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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰「拾遺抄」を、公任の教示した「優れた歌の定義」に従って紐解いている。新撰髄脳に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」とある。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
清少納言は枕草子で、女の言葉(和歌など言葉)も聞き耳(聞く耳によって意味の)異なるものであるという。藤原俊成古来風躰抄に「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」とある。この言語観に従った。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような、今では定着してしまった国文学的解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。和歌は「秘伝」となって埋もれその真髄は朽ち果てている。蘇らせるには、平安時代の歌論と言語観に帰ることである。
拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首
題不知 読人不知
三百二十五 すぎたてるやどをぞ人はたづねける 松はかひなきものにぞありける
題しらず (よみ人しらず・女の歌として聞く)
(杉の立つ宿を、男は訪ねることよ、松は・待つは、甲斐のないものだことよ……す木立て・為る気たてる、屋門を、男は、訪ねることよ・多づ寝ることよ、待つ女は、貝・甲斐、のないものだことよ)
言の心と言の戯れ
「すぎ…杉…真直ぐ立つ常緑の高木…木の名…名は戯れる。素木、好き、為る気」「木…言の心は男」「たて…立て…起し…(伏す子も)立て」「やど…宿…家…言の心は女…屋門…野門…夜門…おんな」「たづね…訪ね…多つ寝」「ける…詠嘆」「松…待つ…言の心は女…木なのに女、言の心には例外が有る。すすきは草なのに男」「かひ…甲斐…峡…谷間…貝…言の心はおんな」「ありける…気付き・詠嘆」
歌の清げな姿は、「恋しかったら訪ねて来てよ、杉立てる門よ」なんて、誰が言ったのか、男たちはそちらへ行く。待つだけでは駄めらしい。
心におかしきところは、素木立て、する気起こす門には敵わない、待つだけの貝は甲斐が無い。
品のない歌だけれども、古今集 巻第十八 雑歌下、よみ人しらずの、次の歌と交応して、優れた歌となる。
わがいほはみわの山もとこひしくは とぶらひきませすぎたてるかど
(我が庵は三輪の山もと恋しくは とぶらひきませ杉立てる門……わが井掘りは、三和の山ばのふもと・で満足よ、乞いしければ、尋ねていらっしゃい、素木・過ぎ木、立てる門よ)
言の心と言の戯れ
「いほ…庵…宿…女…いほり…井掘り…まぐあい」「三輪…山の名…神の山…女の山ば…三和…三つの和合」「山…山ば」「もと…ふもと…決して頂上ではない…高望みしない」「こひし…恋し…乞し…求める」「とぶらひ…訪ねて…尋ね尋ねて」「かど…門…言の心はおんな」
「庵…井堀り」の言の戯れを心得れば、枕草子(七八)「頭中将の」に記されてあることが、次のように読める。
「蘭省花時錦帳下」と書いて、「末はいかに、末はいかに」と頭中将(藤原斉信)が言いかけて来た。この男とは仲違い中であった。この漢詩の末の句を要求しているようで、そうではなく、言外に『中関白家もそろそろ末だが、貴女は、末はどうするのだ』と言っている。迂闊な答えは出来ない。また「廬山雨夜草庵中」と、「をかし」くもない末の句を書いて遣るような、清少納言ではない。(行く末は三輪の山上にでも住むか)「草の庵を誰かたづねん」と末の句を付けて遣った。「粗野な井掘り女を誰が訪ねるか」(蘭省花時錦の帳のもとに居る君は訪ねて来るか)と言う意味である。これに驚いた男どもの反応は、枕草子を読んでください。
「言の心」と「言の戯れ」を心得えれば、あらゆる和歌の「心におかしきところが」聞える。そうして初めて枕草子の言説の「をかし」さも伝わるのである。
題不知 読人不知
三百二十六 おもふとていとしも人にむつれけむ しかならひてぞみねばこひしき
題しらず (よみ人しらず・女の歌として聞く)
(思うからといって、特別に、あの人に睦ましくしたそうよ、そうして馴れ馴れしくなって、見かけないと恋しい、だってよ……思うからと、井・門・肢も、あの人に睦ましくしたのでしょう、そうして・肢下、熟れて・よれて、見ないので・峰ば、こいしいの)
言の心と言の戯れ
「おもふ…思う…愛しいと思う…恋う」「いとしも…特別に…非常に…井門肢も…身のすべて」「むつれけむ…睦れけむ…睦ましくしたのでしょう…睦合ったのでしょう」「けむ…伝聞のように婉曲に表す…だったそうよ…過去の推量…だったのでしょう」「しか…然か…そのように…肢下…身の端」「ならひて…慣れて…馴れなれしくなって…熟らひて…熟れて…よれよれになって」「みねば…見ねば…見かけないと…会っていないと…覯(媾)しないと…峰ば…絶頂が…感の極みが」「こひしき…恋しい(そうよ)…乞いしいのよ…求めたいの」
歌の清げな姿は、恋が芽生え、睦合い、ますます高ぶってゆく他人の恋の有様。
心におかしきところは、身のすべてで睦合い、馴れ、熟れて、見ないので、山ばの峰がこいしいという。
比喩も誇張もなく、心と心地を正述した歌。生々しい女の心地は、先ず「他人の恋」を語るという衣に包まれてある。そして、主旨と趣旨は、言の戯れに隠してあって、「歌のさま」を知り「言の心(字義以外にも孕む色々な意味)」を心得る人だけに顕れる。これが和歌の様である。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。