はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

黒棗の実 最終回

2018年06月24日 07時27分36秒 | 黒棗の実


それから、十年ちかくの歳月が流れた。
ここに、二騎の馬が、南へと馬を走らせている。
董休昭と、親友の費文偉であった。

允という名の少年は、成長して休昭という字を与えられ、立派に宮仕えをするようにまでなっていた。
時流も激しくかわり、かつて董和を疎んじた主君は、あたらしくやってきた劉備に追い出され、いまは、劉備が董和の主である。
董和はいま、劉備の片腕である諸葛孔明とともに職務に励んでいる。
身分や禄はそう高くなかったが、孔明と董和はうまく職務をこなしており、ふたりしてともに視察にでかけるほど、気兼ねない間柄になっていた。

近づくにつれ、変わらぬ巴郡のなつかしい風景に、感激屋の休昭は、少しばかり泣きたくなったが、泣いている場合ではないと気を取り直し、先を急いだ。
あわて者の休昭を心配し、一緒についてきた費文偉が言う。
「しかし、かつての任地ということで、幼宰様も気が弛んだのだろうか。ひどい腹痛になるなど、頑丈なあの方らしくもない」
「軍師が、至急に来るようになんて使いを寄越すくらいだもの。父上は、相当に苦しんでらっしゃるのだな。とりあえず、処方箋をもらってきたけれど、あの医者ときたら、巴東に来てくれないかと聞いたら、そんな蛮地には、恐ろしくて行けませぬと言い切った。まったく、ゆるせぬ!」
ぷりぷりと馬上で起こる休昭を、文偉はちらりと見て、からかうように言った。
「おまえ、だんだん幼宰様に口ぶりが似てきたな」
「似るさ。父子だもの」
「こうも見事に似るのも珍しかろう。おや、あの町がそうかな。想像していたより、ずっと立派で大きな町ではないか」

巴の町は、この乱世にあっても、いちども戦禍にまみえることなく、当時のままの姿を保っていた。
塩の売買でうるおっているために、盗賊の襲撃を受けるたこともあったそうだが、そのたびに豪族の私兵と、属国都尉たちが協力してこれを退けたという。
父がいるという陣に向かおうとした休昭であるが、街に入ったとたん、出迎えの人たちにとりかこまれてしまった。
なんとなく見覚えのある、年老いた者たちが、つぎからつぎへと現われて、ああ、あの小さな坊ちゃんが、こんなに立派になりなさった、と挨拶にやってくるのである。
なかには、自分の家で作っている果物や野菜などをくれる者もあり、それを休昭は、いちいち受け取っていたので、自分で持ち運ぶことができず、馬に乗せて運ぶことになったから、よけいに足が遅くなった。

ふと、人ごみのなかに、休昭は、あの巫の姿をみたような気がして、はっとした。
しかし、探そうとして目を向けると、巫の姿は消えていた。

「おい、人気者父子の息子のほう、凱旋行列はそれくらいにしておけ」
皮肉を含めた声に、顔を向ければ、孔明の主簿の偉度であった。
董和や孔明の視察に、一緒についてきたものである。
地味な格好をしながらも、艶やかな面差しをしている偉度は、物陰から、まるで客引きのように、休昭と文偉に、こいこいと手招いている。
「久しぶりだな、偉度」
同年代で、私的にも付き合いがあるので、文偉が気さくに偉度に声をかけると、偉度は、その姿を見て、呆れたようにため息をついた。
「おまえは董家のなんなのだ。なぜに休昭に一緒にくっついてくるのか、さっぱりわからぬ。仕事はどうした、仕事は」
「何を言う。幼宰様は、わたしにとっても父のような方。その父が旅先で遭難されたというのだから、これはお助けせねばなるまい」
「おまえが来たところでなにも変わりはしないさ。それより、真正面から陣に入るな。おまえの到着を、ここいらの人間は、日も明けないうちから、いまかいまかと待ち受けているのだ。真正面から入ったら、まちがえなく捕まって、幼宰様と同じになるぞ」
「父上は、土地の者に、なにかされたのか?」
休昭が尋ねると、偉度は、うんざりというふうに、首を振りつつ、答えた。
「なにかされたというか、大歓迎をされたのさ。ようこそお帰りなさいまし、ご出世でございますね、とかなんとか言われて、次から次へと歓待の嵐。酒はもちろん、山海の珍味だの、自慢の料理だの、自家製の干し物だの、断ったらカドが立つから、ぜーんぶ口にしたら、当然、腹を壊すだろう」
「うわあ、うらやましいな」
と、言ったのは、文偉である。
偉度は、ちらりと冷たい視線を文偉に向けた。
「うらやましいか? うんうん唸りながら、寝台と厠の往復を何日も続けているのだ。それを見て、民が、今度は、それぞれが、薬を持ち寄ってきてお見舞いの行列だ。幼宰様も、また律儀すぎるところを見せて、軍師が止めるのも聞かず、ぜんぶ飲んでしまわれるものだから、さらに症状が悪化だ」
「………だって、勧められたものは、断らないのが礼儀ではないか」
「限度がある! ほら、ここが裏口だ。家の者に、気づかれないようにしろよ」

偉度に案内されて、陣の裏から、そっと父を見舞えば、蒼い顔をして寝込んでいる董和と、傍らの孔明がいた。
孔明は、休昭と文偉の姿を見ると、安堵したように笑った。
「おまえたちが来てくれて助かった。よろしく幼宰様のお力になるように」
「それはもう。軍師、父がご迷惑をおかけいたしました。このとおり、成都の医者より、処方箋も貰ってまいりました」
「ああ、それは、いらぬ」
と、孔明はすげなく言った。
「いらぬと申されましても」
「薬はもう、いやというほど飲んで、飲みすぎなほどだ。まったく、律儀というか、気遣いのしすぎというか」
孔明の言葉に、寝込んでいる董和が、なにやら反駁したようであるが、休昭たちには、はっきりと聞こえない。
しかし、孔明は聞こえたらしく、実に冷たく突き放した。
「なんと言い訳されても、莫迦は莫迦です。言い返したいのであれば、さっさと治されるのがよいでしょう」
軍師が不機嫌だ、と、気まずくする休昭に、孔明は向き直った。
「さて、おまえたちを呼び寄せたわけであるが、民の、幼宰様への見舞いが止まらぬ。落ち着いて休ませてさしあげたいので、おまえたちが代理で相手をするように」
「ハア、つまり我らは、壁として呼び寄せられたわけでございますか」
文偉が言うと、孔明は、当然だろうと言うふうに頷いた。
「そうだ。わたしが応対しても、あんたはだれだ、幼宰様を出せと、民がまったく納得せぬ。休昭ならば、みなも覚えているであろうし、引っ込むであろうよ」
そう言ってから、孔明は、すこし困ったように笑った。
「しかし、おまえの父上は、すごい方だな、休昭。もしわたしが同じく属国都尉としてこの土地に勤めたとしても、これほど慕われる自信はないよ。父上に孝行するのだぞ」

孔明が行ってしまうと、文偉はなにやら、うんうんと一人合点している。
「軍師が不機嫌なのは、幼宰様への対抗意識からだな。さすが幼宰様、軍師に好敵手と見做されるとは」
「張り合われてもなぁ。軍師がご機嫌ななめなので、肝が縮んだよ」
つぶやきつつ、休昭は、孔明は、あの巫にすこし似ているなと思った。





さて、孔明の言いつけどおり、父の代わりに見舞いを受け、いろいろ懐かしい話をしながら、休昭は時を過ごした。
見舞い客は、夜になっても減ることはなく、陣は、董和への見舞いの品で、あっというまに一杯になってしまった。
「見舞い成金なんて言葉があるなら、いまの董家はまさにそれだな」
偉度が嫌味にちかい感心の言葉を述べていると、外から、門衛が、こんなものを渡されましたが、と、やってきた。
若い、ちょっとこのあたりでは珍しいほど綺麗な面差しをした白衣の者が、渡してくれと言って、置いて行ったのだという。
休昭が見れば、それは、いつかの日に、牢で巫に渡した、錦の袋である。
亡き母の衣を元に作ったものであるから、この世に二つとあるはずがなかった。
休昭は、身を乗り出して、門衛に尋ねた。
「これを持ってきたものは、どこへ?」
「判りませぬ。名乗らずに行ってしまいました。白衣など、我ら漢族では、葬儀のときくらいしか纏いませんので、巴族の者であろうと思います」
「どんな顔をしていた?」
問われて、門衛は、すこし顔を赤らめて答えた。
「綺麗な顔をしておりました。あの、おかしなことを言うと思われるでしょうが、実は、男か女か判じかねました」
「若かった? 老いていた?」
「若いのは間違いありませぬ」
人ごみの中で、あの巫を見たと思ったのは、やはり間違いではなかった。
巫は、ふたたびこの地に戻ってきていたのか。
まだ若い? やはり山の霊気を浴びている者は、年の取り方も、われらと違うのだろうか。
そんな幻想にとらわれつつ、休昭は、錦の袋を開けてみた。
すると、そこには、好物の黒棗の実と一緒に、書付が入っていた。
そこにはこうあった。

『董幼宰さまが寝込んでしまわれたと聞き、こうして薬を煎じて持ってまいりました。聞けば、勧められるまま、いろんな薬を飲んでしまわれたとか。
ならば、五臓を休ませてから、黒棗をお食べください。これは、特殊な方法で干した棗でございますので、きっと回復の役に立つことでしょう。
われら兄弟が、いまこうして、故郷に戻り、暮らしていくことができるようになったのも、叔父を幼宰さまが逃がしてくださったからでございます。
我らは、ご恩を生涯忘れず、子孫代々に伝えていく所存でございます。
とはいえ、昨今は巫という存在も、なにやらいかがわしい拝み屋などと同列に扱われており、我らのような者と関わりがあると知れば、うるさく言う者もございましょう。
それゆえ、あえて訪問は差し控えさせていただきました。
なつかしい允くんを、ひと目見ることがかなったのも、嬉しい限りでございます。一日も早い平癒を願っております。 安』

おわり
2005年2月に書いたものでした。
御読了ありがとうございました。

黒棗の実 4

2018年06月23日 13時49分51秒 | 黒棗の実


「安という子と顔を合わせたことはないが、あまり丈夫なお子ではない、と聞いたが、そのとおりかね」
「はい。お母上が心配なさるというので、いつも屋敷のなかで遊んでおりました」
「王家の家令の女房の話だと、安は寝込んでおり、奥方は、そばにだれも寄りつかせずにいるということだな」
「はい。おばあさんは、もう良いのではないかと思っているが、奥方さまは、わたしに悪い霊が移るといけないと心配しているので、安くんとはしばらく遊べないとおっしゃっていると教えてくれました」
「おまえは、奥方と顔をあわせたことはあるかね」
「はい。一、二度だけ。でも、近くで見たことはございませぬ」
「家令の女房の話では、二人が失踪する前に、巫に祈祷を頼んだということだな」
「そう申しておりました」
頷いてから、允は、もしや、王の屋敷に祈祷に行ったのは、あの巫だったのではないかと思いついた。
祈祷に行ったついでに安を攫い、山に隠れていたが、允と会ってしまったので、逃げ出したのではないか。
いや、そうなると、日数が合わないのだ。
巫が祈祷したあとも、奥方と安は、屋敷にいたのである。
屋敷にいたからこそ、允と遊ぶことはまだできないと、奥方は家令の女房に伝えることができたのだから。
「巫は、令息に似た子を知っている素振りだった。そして、自分とその子供が、同じく獣子だと言ったのだな?」
「はい。父上、けものごとは、なんなのですか?」
それには答えず、董和は、允の話を聞いて、しばし深く考え込んでいたが、やがて目を開き、立ち上がった。
「允、出かける支度をしなさい」
「もう日が落ちておりますのに、どこへ行かれるのですか」
「よいから、ついてきなさい」
允は、怒られて拳骨をくらうだろうと思っていたのに、思いもがけず出かけるといわれて、わけがわからなかった。
そうして、やはり同じく、こんな夜更けに出かける父子に、不平をもらすじいやをあとに、馬車を転がせて、いまだ王の妻子を探して、あちこちで星のように焚き火のあかりが闇に浮かぶ街に、繰り出すこととなった。





あたりは真っ暗で、なにやら不気味な野鳥の声が、轍の上をいく車の音の合間をぬって聞こえてくる。
允がちらりと横を見ると、月明かりに浮かぶ董和の顔は、固くこわばっていた。
やがて、馬車は、允の知らぬ、大きな屋敷の前に停まった。
門衛がいる立派な屋敷で、私兵をかかえているところから見ても、相当な権勢家だということがわかる。
董和は、己の身分を明らかにしたうえで、家人に取次ぎを願った。
允も一緒に行こうとしたが、董和が頼んだものらしく、家人がやってきて、坊ちゃんは、一緒にこちらで遊びましょうという。
董和は、允を置いて、老いた家令に導かれ、屋敷の奥へ行ってしまった。
家人としばらく遊んでもらっていると、やがて、董和は出てきた。
一人ではなく、家の主人らしい、巴族の神である白虎をあらわす模様の織り込まれた、豪勢な絹の衣を纏っていた。
允が驚いたことには、出てきたその初老の立派な風貌をした男は、顔を赤くして、すこし泣いていたようである。
父上がいじめたのかしらと心配していると、董和は、すこし悲しそうにして、不安な顔を向けてくる息子に微笑むと、連れ立って、またも外に出て行った。

やがて、父子は、父の職場である役所へやってきた。
詰め所にいる兵卒たちが、董和の姿を見ると、あわてて出てきたが、董和は、自分が来たことは、内密にしてほしいと告げ、兵卒長とひそひそと話し合うと、まっすぐ役所に入らず、そのまま、牢へと向かっていく。
允は、もしや、嘘をついた罰として、自分は入牢させられてしまうのではと怯えたが、父は、身をすくませた息子を笑って、背中を軽く押すと、一緒に来るようにと言った。
果たして、やってきた牢は、巫のいる牢であった。
董和は、王恵の催促は無視して、巫を拷問にかけるような真似はしていなかった。
すこし面やつれをしていたけれども、そのやつれた様が、また巫から、人間らしさを奪っており、允には、ますます妖怪じみて見えた。
びくびくとして、父の背中にぴったりとくっつくようにしていると、董和は、息子に言った。
「允や、よくこの巫をご覧。この顔をよく見るのだ。王県令の奥方に、似てはおらぬか?」
言われて、允はびっくりした。
巫は、あらわれたのが允だと判ると、山で見たときと同じ、なんとも妖艶な笑みを向けてきた。
その笑みに魔力が込められているような気がして、あわてて允は、ふたたび父の背中に隠れてしまう。
その様子に、一緒についてきた兵卒長が、坊ちゃんは子犬のようだといって笑った。
子犬だといわれて傷ついた允は、促されるまえに、ふたたび巫の顔を見た。
巫は、どこか挑発しているような、傲然とした笑みを允にまっすぐ向けてくる。
蛇のようだと思いながら、允は顔を見つめ、そして、父に言った。
「はい、この顔は、奥方様にすこし似ております」
「そうか。両方を知るおまえがいうのなら、まちがいない。巫よ、おまえと県令の夫人は、双子なのだな」
すると、篝火をかかげていた兵卒長が、そんな莫迦なと言って笑った。
「都尉殿、双子というものは、鏡をふたつ並べたように、よく似ているものでございます」
「そうだ。しかし、男と女ならば、面差しは、さほど似ることはない。獣子とは、双子を忌み嫌って呼ぶ名である。おまえが、允に漏らしたとおり、おまえと県令夫人は、双子の兄妹なのだ」
反論したのは、またも兵卒長であった。
「都尉殿、それもおかしい。たしかに、世には獣腹といって、双子ができることがあるが、たいがいは、男は家を継がせるため、手元におき、片方は、養子に行かせるなどするものだ。女を残し、男を外に出すなど、順序がおかしいではありませぬか」
「我ら漢族は、いまはそうする。しかし、昔は、家内安全と一族の繁栄を祈願して、生まれた長子を、川に生贄として流したのだよ。いまではだれも行わないこの残虐な風習は、じつはひそかにこの地に残っていた。
もちろん、みながみな、そうするわけではない。獣腹として生まれてきたために、古い風習にならって、おまえは捨てられたのだ」
巫に糾すと、巫は、笑みを口はしに浮かべつつ、董和に答えた。
「じつに我らのことに詳しい口ぶりをなさるが、わたしが県令の奥方の兄など、どうしてわかるのです」
「おまえの両親に、さきほど話を聞いてきたのだ。獣腹だと隠して、生まれた子は養子に出すつもりであったが、出産の時に親族に知れてしまい、守りきれず、川に流されてしまったのだと。しかし、おまえは運良く拾われ、生き延びた。ちがうか」
董和が決め付けると、巫は、すこし声を漏らしたが、それは諦めの混じったものであった。
「長く隠してきたものを、とうとう外に知られてしまったか。連れてこられてより、わたしが巫だというので、みなが恐れて触れようとしなかったのが幸いでした。今日まで、男だとばれなかったのですから」
「認めるか」
「認めましょう。たしかに、わたしは、あの偏狭な男に、哀れにも嫁してしまった女の兄。この身は、生まれてすぐに、たしかに川に流されはしたものの、運良く漁夫に拾われたのです。しかし、その漁夫は、わたしを養うことができなかった。そこで、山の巫女がわたしを引き取って、育ててくれたのです」
「おまえは成長し、山の巫女におのれの出自を知らされた。そして、両親や妹に再会した。両親は、おまえが、県令の夫人と、そう似ていないので、ふたたび家に引き取ろうとしたが、おまえは断ったのだな」
「そのとおり。わが身は、一度は捨てられ、長く山の霊気を浴びて成長したために、もはや里には馴染まぬのです。しかし家のことは常に気をかけておりました。両親や、妹も、わたしが不便のないように、いろいろと手を回してくれましたし、もとよりこの地においては、巫は尊敬こそされ、侮られることはない存在。ずっと、平穏に生きていたのでございます。しかし、それも妹が県令に嫁すまでのことでございました」
巫の、笑みを刻んだ仮面をかぶっているような顔が、県令のことに及ぶと、鬼のように険しくなった。

「我らは、ただ同じときに生を受け、同じときに生まれたというだけで、獣子などといって蔑まれておりましたが、あの男は、正真正銘の獣でございます。妹を娶っても、巴の女と軽蔑し、常日頃から罪のない妹に暴力をふるいつづけておりました。それがひどくなったのは、妹が安たちを産んだときからでございます」
「安たち、か。つまりは、生まれた子供もまた、双子であったのだな」
「双子は、なぜだか双子を生むことが多いのです。あの男は、獣子を産んだ、俺に恥をかかせるつもりかと、妹をひどくなじり、安の兄弟を殺せと言いました。
妹は、咄嗟にわたしのことを思い出し、同じく殺してしまうならば、山に生贄として捧げてくださいとあの男に懇願したのです。さすがに、あの男も、自らの手でわが子を殺すことにためらいがあったのでしょう。
子供は、山に捨てられ、あらかじめ人を通して妹より連絡を受けていたわたしが、甥子を、こっそりと拾い上げたのです。
しかし、以来、県令は、妹をますます蔑むようになり、外で派手に遊ぶようになりました。妹は、それでも辛抱をつづけておりましたが、考えを変えたのは、二度目の懐妊がきっかけでございました。
腹が大きくなるにつれ、二度目に宿した命もまた、双子らしいということがわかったのです。当然のことながら、最初の子供の遭難が思い出され、また、腹の子も、同じ目に遭わされてしまうのではないかと恐れるようになりました。
そうして、子を守るためにも、このまま県令の妻として留まることは出来ないとわたしに打ち明けました。
とはいえ、相手は県令。兵を動かせますから、ただ逃げただけでは、すぐに捕まってしまうでしょう。
そこで、わたしは知恵を働かせました。ならば、県令の目を晦ませてしまえばよい。
県令は、女遊びがこのところひどく、妹と顔をあわせることを避けておりました。そのことを逆手にとり、わたしは安の病気の平癒と口実を設け、もう一人の甥…これは平というのですが…と一緒に県令の屋敷に入り込み、安や妹と入れ替わったのです。
家人たちは、さすがに騙しきれないので、悪い霊が乗り移るといけないからといって、遠ざけることにして、妹たちが、この地から十分離れることができる日数を稼いだのでございます。
屋敷を出るときは、変装を解いて、出て行きました。そして、平とともに、妹たちを追うつもりでありましたが、旅に必要な薬草を集めるのに、思いのほか時間が掛かってしまい、妻子が消えたことに気づいた県令に捕らえられてしまったのです。
平はうまく立ち回り、ひとりでなんとか逃げおおせたようですから、いまごろは、おそらく実母や兄弟と一緒にいることでございましょう」

董和も、允も、兵卒長までも、巫の話に、言葉を失った。
允は、獣子だと自分を説明した巫に同情したし、兵卒長も、董和も、おなじく、巫と県令の夫人をめぐる数奇な話に、心を動かされたようであった。
父上は、どうされるであろうと、允はどきどきした。
巫の話を明らかにしてしまえば、県令は、やはり妻子を捕まえてしまうだろうし、生まれてくる子がどんな扱いを受けるか、わかったものではない。
とはいえ、巫は現実に牢に捕らわれているのだ。
このままにしておくことはできないだろう。

不意に、董和が大きな声で言った。
「ああ、疲れた。こんな夜更けに、馬車を運転したのがいけなかったのかも知れぬ。どうしたことか、目が見えなくなってきた。わたしはもう帰るぞ」
允は、父が何を言い出したのかとびっくりした。
しかし、隣の兵卒長は、にやりと、悪そうな笑みを浮かべている。
董和は、ぼやきをつづける。
「こういうときは、なにがあってもわからぬものだ。たとえば、牢の鍵をだれかが落としてしまっても、なにも判らない。ああ、そんなことになったら恐ろしいな。しかし、世の中は、なにが怒るかわからぬところゆえ、そういうことが、たまたま今夜おこるかもしれぬ」
「まったく、そのとおりでございます」
と、言いながら、兵卒長は、奥に控えていた獄卒を手招いて、鍵を奪うと、無造作に、巫の前に投げた。
「それがしも目が眩んでまいりました。詰め所に戻って仮眠でもとろうかと思います」
「それがよい。西の門の兵卒も、すべて休ませておくのだ。さあて、允や、父と一緒に帰ろうか。おまえも、今宵のことは、なにも覚えておらぬ。よいな?」
「はい!」
うれしくなって、元気よく返事をする允であるが、ふと、気づいて、唖然としている巫の前に立った。
そして、錦の袋を、鍵の隣に置く。
「秘密だと念を押されていたのに、わたしは秘密を守れなかった。もう半分しか残っていないのだけれど、これは返すよ。さようなら、安くんに、元気でと伝えておくれ」
巫の返事を待たず、允は父を追いかけて、一緒に屋敷に戻った。
その夜は、とてもぐっすりと眠ることができた。





翌日は、役所は大きな騒ぎとなった。
捕らえていた巫が、一夜のうちに消えてしまったのだから、当然である。
王恵は怒り狂って、どういうことかと董和を責めたが、董和はそらとぼけて、
「巫であるゆえ、姿を消す術でも心得ていたのではないか。そうなれば、いかに万軍の兵で見張っていようと、これを閉じ込めておくのはむつかしかろう」
と答えた。
王恵は、このことは、必ずや、成都のお偉い方に申し上げるといって、息巻いて去って行った。
その背中を見送りつつ、
「ああ、また成都が遠くなるな」
と、董和は言ったが、口ぶりとはうらはらに、その顔は、してやったりの笑みで溢れていた。


巫を逃したというので、さすがに巴一帯の董和の評判も、一時悪くなったのだが、しばらくして、劇的に、評判は上向いて、以前にも増して、董和はひとびとから慕われるようになった。
その原因は、山のほうから聞こえてきた噂によるものらしい。
どうやら山に住まう巫女たちが噂の元らしかったが、だれも、その明確なところは口にしようとしなかった。

つづく……

黒棗の実 3

2018年06月23日 09時48分19秒 | 黒棗の実
巫は、罪人として、後ろ手にきつく縛られて、牛に乗せられてきたが、しかし、その表情は、怯えた者のそれではなく、むしろ、己に好奇の眼差しを向けてくる者たちを、嘲うほどの余裕があった。
一方、そんな余裕がないのは王恵のほうで、手にした馬の鞭を、いまにも巫に打ち下ろしかねない勢いである。
允は、父やじいやと一緒に外に出て、昨日、山であったばかりの巫を、恐怖と驚きのいりまじった顔で見上げた。
巫が、安と一緒にいるのを見た者がいるという。
王の妻もいなくなっているということであるから、巫がなんらかの手引きをして、二人をどこかへ連れ去ったのだと考えるのが、妥当なところだろう。

王恵は、巫を牛の背のうえに残したまま、門先にあらわれた董和のところへ走り寄ってきた。
「都尉どの、この者が、わが身重の妻と、跡取り息子を、かどわかしたようなのです。ぜひに取り調べのうえ、きつい処罰をくれてやってくださいませ」
董和は、そのことばにはすぐに答えず、いまは薄汚れてしまった白い衣をまとう、牛の背のうえからおのれを見下ろす巫を見上げた。
允は、その背中に隠れるようにしていたが、そっと覗くと、巫と目が合ったような気がして、あわてて顔を隠した。
「この者が、貴殿のご子息を連れていたという話は、まちがいのないところなのか」
「まちがいないことですとも。一人や二人ではない。何人もが、安によく似た子と、この巫が一緒にいるところを見ているのだ」
「奥方も姿が見えないとか。奥方も一緒であったというのなら、話はわかるが」
「いいや、妻の姿は、だれも見ていないという」
王恵のことばに、事情を知りたくて集ってきたひとびとの中から、不穏なざわめきが起こった。
もしや、人攫いに、子供だけは連れ去られ、奥方さまは殺されてしまったのではあるまいか。
董和は、集ってきた人々の声を制するように、声を張り上げた。
「みな鎮まるがいい。ここは裁きの場ではない。話はわかった、さっそく、取調べをおこなうとしよう。この者は、我らで預かるゆえ、貴殿らは通達を待つように」
「いますぐ取り調べていただけるのではないのですか」
不服そうに王恵が言うと、董和は厳かに告げた。
「奥方たちがいなくなってから、まだそう日がたっておらぬゆえ、無事をたしかめるためにも、まずは裁きより、人を割いて、お二方を探すことを最優先にするべきだ。
詮議のほうは、通常通り構成にするゆえ、安心するがいい。緊急であるからといって、この場で略式に取り調べるというわけにはいかんのだ。この者が、たしかに奥方とお子を拉致したのだという証拠は、いまのところ目撃証言だけなのであるからな」
「悠長なことを。そのあいだにも、妻と子になにかあったら、どうしてくれるのだ!」
苛立って、声を上げる王恵に、董和は、あくまで冷静に答えた。
「お二方の探索は、わが部下も加わらせる。この場で裁きを行うわけにはいかぬと申しておるのだ。判っていただきたい。さて、巫を引き取ろう」
董和が言うと、王恵はしぶしぶと、巫を董和の部下に引き渡した。





静かな田舎町は、県令の奥方と子供の失踪に騒然となり、手の空いているものは、すべて二人の探索に借り出された。
県令はいやなやつであるが、奥方は、もともと巴東の旧家の娘である。
ひとびとは、小さい頃から見知っている奥方の行方を、心配したのである。
ぽつぽつと、見たことがあるという証言が集ったものの、失踪したという日にちよりもずっと前のものばかりで、安が寝込んでいたので、母子が外に出られるわけがなかったのだから、それは人違いであろうと処理された。

董和は、役所から帰ると、疲れているのか、渋い顔をして、食もあまり進まないようである。
じいやは、凝っていなさると、気の毒がりつつ、董和の肩を揉んだ。
「あちこちと騒ぎになっておりますね。塩の密売人などが世を騒がすことなどはよくありますが、このあたりで、女子供をねらった人攫いなど、滅多にないことでございます。たちまでも、日が落ちる頃には、もう子供を表に出さぬように注意しているようでございますよ」
「とて、子を想う気持ちには変わらぬ。どのような身分の者の子であろうと、これ以上、攫われるようなことがあってはならぬ。下手人は、かならず捕らえて厳罰に処してくれる」
と、珍しく言葉を荒げる董和であるが、ふと、息をついて、ぼやくように言った。
「王県令にも困ったものだ。妻子はまだ見つからない、きっと巫が売り飛ばしてしまったにちがいない、拷問にかけてしまえと、しつこく催促してくるのだ」
「土地の者たちは、奥方さまには、たいそう同情しているようですよ。奥方さまがあの県令に殴られているという話は、ここで知らぬ者はおりませぬ」
これ、と、董和は、允のそばにいることを気にして躊躇った。

允は、董和が帰ってくると、その側で、書を読んだり、大人たちの話を聞いたりして過ごす。
書を読むのは、あたらしい知識を得られることが嬉しいからであり、大人たちのむずかしい話は、まだよく知らない世間の輪郭が、なんとなくつかめるのが楽しいからである。
董和もふくめ、大人たちは、この行儀のよい、おとなしい少年に、ほとんど注意を払わなかった。
存在感がないというよりも、允のもつ雰囲気は、飾られた花のように、自然に場に溶け込むものであったからだ。

「父上、その話なら、安くんから聞きました」
「なんと、そうか。王恵は、子の前で、妻を殴っているのか」
と、董和は、ぎゅっと顔をしかめた。
「なればこそのことかもしれぬ。王恵の使いが来るよりも頻繁に、役所に、土地の者たちが詰め掛けてくるのだ。
あの巫は、この土地の者ならば知らぬ者がないほど優秀な巫である。命を救われた者も多い。悪い霊と付き合いのある巫ではないので、子供を攫ったとは信じられない。きっと、あの県令が、妻子が邪魔になって殺してしまったのだ、といって、巫を助けてやってくれと陳情に来るのだ」
「それはまた、憶測にしては、具体的な話ですな。たしかに県令は、評判のわるい男ですが、妻子を殺めるような真似をするでしょうか」
「わたしもそう思う。あれは、威張りたがりだが、小心者だ。だが、評判が悪すぎる。巫のほうは、獄卒たちも、むかし世話になったことがあるとかで、祟りを恐れて、その身に触れることも恐れておる。
己が恐れられているとわかっているのだろうが、巫が大人しくしてくれているのが幸いだ。自害などされては、大変な騒ぎになってしまうからな」
「うさんくさい巫のほうが、評判がよい、というのは面白いものですな」
土地の者を、すこし小莫迦にするようにじいやが言うと、董和は、首を振った。
「じいや、巫というものは、古来より医巫同源といって、医者と同様に見られていたのだよ。ここは山深いところゆえ、中原の医術をおさめた医者も、寄り付かぬ。土地の者にとって、巫は、たいせつな医者でもあるのだ。敬われて当然であろう」
たしなめられて、じいやは決まり悪そうにしながら、そういうものでございますかね、と、卓の上の白湯を入れた器を片づけた。
「父上、巫は、なぜ里に住まないのですか」
「山の霊気を得るためということであるが、山に生える薬草を採って、清水で薬をつくるためにも、山に住んでいたほうが、都合がよかったのであろう。医学がいまほどに発達していなかった昔には、おいしい水そのものが、薬として重宝されていたのかもしれぬ。
その証左というわけでもあるまいが、霊山と呼ばれ、信仰される山には、名水と呼ばれるおいしい水がおおく湧く。各地に巫の名の残る山は多いが、それは古来より、巫が山を住処とし、ひとびとの健康をもまもる、なくてはならぬ存在であった証だ」

父上は、なんでもご存知なのだと、允はあらためておどろいた。
そして、籠いっぱいに薬草を摘んでいた、巫のことを思い出していた。
男とも女ともつかぬ、魅惑的な妖気を漂わせている巫であった。
たしかに、里にはなじまぬ、異界に暮らす者である。気も遠くなるほどむかしから、脈々とつづく、巫の伝統を、あの者が継いでいるのだ。
允は、子供ごころに、もしかしたら、あの巫が、人さらいだとしたら、自分も攫おうとしていたのかしらと怯えた。
と、同時に、安を見たことを、いくら巫と約束したとはいえ、父に黙っていてよいものかと悩んだ。
とはいえ、約束を破るのはいけない。
約束を交わすかわりに貰った黒棗の実は、もう半分も、腹の中におさまってしまっており、残りは、錦の袋にはいったままである。
それに、喋ってしまえば、あの巫が罪人として処罰されるのは確実になるだろう。
その重さに、允はおののいていた。

そわそわと落ち着かなくしていると、董和が目を開き、言う。
「允や、最近、あまり腹を下さぬようだな。ずっと水っ腹がつづいていたから、おまえには、ここの土地が合わぬのかと心配していたのだが」
允は、董和が言うように、たしかに巴郡に来てから、ずっと下痢をつづけていた。
ひどいものではないのだが、原因がわからず、いつも腹の調子を気にしなくてはいけないので、食事をつくるじいやが困っていたのである。
それがここ最近、調子がよいのは、巫のくれた黒棗の実のおかげなのであった。
「わたしは、おまえに聞かねばならぬことがあるのだが、その前に問おう。おまえは、わたしに、言いたいことがあるのではないかね」
いきなり指摘を受け、允はどきりとしたが、それでもまだ、迷っていた。
父のことは大好きであるが、巫との約束を破るわけにもいかない。
もじもじと迷っていると、董和は、息をついて、それからどぎまぎしている息子に、まっすぐ力強い目を向けて言った。
「允や、おまえ、王県令の令息がいなくなったことについて、なにか知っているだろう。令息がいなくなった日、おまえは市場で、安に似た子を市場で見かけて、山まで追いかけたと言ったな」
「申しました」
咽喉がからからと渇いていたが、允は父の目線から、目を逸らすこともできず、頷いた。
「よろしい。重ねて尋ねるが、おまえは、なぜ巫は里に住めないのかと尋ねたな。巫が山に住まうものだということを、おまえはどうして知ったのだね。わたしはなにも話をしておらぬし、じいやもあのとおり、このあたりの習俗には詳しくない。だれに聞いたのだ」
「それは」
ちらりと、適当な名前をでっちあげて、嘘をついてしまおうかと思ったが、父の目を見てれば、そんな勇気は出なかった。
口ごもる允に、董和は畳み掛けるように言った。
「言いたいことがあるのだな、允。もしや、おまえは、あの巫を知っているのではないか」
ずばり言い当てられて、允は、はっとして顔を上げた。
「なぜにお分かりなのですか」
と、言ってしまってから、約束を破ってしまったことに気づき、允はあわてて口を塞いだが、もはやあとの祭りである。
董和に、なぜいままで黙っていたのかと責められて、允は、泣きながら、結局、仔細をすべて父にあきらかにしてしまった。

つづく……

黒棗の実 2

2018年06月22日 14時15分06秒 | 黒棗の実
巫、と聞いて、允の脳裏をかすめたのは、やはり安のことであった。
安の母親が、安の病気の平癒のため、巫を呼んだと話をしていなかったか。
それに、允には、巫が、医者を兼ねているという話に気を引かれた。
成都も、まじないや巫女に頼る気風があったけれど、医者は医者として、ちゃんと別に存在しており、巫女の煎じる薬は、士大夫の階級では軽んじられる傾向にあった。
古い書物には、巫は山に入って薬草を採ると記述がある。
古来より、巫は医術をも心得え、生と死のふたつの世界の知識をもつ、神秘の存在であったのだ。

「薬って、その山菜がそうなの? そんなにたくさん摘んで、どこまで行くの?」
允はすこしだけ巫に近づいた。
沓で踏みしだく青草のやわらかい感触が心地よい。
巫は、允に籠の中を見せて、相変わらず笑みを浮かべながら答えた。
「どこへ行ったものかね。まだ決めていないのだけれど、きっと南に行くことになるだろうね。この薬は、自分たちで飲むためだけじゃなく、途中で旅人に売って、こちらの路銀を稼ぐためのものでもあるのだよ」
籠の中には、さまざまな種類の草が入っていたが、どれがどんな効能があるのかは、允にはさっぱりわからなかった。
「あ、棗だ。これなら知っている。うちの家にも生えているもの。好物なんだ」
棗は食べると甘酸っぱい。
小腹がすいた時にもいで食べられるし、干したものは、薬にもなるし、おなかを壊した時にも役に立つ。
「あげてもよいけれど、これはまだ青いから、酸っぱいよ。ほら、こっちをあげよう」
と、白装束の巫は、懐から、棗の実を干したものを允にくれた。
その手は、節くれだっていたが、不思議とじいやのように手荒れがなかった。
「ありがとう。干したものを黒棗というのだよね」
「さすが董都尉のお子だ。よく知ってなさる」
「父上を知っているの」
父が有名なのは、允にとって、誇りである。
顔を輝かせた少年に、巫は、優しい笑みを向けた。
「お父上が好きなのだね。可愛がってもらっているかい?」
「もちろんだよ。普通はそうだろう」
「おやおや、簡単に『普通は』、などと口にしないといい。幸せに育った者は、どうも無頓着でいけない。世の中にはね、子が親に、可愛がってもらえないことが普通な家だって、たくさんあるのだから」
「ごめんなさい……むつかしくて、よくわからないけれど」
「素直なお子だ。董都尉の評判はすこぶるよいようだけれど、坊やを見る限り、人物も確かなようだ。よい父上に育てられたのだから、ちゃんと孝行なさいよ」
「うん、そうする。父上のように立派な人になって、父上が自慢できるような子供になるのが、わたしの夢なのだ」
「立派な人とは恐れいる。坊や、このあたりに暮らしていると、どうもピンと来ないけれど、中原のあたりでは、毎日黄巾賊とやらが、村々を荒らしまわって、天子様の言うことを聞かなくなっているそうだよ。その隙に、有象無象の輩が、我こそはと名乗りをあげて、天子様の御位を狙っているそうな」
「その話は聞いているよ。父上も、天下が悪くなったので、荊州から巴蜀に来たのだから。巴蜀はだいじょうぶだよ。父上が、だいじょうぶだと思ったのだから、だいじょうぶなのだ」
允はそう言って、むん、と胸を張って威張った。
允にとっては、父親の言葉や判断は、すべて福音なのである。
「お父上は、いつか司馬相如のごとく、巴蜀を出て、天子様にお仕えするようにと言わないかい?」
允は、沈思熟考な性格をみせて、しばらく考えてから、答えた。
「ううん、言わない。父上が言う立派な人というのは、お金がある人や、地位の高い人ではないよ。だから、天子様のお側に仕えられる人間になれ、なんていわない」
「では、どんな人間が立派だと?」
「自分の為すべきことをきちんとやって、正直に生きる人、人を弾劾しない人、欲張らない人。お天道さまにいつでも顔向けのできる人が、立派なのだって。
大きな功績を残したとか、お金をたくさん持っているひとも、たしかに立派かもしれないけれど、本当に立派なのは、毎日をこつこつと真面目に暮らして、不平も不満もいわないで、家族をたいせつにする人なのだって」
「おやおや、董都尉は、家もそっちのけで、仕事に打ち込む御仁だと聞いているよ」
揶揄された允は、むっとして反論する。
「そんなことはない。父上は、立派な人だよ。みんな言っているもの」
「そうだろうか。だれがそう言っているのだい」
允は、考えて、それから答えた。
「ええと、じいやとか、じいやとか、じいやとか……」
「じいやという人は、何人もいるのかね」
「だって、だれ、って聞かれても、その人の名前がわからないのだもの。答えられないよ。でも、父上が成都の令をやめてこちらに来るときに、たくさんの見送りの人たちが集まって、かならず帰ってきてくださいと、みんな泣いていたよ。立派な証拠じゃないか」
「その人たちは、たまたま、董都尉にうまく助けてもらえた人なのだろう」
「たまたま、って、なにさ」
「たまたまは、たまたまだよ。人助けというのはね、なまじな覚悟ではできないものだよ。助ける相手のすべてを引き受ける覚悟で手を差し伸べるのが、ほんとうの人助けさ。
董都尉は、たまたま仕事で人を助けているだけで、仕事の範囲ではない人は、助けないお人ではないのかい? 世間でよくいう義人とやらには、多いのだよ、そういうエセ義人が」
「父上は、エセ義人なんかじゃないぞ! ニセモノは、自分のことを偉いとか、賢いとか宣伝するものだけれど、父上は、逆に、いっつも、わたしは莫迦だ、莫迦だ、って嘆いてらっしゃるもの」
「なぜ、董都尉は、自分を責めなさる?」
「ええと、ええと、よくわからないけれど、父上は神さまではないから、目の前の、いちばん近くにいる人しか助けることができないからだって。一人を助けていると、そのあいだに、ほかの困っているひとは、後回しになってしまう。
助ける相手を選んでいる自分は、天を恐れぬ愚か者だ、天下の乱れを直さねば、困っている人が減らないとわかっているのに、どうしたらよいのか、手立ても浮かばない、って嘆いてらっしゃるもの。そういうのを、エセ義人とは言わないでしょう? 山奥に住んでいる貴方なんかに、父上のことがわかるものか」
「言ってくれるものだね。わたしたち巫というのは、たがいに繋がりがあってね、おまえたちの知らないような情報も、いろいろと握っているのだよ」
「ふうん。よくわからないけれど、なら、ほかのお山に住んでいる巫にも、父上はエセ義人なんかじゃないと伝えておくれね。悪い嘘がたって、このまま成都に帰れなくなったら悲しいから」
「成都に帰りたいのかい。なぜ」
「父上はなにも言わないけれど、じいやが、父上は天下に必要なお方だから、このまま巴郡に埋もれてはいけないと、いつもそう言っているもの」
「ふうん、じいやさんがね。じいやさんは、ご主人の気持ちを代弁しているだけかもしれないよ」
「そうではないというのに。わたしの父上は、安くんのお父上とはちがうのだ。成都に帰りたい、帰りたいと愚痴ばかり言うくせに、ろくに仕事をしない大人とはちがうのだから」
すると、とたんに巫は愉快そうに笑った。
「そうかい、坊やにも、あの男は、ろくでなしに見えるのかい」
允は、素直にうなずいた。
「自分の奥方をぶつなんて、最低だよ」
「うん、最低だね。まったくだ。面白いお子だね。素直かと思えば、なかなか毒舌を揮うじゃないか。安は、坊やと仲良くできて、楽しかっただろうね」
巫の言葉に、允は怪訝に思ってたずねた。
「これからも仲良くするよ。だって、わたしのたった一人の友達なのだから」
「ああ、そうだね。そうだといい。ところで坊や、つい長話をしてしまったけれど、わたしはそろそろ出立の準備をしなければならない。ここで坊やとはお別れだ。
帰りは、いま通ってきた小道をおゆき。野うさぎが使っている獣道だけれど、坊やならば難なく通れるだろう。
さて、約束をしてほしいのだけれど、わたしと会ったことを、誰にも言ってはいけないよ。お父上にも言ってはならない。約束できるかい? 約束できるなら、ほら、黒棗をもうすこしあげよう」
と、巫は、黒棗の実を、さらに允に渡した。

好物でつられたわけではないが、允はもともと律儀な性質であったから、巫の言葉に従うことにした。
そして、貰った黒棗を、錦の袋に入れると、大事に懐にしまった。
錦の袋は、亡き母の形見の衣の一部を使って、伯母がこさえてくれた小物入れである。
「さようなら、坊や。約束を守ってくださいよ」
巫は念を押して、允を見送った。





屋敷に帰ってきた允は、あちこちに草と泥をくっつけて帰ってきたので、じいやにひどく怒られた。
しかし、董和のほうは、允のやんちゃを面白がって、どこへ行ってきたのかと尋ねた。
允は、巫との約束をおぼえていたから、安らしき少年と市場で出会って、山へ追いかけていったことまでは話したが、巫のことは話さなかった。
「ご子息は、まだ具合が悪いのか。長患いにならぬとよいな」
董和が言うと、傍らで、允の汚れた衣の始末をしていたじいやが、口をはさんだ。
「あの王県令は、よろしくないお方でございますね。患っているお子と、身ごもっていなさる奥方を屋敷に残して、ご自分は、妓楼に繰り出して、ドンちゃん騒ぎをなさっているとか」
「お会いしたことはないが、県令の奥方というのは、たいそう美しい方だそうだな。允や、もし奥方にお子が生まれたら、おまえの友達も増えるだろうよ」
そうか、安には兄弟が増えるのだな、と允はうらやましく思った。
「ああ、別なことを考えながら筆を動かしていたら、また損じてしまった。允や、この紙はおまえにあげよう。書き方の練習をするときに使いなさい」
董和は、筆を置いて、机にひろげていた紙を、允に与えた。
それは成都にいる高官に宛てた手紙の下書きで、何度も書き直した後があった。
文字の隙間に、允は自分の字を書くことができる。
父の字が手本にもなり、ちょうど良いのである。
「旦那様は、坊ちゃまに甘い。そのような高級品を与えてしまわれるとは」
「よいではないか。どちらにしろ、ほかに使いようがないのだからな。おや、允、おまえ、誰の顔を書いているのだね」
董和に見咎められ、允はびくりとして筆を止めた。
それこそ、何の気もなしに、允は、昼間にあった、あの不思議な巫のことを思い出し、その顔を描いていたのである。
とはいえ、允には絵心がなかったので、紙の上の顔は、まるで巫に似ていなかった。
允から紙を取り上げ、顔をまじまじとながめた董和であるが、軽くため息をついて、決まり悪そうにしている息子に言った。
「おまえはわたしに似て、絵心がないようだな。これは市場であった人の顔かい」
允は、どぎまぎしながら、こくりと頷いた。
罪悪感がちりりと胸を焦がした。
「今の世に、画才があっても邪魔なだけか。おまえは、わたしと一緒で、天賦の才能とやらがない凡人のようだから、こつこつと、毎日を精進せねばならぬぞ」
「はい。立派な人になります。父上の誉れになります」
「気負うことはない。健やかに暮らしておくれ。そうしたら、父もおまえを誉れに思うだろう」
董和はそんなことを言って笑ったが、允には、父の言葉の意味が、よくわからなかった。





さて、翌朝、王県令の使者が、董家に飛び込んできた。
妓楼から帰ってきた王恵であるが、戻った屋敷には、身重の妻も、病に伏せている子供もおらず、もぬけの殻であったらしい。
あたり一帯を探したけれど、いついなくなったのか、家令もだれもわからない。
そこで、探したところ、安にそっくりな子を連れた者が、川を渡ったということが知れた。
そこで、手配をして追いかけたところ、子供はいなかったが、安に似た子を連れていた者は捕らえることができた。
いま、縄にかけて、連れてきている、さっそく裁いて欲しいというのだ。
父と共に、表に出た允は、それこそ引っくり返りそうになるほど驚いた。
馬上にて、ぐるぐるに縄で縛られていたのは、ほかでもない、昨日の巫であったからである。

つづく……

黒棗の実 1

2018年06月22日 10時05分40秒 | 黒棗の実
わたしたちのご先祖は、とおく巴郡の江州に住んでおられたのだ、と董和は息子の允に言った。
だから、わたしたちは、このたび主公のご命令で、成都を出て巴東に行かねばならないが、これは悪いことではない。
そもそも、なぜか我が一族は、土地を移動するということに、あまり抵抗のないのだ。ご先祖さまのお墓と一緒に、西へ東へ、幾代も経て、さまざまな血を一族の中にいれて、つづいてきた。
思うに、先祖代々、だれよりもつよい好奇心を受け継いできたせいかもしれない。
県境の豪族たちににらまれて、左遷をされるのだ、などと言うものもいるが、気にしてはならない。
楽しみではないか、ご先祖の生まれた土地、われらの故郷を見ることができるのだから。

さまざまな血、と説明されても、まだ世間をしらない允にはピンとこないのであるが、父の董和は、暗に、自分たちの根源たる血は、純然たる漢族ではないと示唆していたのである。
巴には、巴民族という夏王朝時代にまで遡る古い歴史をもつ人々が、多く住んでいる。
彼らは華陽国志によれば、勇猛な民族で、周とともに戦い、長く独自の文化を育んだ。
秦の司馬錯によってほろぼされ、以来、巴の地にも、漢族が大量に移民してくることとなる。
董一族の先祖も、そのあたりに根源をもっており、土地に馴染む際に、巴族の血と交じり合うこともあったのである。
だから、漢族にありがちな、異民族へのひどい差別意識は、董和のなかにはまったくなかった。
一人息子の允は、父親が大好きであったから、そのあたりはしっかり受け継いで、ほかの大人が蛮と蔑む彼らの、どこが蛮なのかわからないと、不思議に思うくらいであった。
巴族の独自の文化は、長いあいだ、漢族を受け入れ続けてきたために、すっかり独自性がうすれてしまってはいたけれど、彼らが信仰する白虎や蛇には、ふしぎと父子も敬虔な気持ちになった。
骨董として扱われる、ふしぎな動物の絵のついた土器や、巴独特の、槍のように投擲してつかう剣などには、驚くよりも、なつかしささえ覚えるのであった。





さて、成都の令としておおいに活躍し、財産家の過剰にすぎる奢侈を取締り、豪族たちの身分低い者たちに対するむごい扱い、不正、そのほか、さまざまな不正義を糾しに糾しつづけた董和、字は幼宰であるが、真面目に職務にうちこむあまり、敵も多くつくりすぎた。
民は、真面目で公平で、芯から優しいこの役人をとても好いていたが、位の高い人々は、逆に、煙たいやつよと、嫌っていた。
そして、董幼宰について、なんやかやと劉璋に訴えて、とうとう巴東の属国都尉として追放することに成功したのであった。

幼宰のひとり息子である允は、十歳になっていたが、子供の耳にいろいろ聞こえてくる話が、大好きな父親にたいして同情半分、冷笑半分というものばかりであったので、太守の劉璋さまという方は、なんだって頑張った者に冷たくあたるのだろうと、子供心に恨みに思った。
その心の動きを読み取ったのか、それとも、大切な子供に、早くからいじけた心を持って欲しくないと思ったのか、董和は、自分たちのご先祖の話をして、しょげる子供を励ましたのであった。

属国都尉とは、乱暴に説明してしまえば、巴郡一帯の警察の長である。
蛮地とはいえ、巴は塩の重要な産地であった。
漢族の視点からすれば、国を治め、国力を安定させるためには、巴の管理は必須だったのである。
もちろん、その周囲に住まう蛮族たちを抑えることも、重要であった。
左遷という形になったとはいえ、董和という人物は、役目にぴったりであったといえよう。

董和は、さっそく任地に赴くと、それまでの漢族の士大夫たちとはちがい、土地の者たちを、分け隔てなく、自分たちの遠い兄弟のように接した。
そもそも、董和は鳴り物入りでの着任である。
董和が属国都尉として、巴に行かねばならなぬという話を聞いた民が、何千人と集って、劉璋に留任を願い出た、という話は、いまどき珍しい美談であったから、巴郡にも聞こえていた。
かといって、漢族の役人というものに、悪い印象しか持っていなかった土地の者たちは、やってきた董和に対し、警戒心を解かないでいた。
しかし、ほどなく、これはどうも、噂どおりの男らしいと言うことに気づいてきた。
さらに董和を追いかけてくるように、成都での活躍の噂も耳に入り、時間をかけることなく、董和は、まるでもともと土地のものであったかのように、人々に受け入れられ、慕われるようになった。





さて、父親が土地に早くに馴染めたのに対し、おとなしい允のほうは、なかなかうまく行かなかった。
もともとからだがあまり丈夫でなく、成都でも、外にでて遊ぶということをしなかった。
くわえて、内気で引っ込み思案な子供であったから、友達の作り方もうまくない。
最初は、内気とはいえ、先祖代々から伝えられている好奇心は、允のなかにもしっかり受け継がれていたから、珍しい土地の風俗に心をうばわれて、探検をするような気持ちで、外に出て行ったのである。
しかし、允の住まう屋敷の周囲には、董和が着任するより前にやってきていた、武官の息子が、ガキ大将として子供たちを仕切っていた。
このガキ大将、ともかく理不尽に威張り散らし、暴力も辞さぬうえに、誹謗中傷なんでもござれ、嫌がらせも平気でするような、ちいさな暴君であったから、不正義をきらう允と、合うはずがなかった。
ガキ大将は、新米の、細くて小さくて色白な少年に、仲間に入るための条件として、おもちゃを上納せよと命じてきた。
允は、父親より、「みんなと一緒に遊べるように」と、いくつかおもちゃを貰っていた。
とはいえ、ガキ大将は、奪ったおもちゃを自分のものにして、自分より小さな子供のいうことを聞かせるのが目的であったから、允はそれを察すると、いやだと断った。
ガキ大将は、何をこいつ、生意気な、とぽかりと允を殴ったけれど、允の父親は属国都尉、つまりはガキ大将の父親より高位であったから、計算高いところを見せて、それ以上のことはしなかった。
けれど、允は、その一回きりですっかり懲りてしまって、近所の子供たちとは遊ばなくなってしまった。

一人だけ、県令の子供に安という男の子がいた。
年頃も近いし、気性も似ているうえ、ガキ大将が嫌い、というところが、たがいの気に入り、やがて允は、この少年と遊ぶようになった。
安の父は、王恵という男であった。
巴に赴任して五年、土地の財産家の娘を娶り、安という子供に恵まれていたものの、土地に慣れることもなく、土地の者を、田舎もの、蛮族と蔑むことを隠さなかったから、土地の者とも、董和とも、あまりうまく行っていなかった。
美しい瓦ぶきの屋根をもつ、豪勢な屋敷に住んでいたが、ある日のこと、允がこの屋敷に安を訪れると、なんとも困りきった顔をした、年配の女が顔を出した。
その女は、王家に仕える家令の妻であった。
やってきたのが允であるとわかると、家令の妻は、正直者らしく、さて、子供になんと説明したものか、と弱ったふうに、そわそわとするのであった。
怪訝に思いながらも、允は、
「成都の伯母上に、あたらしいおもちゃを贈っていただきましたので、安君と一緒に遊ぼうと思ったのですけれど、おばあさん、安君は、まだ風邪で寝付いてらっしゃるのですか」
と尋ねた。
允は、ここ数日、安の顔を見ていなかった。
応対に出てくる家令の話では、風邪を引いて養生しているから、表では遊べないということであった。
もうそろそろ、よいであろうとやってきたのに、まだ寝込んでいるのなら、相当に悪いのだろう。
合点した允は、また参りますとぺこりと頭をさげて、自邸へ帰ることにした。
その様子が、なんとも殊勝なのが家令の妻の気を引いたのか、允が去り際、こんなことを言った。
「申し訳ございません、お坊ちゃま。あたくしは、もう表に遊んでもよいだろうと思うのですけれど、奥様が、まだまだ熱が下がったばっかりなのだから、表には出せないとおっしゃるのですよ。
どうも、物の怪が安坊ちゃまに取り憑いたのではないかと、奥様は気にしてらっしゃるのです。先日も、巫を呼んで、お祓いをしていただいたくらいですからね」
「巫にお祓いをしてもらったのに、よくならないの?」
「こういうものは、しばらく…なんとおっしゃっていたかしら、後に残るのですって。坊ちゃんにも、物の怪が移ったら大変ですからね、奥様がよしとおっしゃるまで、やはりご一緒に遊ばないほうがよろしいでしょう。あたしたちでさえ、安坊ちゃんに会わせていただけないくらいなのですから」

王の妻は、美貌で有名な女であったが、同時に、たいへんに迷信深いということでも有名であった。
しかし、王のほうは、妻の迷信深さを嫌っており、夫婦仲は、あまりよくないという噂である。
そんな話を、十歳になる允ですら知っているほど、あたりでは有名な話ではあった。
実際に、安が、
「ぼくの父上は、母上をぶつから、嫌いだ」
とこぼしているのを、允は耳にしている。
片親の允は、両方そろっている安をうらやましく思っていたが、揃っていても、父上が母上をぶつところなんか見たくないな、と思った。





遊んでくれる友達は、安だけであったから、手持ち無沙汰になった允は、すこしばかりお小遣いがあったので、市場へ顔を出すことにした。
田舎の市場であるから、賑やかではあるけれど、物騒なことはすくなく、いるのはみな顔見知りで、允は大人しい、行儀の良い子供であったから、市場の顔見知りの大人たちにも可愛がられていた。
成都では買えないような、めずらしい動物の毛皮を触らせてもらったり、売り物の果物をちょっとだけ分けてもらったりしながら暇を潰していると、人ごみのなかに、ふと、子供の姿があるのを見つけた。
まぎれもない、安である。
手かごに山菜をたくさんつめて、市場を歩いていた。
風邪がよくなったのだろうと、允は喜んで声をかけた。
そのわりに、財産家でもある王の、安にいつも付けているお供がいないことが気にかかったが。
「安くん、よかったね、風邪は治ったのだね」
すると、とたんに安の顔はこわばり、手にしていた籠をどさりと落としてしまうと、おどろく允をよそに、くるりと背を向け、走り出した。
走れるほどによくなったのかと、人の良い允は思ったが、しかし、なぜに逃げられてしまうのかがわからない。悪いことをしたのかしらと焦って、允は、走り去った安を追いかけた。

安の足は、存外おそく、あまり足の速くない允でも、追いかけるのにたやすかった。
安は、どこへ行こうとしているのか、ときどき衣に足を取られつつ、懸命に前に進む。允は、走りながら、懸命に、名前を呼んで、止まってもらおうとするのであるが、安の足は止まることがない。
やがて、安は、市場も集落も抜けて、山のほうに入っていく。
山には虎だの熊だの猿だのがいて、あぶないから入ってはいけないと、じいやにきつく言われていたが、安が入ってしまったのだから、仕方ない。
允はためらわず、安の入っていった細い道を、さらに追いかけた。
道は、細く狭く、集落の者たちが使っている道とはちがって、人ひとりがやっと通れるくらいであった。
ときどき躓いて倒れたが、草が褥のようにやわらかく受け止めてくれるので、怪我をすることもなかった。
それでも、手と膝を泥だらけにしつつ、允は息を切らしつつ、安を追いかけた。
道は一本道である。
一緒に、山で遊んだことはなかったから、なぜ、安が山に入っていくのかがわからない。
わからないながらも、安を捕まえないことには、答えも出ないので、父親に似て、こうと決めたら頑固な允は、追いかけ続けた。

やがて、ちいさな道は、とうとつに、ぽかんと青空につきぬけた、広場のような野原に出た。
円形の野原には、草木が生い茂り、そのうえを、ちいさな薄い羽根をもつ蝶々が、ひらひらと優美に舞っていた。
允がおどろいたことには、そこにいたのは、安ではなかった。
白い装束を纏い、頭に同じように白い巾を巻いた、男か、女か、判然としない者が立っていた。
なぜ判らなかったかといえば、その者の顔立ちは、允が知る限りの男のひとのように、髯がなかったうえ、顎がごつごつしていなかった。
とはいえ、女にしては、線が固いのである。
宦官というものを、允は見たことがなかったけれど、噂に聞く、男でも女でもない、哀れな生き者は、こんなふうではないかと允は思った。
宦官も、山の精も、允の頭のなかでは、同列に不可思議な世界の者である。
それだけ、その者は、唐突に、見知らぬ世界から、允の目の前に現われたように見えた。

唖然としている允に、白装束の、何者かわからぬ誰かは、妖艶に微笑みかけた。
少年の允でさえ、背筋がぞくりとするほど、妖しげな笑みであった。
目は、化粧なのか、入墨なのか、朱で濃い縁取りがされている。
唇は、棗の実のように赤く、ぱっと開いたら、獣のような牙が並んでいても、允は納得しただろう。
しかし允が現実に引き戻されたのは、その者の持っていた籠であった。
それは、市場で安が持っていたものとはちがうけれど、中には、山菜がたくさん、入っていたのである。
「こんにちは」
と、允は声をかけた。
目は、その者の微笑から離せないでいた。
人を惹きつけてやまない、不思議な魔力が、目に込められているように思える。
この者の持つ空気は、允が知る、どの大人にもないものであった。
「こんにちは。里の子が、こんなところに来るとはめずらしい」
声を聞いても、なお、男か女かはわからなかった。
声の高い男かもしれないし、見た目より老けた女の声にも聞こえる。
「なぜ、ここにやって来たのだね。いってご覧なさい、坊や」
「安くんを追いかけてきた」
素直に允は答えた。
人見知りする允にしては、この者を前にして、言葉を口にだすのに、ためらいはなかった。
允の答えを聞くと、その者は、すこしだけ眉をひそめた。
とはいえ、それもわずかなことである。
唇には笑みを浮かべたまま、木漏れ日に透けて、かすかに体の線を浮かび上がらせる白装束は、なんの派手な装飾もない、地味なものなのに、なぜだか允はどぎまぎした。
「安くんは、ここにこなかった?」
「来たかもしれない。けれど、どうして、坊やは、安という子を追いかけているの?」
「安くんは病気なのに、一人で表にでて、大丈夫なのかと思って。それに、病気が治ったのなら、よかったねって言ってあげたかったし、それに、また一緒に遊びたかったのだよ」
「そうかい。でも残念だね。ここに来た子は、安という子ではなかったよ」
「本当に? でも、わたしはちゃんと見た。安くんじゃないのなら、どうして逃げてしまったのだろう」
「知らない子にいきなり声をかけられて、びっくりしてしまったのじゃないかね。あれは、わたしと同じ、獣子だから」
「けもの、ご?」
耳慣れない言葉に、允は首をかしげた。
「ところで、坊やは、何処の子なの?」
「わたしは属国都尉の董幼宰の子、董允と申します」
允は、躾けられたどおり、丁寧に拱手して見せた。
白装束の者は、なにがおかしいのか、鈴のようにころころと、声を立てて笑った。
笑われて、傷ついた允は、顔をしかめて、尋ねる。
「貴方はだれですか。なぜ、こんなところにいるのですか」
「わたしは、この一帯に住まう巫だよ。名乗れないのは許しておくれ。長旅をすることになったので、用心のために薬草を摘んでいたところだ」

つづく……

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