるようになってきたのだ。よいことだと思わぬか」
そうだな、と趙雲は相槌を打つ。
孔明は上背があるわりに軽いのだろう。
もとより、鍛え方がちがうので、まったく息も乱さない。
間近で体温をおぼえつつ、孔明は言った。
「なぜかな、あなたはとても懐かしいのだよ」
「懐かしい?」
「そう。行きに、義兄弟の話はしただろう。わたしがあの話をしたのは、あなたが主騎をやめたあと、繋がりが欲しかったから、そう言ったのではない。少しはあるけれど」
「ほう?」
「あなたが、本当にわたしの兄だったなら良かったのにと思ったからさ。いや、兄というか、父かな? 両方か。ともかく、あなたはわたしの兄で、父で、よき先輩であり、同胞、そしてわたしの主騎だ。これをひと括りで言うのはむずかしい。義兄弟というのも、またちがうものがある。そうだな、ひとが聞けば、正気を疑われるかもしれないが、たぶん、あなたはわたしの生涯の友であり、伴偶なのだ。気味が悪がられるだろうから、誰にも言うことは出来ないけれどね」
「まったくだ」
「気を悪くしたのなら謝る。邪念なぞなにもない。これはいつものわたしの、言えるときに言うという、いつもの癖だ」
「わかっている」
そうして、ふたりは暮れなずむ川沿いの道を、しばらく無言でいた。
そろそろ日も落ちる頃合で、すれ違う者もない。
ふと、趙雲の首のあたりで交差させた手に、温かいものが落ちてきたのをおぼえ、孔明は、さらに力を込めて、腕を巻くと、目を閉じた。
趙雲の声が聞こえる。
「軍師」
「なんだ」
「誰にも言うな」
「わかってる」
そうして孔明は、いま聞いた声も、すこし涙声であったことは、誰にも言わずに、一生の秘密にしようと思った。
こうして、親睦会は終わった。
おわり。
御読了ありがとうございました!
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/06/07)