はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

臥龍的陣 雨の章 その12 狗屠のなぞ

2022年05月11日 06時47分09秒 | 陳叔至と臥龍先生の手記
だが、事実として、そんなことはない。
なぜ斐仁が劉埼の腹心を殺さなくてはならなかったのか、明確なところは、直属の上役であった趙雲でさえ掴みきれていない状況である。
そうして、ここがおそらく、他者にはわかりづらいところであろうが、軍師という、謀(はかりごと)をもっぱらとする役目についていながらも、諸葛亮というこの青年、厄介なことに、名前どおりの明朗な性格ゆえに、その謀自体が得意ではない。
じつは軍師という役職には向いていない青年なのである。

ただし、たとえ身が潔白であったとしても、趙雲は、もし劉備に、部下の不始末の責任を取れ、と言われたなら、それに従う覚悟も決めていた。
部下の不始末をきちんとつける覚悟が、常日頃からあればこそ、上に立てるというものではないか。
そのあたりのことは、将として、趙雲はきちんとわきまえている。

「伊機伯どのは、いったいなんと言っている? おまえはこんなところでおれの話を聞いてないで、早いところ伊機伯のところへ行って、自分がおれと関係がないことを話すべきじゃないのか」
とたん、孔明は片方の手で筆をもてあそびながら、鼻を鳴らしていった。
「そんなことができるか。あなたはわたしに嘘をつけ、というのか」
「嘘?」 
「わたしとあなたに関係がない、などということが、あるわけがなかろう。あなたはわたしの主騎であり、わたしはあなたを従える者だ」
趙雲はぴんときた。
「おれをかばうつもりか?」
たずねると、孔明は、くだらぬことをぬかすな、と言わんばかりにふたたび鼻を鳴らし、堂々と胸を張った。
「当たり前だ。わたしは一方的に守られるつもりはないぞ。恩知らずではないからな」
「恩もなにもあるか。おれは仕事だから、わが君のご命令であるから、おまえを守っていただけだ」
「そんなことは知っているとも。だから、なんだ?」
なんだと逆に問われて、趙雲はことばを詰まらせた。
だから、ふつう、軍師とか、人の上に立つ者で要領のいい者、長生きする者は、足を引っ張る者を切り捨てるものだ。
そういった冷酷さがなければ、乱世で生き残ることはむずかしい。
だから、ほかの文官はそうするであろうから、おまえもおれを切り捨てろ、と趙雲は言いたい。

言いたいのだが…

孔明の、意外に素直な光をやどす双眸が、趙雲はなにを言い出すのか、と怪訝そうにしている。
いつもならば、年上を年上とも思わず、傲慢な態度でもって接してくるくせに、今日にかぎって、この素直さはなんなのだ。
さきほどまで双眸にあった『ばか』の二文字はいつの間にか消えていて、いまは『信頼』の二文字にすり替わっている。
妙に気圧される形となり、思わず、趙雲は出しかけたことばを止めた。

いままで、いろんな種類の人間を見て来たと思う。
優しいもの、残酷なもの、気弱なもの、強気なもの、いろいろ。
だが、こんなにわけのわからぬ青年は初めてだ。
しかも、わけがわからないのに明瞭なのだから、余計にわけがわからない。
味方だから助ける、かばう。
胸のうちにある理屈は、それだけなのである。
どうしてそこまで単純に物事を据えることができるのか、どう生まれ育てば、こんな世の中に、これほど素直に成長できるというのかすら、理解ができなかった。

もし、おれが本当に、勝手に劉埼の腹心を殺すよう指示していたとしたら、この軍師はどうするつもりなのだろうか。
思わず趙雲は、ちらりと孔明を見、その目に、あいもかわらず真っすぐな『信頼』を見つけて、目をそらす。

どうもしないな、最後まで信じきって、泣くのだろう。
その姿は、あまりに残酷で、想像することができなかった。
なるべくならば、見たくない姿である。
おれと真逆の世界に心があるヤツだな、と趙雲は思う。
人を信じる心も、人を信じさせることのできる説得力も、衆目をあつめることのできるほどの光輝も、自分には備わっていないものだ。
この青年のまとう光は、いままで明るい世界で、愛情をいっぱいに受けて育ってきた人間にだけ許される、特殊なものなのだろうか。

荒れ果てた平原と、地平にともりつづける鬼火、軍馬のひずめの音、剣戟の音、風に乗って聞こえる断末魔。
天空はつねにくもり、なみだも涸れ果てたように沈黙をつづける。
それが、趙雲が十五のときから見てきた光景であった。
おそらく、孔明のようにめぐまれた人間が目にしたことはないだろう死屍累々の平原を、裸足で歩いたこともある。
以来、死臭は身体の一部となり、けして消えないものとなってしまった。

「子龍、貴殿はまさか、くだらぬ考えを抱いているのではなかろうな?」
考え込んでいるところに言葉をかけられ、趙雲は顔をあげる。
いつのまにか、孔明は文机から立ち上がり、趙雲の目の前に来ていた。
「このわたしがいるというのに、まさか、自分が劉州牧に引き渡されることを危ぶんでいるのではなかろうな。あなたは、ほかのだれでもない、この孔明の主騎なのだ。たとえだれの命令であろうと、罪人のように襄陽へ引き立てられるような目には、けしてあわせぬ」
そして、言葉のさいごに、にっこりと、華やかな笑みを浮かべる。
「安心するがいい」
安心しなければ、いけないのだろうな、と逆に思わせる言葉であった。





「しかし『狗屠』か。本名とも思われぬ。曹操の膝元の許都で、そんな事件が起きていたとは、初耳だな。殺されたのが娼妓だから、あまり騒ぎにならなかったのか」
孔明のことばに、反発をおぼえて趙雲はいった。
「娼妓だろうと貴人だろうと、ひとに変わりはないだろう」
「理屈ではな。しかし、そう思わぬ者の方が多いのが現実なのだ。哀れなことだ」
「哀れ? だれが?」
「両方だ。娼妓たちも、彼の女たちを貶める者たちも。好きで身を落としたわけではなろうに。ひどい話ではないか。食べるために身を売りつづけ、さいごは虫けらのようにばらばらに刻まれて殺されるなど。
『狗屠』の目的はなんであれ、許せるものではない。物盗りではない、とあなたは思ったのだな? なぜだ? 殺されたのは、老いて妓楼からも追い出された、老婆といってもおかしくないほどの女だったのだろう?」
「たしかに衣類がはぎとられていた。だが、物盗りで、あそこまでむごたらしく、人を殺める意味がわからぬ。たとえ女が抵抗したとしても、あんなふうに、腹をかきまわして、外に引きずり出すような真似をする意味がどこにある?
戦場で多くの死体を見て来たが、あれほどまでにひどいものは稀だ。あれにはなんというか、激情が感じられたな」
趙雲にはめずらしい、抽象的な物言いに、孔明が身を乗り出す。
「激情?」
「そうだ。『狗屠』は、女に恨みでも持っているのではないかな。なんというか、女という存在そのものに、強い執着というか、執着をとおりすぎた、憎悪を感じた」
「恨み、か。娼妓にぼられたか、性毒でも移されたのかな。あるいは金子か大事なものを盗られたとか?」
いかにも清雅な顔をして、孔明は過激なことばを、ぽんぽんと言ってのけた。
「夏侯蘭であれば、なにかわかるかも知れぬと思ったのだが」

つづく…

陳叔至と臥龍先生の手記 その6

2022年01月27日 13時19分16秒 | 陳叔至と臥龍先生の手記
諸葛孔明、記す

目が覚めたら、空が暗い。
すでに太陽が西の空に隠れようとする頃であった。
冗談だろう。
いままでずっと眠っていたというのか。
そして、この布は、どこから飛んできたものだ? 
誰かが掛けてくれたのだろうか。礼を言わねば。
というより、これを掛けてもらったことに、わたしが気づかなかった? 
ありえるか?

そうして、もぞもぞしていると、隣にいる男に気づいた。
まさに、いままでずっと見ていた夢のように(馬はいなかったけれど)一人で、胡坐をかいて、武器の手入れをしているのである。
獣の油でもって、剣先を丁寧に磨いていた。
陽光を受けてぎらりと輝く刃は、それまでならば、凶悪さしかおぼえないものであった。
だが、ふしぎとその日は、刀剣の輝きを見て、夕陽を形にしたように美しいな、と思った。
わたしは誘われるようにして、口にしていた。
「武器の手入れは、毎日するものなのか」
「その暇があれば。今日は暇なほうだった。怪我人もなかったし。おそらく軍師が兵舎にいる、というので、兵卒どもが、ほどよく緊張して、粗相をしなかったせいだろう」
「そういうものなのか。あれだけの兵卒をまとめなければならぬのだ。将というのは大変なのだな」
「そうだ。単に号令を掛けていれば良いものではない。あんたや、わが君の言葉を、どうやって上手に連中にわかりやすく伝えるかが、将の仕事だ。まるまる伝えたところで、現場の人間にはぴんとこない、ということがよくあるからな」
「そういうものなのか」

答えつつ、なんだ、普通にわたしは話をできているではないか、と思った。
夢のなかでは、なぜあれほどに困っていたのだろう。
いや、そうではない。
この男、しゃべってみれば、とても自然にしゃべれるのだ。
なにがわたしを安心させるのだろう。
声の調子? 言葉の穏やかさ? 
それともなんであろう。
叔父にも徐庶にも似ていない。
けれど、よくわからぬが、安心する。
主騎だから、というわけでもないだろう。
わたしは、眠る前までは、この男を主騎と認めていなかったのだから。
でも、なぜだか安らぎを感じる。
この男がこれほど身近で刀剣を手にしていても、わたしはすこしも、恐ろしく感じない。

「馬が好きなのか」
わたしは、夢の中で言おうとしていた言葉を口にした。
すると、趙子龍は、唇に静かな笑みを浮かべた。
「まあ、好きなのだろうな。あいつらの面倒を見ていると、楽しい」
「どうして」
「どう、って。そうだな、あんたは書物を読むのがすきか?」
「あらためて、好きかと問われるのも妙だな。まあ、好きなのだろう」
「それと同じ感覚ではないのかな。俺は張飛や関羽みたいに、妓楼に繰り出して派手に遊んだり、酒を飲んで騒いだりするのが好きじゃない。かといって副将の陳到のように、まっすぐ帰るべき家庭もない。だから、その分の力を馬に注いでいるのかもしれぬ」

妓楼に行かない?
それでは、昼間に推理した『女関係の整理がつかないので結婚しない・できない説』は、破棄か?
そういえば、たしかにこの男が、酒臭くしていたり、白粉の匂いをさせていたり、夜更かしをしすぎて隈を作っていたりしたところを見たことがないな。

「夜はいつも、何時くらいに眠る?」
探りを入れると、趙子龍は、不思議そうな顔をして、わたしを見た。
「あんたは?」
なぜわたしに質問が返ってくるのだ? 
奇妙に思いつつ、わたしは答えた。
「仕事が終わったら」
「では、そのあとだ」
「わたしに合わせているのか?」
「主騎だからな。あんたの部屋の明かりが見える位置に、部屋を変えてもらったばかりだし。あんた、ずいぶん夜が遅いくせに、今日のように日中、笠もかぶらずに動き回っていたら、倒れるぞ」
「今日は倒れたのではない」
「判っている。だが、よい休息になったのではないか。熟睡していたようだ」
「そうでもない。夢を見ていたよ」
「どんな」
「仕事の夢」
真面目だな、とつぶやきつつ、趙子龍は、声をたてて笑った。
そして、最後の仕上げに、絹の布で刀身を拭ききると、鞘におさめた。
胡坐をやめて、わたしのほうに軽く向き直る。
「食事な、あんたが料理番に怒鳴ったのが効果があったらしくて、ずいぶんまともなものが出てきた。兵卒たちが大喜びしていたぞ。みなに代わって礼を言う。ありがとう」
びっくりした。
この男がこんなに率直に礼を言う男だとは。
そういえば、徐庶は、趙子龍は人付き合いが悪い、といったが、人が悪い、とは言っていなかったな。
「あれは、ひどすぎたから」
「ついでに俺からも礼だ。すまなかったな」
「なぜ」
「本来なら、俺があいつに怒鳴り込んでやらねばならないところだった。あいつは小心者なので、いままで料理番の影に隠れて、はっきりと表に出てこなかったのだ。もし出てきたなら、はっきりと、料理をなんとかしろと言ってやろうと思って待っていた。だが、先を越されたな」
「そんな理由で、あの食事に黙っていたのか。しかし、謝ることはないぞ、子龍。どちらにしろ、完勝確実な論戦であったから、おもしろくともなんともなかったし」

いや、実際はかなり神経を使って、疲れた。
糜芳がただの猪武者なら、まったく遠慮しなかったが、あの親切な糜子仲さまの弟君、というところが障壁だった。
誇りを粉々にしないよう、細心の注意をはらって、逃げ道をわかりやすく作りながらの論戦。
われながら、配慮の行き届いた高度な戦略だったと思う。
うまくやったほうだろう。
「完勝確実、か」
明るく笑いながら、趙子龍は立ち上がると、わたしに手を差し伸べてきた。
普段であれば、わたしは、誰の手であろうと触れることをためらっただろう。
だが、そのとき、わたしは気負うことなく、その手を取れた。
「食事、あんたの分は残させて置いたから」
「そうか、ありがとう」
わたしを立ち上がらせると、趙子龍は、わたしに背を向けて、先に歩き出した。
ふと、夢の中で見た背中と一緒だな、と思った。
あのときは声をかけそびれたが。
「あなたもまだなのだろう? ならば、共に食べよう。だれかと一緒というのが、あまりいやでなければだが」
わたしは、自身の言葉に、いささかうろたえつつも、そう言った。
こんなふうに、だれかと一緒に行動を共にすることを誘ったことなど、ない。
誘われることはあったけれど、たいがい一人がよかった。
一人のほうが気が楽で、気を遣わずにすんで、傷つかないからだ。
それなのに、なぜこんなことを言ってしまったのかな。
自分を不思議に思っていると、趙子龍は、
「俺は、あんたの主騎だからな」
と言って、そのまま、わたしの歩幅に合わせて横に並んだ。
そして、夕闇のなかを歩き始めてくれた。

わたしは、今日いちにち、なんのためにこの男のまわりをうろうろしていたのだっけ? 
忘れたな。
いや、本当は忘れていないが、忘れたことにしてしまおう。
なぜだか、そうしたほうがいいような気がするからだ。
さあ、夕食は、ほんとうに美味しくなっているであろうか。
美味しいといいのだが。

手記はここで終わり。
困りごとがなくなってしまったから。



ヲワリ

(2005/09/18 初稿)
(2021/11/24 改訂1)
(2021/12/17 改訂2)

☆ あとがき ☆

〇 趙雲の副将、陳到と、孔明の手記を交互に紹介する、という趣旨で書かれたものだったが、初稿は時系列がおかしかったので直した。
〇 誤字がすごーくあった……一行目から誤字という、すごいクオリティ。まだあるかもしれない。
〇 文章がおかしい箇所がほとんどで、ずいぶん読みづらいものになっていたかと思う。長ったらしい文章は分けたり、消したり、まとめたりして、読みやすくした。
〇 物語の事情がわかるよう、大幅に説明も加えた。
〇 陳到や孔明がどうして手記を書いているのかの部分も付け足した。
〇 麋竺のあざなを間違えて表記していた。子方→×、子仲→〇。こういうことばかりだ、この先。
〇 内容の一部変更にあわせ、タイトルも変更した。『陳叔至と臥竜先生の手記』。タイトルをつけるのに迷ったが、ストレートに行くことにした。
〇 2005年にGuiさんからのリクエストで書いたもの。なつかしい。ここから、旧シリーズのブラッシュアップがはじまっていく。

陳叔至と臥龍先生の手記 その5

2022年01月26日 12時48分06秒 | 陳叔至と臥龍先生の手記


「叔至、そこいにた派手なの、どこ行った」
趙雲は、厩舎にて、ともに馬の身体を洗っていた陳到に尋ねた。
入り口のそばの柱に背をもたれさせて、じっとこちらを見ていた孔明が、いつの間にかいなくなっている。
「ちょっと代わってくれ」
陳到に言い、趙雲は外へ出て、孔明がどこへ行ったのかを確かめた。
大樹の木陰にて、ほとんど半裸になって、ぐったりと、魚の干物みたいに床に並んで眠っている兵卒たち。
そのかれらに混じって、木の幹に背をもたれさせ、孔明はすやすやと寝息をたてていた。
厩舎の目と鼻の先である。
そのうえ、ここで干物になっている連中は、見た目こそみっともないが、趙雲が、特に目をかけている精鋭たちばかりだ。
何か事が起こっても、孔明を守ることができるだろう。
事実、趙雲がそっと近づいてきたにもかかわらず、眠っていた数名は目を覚ましていた。
うっすら目を開き、趙雲がなにをするのか、黙って見守っている。

趙雲は、城の洗濯女が木陰に干していた布を一枚拝借し、すやすやと眠る孔明に、そっとかけてやった。
とりあえず、主騎を解任されているわけでもないし、守ってやらねばならぬ。
わが君がやっと手に入れた軍師だ。
徐庶が曹操のもとへ行ってしまった今、代わりになるものがいない。
なにより、わが君のために、こいつを守るのだ。

それにしても、文官不足の新野において、昼夜たがわず熱心に働いていると聞く。
普段から相当に疲れているだろうに、さらに慣れぬ兵舎のあちこちを回って、しかもこちらの観察までしている。
こいつは、自分をいじめるのが好きなのか?
ともかく、ここにいてくれている分には、安心していられる。
大人しくしてろよ、と心の中でつぶやきつつ、趙雲はふたたび厩舎に戻った。



孔明は、夢を見ていた。

夢を見るくらいであるから、実際の眠りは浅い。
神経がどこかで休まっていないのだ。
夢のなかで、孔明は、たった一人、書庫で仕事をしていた。
見たこともないほどの大きな書庫で、立派な卓がいくつも並べられている。
書庫にいるのは孔明一人きりである。
それには理由がある。
夢のなかでは、孔明以外の人間は、みんな病を得たり、家族に不幸があったりして、だれも出仕できなかったのだ。
仕方なく孔明は、ひとりで仕事をこなしている。
だが、そこは孔明である。
完全にひとりなので、かえって、のびのびできている。
周囲を気にしなくてよいし、更衣だって……そうだ、毎回変えているが、これだけ人がいなければ、今日くらいは着た切り雀でよいか。

そうして、ふと外に目をやると、書庫の窓辺にて、趙子龍が馬と一緒に、つくねんとしているのであった。
何をしている、というわけでもなく、そこにいるのである。
変なひとだな、とおもったが、声をかけるにも、話題がない。
そこで孔明は気づく。
そうだ、もともとこの人と、まともに会話をしたことがないのだ、と。
こんなところにまで馬を連れてきて、よほど馬が好きにちがいない。
そりゃあ、厩舎の馬の、あの様子からすれば、相当なものだというのはわかるけれど。
そうか、ほかにはだれもいないのに、わたしの主騎ということだけで、あそこで待っていなければならないのだな。
気の毒だな。
帰ってよいと言うべきだろうか。
その前に、なにか話したほうがよくないか。
せっかく待っていてくれるのだから。
でも、なにを? 
馬が好きか、って? 
好きだと答えられたら、そうですかで終わりになってしまうではないか。
さて、困った、なんと言おう。
困った、困ったぞ…


陳叔至、記す

あきれたことに、あの軍師は、昼休みをすぎても、まだぐうぐうと眠っていた。
調練場のすぐそばで、である。
午後の調練で大太鼓、小太鼓が打ち鳴らされ、兵卒たちが大音声で掛け声をあげていても、まったく目を覚まさない。
なんだか腹が立ったので、起こしてやろうとしたら、趙将軍が止めた。
優しい趙将軍は、疲れているのだろうから、そのままにしておいてやれ、という。
どうやら、料理番の一件が効いたようだ。
趙将軍、軍師について、よい印象を持つに至ったようである。
この人が胃袋で動く人だったとは、ちと意外だ。
自分のあら捜しをされている、とも知らないで、お気の毒な趙将軍。
この方は人が好すぎる。
ここはわたしが、あえて、でしゃばるべきであろうか。
思案しているうちに、終業を告げる太鼓の、どん、という音が響いたので、わたしの仕事はそこでおしまい。
真っすぐに妻子の待つ家へと帰った。




寄り道もせずに陳到は愛妻のもとへ帰り、本日の顛末をくわしく聞かせた。
「わが君にお願いして、趙将軍が軍師の主騎になるという人事を取り消してもらおうか、と考えているのだが、おまえ、どう思う」
というと、賢き妻は、
「およしなさい、それこそ出しゃばりというものです。趙将軍がどのようなお考えか、聞いてもいないうちから、莫迦な真似をするのではありませぬ。お殿様が、将軍を軍師の主騎にと決められたのでしょう。お殿様には、お殿様のお考えがあるのです。郎君が下手にしゃしゃりでるところではありませぬ」
と言った。
「なるほど、そうなの……かな?」
「そうです」
「では、趙将軍のご意向を伺ったうえで、わが君へ、趙将軍が主騎になるのはどうかと思うとわが君にお話する、というのはどうであろう。あの居眠り軍師に、主騎なぞ不要だと思うのだが。ん? でも、待てよ? 将軍が主騎を断ったら、こちらにお鉢が回ってこないかな? だったら面倒だなあ。俸禄は上がるであろうが。どう思う?」
陳到の皮算用に、妻は目を吊り上げた。
「そういう、せせこましい計算をなさるところに、貴方様の器の小ささがあらわれておりますね。すべてお殿様にお任せするべきだと申し上げているでしょう。だいたい、将軍のことはともかく、軍師のことは、まだどんな御方か、よく知らないではありませぬか。それなのに、どうして皆様がたは、あれこれと勝手な印象を軍師に押し付けようとなさるのですか。おかしいことだと思われないのですか。ご自分が軍師の立場であったなら、どう受け止められるでしょう」
「いい気分ではないな」
陳到は首を縮めた。
相談するのではなかった。
たしかにいうとおりなのだが、正論すぎる。
「ああ、もう面倒だから、もう軍師のことは趙将軍におまかせしよう」
「それがようございます」
賢き妻はうなずいて、食卓にほかほかの料理をならべはじめた。
陳到は、気持ちをぱっと切り替えて、愛妻のつくった、世界一うまい料理を食すことにした。
兵舎の連中は、ちゃんとうまい料理にありつけたかな。
ああ、おいしい。
そう思いながら。

つづく

(2005/09/18 初稿)
(2021/11/24 改訂1)
(2021/12/17 改訂2)

陳叔至と臥龍先生の手記 その4

2022年01月25日 14時15分28秒 | 陳叔至と臥龍先生の手記
諸葛孔明 記す

兵卒の仕事も、大変なものだな。
士大夫の家に生まれたわたしは、徴兵されることのない身の上だ。
そのさいわいを、あらためて実感している。
兵卒たちは、朝は早くに起こされて、兵舎や調練場の掃除をして、調練をしたあと食事、また調練、食事、昼寝、調練、武器の手入れ、食事、就寝。
わたしであったなら、そんなキツイのに加えて、単調な生活には耐えられぬ。
しかもあの食事だったのだ。
同情するに余りある。
いま、みなは調練場の中央に、なぜか我が物顔で鎮座している大きな楠木の木陰に憩って、並んで昼寝をしている。
もうすこし、みなの日よけになりそうな樹を増やしてやるべきかな……間に合わぬか。
曹操が、新野、いや、荊州に南下してくるのは確実だ。
それは、早ければ、年内になるであろう。
植樹しても、おそらく木が育つ前に、大きな戦になる。

趙子龍は昼休みにどこにいるのか。
すぐにわかった。
みなが昼寝をしているのを横目に、厩舎に行って、調練でつかった馬の調子をみてやっているのだ。
わたしも後をついていって、様子を覗いている最中だ。
人が変わったようだ。
趙子龍、馬を前にすると、顔つきがちがう。
かなりの馬好きらしい。
新野の濃密な人間関係につかれて、馬に心の癒しを求めている、というクチかな? 
馬のほうもずいぶんなついているようだ。
趙子龍が顔を出すと、鼻息を荒くして、尾っぽをぶるりとふっていた。
それを見る趙子龍のほうも、うれしそうだな。
馬に噛まれたので(おそらく馬は、毛づくろいをしてやっているつもりなのだろうけれど)笑って、たしなめていた。

悩みのなさそうな顔をしているな。
文武両道か。
そのうえ、あれだけ男ぶりがよいと、わたしのような悩みを持ったことはなかったろうな。

十代の頃は、女のような顔だからといって、性格までなよなよしているものと思われて、だいぶ心無い連中から舐められたものだ。
背が伸びたおかげで、それも次第になくなったが、もし背が伸びていなかったなら、下手をすれば宦官のような扱いを受けていたかもしれない。
もうこういう顔なのだから、仕方があるまいと、開き直ったのが、徐庶と出会ってからだったな。
おまえ、せっかく綺麗な顔をしていて、みんなによい印象を与えることができるのだから、もっともっと、よい印象を与えるように努力したほうがよいぞ。
かれはそう言ったのだ。
不思議と、かれのことばは素直に聞けた。
おかげで、肩の力が抜けて、笑顔を自然に出せるようになっていった。
それまでは、手段としての笑顔しか作れなかった。
ここで笑えば有利になるな、とか、好かれるだろうな、とか、そういう計算づくの笑顔だった。

徐庶は、わたしのこの、人目を惹く容姿が、やがて説客としての最強の武器になると言ったが、そうであろうか。
わたしに自信を与えるための、慰めではなかったか。
確かめようにも、本人はもう、遠い空の向こうなのだが…元気かな。
だれより優しい男だった。

しまった、本来の目的を忘れて、考え事にはまっていた。
あの男がこちらに気づいたようだ。
まあ、気づくだろうな。
こんなに短い距離で、じっと見つめていたのだから。
なにか嫌味でも言ってくるかな、と構えていたが、趙子龍は関心がない様子。
どうでもよいのか、馬の身体を洗い始めた。
馬は、きもちよさそうに、ぶるぶると鼻を鳴らしている。
しばらく見ていても、趙子龍はなにも言わず、黙々と、ほかの厩番といっしょになって、順番に馬の身体を洗ってやっていた。

こころから馬が好きなのだな。
でなければ、兵卒たちがぐうぐうと昼寝をして休んでいる合間に、自分は休まず、馬の身体を洗うなんて、なかなかできるものじゃない。
子龍とて、兵卒と一緒に調練をしていた。
一箇所にじっとしてたわけでもない。
銅鑼にあわせて大音声でもって号令をかけながら、型の不味い兵卒に丁寧に指導もしていた。
相当つかれているはずだ。
それに、馬を洗うのも、なかなか重労働だぞ。

身体の疲れを忘れるほどに、馬の世話が好きなのか。 
聞いてみようか。
ああ、でもいまさらだし、わざとらしいかな。
徐庶ならたぶん、わたしを見つけたなら、
「やってみるか」
とでも聞いてくるだろう。
この男はそういう社交性はないようだな。
そもそも、わたしに関心がないのだろう。
やれやれ、主騎の話も、子龍から断ってくれたら、話が早いのに。

これ以上、かれを見ていても意味がないな。
さて、明日は河原の工事の視察もあるわけだし、わたしも眠くなってきた。
ちょっとわたしも調練場の日陰を借りて、昼寝でもしてこようかな。
今日の事務仕事については、糜子仲さまが、すべて代行してくださるとおっしゃってくださったし。
あの人は、ほんとうに親切なお方だ。

おや、その親切なお方の弟君が、なにやら剣呑な顔をして、こちらにむかってずんずんとやってくる。
あの弟君のほうは、苦手だな。
どうも言葉がきついし、妙にえらそうで。
とはいえ、これから志を共にする仲間なのだ。
それに、話をしてみると、意外と良い方かもしれぬ。
愛想よく。愛想よく。
と、ん? 
弟君の後ろにいるのは、例の料理番ではないか。
なるほど、読めたぞ。
料理番め、わたしに怒鳴られたことをうらみに思って、弟君に言いつけたな。
言いつけを受けて、文句を言ってくる弟君も弟君だ。
ふん、武将ひとりに脅されて、怖じる諸葛孔明ではないぞ。
昼寝の前に、ちょうどいい運動だ。
あの食事は不味かった。
不味い食事では兵卒たちは力が出せない。
力が出せなければ軍が弱る。
事実を端的に言うだけ。
さあ、行くぞ。

つづく

(2005/09/18 初稿)
(2021/11/24 改訂1)
(2021/12/17 改訂2)

陳叔至と臥龍先生の手記 その3

2022年01月24日 12時44分48秒 | 陳叔至と臥龍先生の手記
陳叔至、記す

まだあの軍師は兵舎をウロウロしている。
正直に認めよう。
軍師がウロウロしていることで、全体にほどよい緊張感が走っている。
兵卒どもを統率する側としては、たいへんよろしいところである。
が、落ち着かないというのも事実である。
しかも、それまで「胡散臭いよそ者」を見る目で軍師を見ていた兵卒どもだが、現金なものだ。
食事の改良を軍師が約束したあたりから、兵卒たちは口々に軍師を誉めだした。
胃袋を掴んだ結果か、自ら率先して軍師に挨拶する者もちらほら出始めた。

ぬ? 
兵舎からいなくなった。
と、思ったら、料理番のところへ行って、激しくやりあってきたらしい。
本人が誇らしげにいうところをそのまま語るなら、
「夜の食事については、今上帝が食べても美味いとおっしゃるだろうものを出せ、と命令してきた」
ということだ。
兵卒たちは大喜び。
うまい食事にありつけるから、というだけではあるまい。
もちろん、それもあるだろうが、連中がよろこんでいるのは、料理番本人を軍師がやりこめたことにあるのだろう。
あの料理番は、糜芳の後ろ盾があるといって怠慢にも威張りくさり、まともな仕事をしてこなかった料理番だったからな。
いくら新野一の人格者、糜竺どのの弟である糜芳のコネであろうと、主公の寵愛を一身にあつめる軍師には、かなわなかったようだ。
いまのところ、肉包丁片手に追いかけてくる気配はない。

めずらしいことに、おおはしゃぎする兵卒たちを見て、趙将軍が、口に笑みを浮かべて、優しい顔をされていた。
これは、兵卒たちと同じように、してやったりと思った、ということか。
糜芳と趙将軍、どういうわけか仲が悪いからな。
きっかけは不明なのだが、あれは糜芳の一方的な嫉妬だと、わたしは睨んでいるのだが。
たしかにうちの将軍、顔もよければ性格もよし、口は重たいが男気があるし、律義者で愚痴のひとつも言わないし、面倒見は意外とよいし、わりと話もわかる。
縁談も多いのに、承諾しないのも、また女たちの射幸心をあおっているらしいと聞く。
女にも男にももてまくる、わが自慢の上司である。
麋芳からすれば、あまりに出来すぎているので妬ましいのだろう。

それはともかくとして、あの軍師は、毎日、何回、着物を変えているのだろう。
更衣のたびに着物を替えているようだ。
また替えてきたぞ。
えらく派手な錦の帯を中心に、紺でまとめた衣裳だ。
桔梗の花のように見えるのう。
意外にも金持ちらいしということは聞いていたが、衣装ひとつとっても、相当なものだ。
みたところ、いつも上等な絹の衣を纏っている。
衣にあわせて、髪型までいじって、洒落っ気があるなどという言葉で片付かない派手好みだのう。
司馬徽先生の私塾に通っていた人間というのは、そんなに趣味人ばっかりだったのかな。
新野にはこれまで、こういう種類の人間はいなかったな。

いや、待てよ。以前の軍師の徐庶どのは、ちがったではないか。
清潔な服装をされてはおられたが、色合いはいたって地味。
絹なんて滅多に着ていなかった。
だが、羽目を外すときは、おおいに外して、張将軍と盛り上がっていたこともあったっけ。
翌朝には、昨日ははしゃぎすぎたといって、ものすごく落ち込んでいるのを見るのが、ひそかに楽しかったりしたのだが。
曹操のもとへ行かれて、その後、お元気だろうか。
お元気だと良いが。

おや、またも趙将軍が、軍師のほうを見ているぞ。
やはり気になるのであろうな。
「軍師は、なんだって今日は、俺ほうばかりちらちら見ているのだ」
と聞いてきた。
ああ、なるほど、軍師は、兵舎ではなく、趙将軍も見ていたのか。
たしかに、おかしい。
なぜ、軍師は趙将軍を見ているのだろう。
たしか趙将軍は、先日、主公より軍師の主騎となるよう命令されたはず。
それを受けて、逆に軍師が、気を遣って、自分で主騎たる趙将軍のそばにいる?

いや、ちがうな。
あの、尖がった目つき。
わかってしまった。
趙将軍のアラ探しをして、主騎を辞任させたいのではないか。
なんということだ。
趙将軍が直々に守ってくれるという贅沢を、あの軍師は理解していないのか。
趙将軍は、孫子が説くところの大将の気風、すなわち、才知、威信、仁愛、勇気、威厳、すべて備えていらっしゃる(まだお若いから、関羽殿には負けるけれども)。
こんなところで埋もれていてよい人ではない。
軍師がいやだというのなら、将軍のほうから、主騎の任務を断ってしまえばよいのだ。
だいたい、将軍が主騎などと、おかしな人事だ。
わが君のお決めになられたことにケチはつけたくないが、やはり部下としては不満である。
主騎のほうが、細作よりはマシだがな。
何を隠そう、細作は、わたしの前職だが。
あれは給金はよかったが、命がいくつあっても足りない、恐ろしい職業であった。

話がそれた。
趙将軍が主騎、というのはたしかに勿体無い。
わたしからも、わが君に、考え直してくださるよう、お願いしたほうがよいのだろうか。
だいたい、ああいう着道楽な若者と、うちの質実剛健を旨とする将軍の気性が、かみ合うとは思えぬからな。

よし、ではそうするとしよう。
明日にでもわが君のもとへお願いしに行くぞ。

しかし、軍師の、あの新しい帯はカッコイイな…


つづく

(2005/09/18 初稿)
(2021/11/24 改訂1)
(2021/12/17 改訂2)

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