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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰「拾遺抄」を、公任の教示した「優れた歌の定義」に従って紐解いている。新撰髄脳に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」とある。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
清少納言は枕草子で、女の言葉(和歌など言葉)も聞き耳(聞く耳によって意味の)異なるものであるという。藤原俊成古来風躰抄に「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」とある。この言語観に従った。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような、今では定着してしまった国文学的解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。和歌は「秘伝」となって埋もれその真髄は朽ち果てている。蘇らせるには、平安時代の歌論と言語観に帰ることである。
拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首
題不知 読人も
三百十五 我がごとや雲のなかにもおもふらむ あめもなみだもふりにこそふれ
題しらず (よみ人も・男の歌として聞く・拾遺集では人麿)
(恋する・我と同じ如きか、天は・雲の中でも、人々を・思っているのだろう、雨も涙も降り頻る……その時の・我と同じ如きか、心雲の中にも、もの思うのだろう、おとこ雨も、汝身唾も、振りにこそ降る)
言の心と言の戯れ
「ごとや…如くや…同じようなのか」「雲…天の雲…心の雲…心のもやもや…広くは煩悩」「おもふ…思う…(恋しく)思う…もの思う…感の極みを思う」「あめ…雨…男雨…おとこ雨」「なみだ…目の涙…汝身唾」「ふりにこそふれ…降りしきる…振りにこそ降る」「ふる…(袖など)振る…振動させる…(雨など)降る……経る…古…古びる」
歌の清げな姿は、天は雲の中より人々の生きざまを思って涙雨を降らす。恋に嘆く我のように。
心におかしきところは、我は、心雲の中で、時のおとこ汝身唾の雨を振り降らし、古びる。
歌体から、直感的に人麻呂の歌と思える。
「伊勢集」巻上に同じ歌がある。次のように聞くのだろう。
(恋する・わたしと同じようね、天は・雲の中でも、人々を・思っているのでしょう、雨も涙もしきりに降る……もの思う・わたしと同じようね、男は・心雲の中にも、もの思うのでしょう、お雨も汝身唾も、振り降りかかる)
詠み人は、人麻呂か伊勢か、公任は「よみ人しらず」とした。誰が作者であろうと、歌の真髄を感じることができれば、それでいい。
大伴かたみ
三百十六 いそのかみふるともあめにさはらめや あはんといもにいひてしものを
(題しらず) (大伴方見・大伴宿祢像見・万葉集に歌がある)
(石上布留、降っても雨のために支障はないだろうか、今日・逢おうと愛しい人に言ったのに……石の上・我が古妻、零しても、おとこ雨にさし障るだろうかな、和合しょうと、愛しい妻に言ったのだがなあ)
言の心と言の戯れ
「いそのかみ…石上布留…地名…名は戯れる。女の上、布留から古を連想する、古妻」「いし(石)・いそ(磯)・かみ(上・神)の言の心は女」「あめ…雨…おとこ雨」「に…によって…のために」「さはらめや…支障になるだろうか…さし障りになるだろうか」「あはん…逢おう…合おう…和合しよう」「ものを…のに…のだから…のになあ…のだがなあ」
歌の清げな姿は、雨が降っても何が起こっても、心配するのは愛しい女のことばかり。男の純真な恋心。
心におかしきところは、和合を契った古妻への心遣い、お伺い、このおとこやましいことをしたらしい。
歌の表と裏の色模様の違いに、何とも言えない味わいがある。
本歌は、万葉集巻第四 「相聞」に「大伴宿祢像見歌一首」とある。
石上 零十方雨二 将關哉 妹似相武登 言義之鬼尾
(石上、こぼれてはいるが、雨に阻止されるかな、吾妹に逢おうと言ったのに……いそのかみ・わが古妻、こぼれるお雨に止められるだろうかな、愛しい妻に、相和合するぞと・一緒に山ばに登ると、言ったのだが)
「零…こぼす…降らしたのではない」「關…関所、難関の関にほぼ同じ…阻止…妨げ…支障」
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。