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帯とけの拾遺抄
藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
歌の言葉については、清少納言枕草子「女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。
拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首
万葉集和し侍りける 順
二百八十八 おもふともこころのうちをしらぬ身は しぬばかりにもあらじとぞおもふ
万葉集に和した (源順・後撰集撰者、梨壺の五人の一人、万葉集の訓読にも携わった人)
(人麻呂の・心の内を知らない身の程には、なぜどうして死んだのか・死ぬほどのこともないだろうにと思う……もの思うけれども、心の内を知らぬこの身は、死ぬほどのことではないだろうと思う・思い尽きても逝くほどのことではないだろうが)
言の心と言の戯れ
「おもふ…(万葉集を)思う…(万葉歌人の代表柿本人麻呂を)思う…(我がものが)思う」「こころのうち…心の内…心の核心・真髄」「身…身の程…心身のうちの身の方…我が身の端…身の一つのもの…おとこ」「しぬばかり…死ぬのほど…逝くほど…尽き果て逝くほど」「あらじとぞおもふ…(それ程の事では)ないだろうと思う」
歌の清げな姿は、どうして死んだのか死ぬことはないだろうにと思う。
人麻呂の死の歌は巻第二『挽歌』に、「在石見国臨死時自傷作歌」とある。晩年、人麻呂は都に愛する妻を残して、石見国まで帰り着いたのだろうか、それにしても、「鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らずにと思う妻の待ちつつあるらむ」と自ら、傷む(憂い悲しむ…傷つける)歌を作る。孤独な自死の匂いがする、なぜだろうか。人麻呂は流罪だったのだろうか。
おかしきところは、如何なる歌にも添えられてある。これがなければ歌ではない、ただの弔辞である。
万葉集を一読すれば、何だかもの悲しい。挽歌が多い所為だけではなく、恋歌でさえ、愛するものと引き離される苦しみに、恋や愛が表現されてある。七夕の歌、防人の歌もそうである。人麻呂の歌も、石見国より妻と別れて上り来る歌に始まる。その長歌の最後には、「妻が別れに振る袖が見えないではないか、靡け、此の山」とある、愛するものと引き離される若き人麻呂の、激しい怒りさえ感じる。
万葉集のよみ人しらずの歌群も、柿本人麻呂歌集出の歌々に、右へ習えするように置かれてある。「万葉集に和し侍る」とは、人麻呂を始めとする万葉集の歌の底辺に流れる心に和する(親しむ・加わる・合わせる)というこだろう。
題不知 読人不知
二百八十九 いきしなんことのこころにかなひせば ふたたびものはおもはざらまし
題しらず (よみ人しらず・男の歌として聞く)
(生き、死ぬだろうことが、人の心の望み通りになるものならば、二度も、同じ苦しみは・思わないだろうに……ものの逝き死ぬことが、男の心のままになるものならば、再びものを思うことは無いだろう・思いつづけるだけよ)
言の心と言の戯れ
「いきしなんこと…生死…逝き死ぬこと…おとこの逝き死ぬこと」「こころにかなひせば…心に叶うならば…望み通りになるならば…思い通りにすることが許されるならば」「ふたたび…再び…二度」「もの…言い難き事…悩み事…色事」「おもはざらまし…思わないだろうに」
歌の清げな姿は、生死が思い通りになるものならば、四苦八苦も、二苦もしないだろうに。
心におかしきところは、ものの生死が心に叶うものならば、二度目のもの思いはないだろう、ただ続けるだけ。
『拾遺集』巻第十五 恋五の巻頭に、寛平の御時、皇后と密通した善祐法師流罪の時の、その母の詠んだ歌を載せる。次に人麻呂の歌があり、此の歌は、それに続く、よみ人しらずの歌が八首あるうちの一首である。歌の並びによって何らかの意味を伝えようとすのは歌集編者の常套手段である。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。