はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

臥龍的陣 花の章 その37 喜びの公子

2022年08月05日 10時00分46秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章
「さっそく父に話をして、江夏太守の地位を得られるよう働きかけてみます」
「公子、わかっておられるかと思いますが、父君には晋の文公うんぬんの話は内緒で」
「もちろんですとも、わたしもそこまで巡りが悪くありません。
しかし、ひとつ気になることがあります。
江夏に孫権軍がやってくることはないでしょうか」
「孫権に仕える兄の知らせでは、かれは曹操の動きに敏感になっていて、江夏を支配するところまでは気が回っていないようです。
おそらく、無用に劉州牧との争いを引き起こせば、曹操に漁夫の利をつかませることになると計算しているのでしょう」
「なるほど、孫討虜将軍は聡い人物ですね。では、しばらくは江東の動きを気にしなくてよいと」
「曹操が動いたら、公子は頃合いを見計らい、集めた兵と船団をつかって、襄陽へ戻られるとよいでしょう」
「そして、兵をさらに増強させて、新野であなた方と落ち合えばよいわけだ」

そこまで言って、劉琦はほほを上気させ、ほう、と息を吐いた。
「わかりました。なんと明解な策でしょう。
ありがとう軍師、わたしはあなたのことばで生き返れた気持ちです」
「お役に立てたなら、なによりです」

劉琦を見れば、かれは目じりに涙さえ浮かべていた。
よほどここ数日の緊張がすさまじいものだったのだろう。
ようやく具体的な光明を得て、こころから安堵しているのが知れた。

よいことをしたと、孔明は思った。
とはいえ、口でいうほどに簡単な策ではない。
劉表が息子の江夏太守就任を認めなければ、そもそも、この策は成らないのだ。
蔡瑁らが孔明の意図を見抜き、妨害してきたら、すべては振り出しに戻ってしまう。
あとは、劉琦の胆力と、かれの取り巻きの政治力が、どれだけものをいうかだ。

「公子、襄陽でのわれらの役目は終わりました。このあと、新野に戻ろうと思います」
「なんと、それは」
心細い、と言いかけたらしいが、劉琦はことばを飲みこんで、孔明の手を取った。
「そうですね、あなたにもあなたの役目がある。
いつまでも甘えていてはいけない。
程子文のことは残念でしたが、わたしはあなたがたを恨んでいない。
悪いのは、斐仁と、斐仁の裏で糸を引いている何者か。
そうでしょう」
「左様。われらの友情は揺るぎませぬ。
公子、どうかご無事で。
なにか想定外のことが起こったら、すぐにこの孔明にお知らせください。
きっとお力になって見せます」
「ありがとう。ほんとうに」

そう言って、劉琦はぎゅっと孔明の手を握った。
孔明も、励ましの意味をこめて、劉琦の手を握り返す。
互いに了解の意味をこめて、微笑みあった。





孔明の策を受けた劉琦の動きは早かった。
さっそく劉表のところへ太守になりたいと言いに行くといい、高殿の下で待っていた伊籍をあわてさせた。

「お待ちくだされ、話が見えませぬ。江夏太守ですと」
あわてふためく伊籍に、劉琦自身が孔明の策を打ち明ける。
すると、胡瓜《きゅうり》のように青かった伊籍の顔も、次第に血の巡りのよいものに変わっていった。

「なるほど、その手がありましたか。
さすが軍師。よく全体を把握してらっしゃる」
「そうと決まったら善は急げだ、機伯。
すぐにみなに荷造りをさせておくれ。
徳珪らが気づかぬうちに、江夏へ出立してしまいたい」
「それはまったくそのとおり。早速、みなに命じてまいります」

興奮気味の主従は、それぞれ劉表のところと、劉琦の住まいである後堂に向かって歩き出した。
その背中はいつになく力が入っていて、ここ数日の悄然としたかれらとは別人のようだった。

「なるほど、江夏太守か。よいところに目を付けたな」
高殿の下で待っていた趙雲のことばに、孔明はうなずいた。
「仮に孫権が江夏を狙っているというのなら、別の策になったのだがね。
兄の情報によれば、江夏をとる気持ちは孫権にはないらしいから、助かったよ」
「兄というと、たしか諸葛子瑜どの、であったか」
「そう。わが愛すべき兄上さ。
前々からわたしのことを気にして手紙をよこしてくれていたのだが、そこに詳しく江夏の事情が書いてあった。
あとで礼状を書かないといけないな」

つづく

臥龍的陣 花の章 その36 劉琦への献策

2022年08月04日 09時57分44秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章


劉琦に対面を申し込むと、また花園に案内された。
どうしても屋内では人の目、人の耳があるのではと疑ってしまうらしい。
しかも劉琦はよく眠れていないらしく、目の下に青黒いクマができていた。
顔色もすこぶる悪く、白い肌には、ところどころ紫色の細い血管が浮き出ているほどであった。
気が滞っているのである。

花園には、今日も今日とていろとりどりの花々が咲いていた。
夏の日差しのもと、蝶やミツバチたちに挨拶するように、劉琦はうん、うん、と満足げにうなずく。
孔明は手でひさしを作りつつ、ちょうど花園の全体が見えるところに立つ高殿《たかどの》を指した。
「ここは暑くて、脳天がやられてしまいます。あそこの日陰に参りましょう」

孔明の誘いに、劉琦は人の好いところを見せて、うれしそうに微笑んだ。
「今日はどんな面白いお話をしてくださるのでしょう。
花安英が、軍師は面白い話を持っておられるようだと言っておりましたよ。
たしかに軍師のお話は、いつも面白い」
「ご期待通りの面白い話ができるとよいのですが」

謙遜しつつ、孔明は、花安英が、蔡夫人と蔡瑁のことを教えろとせっついているのだなと推測した。
あの子は何を考えているのかつかめない。
敵なのか、味方なのか。
見極めが難しいうえに、話が話だけに、劉琦に不倫のことを教える気にはなれなかった。
この公子のことだ、不倫の話を元手に動こうとするよりも先に、不潔な話におどろいて、卒倒してしまうに違いない。

劉琦と孔明は高殿にのぼる。
梯子《はしご》のすぐそばには趙雲と伊籍が、それぞれ佇立《ちょりつ》して二人の様子をうかがっている。
ふだんであれば、暑いだろうから一緒に上へ、と誘うところであるが、今日はそういうわけにはいかない。
劉琦の運命がかかる話をこれからすることになると思うと、自然と孔明の背筋は伸びた。

「ときに公子、黄祖どののことはおぼえておられますか」
「もちろん」
劉琦は深くうなずいた。
「人がかれのことをなんと言っているかはしりませんが、わたしを可愛がってくれた人でした。
おそらく、わたしが長子ということで、特別に想っていてくれていたのでしょう」

孔明にとっては、黄祖は孫堅を討った男で、異才の人・禰衡《でいこう》を殺害した短慮な男、という印象しかない。
その黄祖が劉琦を可愛がったというのは意外だった。
おそらく、劉琦がいう理由も大きいだろうが、それ以外に、やはり、劉琦には人をなごませる性質があるのだ。

「黄祖がどうしたのです」
「公子、率直に申し上げます。黄祖どのが孫権に討たれたことで、江夏太守の座が空席になっております。
公子はその江夏太守になり、いますぐ襄陽から出るべきです」
「し、しかし」
反駁しようとする劉琦に、孔明はさらに言った。
「目先のことだけに囚われていてはいけません。よろしいか、これは州牧の座をあきらめるということではないのです。
公子も晋の文公の故事はご存じのはず。
兄弟で地位を争った文公でしたが、いったん国を捨て各地を放浪したことがさいわいし、結局かれが地位を得た」
「もちろんその話は知っておりますとも…ああ、やっとわかりました」

劉琦は今度こそ、目をぱっちり開いて、孔明を見た。
「わたしに、晋の文公になれとおっしゃる」
「左様。このまま襄陽城にとどまっていても、蔡瑁らを排斥することはざんねんながらむずかしい。
むしろ、排斥するより前に、こちらが排除されかねない。
しかし、かれらとて完璧というわけではない。
いつか、その力にほころびが出るときがありましょう。その時を待つのです。
そのためにも、いったん城を出て、相手の油断を誘うのです。
江夏に向かわれましたら、劉公子はお味方に連絡し、兵と物資を集められますように。
孔明の見立てでは、時機はそう遅くないときに訪れましょう」

劉琦は、おお、と感嘆の声をあげた。
どうやら、孔明の言葉が体内を駆け巡って、気鬱の病を吹き飛ばしている最中らしかった。
爽快なほどに、だんだんと顔色が晴れてくる。

孔明からすれば、単純な策であった。
しかし、長子だからと州牧の地位に固執し、義弟の劉琮との確執に惑う劉琦とその取り巻きたちには、いったん外部に出て力をためるという案はひらめきもせず、劉琦に注進することもなかったのだろう。

外から来た人間で、客観的に劉琦を見られた自分だから献策できたのだと思う。
劉琦が喜んでいる様子を見るのは楽しかった。


つづく

臥龍的陣 花の章 その35 目の前を過ぎるもの

2022年08月03日 09時28分37秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章
ひとりのこされた孔明は、しばらく何も考えられずに、その場でぼおっとしていた。
頭がこれほど空になったのは、ひさびさである。

しびれるような脳髄を持て余していると、視界の端に、中庭に面した通路を花安英と中年の男が部屋を横切っていくのが見えた。
粗末な身なりをした小柄な男と花安英は、和気あいあいというふうでもなく、ただ黙って通路を行く。
孔明には気づいていない様子である。

そして、とある部屋の前まで来ると、それまでうしろにいた花安英が、見るからに身分が下であろうと思われる男のため、扉を開けてやっているのが見えた。
なぜだろうと不思議に思ってしばらく観察して、合点がいった。
男は片手に荷物を持っていたが、もう片方の手が、だらりと袖の下で垂れ下がっていたのだ。
おそらく、片腕が利かないのだろう。
それを知っている花安英が、男のために扉を開けてやったのだ。

孔明は素直に、あの少年にもいいところがあるのだなと感心した。
中年男は軽く花安英に会釈すると部屋に入り、つづいて、花安英も、面白くなさそうな表情を浮かべたまま、そのあとにつづいた。
中年男はおそらく、花安英の従者であろうか。
孔明とかれらとのあいだにある立木が邪魔をして、顔はよく見えなかった。

そのあとは、また静けさが戻ってきた。

やがて趙雲が水を汲んでもどってきた。
水は思いのほか冷たく、やっと生きた心地がした。
ほっと息をつくと、傍らにいて水を飲んでいない趙雲も、おなじくほっとしたようである。
相当に顔色が悪かったらしい。

考えてみれば、劉備に趙雲を主騎に付けてもらったときは、かえって気を遣って行動力が制限されてしまうと思いこんで、いやがったものだ。
その目を盗むようにして、あちこち出かけていたが、いまはむしろ、その存在が隣にいないと、安心できないくらいになっている。
こうなるとは思っていなかったら、当初はずいぶんひどい態度をとったものだ。

「すまなかったな」
孔明が言うと、趙雲は薄く笑った。
「べつに。たいした手間じゃない」
水のことではないのだが。
まあ、いい。
誤解であっても、感謝していることだけ伝われば。

孔明が落ち着いたのをみると、趙雲は、周囲に聞かれないように声を落として言った。
「ここは虎穴どころの騒ぎではないな。この城のどこか、あるいはだれかが『壷中』なのだ」
「斐仁の話で、かえってわからなくなったな。麋竺どのが見つかれば、かれに話を聞けるのだが」
「麋子仲どのは、どこへ消えてしまったのだろう」
「わからぬ。程子文の死を受けて、すぐに襄陽を出たのかもしれない。その先は不明だ」
「若い女と逃げているともいう。まったく、あの誠実を絵にかいたような御仁が、らしくないな」
孔明は、さぞ劉備たちが落胆するだろうと思い、ため息をついた。

「斐仁が『壺中』の仲間だということはわかった。そして、新野の東の蔵に『秘密』があり、その秘密をまもるため、斐仁は新野にいた。
麋竺どのを脅していたというのがよくわからぬが、どうも、ふたりで協力して秘密を守っていたようだな。
あとで陳到に手紙を書いて、東の蔵のことを調べるよう指示しよう」
「だが、斐仁と麋竺どのはバラバラに動いている。ふたりが『壺中』だとすると、ずいぶんまとまりの悪い組織だな」
「もしかしたら、麋竺どのは『壺中』を裏切ろうとしていたのかもしれないな。そう考えると筋が通る。
『壺中』を倒すため、程子文を取り込んで、劉琮どのと蔡瑁を排除しようとした」
「とすると、『壺中』というのは、やはり」

蔡瑁か、という言葉を趙雲が呑み込む。
孔明は、肯定の意味をこめて、うなずいてみせた。

「そう考えるのが自然であろう。程子文の動きを察知した蔡瑁が程子文を殺害し、その罪を、たまたま襄陽城に忍び込んでいた斐仁に押し付けた。
ほんとうなら、罪をなすりつける者は、ほかのだれでもよかったのかもしれない」

「斐仁は運が悪かったというわけか。しかし、これからどうする。いったん、新野に戻って、わが君に報告したほうがよいのではないか」
「それはだめだ。劉琦どののことを忘れてはいけないよ。われらが城を去ったら、残された劉琦どのはどうなる。新野に帰るにしても、劉琦どのをなんとかしなければなるまい」
「そうか。そうだったな。どうすればよい」
「考えがある。まずは劉琦どのと会おう。すべてはそれからだ」

つづく

臥龍的陣 花の章 その34 その死の向こう側に

2022年08月02日 09時36分48秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章
となりにいる趙雲が、斐仁を痛めつけようとしたのか、一歩前に進んできたが、斐仁はそれを先制するように、今度は趙雲に言った。
「大将、あんたも澄ました顔をしているが、あんたもおれと似たようなものさ」
「どういう意味だ」
「自分で考えろ。よーく考えろ」

くくっ、と暗い笑い声をあげる斐仁を、趙雲が薄気味悪いものを見る目で見降ろしてきた。
暗い喜びにひたりながら、斐仁は唄うようにつづける。
「おれは秘密を守るため、麋竺の親父をさんざん脅して、金を巻き上げていた。
『壺中』はそういうところは規律が緩くて、おれの好きなようにさせてくれたよ。
おかげで、七年間は、夢のように贅沢な暮らしができた。麋竺の親父には感謝しなくちゃならない。
いまごろ、どこかでくたばっているかもしれないがな」
「どこにいるのかは知らないというのだな。では、おまえの言う『秘密』とはなんだ?」
「さてね。知りたければ、新野の東の蔵へ行ってみな」

それだけ言うと、斐仁は沈黙を守ることにした。
あまりしゃべりすぎると、自分の命が縮まることを心得ていたから。

『まだだ。まだ『あいつ』のことや、『あの男』のことは言わないほうがいい』
そう決めて、孔明や趙雲が何度か質問をしてきても、無視を決め込んだ。




饐《す》えた臭いのたちこもる牢屋から、地上に出ると、一気に花の香りに包まれた。
あまりの落差に眩暈《めまい》をおぼえた。
ぐらついた身体を、趙雲が支えようと手を伸ばしてくる。
孔明は、反射的にその手を払いのけていた。

孔明は、人に身体に触れられるのが嫌いだ。
どんなに親しくなったとしても、身体に触れられると身がすくむ。
正確にいえば、自分に人間が寄ろうとしてくる、その瞬間がおそろしい。

豫章《よしょう》から逃げ、襄陽に落ち着いた諸葛玄は、孔明を伴って劉表のいる城へきた。
豫章の状況を説明するため、ということであったが、なぜか直前になり、諸葛玄は孔明が面会に同席することを許さなかった。

だいぶ叔父を待っていた記憶がある。
やっと叔父が帰ってきたときは、すでに夕暮れになっていた。
叔父の表情は硬くこわばり、興奮しているようでもあった。
その様子から、口論をしたのだということが察せられた。

おのれの主人たる劉表と、どうして口論などしたのか、知りたかったが、厳しい玄の表情が質問を拒んでいたのをはっきりおぼえている。
玄は、それから人に頼んで一室を借りると、なにか手紙をしたためていたようであった。
使いの者に手紙を託すと、らしくないことに孔明にぶっきらぼうに、帰ろう、と言った。
ひどく不機嫌で、イライラとした様子であった。

玄とふたり、黙然と、廊下を歩いていた。
すると、不意に柱の陰から男が現れて、豫章を失ったのは残念でした、とかなんとか言ってきた。
直後に、玄にもたれかかった。

一瞬だった。

孔明が、男の手にある刃に気づいたときには遅かった。
いまも鮮やかに思い出せる、夕陽を照り返す、茜色の刃。
夕陽よりもなお赤い、血潮。
玄は、腹を割かれていた。
おどろき怯《おび》える孔明に、血の滲む腹をおさえながら、それでも、大事無い、と安心させるように笑った。

すぐに人が集まって、刺した男は取り押さえられたが、警吏に渡される前に、刺客は舌を噛んで自害したという。
玄は手厚い看護を受けたが、その日のうちに、亡くなった。
刺客が何者であったかはわからなかった。
劉表は、新太守が差し向けてきたものだと言い、結局のところ、いまも正体がわからない。

孔明は、人に触れられようとすると、そのときの光景を、どうしても思い出してしまう。
相手を信頼している気持ちにはまちがいない。
しかし、かれらが近づくその瞬間に、孔明は身をすくませ、その手に白刃《はくじん》がないだろうかと素早く探る。

それは玄が死んでからずっと無意識につづけてきたことであり、呼吸をするのとおなじくらいに、身についた習慣になってしまってもいる。
信頼しているはずの相手を、その瞬間は心を裏切って、疑っているのを知覚せねばならないのは、苦痛このうえなかった。

しかし趙雲は、振り払う孔明の手をさらに振り払って、ぐらつく身体を、倒れないように支える。
そして、行きかう人のほとんどない廊下の片隅に孔明を座らせると、どこからか水を汲《く》んでくるといって立ち上がった。

つづく

臥龍的陣 花の章 その33 斐仁、孔明を翻弄する

2022年08月01日 09時42分29秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章
「おれの前には誰もいなかった。いたのだろうが、すでに逃げていたよ」
「おまえは、子龍に『襄陽の仲間に思い知らせる』という主旨の捨て台詞を吐いて新野を出ていった。ということは、つまり、程子文は『壺中』だったのか?」
孔明の声色に緊張があるのを感じ取り、斐仁は知らずに笑みをこぼした。
「なにがおかしい」
虎がうなるような声で趙雲が威嚇してくる。
だが、斐仁は笑うのをやめずに、答えた。
「あいつも『壺中』さ。裏切ろうとしていたようだがな。
そして、あんたらが仲間だと信じ切っている麋家の親父も、広い意味では『壺中』だった」

孔明と趙雲が顔を見合わせる。
おそらく、想像していなかったのだろう。
麋竺。
自分には霊感があるとかなんとか、奇妙なことを言う親父だが、斐仁は嫌いではなかった。
嫌いではなかったが、秘密を守らせるためにさんざん脅した。
金を出し渋ることはなかったが、しかし、最近はより妙なことを口にしていた…夢見が悪い。夢に見る。あの東の蔵の夢を見るのだ、と。

「子仲《しちゅう》(麋竺)どのはどこにいる?」
孔明がさきほどよりもずっと緊張した顔でたずねてくる。
そこではじめて、斐仁は麋竺が新野を出たことを知った。

『あの親父、そういえば、十日ほど前から、姿を見ていなかった』
夢見が悪いと悩んでいた麋竺が、とうとう秘密に耐えかねて、『壺中』に反旗をひるがえそうとしていた程子文と通じていたのだとしたら?
それに気づいた『壺中』が、任務をまっとうできなかったおれへの懲罰として、家族を殺した?
そしていま、程子文殺しの罪をおれになすりつけ、殺そうとしているのでは。

「くそっ、だまされたのか」
思わずこぼすと、孔明が眉を寄せて、さらにたずねてきた。
「『壺中』に騙されたと思うか?」
「あいつらしかいない。おれが守ってきた秘密を知っているのは、あいつらしか」

麋竺をもっと見張っていればよかったと、斐仁は思った。
なにより、孔明が隆中《りゅうちゅう》から招へいされて以来、麋竺は孔明に接近しすぎていた。
そのことがなんらかのきっかけを生んだのかもしれない。

どこまでもおれの行く手を阻む、諸葛一族。

悔しかった。
なんの力も持たず、ただ渦の中の木の葉のように翻弄されるだけのわが身がうらめしい。
そして、なにより憎らしかった。
目の前にいる軍師に全く罪のないことはわかっていたが、それでも憎らしかった。

「自分は関係ないと思っていないか、諸葛亮」
「なんだって」
「おまえとて、たまたま運が良かったから助かっただけだ。
本来なら、おまえも『壺中』に入れられるはずだったのさ。
それをうまく阻《はば》んでくれた、自分の叔父に感謝するのだな」
「叔父だと、どういう意味だ」

さきほどからの冷静さが一気に吹っ飛んだようだ。
孔明の朱に染まった顔を見て、斐仁はとたんに愉快になった。
相手の弱点を突けたことに気づいたからである。

「おまえの叔父の諸葛玄が『壺中』を作ったんだよ。おれの家族を殺し、おれをはめた、『壺中』をな」
「ばかな」
「ばかなものか。おまえは、すこしだけ諸葛玄に似ている。
おまえの顔を見るたび、おれは吐き気を我慢するのが大変だったよ。
なにせ、身寄りがなかったおれを『壺中』に引き入れたのは、諸葛玄だったからな。
もちろん、『壺中』は初めのうちは、まあまあ悪くない居場所だった。
ところが、太守の地位に目がくらんだ諸葛玄はおれたちを見捨てて豫章《よしょう》へ行き、残されたおれたちは代わりに入ってきた連中からひどい目にあわされた。
もっとも、おれなんかは、それでもましなほうだったようだぜ。
官渡での戦のあとに、北からやってきた連中が合流してからは、もっとひどくなったようだから」
「なにを言っている」
孔明がかすれた声で言う。

わかっているのだろう。
わかりやすく話しているから。
斐仁は臥龍とさえ呼ばれるこの青年をほんろうするのが楽しくなっている。

つづく


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どうもありがとうございました(*^▽^*)
腰痛も吹っ飛ぶうれしさ。
これからも面白いと思っていただける記事を更新できたらと思っています。
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