第一章
1
涼しくなったので蚊が減ったことはいいことだが、そのかわり篝火めがけて虫がたくさん飛んでくる。
森の下草からも、りんりんと悲しげな虫の声。
ときどき、フクロウが警戒を促すような声で、ほう、ほう、と鳴くのが気持ち悪い。
白い、うずくまっている象のような岩には、いま、女のほとのようなかたちの入り口が開いていた。
森林の梢から月光がさしこんで、岩にぶつかると、入り口が自然とあらわれていたのである。
歩哨が、だれかがこの場所に入り込んだ形跡があると報告してきていたが、劉備は頓着しなかった。
「だれかキノコ狩りにでも来ていたのだろう」
「昼間は、岩に異変はなかったのだろう」
張飛がたずねると、劉備は、うん、とうなずいた。
「見張りの話じゃ、異変はなかったそうだ。おそらく、この入り口は、選ばれし者にしか開かれないものなのだよ。益徳、とうとうわしは、天から選ばれたのだ」
感慨深げにいう劉備にたいし、張飛は意外に冷静に言った。
「そうかねえ、まだ俺は信用できないよ。ほんとうに、狐狸のたぐいに化かされているのじゃあるまいな」
「疑い深いやつだなあ、おまえは。それじゃあ、おまえも法正たちと一緒に古城に潜ればよかったじゃないか」
「莫迦を言え。天下の勇将がこぞってわけのわからん穴に入って、万が一のことがあったらどうするんだよ。漢中から曹操が攻めてきたら、もう蜀は終わりだ。だから俺は残ることにしたんだ。というか、それを決めたのは兄者だろう」
「そうだった、そうだった、悪かったよ。いまのおまえは、大事な蜀の砦だ」
ふたりの気心の知れたやりとりを、すこし遠くに立って様子を見ている士大夫代表の劉巴が見ている。
かれは、いまのやりとりがツボだったらしく、くっく、と声をたてて笑った。
といっても、劉巴は少なくとも表面だけはいつも笑っているような温和な顔をしている。
中身はとんでもなく腹黒いことは、張飛はよく知っている。
仲良くしようとその家に遊びにいったとき、劉巴は客である張飛をまったく無視し、話しかけすらしなかったのだ。
あとで、劉巴と親しい孔明に間に入ってもらって抗議したが、劉巴は抗議もどこ吹く風。
どころか、
「あんな兵隊あがりにどうして士大夫たるわたしが言葉をかけてやらねばならないかねえ」
と言い放ち、さすがの孔明も絶句していた。
そのあとは、孔明が必死に仲を継いでくれたこともあり、ふつうに挨拶くらいはできるようになったが、張飛にとっては、劉巴は「いやな奴」どころではない。
「大の苦手」になっていた。
「これ、そんな目で子初をにらむな」
と、小声で劉備に注意され、そこではじめて張飛は、立会人となっている劉巴ににらみつけていたことに気づいた。
「ごめんよ、おれの目は正直だからなあ」
「正直すぎるのも問題だ。孔明の苦労を思って、ちょっとは自分を抑えろ」
「わかったよ。それにしても、その孔明は遅いな。支度に手間取っているのかな。法正が古城に入ってから、もうだいぶ経つぞ」
心配になって、張飛は武坦山のふもとをみやった。
劉備の心遣いで、古城の入り口からふもとまでは、定期的に足元を照らすための篝火が焚かれている。
だから、孔明らが暗闇で道に迷うということはないはずだった。
張飛は、劉備のために身を粉にして働く法正が嫌いではなかった。
かなり思い切った残酷さを持ち合わせているが、それが劉備のためになるのなら、乱世なのだし、いいのでは、とすら思っている。
比べてみると、孔明は身なりはともかく政治手法はおとなしく、確実さがないかぎり動かない慎重さがある。
そこがまどろっこしいと思えることすら増えてきた。
とはいえ、新野に食客として暮らしていたころからの仲間である。
応援するならどっちか、と問われれば、張飛は孔明を応援するのだった。
ほどなく、闇の向こうから、毎度おなじみ趙雲と孔明のふたり、それから孔明の主簿の胡偉度が山をのぼってやってきた。
「遅いぞ」
声をかけると、孔明はすでに山登りで息を切らせており、代わりに趙雲が答えた。
「軍師は留守番をするべきではないかと思って、話し合っていたら、遅くなってしまった」
「おいおい、直前になって方針の違いでもめているってわけか。それはまずいぜ。法正のやつ、とっくの昔に古城に入っちまったよ」
それを聞いて、顔色を変えたのは孔明だった。
「して、天下一品の宝は見つかったのですか」
「いいや、まだだ。それにしても、おまえたちだけなのか。武装も軽めだし。大丈夫だろうな」
張飛が心配するのも無理はない。孔明は珍しく筒袖で動きやすい胡服のうえに鎖帷子だったが、盾は持っておらず、兜もかぶっていない。
趙雲と偉度のほうも、戦場に向かうときよりも軽めの武装で、朱塗りの木の楯に鉄の兜に剣、といういで立ちであった。
「孝直どののほうは、重武装だったよ。ま、金があるからね、あの御仁は」
揶揄する声に振り返ると、劉巴が立っていた。
「孝直どのと、文長どの、それから町の荒くれ者を集めた一団と」
「緘口令を敷いていた意味がありませんな」
孔明が不服そうに言うと、劉巴は肩をすくめた。
「かれにも注意したのだが、私兵もごろつきどもも、盾の代わりだからとかなんとか言って、強くわあわあ言い続けるものだから、認めるほかなかったよ。どちらにしろ、もうごろつきどもは、ここにきてしまっているのだしね」
「いやな予感しかしませんが」
「私に言われても困る。最終的には、主公がよしとおっしゃったことだからね。主公、軍師将軍がやっと到着しましたよ」
「おお、孔明、遅かったな。早く孝直につづけ。でないと競争にならん」
孔明を待つ、という選択肢もあったはずだが、劉備はごろつきたちが、早く宝を見せろとうるさかったのと、法正が遅刻してくる者に情けは無用と言い出し、結局、孔明を待たずに作戦が実行されたのだった。
「主公や益徳どのは、中に入られたのですか」
「いいや。中はどんなふうになっているかは、入ってからのお楽しみということで」
劉備はそんな見当はずれのことをいうと、孔明の手をとって、さあ、さあ、と古城の入口へ入るよううながした。
「孝直がいまだに戻ってこないところを見ると、なかはだいぶ広いらしい。どういう古城なのかはわからぬが、孝直のあとにつづくおまえたちにもまだ勝機はあるだろう。天下一品の宝、かならずやとってきてくれ。頼んだぞ、孔明」
念を押された孔明は、白い顔を、かれにしてはめずらしくひきつらせていた。
緊張しているというより、まだ南華老仙の話を疑っているのだろうなと、張飛は見当をつけた。
「いいなあ、おれも一緒にいって、古城とやらがどんなものか、見てきたいところなんだが」
張飛がぼやくと、冷静のカタマリ、趙雲が言った。
「おまえが地上に残らねば、だれが主公をお守りするのだ」
「わかっているよ。城のほうは漢升(黄忠)が守っているから問題ないし、おまえも軍師のお守り、がんばれよ」
「ありがとうよ」
短く言って片手をあげると、趙雲は劉備に向かって拱手し、
「では、行ってまいります」
と告げると、孔明と偉度を促して、古城の入口へと迷うことなく入っていった。
こういうときの、あいつの即断即決ぶりというのは、たしかにすごいな、肝が据わっているな、と張飛は感心する。
「無事に帰ってくるといいねえ」
劉巴は言ったが、これは独り言だろう。
名前もわからぬ謎の古城。
果たして、この中になにが隠されているのか。
空にはただ、地上のすべてを見張る目玉のような、黄金の月が鎮座しているばかり。
つづく
(Ⓒ牧知花 2021/07/25)
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涼しくなったので蚊が減ったことはいいことだが、そのかわり篝火めがけて虫がたくさん飛んでくる。
森の下草からも、りんりんと悲しげな虫の声。
ときどき、フクロウが警戒を促すような声で、ほう、ほう、と鳴くのが気持ち悪い。
白い、うずくまっている象のような岩には、いま、女のほとのようなかたちの入り口が開いていた。
森林の梢から月光がさしこんで、岩にぶつかると、入り口が自然とあらわれていたのである。
歩哨が、だれかがこの場所に入り込んだ形跡があると報告してきていたが、劉備は頓着しなかった。
「だれかキノコ狩りにでも来ていたのだろう」
「昼間は、岩に異変はなかったのだろう」
張飛がたずねると、劉備は、うん、とうなずいた。
「見張りの話じゃ、異変はなかったそうだ。おそらく、この入り口は、選ばれし者にしか開かれないものなのだよ。益徳、とうとうわしは、天から選ばれたのだ」
感慨深げにいう劉備にたいし、張飛は意外に冷静に言った。
「そうかねえ、まだ俺は信用できないよ。ほんとうに、狐狸のたぐいに化かされているのじゃあるまいな」
「疑い深いやつだなあ、おまえは。それじゃあ、おまえも法正たちと一緒に古城に潜ればよかったじゃないか」
「莫迦を言え。天下の勇将がこぞってわけのわからん穴に入って、万が一のことがあったらどうするんだよ。漢中から曹操が攻めてきたら、もう蜀は終わりだ。だから俺は残ることにしたんだ。というか、それを決めたのは兄者だろう」
「そうだった、そうだった、悪かったよ。いまのおまえは、大事な蜀の砦だ」
ふたりの気心の知れたやりとりを、すこし遠くに立って様子を見ている士大夫代表の劉巴が見ている。
かれは、いまのやりとりがツボだったらしく、くっく、と声をたてて笑った。
といっても、劉巴は少なくとも表面だけはいつも笑っているような温和な顔をしている。
中身はとんでもなく腹黒いことは、張飛はよく知っている。
仲良くしようとその家に遊びにいったとき、劉巴は客である張飛をまったく無視し、話しかけすらしなかったのだ。
あとで、劉巴と親しい孔明に間に入ってもらって抗議したが、劉巴は抗議もどこ吹く風。
どころか、
「あんな兵隊あがりにどうして士大夫たるわたしが言葉をかけてやらねばならないかねえ」
と言い放ち、さすがの孔明も絶句していた。
そのあとは、孔明が必死に仲を継いでくれたこともあり、ふつうに挨拶くらいはできるようになったが、張飛にとっては、劉巴は「いやな奴」どころではない。
「大の苦手」になっていた。
「これ、そんな目で子初をにらむな」
と、小声で劉備に注意され、そこではじめて張飛は、立会人となっている劉巴ににらみつけていたことに気づいた。
「ごめんよ、おれの目は正直だからなあ」
「正直すぎるのも問題だ。孔明の苦労を思って、ちょっとは自分を抑えろ」
「わかったよ。それにしても、その孔明は遅いな。支度に手間取っているのかな。法正が古城に入ってから、もうだいぶ経つぞ」
心配になって、張飛は武坦山のふもとをみやった。
劉備の心遣いで、古城の入り口からふもとまでは、定期的に足元を照らすための篝火が焚かれている。
だから、孔明らが暗闇で道に迷うということはないはずだった。
張飛は、劉備のために身を粉にして働く法正が嫌いではなかった。
かなり思い切った残酷さを持ち合わせているが、それが劉備のためになるのなら、乱世なのだし、いいのでは、とすら思っている。
比べてみると、孔明は身なりはともかく政治手法はおとなしく、確実さがないかぎり動かない慎重さがある。
そこがまどろっこしいと思えることすら増えてきた。
とはいえ、新野に食客として暮らしていたころからの仲間である。
応援するならどっちか、と問われれば、張飛は孔明を応援するのだった。
ほどなく、闇の向こうから、毎度おなじみ趙雲と孔明のふたり、それから孔明の主簿の胡偉度が山をのぼってやってきた。
「遅いぞ」
声をかけると、孔明はすでに山登りで息を切らせており、代わりに趙雲が答えた。
「軍師は留守番をするべきではないかと思って、話し合っていたら、遅くなってしまった」
「おいおい、直前になって方針の違いでもめているってわけか。それはまずいぜ。法正のやつ、とっくの昔に古城に入っちまったよ」
それを聞いて、顔色を変えたのは孔明だった。
「して、天下一品の宝は見つかったのですか」
「いいや、まだだ。それにしても、おまえたちだけなのか。武装も軽めだし。大丈夫だろうな」
張飛が心配するのも無理はない。孔明は珍しく筒袖で動きやすい胡服のうえに鎖帷子だったが、盾は持っておらず、兜もかぶっていない。
趙雲と偉度のほうも、戦場に向かうときよりも軽めの武装で、朱塗りの木の楯に鉄の兜に剣、といういで立ちであった。
「孝直どののほうは、重武装だったよ。ま、金があるからね、あの御仁は」
揶揄する声に振り返ると、劉巴が立っていた。
「孝直どのと、文長どの、それから町の荒くれ者を集めた一団と」
「緘口令を敷いていた意味がありませんな」
孔明が不服そうに言うと、劉巴は肩をすくめた。
「かれにも注意したのだが、私兵もごろつきどもも、盾の代わりだからとかなんとか言って、強くわあわあ言い続けるものだから、認めるほかなかったよ。どちらにしろ、もうごろつきどもは、ここにきてしまっているのだしね」
「いやな予感しかしませんが」
「私に言われても困る。最終的には、主公がよしとおっしゃったことだからね。主公、軍師将軍がやっと到着しましたよ」
「おお、孔明、遅かったな。早く孝直につづけ。でないと競争にならん」
孔明を待つ、という選択肢もあったはずだが、劉備はごろつきたちが、早く宝を見せろとうるさかったのと、法正が遅刻してくる者に情けは無用と言い出し、結局、孔明を待たずに作戦が実行されたのだった。
「主公や益徳どのは、中に入られたのですか」
「いいや。中はどんなふうになっているかは、入ってからのお楽しみということで」
劉備はそんな見当はずれのことをいうと、孔明の手をとって、さあ、さあ、と古城の入口へ入るよううながした。
「孝直がいまだに戻ってこないところを見ると、なかはだいぶ広いらしい。どういう古城なのかはわからぬが、孝直のあとにつづくおまえたちにもまだ勝機はあるだろう。天下一品の宝、かならずやとってきてくれ。頼んだぞ、孔明」
念を押された孔明は、白い顔を、かれにしてはめずらしくひきつらせていた。
緊張しているというより、まだ南華老仙の話を疑っているのだろうなと、張飛は見当をつけた。
「いいなあ、おれも一緒にいって、古城とやらがどんなものか、見てきたいところなんだが」
張飛がぼやくと、冷静のカタマリ、趙雲が言った。
「おまえが地上に残らねば、だれが主公をお守りするのだ」
「わかっているよ。城のほうは漢升(黄忠)が守っているから問題ないし、おまえも軍師のお守り、がんばれよ」
「ありがとうよ」
短く言って片手をあげると、趙雲は劉備に向かって拱手し、
「では、行ってまいります」
と告げると、孔明と偉度を促して、古城の入口へと迷うことなく入っていった。
こういうときの、あいつの即断即決ぶりというのは、たしかにすごいな、肝が据わっているな、と張飛は感心する。
「無事に帰ってくるといいねえ」
劉巴は言ったが、これは独り言だろう。
名前もわからぬ謎の古城。
果たして、この中になにが隠されているのか。
空にはただ、地上のすべてを見張る目玉のような、黄金の月が鎮座しているばかり。
つづく
(Ⓒ牧知花 2021/07/25)