■■■■■
帯とけの拾遺抄
藤原公任撰「拾遺抄」を、公任の教示した「優れた歌の定義」に従って紐解いている。新撰髄脳に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」とある。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
清少納言は枕草子で、女の言葉(和歌など言葉)も聞き耳(聞く耳によって意味の)異なるものであるという。藤原俊成古来風躰抄に「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」とある。この言語観に従った。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような、今では定着してしまった国文学的解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。和歌は「秘伝」となって埋もれその真髄は朽ち果てている。蘇らせるには、平安時代の歌論と言語観に帰ることである。
拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首
(題不知) 読人不知
三百十七 わびぬればいまはたおなじなにはなる みをつくしてもあはむとぞおもふ
題しらず (よみ人しらず・男の歌として聞く)
(恋に・苦しくつらくなった、今、それでもやはり、どちらにしても・同じこと、難波なるみをつ串・難所にある我が身を尽くし、そうしてでも、あの人に・逢おうと思う……身も・苦しく辛くなってしまった、今さら、どうなっても同じ、退いて・何は成る、身を、尽くしても合おうと思う)
言の心と言の戯れ
「わびぬれ…(恋に)わびぬる…苦しくつらくなってしまった」「ぬ…完了した意を表す」「はた…それでもやはり…上の意をひるがえす意を表す」「おなじ…(どちらにしても)同じこと…(どうなっても)同じ」「なにはなる…難波津にある…難所にある…何はなる?」「みをつくし…澪…水をつ串…身を尽くし…身が尽き果てるまで」「あはむ…逢おう…恋を成就しよう…合おう…和合しよう」
歌の清げな姿は、恋してはならない人を恋してしまったらしい男の苦悩、我が身を省みない破滅型の決心。
心におかしきところは、苦しく辛い情況になっても、合うために、なおも奮起しようとするおとこの心根。
此の歌、「後撰集」恋五に「事いできて後、京極御息所につかはしける、元良親王」として既にある。詠み人も作歌事情も、誰でも知っている。それらを抜きにして、公任は、歌そのものと対峙したのだろう。やはり優れた歌だったのだ。百人一首に撰んだ藤原定家は、この歌の「心におかしきところ」を承知していたに違いない。
(題不知) 坂上郎女
三百十八 しほみてばいりぬるいその草なれや みらくすくなくこふらくのおほき
(題しらず) (大伴坂上郎女・大伴家持の叔母)
(潮満てば、わたしは海中に・入ってしまう磯の草なのか、君の顔・見ること少なく、恋することの多いことよ……肢お満ちて、我が中に・入った、それ・磯のなよなよした草なのか、覯少なく乞うことが多い)
言の心と言の戯れ
「しほ…潮…肢ほ…子お…おとこ」「ほ…お」「みてば…満てば…満潮になれば…充実すれば」「いりぬる…入りぬる…入ってしまう…入り濡る…入り微温…入り生ぬるい」「いそ…磯…浜などと共に、言の心は女」「草…海草…海藻…草の言の心は女…なよなよとしている」「や…疑問を表す…詠嘆を表す」「みらく…見らく…見ること」「見…お目にかかること…覯…媾…まぐあい」「らく…動詞などを名詞化する詞」「こふらく…恋うこと…乞うこと」
歌の清げな姿は、縁遠い人を恋いしたか、出遭う事さえ少ない恋い。
心におかしきところは、そのもどかしさの比喩か、添えられた情感か、尽きたおとこのわが中に有るありさま。
万葉集 巻第七 譬喩歌「寄藻」、よみ人しらず。
塩満者 入流磯之 草有哉 見良久少 恋良久乃太寸
(しほ満てば入りぬる磯の草なれや 見らく少なく恋ふらくのおおき……しお満ちれば、入り流る、井その、うみ藻で有るか、覯少なく、恋うことの太き)
「しほ」「磯」「草・藻」「見」は上の歌と同じく戯れている。「太…とっても大きい…太い…多いという意味ではない」「寸…すん…き…一寸…ものの直経か」
既に、万葉集の歌の言葉は、俊成の言うように浮言綺語の戯れのように戯れている。「歌の様」は公任の言う「心におかしきところ」が添えられてある。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。