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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(64)
題しらず よみ人しらず
散りぬれば恋ふれどしるしなき物を けふこそ桜おらばおりてめ
題しらず よみ人知らず
(散ってしまえば、恋しがっても、その甲斐のない物だから、満開にこそ・今日こそ、桜、折るならば、折ろう・活け花にしょう……散ってしまえば、貴女が・乞うても、効能無き物だから、今日こそ・京でこそ、おとこはな、折れるのならば、折りましょう・共に逝きましょう)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「こふ…恋ふ…恋しがる…乞ふ…求める」「しるしなき…験なき…効き目なき…標しなき…印なき…存在感なき」「ものを…ものなので…ものだから…物お…物体であるおとこ」「けふ…今日…きゃう…京…山ばの頂上…絶頂」「桜…木の花…男花…男端…身の端…おとこ」「おらば…折るならば…逝くのならば…降りるならば…退くならば」「ば…ならば…たらば」「おる…降りる…退く…をる…折る…逝く」「おりてめ…をりてむ…折ろう…逝こう…逝きましょう」「め…む…意志を表す…勧誘する意を表す」
散ってしまえば恋しがっても、どうにもならないものだから、盛りの・今日こそ、桜の枝、散りゆくものならば、折って生花にしょう。――歌の清げな姿。
散ってしまえば、あなたが求めても、効能なき物だから、今日の京でこそ、あなたが・折るならば、共に逝きましょう。――心におかしきところ。
心に思うことを、桜にこと寄せて、清げに言い出した男の歌と聞いた。添えられてある「心におかしきところ」が、歌言葉の戯れのうちに顕れている。
和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して行われてきた。貫之のいう「歌の様」を知らず「言の心」を心得えず、俊成のいう「歌言葉の浮言綺語のような戯れ」を知らない解釈である。歌の「清げな姿」は見えても、「心におかしきところ」は顕れないので、「をかし」とも「あはれ」とも思えず、子規のいう「くだらない」歌に見えるだろう。
国文学という学問が健在ならば、自ら梶を切り変えて、平安時代の歌論と言語観を踏まえた解釈に向かうべきであるが、もはや変える力はなさそうである。残念ながら、潮干の潟の大船か、力無き蛙かと、門外漢には見える。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)