帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(64)散りぬれば恋ふれどしるしなき物を

2016-11-04 19:04:44 | 古典

             


                         帯とけの「古今和歌集」

                 ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。
それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上64

 

題しらず             よみ人しらず

散りぬれば恋ふれどしるしなき物を けふこそ桜おらばおりてめ

題しらず                よみ人知らず

(散ってしまえば、恋しがっても、その甲斐のない物だから、満開にこそ・今日こそ、桜、折るならば、折ろう・活け花にしょう……散ってしまえば、貴女が・乞うても、効能無き物だから、今日こそ・京でこそ、おとこはな、折れるのならば、折りましょう・共に逝きましょう)

 


 歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「こふ…恋ふ…恋しがる…乞ふ…求める」「しるしなき…験なき…効き目なき…標しなき…印なき…存在感なき」「ものを…ものなので…ものだから…物お…物体であるおとこ」「けふ…今日…きゃう…京…山ばの頂上…絶頂」「桜…木の花…男花…男端…身の端…おとこ」「おらば…折るならば…逝くのならば…降りるならば…退くならば」「ば…ならば…たらば」「おる…降りる…退く…をる…折る…逝く」「おりてめ…をりてむ…折ろう…逝こう…逝きましょう」「め…む…意志を表す…勧誘する意を表す」

 

散ってしまえば恋しがっても、どうにもならないものだから、盛りの・今日こそ、桜の枝、散りゆくものならば、折って生花にしょう。――歌の清げな姿。

散ってしまえば、あなたが求めても、効能なき物だから、今日の京でこそ、あなたが・折るならば、共に逝きましょう。――心におかしきところ。

 

心に思うことを、桜にこと寄せて、清げに言い出した男の歌と聞いた。添えられてある「心におかしきところ」が、歌言葉の戯れのうちに顕れている。

 

和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して行われてきた。貫之のいう「歌の様」を知らず「言の心」を心得えず、俊成のいう「歌言葉の浮言綺語のような戯れ」を知らない解釈である。歌の「清げな姿」は見えても、「心におかしきところ」は顕れないので、「をかし」とも「あはれ」とも思えず、子規のいう「くだらない」歌に見えるだろう。


 国文学という学問が健在ならば、自ら梶を切り変えて、平安時代の歌論と言語観を踏まえた解釈に向かうべきであるが、もはや変える力はなさそうである。残念ながら、潮干の潟の大船か、力無き蛙かと、門外漢には見える。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)