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帯とけの拾遺抄
藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
歌の言葉については、清少納言枕草子「女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。
拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首
おこなひすとて山寺にこもりはべりけるをとこの、をんなのもとに
つかはしける (読人不知)
二百九十 人にだにしられでいりしおく山に こひしさいかでたづねきつらん
修行すると山寺に籠もった男が女の許に遣わした (よみ人知らず)
(人にさえ、知られず入った奥山に、きみ・恋しさ、どうして、我が心に・訪ねて来たのだろう……ひとには知られず、入った、白つゆ贈り置く山ばに、貴身・乞いしさ逝かずに、立つ根、来たようなのだ)
言の心と言の戯れ
「人…他人…相手」「しられで…知られず」「おく山…奥山…おく山ば…(おとこ白つゆ贈り)置く山ば」「こひしさ…(貴女)恋しさ…(貴身)乞いしさ」「いかで…如何で…どうしてか…逝かずに…思い断てずに」「らん…推量する意を表す…(来たの)だろう…事実を婉曲に述べる…(来た)ようなのだ」「たづね…訪ね…たつね…立つ根」「根…おとこ」
歌の清げな姿は、奥山の寺に、きみ「恋しさ」が訪れて来たどうしてだろう。
心におかしきところは、「乞いしさ」逝かず、断つ根、再び、立つ根となったようなのだ。
生死だけではなく、恋心も乞い心も、人の心に叶うものではないらしい。
冬ひえの山にのぼりてはるまでおとづれ侍らざりける人の許に
清正むすめ
二百九十一 ながめやる山辺はいとどかすみつつ おぼつかなさのまさるはるかな
冬冷えの山に登って、春まで訪れなかった人の許に (藤原清正のむすめ・祖父は中納言藤原兼輔)
(眺める、君の居る・山の辺は、たいそう霞んだまま、ぼんやりして心配が増す春だことよ……長めている山ばの辺りは、ますます、かすみ筒、おぼつかなさの増さる、春の情よ・張るよ)
言の心と言の戯れ
「ながめ…眺め…ぼんやり見つめる…長雨…永め」「山辺…山の辺り…山ばの辺り」「いとど…ますます…いよいよ」「かすみつつ…霞ながら…かすんで見えなくなりつつ」「つつ…継続…筒…中空…空っぽ…おとこ」「おぼつかなさ…気がかりなこと…心配なこと…つかみどころのなさ」「まさる…増さる」「はる…春…春情…張る」「かな…感嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、心身を鍛えるためだろうか、冬山で過ごす男を心配する女心。
心におかしきところは、心は冬冷え、山ば長めようとするおとこ、そのじれったくもたよりないさまを嘆いた。
此の歌の本歌は、、「古今集」巻第一春上にある「おぼつかなくも喚子鳥かな」の歌だろう。この鳥の意味は、「古今伝授」の秘伝となった。今も歌の真髄が埋もれたままである。聞いてみよう。
をちこちのたづきもしらぬ山中に おぼつかなくも喚子鳥かな
(遠くか近くか、手がかりも知らない、山中で、おぼつかなも、わが子を呼ぶ・よぶこ鳥よ……そちらもこちらも、てごたえも知らぬ山ばの途中で、おぼつかなくも、この貴身求め・声を上げる女かな)
言の心と言の戯れ
「をちこち…遠方か近くか…そちらもこちらも」「たづき…手掛かり…手応え」「山中…山ばの途中」「おぼつかなくも…心配で…頼りなくも…もっどかしくも」「よぶこ鳥…鳥の名…名は戯れる。呼ぶ子鳥、声あげて我が子を呼ぶ母鳥、声あげて子の貴身を求める女」「鳥…言の心は、神話の世から女」。
紀貫之土佐日記を、そのつもりになって読めば、「松と鶴は千代の友」とあり、最後に、小松を亡き少女に喩える。松の言の心は女、鶴(鳥)の言の心も女であると教示しているのである。
紀貫之は「言の心を心得る人は古今の歌が恋しくなるだろう」と、古今集仮名序の結びで述べた人である。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。